2022年04月02日「主と同じ姿へ」

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1節 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2節 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

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説教の要約

「主と同じ姿へ」ローマ書12章1~2節

ここでまずパウロは、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」、と勧告を再開します。私たちのなすべき礼拝というのは、主の日という特定の時と、教会という特定の場所においてだけ繰り返されるものではなくて、日常生活にまで求められているということです。ここで文法的に注意すべきは、この節の主動詞がギリシア語の本文通りに訳されていないことなのです。この節の主動詞は、2つありまして、その一つ目が、この「倣ってはなりません」、この言葉で、その後に続く、「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」、の「変えていただき」、実はこの言葉が、この節の二つ目の主動詞なのです。新共同訳聖書の翻訳では、この節の最後に置かれています「わきまえるようになりなさい」、これが主動詞のように訳されていますが、これは、この「変えていただき」、という主動詞にかかる不定詞なのです。そう言う事情で、先に、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」、この部分から見ていきたいと思います。

 まず、この勧告のハードルが非常に高いと思わない方がいらっしゃるでしょうか。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」、最も簡潔に申し上げれば、これは、私たちの判断が神の御意志と一致するということ、つまり、パーフェクトです。私たちは、このようになりたいと願いつつも、ほんの一瞬でさえ出来ないのです。しかし、誰一人できない、このパーフェクトを主イエスが実現してくださったのです。そればかりか、十字架で私たちの罪を帳消しにしてくださったので、私たちは、これを弁えることができなくても、救われている、と言う事実においては、その価値は何一つ変わらない、これがキリスト教です。ですから、これはキリストのお姿そのものであり、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる、これは地上を歩まれた主イエスの人となりともいえるのです。 

しかし、これは主イエスが実現してくださったのだから、とスローガン程度に言われているわけでもありません。もし、私たちが本当の信仰者で、キリスト者であるのなら、この罪人である私たちを愛し、十字架についてまで救い出してくださった主イエスを知りたいと願うはずです。愛する、ということと知る、ということは切り離せないからです。ですから、主イエスを愛する、と言いながら、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」、これに無関心であるはずはないのです。これは、主イエスのお姿そのものだからです。私たちも知りたい、そしてその場合、知るというのは、思想ではなくて、私たちの体で体験することに他なりません。

主イエスを愛する、それは主イエスを知ること体験することなのです。

 そこで、「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」、とつながるのです。先述のように、この「自分を変えていただき」、これがこの節のもう一つの主動詞でありまして、「あなたがたが弁えるための心を新たにして、変えられよ」、もともとはこういうつながりです。主イエスを体験することができるように、「心を新たにして、変えられよ」、とこのようにパウロは言っているわけです。ここで、「心を新たにして」、とあります、この「心」、という言葉は、理性、或いは分別という意味で、このローマ書の7章では、意志の弱い人間の心という意味で使われています。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(7:22、23)」この心の法則、この言葉です。

この図式によりますと「心の法則」は、戦いに敗れ「罪の法則のとりこ」にされてしまっているのです。つまり、理性とか分別のようなものは、罪に対しては全く役に立たないということなのです。だからパウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう(7:24)」と抑えきれずに泣き叫ぶわけです。しかし、今や「むしろ、心を新たにして」、とパウロがここで言います時、彼は敗者復活戦を始めているのです。私たちの理性は罪のとりこになり、あっけなく負けてしまった。しかし、それで終わりではないのです。その罪に負けた弱い心を奮い立たせてやり直す、これも悔い改めの姿ではありませんか。

聖書は、罪に負けたことは問題にしていないのです(マタイ26:69~他)。問題とされるのは、負けたことではなく、悔い改めるか、悔い改めないか、これなのです。罪に大敗をしても、悔い改めてキリストに立ち帰れば、キリストのゆえに勝利者とみなされる、これが聖書の約束です。ですから、「むしろ、心を新たにして自分を変えられよ」とパウロが言います時、これは、悔い改めの姿そのものです。

さらに、この「自分を変えられよ」、この言葉の持つ重要性を二つ確認いたします。

一つは、もう一つの主動詞であります、「この世に倣ってはなりません」、この倣うな、という言葉との関係で、この世に倣うな、そして自分を変えられよ、これは両方とも受動態である、ということです。つまり、この世に倣うな、自分を変えられよ、と命じられた私たちは、このことについては徹底的に受け身である、ということです。私たちが、自分の力でこの世に倣わないようにできるのでもなければ、私たちが自分自身で自分を変えることも出来ない。主体は私たちではなくて、聖霊なる神様なのです。聖霊によって、この世に倣わないように導かれ、聖霊によって日々変えられていく、教理用語で申し上げれば聖化の歩みそのものであります。また、この「倣ってはなりません」、この言葉は、同じ形になるな、というニュアンスがありまして、この世と同じ形になるな、そう言う意味です。そして、実は「自分を変えていただき」、この言葉も姿を変える、変容する、もともとはそう言う意味で、この両者は相関的に使われているのです。この世と同じ形になるな、そうではなくて、姿を変えられよ、とこのような関係で2つの主動詞はここで配置されているわけなのです。

 では、2つ目、私たちは、この世と同じ形にされないで、どういう姿に変えられるのでしょうか。

 実は、この「変えていただき」、の変えるという言葉は、新約聖書で4回しか使われていない珍しい言葉でありまして、このローマ書以外の3か所は、全て同じ方がその対象となっています。それが主イエス様なのです。福音書で2回使われるのは、両方とも主イエスの山上の変貌の記事です(マタイ17:2、マルコ9:2)。そして、残りのもう一つは、パウロが用いているのです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリ3:18)」、この「主と同じ姿に造りかえられていきます」、この「造りかえられていきます」、これが、本日の聖書箇所で「自分を変えていただき」、と訳されている全く同じ言葉です。ですから、この言葉で示される変化は、主イエスのお姿への変化なのです。つまり、この「心を新たにして自分を変えていただき」、というのは、「主と同じ姿に造りかえられていく」、というとんでもない変貌なのであります。勿論、これは私たちがやがて地上を去り、完全に清められた時に実現する恵みであります。しかし、その主のお姿につくり変えられる希望が、今から与えられている、そればかりか、その一筋の光でも私たちが映し出すために用いられている、これはいかに幸いなことでありましょうか。(Ⅰヨハネ3:2,3、讃美歌533参照)