2026年05月10日「イエスによって義とされる」

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イエスによって義とされる

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 13章26節~41節

聖句のアイコン聖書の言葉

26兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。 27エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。 28そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。 29こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。 30しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 31このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。 32わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。 33つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、
『あなたはわたしの子、
わたしは今日あなたを産んだ』
と書いてあるとおりです。 34また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、
『わたしは、ダビデに約束した
聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』
と言っておられます。 35ですから、ほかの個所にも、
『あなたは、あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしてはおかれない』
と言われています。 36ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。 37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。 38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、 39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。 40それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
41『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。
わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。
人が詳しく説明しても、
お前たちにはとうてい信じられない事を。』」使徒言行録 13章26節~41節

原稿のアイコンメッセージ

 26節以下でパウロは、イエス様の十字架の死と葬り、そして復活を一つ一つ順を追って述べています。そしてイエス様の十字架の死も復活も、旧約の預言にぴったりと一致している、ということを示そうとしています。そうすることで、イスラエルに拒絶された「あのイエス」こそ救い主である、ということを説き明かそうとしているわけです。

 33節から37節にかけて、イエス様はもはや朽ち果てることのないお方として復活なさったということを語っています。しばらく生き返ったけれども、やがてまた寿命がきて死んでしまうというような復活ではありません。神様は、イエス様を新しい命、すなわち永遠の命に生きるお方として復活させてくださいました。

 そのことを語るために、パウロは立て続けに旧約聖書の御言葉を三つ引用します。まず詩編第2編の「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という御言葉です。ここで「産んだ」と言われているのは、パウロの理解によりますと、ただイエス様が神の子であるということだけではなく、死者の中から復活させられて、新しい命に生きるお方とされたことを指し示しています。死に勝利し、朽ちることのない新しい命へと生まれること。その「復活」を指して、ここでは「産んだ」と言われているということです。

 二つ目に引用されているのは、イザヤ書55章3節の御言葉です。「わたしは、ダビデに約束した、聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」。これは、ダビデに与えられた約束、すなわちダビデの王座がとこしえに堅く据えられるという約束に関わる御言葉です。旧約聖書を紐解きますと、サムエル記下7章に、この神様の約束が記されています。要するにイエス様こそ、ダビデの子孫として来られた救い主であり、神様の確かな祝福を私たちにもたらすお方なのだ、ということを伝えようとしています。

 そして三つ目に引用されるのが、詩編16編の御言葉です。「あなたは、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしてはおかれない」。これは詩編16編10節からの引用です。神様は、ご自身の聖なるお方であるイエス・キリストを、墓の中に置いたままにはなさらなかった。十字架で死なれ、墓に葬られたまま、朽ち果てるままにはしておかれなかったということです。

 そして38節から、パウロはいよいよ、この説教の中心と言えることを語ります。それは、救いは律法の行いによるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる、ということです。ここに、私たちの信じる福音の中心があるのです。罪のないイエス様が、私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださいました。そのイエス様を、神様が死者の中から復活させてくださいました。この十字架と復活の主によって、私たちは罪赦され、神様と共に歩み始めるのです。罪人を赦し、義とし、神と共に生きる者としてくださる。主は、その恵みの中へと私たちを招いておられます。