2020年06月07日「パウロの弁明Ⅰ-塵芥の時」

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パウロの弁明Ⅰ-塵芥の時

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 21章37節~22章5節

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パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる私の弁明を聞いてください。」 パウロがヘブライ語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。 「私は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました。私はこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、私のために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志に宛てた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」 使徒言行録 21章37節~22章5節

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説教の要約「パウロの弁明Ⅰ-塵芥の時」使徒言行録21:37~22:5

前回から神殿の庭で拘束されたパウロの新しい歩みが始まりました。本日の箇所からは、その旅の初めに、ユダヤの民衆の前で行われたパウロの弁明が記録されていまして、この弁明は22:1~21まで続きます。

 今まで、使徒言行録は、パウロの説教を繰り返し記録しています。しかし、ここでパウロは、私の弁明を聞いてください、と始めたのです。つまり、彼は囚人として語りだした、ということです。今まで、教会から遣わされた伝道者という立場でパウロは3回の伝道旅行を行ってきました。その行く所々で、彼は御言葉の説教者として、民の前に立ちました。しかし、今パウロは、囚人として民の前に立った。そして、これから使徒言行録は、囚人としてキリストを証するパウロを描いていくのです。この弁明という言葉は、そう言う点で非常に大切です。

 この弁明の最初に、「この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました」、とパウロは自身の経歴を簡単にまとめます。これは、当時のユダヤ社会におきましては、全く隙のない、エリートコースを歩んできた、という経歴です。しかし、ここで、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました、とパウロは言うところが大切なのです。若き日のパウロも、今パウロに殴りかかろうとしているユダヤ人たちも、熱心に神に仕えているのです。しかし、熱心に神に仕えていることと、救われることは、別の問題なのです。その熱心さの内容が問題なのです。

 パウロはローマ書で言います。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(ローマ10:2~4)」熱心に神に仕えている、しかし、その熱心さが、正しい認識に基づくものではないのが問題なのです。

 聖書で「罪を犯す」という言葉は「的を外す」、という意味であるとよく言われます。ですから、正しい認識に基づくものではないのであれば、聖書的にそれは、熱心であろうがあるまいが罪なのです。

では正しい認識とは何か。それが、「キリストは律法の目標であります」、とここでパウロが言いますように、キリストなのです。キリストと無関係に神に熱心に仕えても、それは罪なのです。

ここで、「キリストは律法の目標」、とありますこの目標、という言葉は、もともとは、終わりとか完成とかそういう意味です。十字架の贖いで律法を完成し、私たちの罪をすべて神の御前で贖ってくださったキリストと無関係に律法を遵守しても救いからは程遠い、むしろ正反対なのです。

 さて、的を外した熱心さが、どのような行動に導いたかをパウロは証します。「私はこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえしたのです。(4節)」何度も申し上げてきましたように、この道、というのはキリスト教のことです。まだ、この組織にキリスト教という名がつけられていない最初期にこのように言われていました。

 パウロは、産声を上げたばかりのキリスト教を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえした、このように告白いたします。そして、これが的外れの熱心さが起こした過ちでありました。キリスト教を迫害した、すなわち、神に対する熱心さが、神に対する反逆になっていた、このようにパウロは言うのです。彼は、エリート中のエリートでした。しかし、エリートコースの終点にあったのは、何だったのでしょうか。それは、呪うべき神への反逆罪であったのです。

最後に2つだけ大切なことを確認して終わります。

一つ目、それはキリストです。キリストがなければ、どのような熱心さも無意味である、ということです。パウロは、エリート中のエリートでありました。当時のユダヤ人なら誰もがうらやむ経歴の持ち主でした。しかし、鎖につながれて、牢獄からフィリピの信徒に宛てた信徒に彼は、その経歴をどのように評価していたでしょうか。「塵芥にすぎない」とまで断言していました(フィリピ3:4~8)。キリストなしにいくら熱心に神に仕えても、自分を鍛えても何もならないばかりか、損失でさえあるのです。それだけ、キリストに出会うこと、キリストを得ること、キリストに結び付けられることは素晴らしいのです。私たちは、キリストに結び付けられています。それだけでどれだけ幸福であるかを一時でさえ忘れてはならないのです。

 2つ目、それは、弁明についてです。伝道旅行では至る所で説教を語り、人々を主イエスに導き、教会を建て続けてきた男が、今鎖につながれ、ここから弁明という形で十字架の主を証するのです。しかし、説教であろうが弁明であろうが、パウロにとってそれが福音宣教に用いられる、という点では大した違いはなかったのです。この伝道者は、自由であろうが、鎖でつながれていようが、キリストの囚人であることは何ら変わらなかったからです。ですから、フィリピ書の冒頭で、パウロは、弁明という大切な言葉を福音宣教に結び付けております。「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。(1:7)」ここで、福音を弁明し立証するとパウロは言います。さらに「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、(16節)」ここでは、鎖につながれて捕らえられているのが、福音を弁明するためとまで語っています。パウロにとって弁明とは、自己弁護や釈明や正当化ではないのです。福音宣教の機会なのです。十字架の言葉の宣教、それが弁明なのです。そして、これは全てのキリスト者にも求められています。

 パウロの戦友であるペトロが、弁明という言葉を使って大切な勧めをしています。

 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(Ⅰペトロ3:15)」この弁明です。私たちが抱いている希望であります罪からの救い、永遠の命、神の国の完成、これを世の人に証するのが弁明なのです。私たちキリスト者の弁明とは、十字架の主の証なのです。しかし、見事な証を立てろ、などとは聖書は言っておりません。今日パウロが立てた証は、彼にとって「塵芥の時」でありました。最も思い出して欲しくない迫害者の過去でありました。伝道者である以上、最も不名誉な肩書、それが迫害者です。それどことか、この不名誉な過去の証人を立てる準備さえあったのです。

 しかし、不名誉な過去が一体何でしょうか。わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ(フィリピ3:8)は、それを粉砕します。そればかりか、私たちの不名誉な過去も、キリストの光に照らされた時、証として用いられるのです。「塵芥の時」を思い出していただきたい。

 そこにこそ、神の奇しき導きと救いの恩恵が満ちあふれているはずです。罪人の頭である私さえ救われた、この限りない十字架の愛を、いつでも弁明できるように祈り求めてまいりましょう。