2022年02月20日「罪が富に変わる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7節 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
8節「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
9節 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。
10節 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
11節 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
12節 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
ローマの信徒への手紙 11章7節~12節

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「罪が富に変わる」ローマ信徒への手紙11章7~12節

 本日の御言葉では、イスラエルが頑なにされた理由が、モーセ(8節)とダビデ(9、10節)の旧約引用によって、非常に厳しい糾弾の言葉で示されます(8~10節)。パウロほど同胞であるユダヤ人を愛したキリスト者はいませんでした。このイスラエル問題を始める9章の冒頭でパウロは言っていました。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。(9:3)」、これは、伝道者にとって口が裂けても言えないことです。しかし、それをあえて言ってしまって、愚かさをさらけ出すほどに彼はイスラエルを愛していたのです。兄弟姉妹、友人、そして子どもたちが大切であったのです。そのパウロが今、非常に厳しい旧約の御言葉を引用して、同胞を告発しているのです。どうしてでしょうか。それは、これがパウロの同胞への愛の裏返しであるからです。そして、神への信頼から零れ落ちた嘆きであったからです。実は、Ⅰテサロニケにおいてパウロは、旧約聖書引用ではなく、自分自身の言葉でイスラエルを厳しく咎めてもいるのです。「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます(Ⅰテサロニケ2:15~16)」

如何でしょうか。非常に厳しい糾弾であります。新約聖書におきまして、ファリサイ人や律法学者たちを偽善者とまで言って叱責された主イエス以外に、これだけユダヤ人を非難した者がありましょうか。しかし、だからこそ、これはパウロが、主イエスには全く及ばないにしても、主イエスと同じ性質の愛でユダヤ人を愛し、そして神を信頼していた証拠とは言えないでしょうか。愛しているがゆえに、そして全能の神の力を信じるがゆえに、愛する者を咎めることが出来る、ここにパウロの愛の本質があったのではないでしょうか。

ですから、ここで不思議な変化が起こります。仕舞いには呪いの言葉まで持ち出してイスラエルを告発した男の口から、今度はそのイスラエルの希望が語られ始めるのです。それは、パウロが彼の同胞を愛してやまなかったと同時に、神の力を真っすぐに信頼していたからなのです。つまり、本日の御言葉の箇所の10節までは、パウロがイスラエルへの愛ゆえに叫んだ同胞への厳しい言葉でありますが、次の11、12節、そしてそれ以降は、今度は神への信頼に基づいて語られる希望の言葉である、とこのように彼の信仰の両面を映し出すように記されているわけなのです。

 この希望の言葉に入るなり、まずイスラエルの罪が、「異邦人に救いがもたらされる結果になりました(11節)」、とこのように、思いもよらぬかたちで用いられた事実が示されています。これは、このイスラエル問題の文脈でも繰り返し教えられてきた歴史的な事実でもあります。神の民イスラエルがあろうことか、彼らの救い主である神の御子主イエスを十字架で殺してしまった。しかし、この御子の十字架によって救いが全世界に、全ての国民に向けられた、というこの十字架の奇しき救いです。

しかし、今回は、これで終わりではないのです。ここでは、さらに続きがあるのです。それが、「それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。(11節)」、これなのです。イスラエルの「罪によって異邦人に救いがもたらされた」、それを目の当たりにしたイスラエルに、「ねたみを起こさせるためだった」、これが、神の救いのご計画に含まれている、とこのようにパウロは、信仰の目で洞察するわけです。つまり、簡潔に言えば、異邦人が救われたことを通して、イスラエルの救いにまだ希望が残されている、ということです。神の主権による救いの逆輸入のような現象が起きているのです。

その上でパウロはこの救いの図式を簡潔に整理します。「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。(12節)」、この節の最初にあります、「彼らの罪が世の富となり」、のこの罪という言葉が非常に大切で、本日の御言葉のキーワードです。この罪という言葉は、すぐ前の11節でも使われていまして、ギリシア語では、パラプトーマ(παράπτωμα) と発音します。そして、よく聖書で使われる罪という言葉でありますハマルティア(ἁμαρτία,)とは区別されています。よく使われる方のハマルティアの訳である罪という言葉が新約聖書全体で173回使用例があるのに対して、このパラプトーマ の方は、新約聖書全体でも21回しか見られません。そして、そのうち16回はパウロが用いていまして、パウロが特に両者を区別して使用していたことが良くわかります。そしてパウロ書簡の中でもこのローマ書だけで、9回、と一番多く見られるのです。そればかりか、実はこの罪・パラプトーマ は、このローマ書の5:15以下で立て続けに6回繰り返されたかと思うと、その後はなりを潜めて、次に現れるのが、この11:11と12節なのです。ローマ書の5:15以下は、「いかに多くの罪があっても、キリストの十字架によって無罪が宣告される」、この圧倒的恵みを謳った福音の中の福音です。

特に、「一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(5:16)」この逆転無罪宣告の御言葉です。ここで、「一つの罪」の方は、よく使われる方のハマルティア(ἁμαρτία,)でありますのに対して、その後の「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」ここで使われている罪、これがパラプトーマ(παράπτωμα) なのです。つまり、このパラプトーマの意味する罪は、一つ一つの罪が積もり積もった罪の総決算、裁きの時に読み上げられる罪状書きの全て、と申し上げてよろしいでしょう。そのパラプトーマが、十字架の恵みによって「無罪の判決が下される」、とここで御言葉は約束しているのです。そしてこれこそが罪の赦しの福音そのものです。いかに多くの罪状書きを持っていても無罪放免とされる、これなのです。ですから、本日の御言葉の「彼らの罪が世の富となり」この「彼らの罪」は、イスラエルの罪の総決算であり、本来は、これでイスラエルが裁かれなければならないイスラエルの罪状書きであります。しかし、神はそのイスラエルの罪状書きを世の富と変えられた、と御言葉は言うのです。これが神の御業なのです。十字架によって全ての罪が帳消しにされた、ここまでは何度も教えられてきました。しかしそれでは、まだ半分です。罪を富に変えてしまう、この大逆転の御業こそがキリストの十字架なのです。パウロの中心には、いつもこのキリストの十字架があったから、愛するがゆえに同胞を厳しく告発し、同時に神に信頼しイスラエルの救いをあきらめることはなかったのです。

 私たちのパラプトーマは、ユダヤ人のそれよりも軽いでしょうか。いいえ、同じです。罪状書きに書ききれないほどの罪が私の上に積みあがっています。しかし、その私たちに無罪がすでに確定しているのです。さらに、この私のパラプトーマさえも、神は富に変えてくださる、この変わることのない神のみ言葉を真っすぐ信じようではありませんか。私たちがなすべきことは、自分の罪過を背負って重荷でその背を曲げておくことではなく(10節)、悔い改めて、その罪過を、私のパラプトーマをキリストに委ねることであります(マタ11:28)。