2022年03月27日「私たちのなすべき礼拝」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

1節 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2節 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

「私たちのなすべき礼拝」ローマ書12章1~2節

いよいよ今週からローマ書講解は、信仰生活編と言える新しい文脈に入って行きます。そのプロローグ部分と言えるのが、本日与えられた御言葉で、その重要さゆえに、今週と来週の2回に分けて、今週は1節の方を、そして次週は2節の方を中心に教えられたいと思います。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(1節)」

ここで、この新共同訳聖書では、「なすべき礼拝」、と訳されていますが、この「なすべき」、という言葉がとても大切です。この「なすべき」、この言葉はギリシア語では「(ロギコス)λογικός」という字を書きまして、「言葉」と言う字でありますあの「(ロゴス)λόγος」の形容詞に当たる言葉です。ですから、この「なすべき礼拝」というのは、「ロゴス的な礼拝」そう言うニュアンスです。

しかし、パウロの時代、この「ロゴス的」の概念が非常に混乱していて、後のグノーシス主義に代表される神秘主義者たちが、「(ロギコス)λογικός」というこの言葉を使って、迷信的な宗教儀礼をあたかも「ロゴス的」であるかのようにすり替えていました。また、逆にストア派の哲学者たちは、その「ロゴス的」から霊的要素を取っ払って、この言葉を「理性的」或いは「倫理的」とこのように定義して用いていたのです。そのような背景から、この「(ロギコス)λογικός」は、理性的と訳せると同時に、霊的とも訳せる言葉だったのです。この混乱にあってパウロは一歩も退かずに、あえてこの言葉を真の神礼拝を示すために用いているわけです。パウロにとってロゴスとは、「初めに言葉があった」、と御言葉が言うように、まさに肉となり給う神の御子イエスキリストその方であり、この主イエスによって実現された神の真理そのものでありました。それは、人間の理性や倫理ではなく、逆に迷信的なものでもなく、神の言葉によってのみ示される真理であったのです。だから決して妥協できなかったのです。

実は、このなすべきと訳されていますこの「(ロギコス)λογικός」は、新約聖書でもう一度だけⅠペトロ書で使われています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。(Ⅰペトロ2:2)」この「霊の乳」、の「霊の」、この言葉です。ここで言われています「霊の乳」、これは当然御言葉のことであります。ですから、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とパウロが言います、「なすべき礼拝」、このロゴス的礼拝とは、最も正確に言えば、御言葉に立った礼拝である、ロゴス的礼拝=御言葉礼拝である、と理解してよろしいでしょう。そして、その御言葉に立った礼拝であります「あなたがたのなすべき礼拝」が、具体的には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」、これであります。しかし、その場合、私たちが神に喜ばれるわけでも、私たちが、聖なる生けるいけにえであるわけでもないのです。ただ私たちの十字架の主イエスのゆえに、私たちは喜ばれ、聖なるものとされるのです。生まれつき生粋のユダヤ教徒であったパウロにとって、これがいかに大きな恵みであったでしょうか。旧約の時代から、イスラエルは、罪の赦しのために主なる神の御前にいけにえを献げてきました。それが神の民であるイスラエルのアイデンティティでもあったのです。しかし、いつの間にかその信仰は形骸化し、罪の赦しのための犠牲は、形式的な儀式へと転落していきました。

旧約のイスラエルが、いよいよ滅ぼされる直前に現れた預言者ホセアは、このイスラエルの本末転倒ぶりを見事に指摘しています。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア6:6)」これが、イスラエルの形式的礼拝儀式や、献げ物に対する主なる神の評価です。最終的に、神の民イスラエルは、主なる神様に、その献げ物さえも忌み嫌われるようになっていたのです。もはやこれまでであります。しかし、これを十字架によって解決してくださったのが主イエスなのです。

実は、主イエスご自身が、このホセア書の御言葉を引用されて、ご自身が罪人の救い主である証拠聖句としているのです。「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12、13)」ここで、主イエスは、わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない、このホセア書の御言葉を引用して、ご自身が、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」、この罪人の救い主であることを証しました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」、それはどうしてか、それは神の御子主イエスご自身がいけにえになってくださったからなのです。このすぐ後ご自身が十字架で血を流され、いけにえとなり、罪人の全ての罪を帳消しにしてくださった、それゆえに罪人の救いは実現したのです。私たちには、いけにえは要求されなかった、それは、主イエスがいけにえとしてご自身をささげてくださったからです。この十字架の犠牲が神の憐れみそのものであります。実に、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」これは、そのまま主イエスが十字架で実現してくださったのです。だから、極めて不完全で愚かな私たちでありましても、洗礼によって主イエスに結び付けられることによって、あたかも、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げているかのように受け入れていただけるのです。

この恩恵にあって、私たちのなすべき礼拝として大切なのは、倫理的な正しさではありません。それは、ストア派哲学の立場です。さらに、礼拝に来てさえいれば自動的に救われている、という迷信的な姿勢でもありません。それは神秘主義の立場です。或いは、全身全霊で礼拝をささげよ、などと抽象的なことを言いだしても、それは思想レベルで終わってしまうでしょう。大切なのは、罪深い自分を知り、御言葉に悔い改めて、キリストの憐れみを乞うことです。キリストは、その罪人である私を招いてくださり、私のささげる礼拝を喜んで受け入れてくださるからです。私たちのなすべき礼拝、それは、私たちの救い主であり、神の言葉である十字架の主イエスを仰ぐ、この礼拝であります。

そうである以上、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい、これは十字架の主の贖いによって、今日私たち一人一人の中で起こっている現実であります(ルカ4:21参照)。真の礼拝は、貧しく弱く罪深い私たちが用いられて実現するのです。キリストが全てだからです。

ちいろばと自ら名乗り、短い生涯全体を神礼拝にささげた榎本保郎牧師は、すでに45年前に「本当の緊急事態は、キリストの再臨である」、とこのように言われていました。

コロナ禍から叫ばれた緊急事態宣言、これが戦争や自然災害で叫ばれる日が来ないことを祈り求めつつも、私たちは、それをはるかに超えた緊急事態を私たちが宣言していることを忘れてはなりません。「本当の緊急事態は、キリストの再臨である」この緊急事態にあって何よりも求められているのは、私たちのなすべきこの礼拝であります。