2022年02月27日「異邦人への警告Ⅰ誇るな、弁えよ」

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異邦人への警告Ⅰ誇るな、弁えよ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 11章13節~18節

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13節 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
14節 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
15節 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
16節 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
17節 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
18節 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
ローマの信徒への手紙 11章13節~18節

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説教の要約

「異邦人への警告Ⅰ誇るな、弁えよ」ローマ書11章13~18節

先週予告しましたように、この13節から始まる段落は、救われた異邦人に対する勧告と警告とが記されていまして、これは次週の箇所であります24節まで続きます。

ここでパウロは、「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。(13節)」としたうえで、「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。(14節)」とこのように、イスラエルの救いの希望を語ります。パウロの異邦人伝道によって、地の果てまでキリストの福音が宣教される、それはそのまま、イスラエルの救いに直結する、とこのようにパウロは、彼の福音宣教のビジョンを、神の救いのご計画に準えながら展望するのです。

信仰者にとって、この福音宣教の壮大なビジョンがとても大切ではないでしょうか。私たちの福音宣教は、取るに足らないものです。しかし、それが神に用いられた時、必ずや大きな業に変えられ、不可能なことさえ可能になる、この信仰的展望です。その場合、福音宣教に不可能はないのです。この信仰に立つ時、この世の暴力や争いなど、福音宣教の足元にも及ばないのです。

 この異邦人宣教とイスラエルの救いとの関係を、ここからパウロは、譬えを用いながら説明します。

「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。16節」この二つの表象が現わすものがイスラエルであり、これは神がイスラエルに与えてくださった契約に基づいて譬えられているのです。その場合、「麦の初穂」、そして、「根」、これはイスラエルの祖先であるアブラハムであり、それに続くイサク、ヤコブ、と言った父祖たちです。アブラハム、イサク、ヤコブが、「聖なるものであれば」、その子孫である、「練り粉全体もそうであり、枝もそうです」、とこのようにパウロは言うわけです。ここで、間違えてはならないのは、この聖なるものというのは、決して倫理的な意味で聖いと言われているのではないということです。聖書的に、聖なる、というのは、人間の聖さではなくて、神の聖さなのです。聖なる神に取り分けられた、神に選ばれた、ただそれだけが理由で聖なるものであるのです。ですから、ここはアブラハム、イサク、ヤコブと言ったイスラエルの祖先が神に選ばれた、だから、その子孫であるイスラエルも聖なる者に他ならない、そう言う意味なのです。イスラエルがいかに堕落しようが、神の契約は無効にはならないからです。

 その上で、このイスラエルに与えられた契約の木に途中で接ぎ木された異邦人に対する警告が示されます。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。(17、18節)」

 オリーブの木は、イスラエルの比喩であり、神の救いの契約全体像と申し上げてよろしいでしょう。

神が手塩に掛けて育てた神の栽培種のオリーブの木、それが神の契約によって立っているイスラエルです。しかし、その大切な栽培種のオリーブの木の枝が、腐って切り取られてしまい、その代わりに、栽培種ではない野生のオリーブである異邦人が接ぎ木された、ということです。異邦人は、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた神の契約につながれたわけですから、その養分(御言葉と御霊)を豊かに受けることになった。これが、異邦人が神の民に加えられ救われた姿であり、その異邦人に対してパウロは、誇るな、と警告しているのです。それは、神の契約が救われた異邦人を支えているのであって、その逆ではないからです。異邦人側に救われる理由など一つもない、しかし、ただ神の一方的な恩恵と変わらない契約のゆえに、滅びるはずの者が救われている、という大逆転が起こっているからです。ただこの大逆転のゆえに異邦人は救いの中に入れられているのです。

 今日は、ここまでのこのオリーブの木の接ぎ木の譬えについて二つのことを確認いたします。

 一つは、「野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され」、の接ぎ木される、という言葉についてです。これは、新約聖書全体で6回しか見られない言葉なのですが、実は、この11:17から次週の箇所の終わりであります24節までですべてが使われています。ですから、ここで示されている、異邦人が、まるで接ぎ木されるかのように、神の契約によって救われる、という神の救いのご計画は、ここで最も具体的に示されているとても大切な真理と言えます。これは、パウロに啓示された壮大な救いのパノラマであり、計り知れない神の救済史への大切なアプローチと言えます。

しかし、これはイスラエル側から見れば、由々しき事態であったはずです。昔も今も、オリーブの枝は、イスラエルにとっては平和の象徴だからです。(エレミヤ11:16、詩編52:10、11、詩編128:3、4、ゼカリヤ4:11⇔黙示録11:4参照)

ロシアの攻撃を受けた直後、ウクライナのゼレンスキー大統領は、国章の入った演壇の後ろに立ち、ロシアへの非難と国際社会に対する協力を訴えました。とりわけ国家の危機の時に、良くも悪くも国章は国民を奮い立たせるような機能を持っています。実は、イスラエルの国章には、オリーブの枝が使われているのです。イスラエルの国章は、神の民イスラエルの礼拝共同体を示す7つの燭台を、平和の象徴であるオリーブの枝が包んでいる、そういう姿であり、それを旗印に彼らは今も約束のメシアを待ち望んでいるのです。昔も今も、いかにイスラエルにとって、オリーブの枝が大切であるかがわかります。ですから、パウロがここで語っている接ぎ木のたとえは、イスラエルにとっては、これ以上ない挑発でもあるのです。しかし、それゆえに、これこそがイスラエルの救いを願った切り札であったのではないでしょうか。パウロは、「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。(14節)」と叫びました。この何とかしてが、この接ぎ木のたとえであり、昔も今も、そして世の終わりまで、イスラエルへの救いをあきらめないパウロの信仰、希望、愛からほとばしる情熱なのです。

しかし、二つ目、実は、この接ぎ木のたとえは、非現実的である、ということです。パウロは、神の栽培種のオリーブに、野生のオリーブの枝を接木した、とこのように譬えました。本当は逆なのです。野生のオリーブに栽培種のオリーブの枝を接木する、これが正しい方法なのです。勿論、パウロもそれは理解していたはずです。では、理解しているのに、どうしてあり得ない方法で、接ぎ木のたとえが語られたのでしょうか。それは、あり得ない恵みだからです。そもそも、異邦人が、異教徒が、神の契約の中に入れられる、しかも接木される、一方的に神の民にされてしまう、これがあり得ない恵みであるからです。イスラエルには妬みを起こさせ、異邦人に驚きを与える、それがこの接ぎ木のたとえなのです。私たちは、野生のオリーブであります。何の功もなく、救われる価値の一つさえない異邦人であります。しかし、神はあり得ないことをしてくださり、私たちをアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた救いの契約に接ぎ木してくださった、それは全て主イエスの十字架の贖いによる恵みであります。今日招きの詞で与えられた「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります(詩52:1)」これは、争いの足音が聞こえる今日、私たちの詩であります。国々がいかに騒ごうとも(詩編2:1)私たちにはとどまる家がございます。