2022年05月14日「善をもって悪に勝つ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

17節 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
18節 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
19節 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
20節 あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。
21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙 12章17節~21節

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説教の要約

「善をもって悪に勝つ」ローマ書12:17~21

先週から問われ、保留されてきましたように、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい(14節)」、もしこれが現実とかけ離れているのなら、キリスト教は、単なる思想程度の宗教であることになります。本日の御言葉は、これを具体的に展開することで、このキリスト教が立つか倒れるかの大問題に回答が与えられます。

まず、「だれに対しても悪に悪を返さず(17節)」、とパウロは始めます。しかし、これは、復讐という負の連鎖を断ち切れ、という倫理的な徳に基づいた教えではありません。復讐が復讐を生む、この負の連鎖の論理を私たち人類はよく知っています。しかし、決して断ち切ることは出来ません。むしろ昔から現代に至るまで、人類の歴史は、この負の連鎖に支配されているのではないでしょうか。

公然と自由が叫ばれ、思想や科学が進歩しても、復讐が作り出すこの負の連鎖はそのままです。

つまり、倫理的な徳に訴えても変わらないということです。

 しかし、聖書は、最初からそのようには言わないで、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる(19節)」、と復讐を主なる神に委ねよ、というのです。復讐の連鎖に支配される人間の愚かさを最初から知っているかのように、復讐をするのは神であって人でないことを宣言しているのです。聖書は、倫理的な徳を教える書物ではありません。そうではなくて、神がいらっしゃることを教える書物なのです。それゆえ聖書は、倫理的な教えに基づいて復讐をするなというのではなくて、神がいらっしゃるから復讐をするな、というのです。この復讐に対する神の主権が宣言されたうえで、私たちには、復讐するどころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ(20節)」、とこのように、敵に対する奉仕まで求められます。そしてその結果として「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と約束されます。ここで、「炭火」という言葉が出て来ますが、これは聖書的に、神の裁きを言い表すための表象です。ですから、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」、というのは、敵の悪に対して、愛の業で回答することによって、やがて来る最後の審判の時に向かって、その敵に対する神の怒りが蓄積されていく、とついこのように理解しそうになります。これは、「わたしが報復する」、と約束される神が必ず敵を裁いてくれる、という期待です。

しかし、それでは、本日の御言葉全体で整合性がとれません。「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」、と勧告しながら、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」、これが終わりの時の神の復讐への期待であるなら、それは矛盾でしかありません。ですから、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」、これには、全く違う意味があるはずなのです。大変難解なところでありますので、昔から色々な解釈がありますが、一番聖書に基づいた時、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」、これは、同じ立場になる、ということではないでしょうか。同じ立場になるために、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」のです。つまり、実は「燃える炭火」、言い換えますと「神の裁き」は、まず私たちの頭に積まれているのです。しかも、負いきれないほど。それは、私が罪人の頭であり、神の裁きに該当するあらゆる罪を犯してきたし、現に犯し続けているからです。しかし、その「燃える炭火」は、キリストの十字架によって、裁きの対象ではなく、赦された証とされているのです。つまり「燃える炭火」は、逆らう者には神の裁きの印、赦された者には神の恵みの印なのです。赦されていることと罪がないということは全く違います。私たちはあくまでも罪人です。罪にまみれています。しかし、その状態のまま赦されているのです。パウロは、すでにこのローマ書5章で、私たち罪人に対する十字架の愛を具体的に語っています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(ローマ5:10)」、全く比較になりませんが、神の敵であった私たちが受けた十字架の赦しと愛、それを具体的に示すのが「、あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」、これではありませんか。私たちが、「敵であったとき」、神は私たちに何をしてくださいましたか。腹を満たし、喉を潤してくださったのですか。いいえ、そんなちっぽけなことではない。神は、敵であった私のために最愛の御子を十字架に付けられた。これ以上考えられない愛を下さったのです。そうである以上、「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」、これが一体何でありましょうか。私たちほど、燃える炭火を頭に積まれている者はいないのです。ですから、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」、それは、彼にも裁きの日までに、神の愛によって赦されなければならない罪があることを示すことであります。私たちと同様に、悔い改めなければならない罪人であることを宣言し、悔い改めを願うことであります。これこそが、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」、この姿です。

そのうえで、結論が示されます。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」

 実は、この「悪に負けることなく」の部分、ギリシア語の本文ですとニュアンスが違います。「あなたは、悪によって勝利を得るな」、これが直訳です。つまり、悪によって勝利を得た場合、勝者は悪であり、私たちは悪に負けた、という結果に終わるのです。復讐、仕返し、それらは悪の勝利の象徴だ、ということです。そうではなくて、善をもって悪に勝つ、その時、勝利は我が手にあるのです。

さて、では、最後に先週から保留されてきた大問題、果たして、私たちキリスト者は、敵を愛することができるのかできないのか、迫害者のために祈ることができるのかできないのか、このキリスト教が立つか倒れるかの大問題に決着をつけましょう。

 はっきり申し上げます。私たちは、敵を愛することは出来ません。愛するどころか、赦すことさえも難しい。ではキリスト教は単なる思想に過ぎないのか、むなしく倒れてしまうのか。いいえ、それも違います。私たちは、敵を愛することは出来ない。しかし、私たちの主イエスは敵を赦し、敵を愛された。十字架で死なれて、敵の全ての罪を帳消しにしてくださった。私たちは、神の敵であったのに赦されて、この十字架の愛に悔い改めて、キリスト者にされたのです。つまり、敵を愛することが出来ない、赦すことさえもできない、罪人の頭であるこの私がクリスチャンになっているというこの紛れもない事実が、キリスト教が思想ではないことを何よりも雄弁に証するのではありませんか。神の敵がキリスト者に変えられたこの驚くべき事実。罪人の頭であるこの私が、神の敵であるこの私が、キリストの者とされた、そうである以上、この世の全ての敵は、やがては十字架の前に額ずくはずではありませんか。過去迫害者であったパウロだからこそ、この事実に基づき、圧倒的な説得力を持って、善をもって悪に勝つ、と今言うのです。私たちは、敵を愛することは出来ない、しかし、十字架の主イエスは、敵である私を赦し、愛し、そして、私の全く足りない愛さえも、善き証として用いてくださっている。これがキリスト教であり、これが、時代を貫いて全世界のキリスト教会で起こっている福音の出来事ではありませんか。その時どうしてキリスト教が倒れることがありましょうか。今、私たちは、十字架の主イエスの先立ち給う勝利の大進軍に続いているのです(讃美歌379番)。