2021年08月08日「目標を目指して、走れ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは自分自身の体験に基づいて、キリスト者としての生き方とはどのようなものであるかを語っていきます。14節に「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とある通り、パウロは信仰生活を走ることにたとえて語ります。これがオリンピックのマラソンであれば、走る競技者以外の人は眺めて応援していればよいのですが、信仰生活のマラソンでは、全キリスト者が走るのでなければなりません。さらに、走るキリスト者には神が賞をお与えになると言います。

 キリスト者は走るようにと言われていますが、キリスト教信仰が目指すところは、終わりの時に与えられる「キリストの復活の命」です。キリスト者は終わりの時に死からのよみがえりが賞として与えられるのです。

 この賞について、14節に「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」とあります。ですから死からのよみがえりとは、「神が私たちを上に召すこと」と言ってもよいかもしれません。「召し」とは、神が呼んでくださる、ということです。主は、キリストを信じる信仰をお与えになることによって、私たちをご自分のおられる上へと呼んでくださいます。そして私たちが地上の生涯を終えるとき、ただちに天に引き上げてくださるのです。

 ですから、私たちは「走る」のだと言いましたが、私たちは実際のところ、神様が呼んでくださる方向を向いて走るのです。やみくもに走るのではありません。ゴールに立っておられる神様が、走る私たちを励ましながら、賞でありご褒美であるキリストの復活の命をもって、私たちを呼び続けてくださいます。私たちはここに向かって走ります。

 しかしながら、「キリスト者は走れ」と言われましても、マラソン競技のような順位を競う競走であったり、全力疾走することを求められているように感じてしまうと、「私にはとてもそんなのは無理だ」と思われるかもしれません。どれだけやっても、「いま、わたしは完璧に走ることができている」と言える人はそうそういないのではないかと思うのです。

 けれども、神様のご褒美とは、賞とは、与えられたコースを走るすべてのキリスト者に与えられるものなのです。一位でゴールすることを目的としているのではありません。むしろ、私たちはそれぞれの賜物(神様に与えられた能力、環境などあらゆるもの)に応じたペースで走ることが求められています。多く与えられている人を見て「あの人と同じになれ!」とは決して言われていないのです。それよりも、各自の賜物が生かされるように、精一杯、着実に走ることが求められているのです。そのひとりひとりに神様は呼びかけておられ、励ましておられ、終わりの時に与えられるよみがえりの命を用意しておられるからです。何よりも、私たちの業の前に、まず、キリストの御業があるのであって、誰しもが「キリストによって捕らえられた」という事実に、私たちは何も違いがないからです。