2022年02月13日「救いの恵み」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
2節 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
3節「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
4節 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。
5節 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
6節 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
ローマの信徒への手紙 11章1節~6節

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説教の要約

「救いの恵み」ローマ信徒への手紙11章1~6節

パウロは11章に入るなり、「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」、とこのように問います。しかし、パウロは、ここでも間髪入れずに「決してそうではない」、と断言いたします。そして、パウロは、「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」、と自分自身の立場を根拠にその理由とします。パウロが救われてキリスト者とされている、それが、神が御自分の民を退けられていない動かぬ証拠だ、というのです。実は、ここでパウロが自分自身を神の憐れみの証人としてここに立たせているのは、この後の記事の強烈な伏線にもなっているのです。それは、2~4節で引用される旧約の預言者エリヤの記事です。

この時、アハブ王とイゼベルのイスラエル宗教への迫害によって、エリヤの目に主なる神の預言者の生き残りは自分一人である、と映っていました。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。(3節)」、とこのように、万策尽きた、とエリヤは神様に泣き言を言うしかなかったのです。しかし、ここで最終的に主なる神様が出された回答がそれを見事にひっくり返すのです。「しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。(4節)」これです。万策尽きた。もう駄目です、という時に神は、エリヤにその仲間を用意してくださっていたのです。パウロは、この御言葉を証拠聖句にして、神がイスラエルを見捨てるはずのないことの根拠としているのです。ですから、「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。(5節)」これが最初に問われた「神は御自分の民を退けられたのであろうか」、これに対する回答になっています。イスラエルは、もはや退けられて、救いは異邦人だけのものになってしまったのか。イゼベルに皆殺しされたように、イスラエルから信仰者が根絶されてしまったのか。いいえ、そうではない。エリヤも、パウロも、同じ立場なのです。エリヤは、万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきたのにも関わらず、アハブ王とその妃イゼベルによって仲間が全滅させられ、「わたしだけが残りました」、と嘆きました(列王記下19:14)。パウロも、万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきたのにも関わらず、同胞であるユダヤ人から迫害を受け、四面楚歌が響く中で、「神は御自分の民を退けられたのであろうか」、と問うたわけです。パウロは、決して思想レベルでイスラエルの救いの問題を扱っているのではないのです。これは、そんな呑気なお遊びではないのです。

 ここで大切なのは、同じように、現に今も、と私たちがいえるか、いえないか、ということです。

 パウロは、エリヤを引き合いに出し、大胆にも自分を同列に並べ、神がエリヤにされた約束をそのまま自分への約束として受け取りました。これは、当時のユダヤ教にとってみれば不遜であり、考えられないことであったでしょう。彼らは、アブラハムを信仰の父と称え、モーセと全ての預言者を偉大な父祖たちである、と自慢していました。その預言者の中でもエリヤは別格であり、とても自分たちと同列に並べるなんてことは、考えられなかったはずです。しかし、だからユダヤ人は形式的信仰に堕落していったのではありませんか。その場合、御言葉が思想と化し、どんどん遠くなるのです。

そして、これはそのまま私たちの姿ではありませんか。エリヤの時代にあったこと、或いは、神がモーセになされたこと、それは偉大過ぎて、今の時代とは無関係である、と心のどこかで思ってしまっている。だから現代の信仰者は、その信仰のスケールが小さいのではありませんか。

時代は変わっても神は変わらない、変わったのは私たち信仰者の方です。私たちが、神を自分たちの物差しで測って、同じように、現に今も、と言えなくなっているから、神の偉大な御業を目撃できないだけなのです。エリヤもモーセも神の御業を目撃するのにはあまりにも小さすぎた。しかし、彼らが神に従った時、旧約時代、いいえ世界史をひっくり返す救いの御業がなされた。「同じように、現に今も」、神は、私たちに偉大な救いの御業を用意されていない、とどうして言えましょうか。

 私たちは、もう一度御言葉に立ち帰って、神の言葉は、「同じように、現に今も」有効である、という揺るぎない聖書信仰に立って、信仰の目を開こうではありませんか。見える風景は大きく変わるはずです。勿論、信仰の目を開いてみても、この世的な事実が変わるわけではありません。

 例えば、今この国におきまして1%に満たない、と言われるキリスト者の割合が急激に伸びるわけではないのです。しかし、聖書の御言葉に立って信仰の目を開く時、この私たちの国の1%という数字はむしろ神の救いの御業の帰結である、と言えるのではないでしょうか。神はエリヤに対して、信仰者七千人を自分のために残しておいた、と約束されました。出エジプトから約束の地に入るまで、イスラエルの民は青年男子だけで60万人、とされていますので、エリヤの時代は、100万人は超えていたのではないでしょうか。そのうちの7000人であれば、1%以下です。例えばアメリカは、統計上、その人口の70%がキリスト者である、とされています。しかし、そのうち真の信仰者がどのくらいいるかは疑問です。勿論、多ければ多いほど良いわけですが、信仰の目で見る時、1%であろうが70%であろうが、それは決定的な問題ではないのではありませんか。私たちは、すぐにランキングやシェアといったこの世の基準で神の御業を測ろうとする。しかし、聖書はそのような数字に興味を示さないのです。大切なのは、そこに、バアルにひざまずかなかった七千人がいるかいないかです。現在のバアルは、富であったり、名声であったり、その形を巧妙に変えながら、私たちを偶像崇拝へと誘います。建前上はクリスチャンであっても、実際バアルに膝をかがめている者は非常に多いのではありませんか。キリストを礼拝しながら、それ以上に大切なものを所有し崇拝している。

 私たちはどうでしょうか。バアルにひざまずかなかった七千人に含まれているでしょうか。

その時、「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません(6節)」、この御言葉が立ち上がるのではありませんか。私たちは5節にあります「恵みによって選ばれた者」であります。それは、私たちが、「バアルにひざまずかなかった」、という行いが認められて選ばれたのではありません。もしそうであれば、恵みはもはや恵みではなくなるわけです。私たちは、恵みによって選ばれ、バアルにひざまずかなかった、とされた者なのです。私たちの中で、一度もバアルにひざまずかなかった者など一人もおりません。この世のあらゆる偶像の誘惑に勝利して信仰の道を歩んでいる者がいたら一度お会いしたいくらいです。私たちは幾度もバアル跪き、失敗を重ねてきた弱き者であります。

 しかし、たった一人だけ、一度もバアルにひざまずかなかった方がおられる、それが十字架の主イエスキリストです。私たちは、この十字架のキリストのゆえに、バアルにひざまずかなかった七千人に加えられ、今勝利の道を歩んでいるのです。これが救いの恵みです。私たちの内に救われる根拠が一つもないのに救われるから恵みなのです。もし、一つでも救われる理由があるとすれば、それは恵みではなく報酬です。私たちは「恵みによって選ばれた者」であるがゆえに、「バアルにひざまずかなかった七千人」に加えられているのです。(讃美歌502番)