2026年05月03日「歴史に貫かれた神の恵み」

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歴史に貫かれた神の恵み

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 13章13節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

13パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。 14パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。 15律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。 16そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。 17この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。 18神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、 19カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。 20これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。 21後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、 22それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』 23神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。 24ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。 25その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』使徒言行録 13章13節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロたちは、ピシディア州のアンティオキアという街に到着しました。その街のユダヤ人の会堂で、安息日に礼拝に出席していたところで、会堂長たちから声がかかり、パウロは説教を語り始めます。

 パウロは、ダビデまでの救いの歴史を手短に述べながら、そこに貫かれた神様の恵みを指し示しています。そして、この歴史の中で起きた出来事はすべて、イエス・キリストに向かっての準備であったと語っているわけです。本日のパウロの説教を見ていて、ひとつ気がつくことがあります。それは、パウロはこの歴史を語りながら、それを神様の“恵みの業として”示しているということです。言い方を換えるならば、パウロはその歴史の中に生じてきた人々の「罪」については語っていない、ということです。例えば出エジプトを果たしてから、荒野の旅が40年長引いたのは、人々が神様に従わなかったからです。「裁く者たち」士師記の時代も、人々が自分の目に良しとすること、つまり好き放題にやっていた時代です。サムエルの時代に「王」を欲しがったのも、まことの王である主がおられるにもかかわらず、外国に倣って目に見える王様が欲しいという、民の不信仰が背後にありました。ダビデ以後の歴史も、分裂と神様に対する背きの歴史でありました。列王記を読むと、そのあたりのことがよくわかります。

 けれども、18節以下をあらためて見ると、パウロは次のように言うのです。「神様が民の不信仰に耐え忍んで約束の土地を相続させてくださった」「神は裁く者たちを任命なさいました」「人々が王を求めたのでサウルをお与えになった」そして「約束に従って、ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのだ」と。この部分を読んでおりますと、パウロが神様の恵みの数々を意識的に数え上げているような印象を受けるのです。そして、神様が歴史の中で与えてくださった数々の恵みを数え上げた上で、その恵みのクライマックスとして、「救い主イエスをお送りになりました」と結んでいるのです。

 もちろんパウロは、イスラエルの民が犯してきた罪を、決して軽く見るつもりはなかったでしょう。しかし、罪や弱さの只中にあっても、なお神様が見捨てずに働いてくださったという、その恵みを、大きく見ているのです。

 パウロが語る救いの歴史は、イエス・キリストへと向かっています。出エジプトも、荒野の旅路も、士師の時代も、王の時代も、そのすべてが、救い主イエス・キリストをもたらすための準備であった、と語っているのです。これは、私たちの生涯においても同じことが言えるのではないか、と思います。私たちのこれまでの歩み、その一つ一つの出来事もまた、何か偶発的に、バラバラに起こっているものではありません。神様がその中に働いておられ、ついには私たちをイエス・キリストへと導いてくださった。そして今もなお、キリストにあって生かしてくださっているのです。イエス・キリストにこそ、私たちの幸いがあるのだということを、しっかりと心に留めたいと思います。