2026年03月08日「神に栄光を帰せよ」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

神に栄光を帰せよ

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 12章12節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

12こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 13門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。 14ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 15人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。 16しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。 17ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。
18夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。 19ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
20ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。 21定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、 22集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。 23するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
24神の言葉はますます栄え、広がって行った。 25バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。使徒言行録 12章12節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今日お読みした箇所の後半では、時の権力者ヘロデが突然、主に打たれて死ぬという、衝撃的な出来事が記されています。「するとたちまち、主の天使がヘロデを打ち倒した」。

 このような結末だけを見ますと、この12章で語られてきたヘロデの悪事に対して、主が報いておられるように見えると思います。ヘロデは、12使徒の一人であるヤコブを剣で殺害しました。またペトロを捕らえて、その命を奪おうとしました。しかし、注意深く読んでいると、その、ヤコブやペトロにしたことに対する裁き、という仕方では今回の出来事は語られていないのです。そのことを、福音書記者のルカは、「神に栄光を帰さなかったからである」と語っています。

 そもそも、人間は神様に代われるものではありません。ヘロデは、人々が自分に向かって「神の声だ、人間の声ではない」と叫び続けた時に、その栄光を受け取ろうとしていました。そのとき何を思ったのかはわかりませんが、その時彼は確かに、自分の存在を神の位置に置いたのです。またこれまでに描かれてきたところでも、彼はヤコブを剣で殺し、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、ペトロをも殺害しようとした人物でした。ペトロが牢から救い出されると、番兵を取り調べて処刑してしまう残忍さも持っていました。まるで全ての人の命が、自分の手の中にあるとでも言いたげな振る舞いをしていたのです。その意味でも、ヘロデはまさに自分の存在を神の位置に置いていたのです。そのときに、たちまち主の天使がヘロデを撃ち倒してしまったのでした。

 確かに、ヘロデはすでにヤコブを殺害しましたし、今またペトロをも殺そうとしていました。その罪は決して軽いものではなかったはずです。けれども、彼はそのことのゆえに裁かれたのではなく、それよりももっと深く、重い罪のために裁かれたのです。それは、神の位置に自分を置き、神の受けるべき栄光を自分が取る、ということです。

 思い起こしたいことは、少し前のペトロの姿です。ペトロがコルネリウスの家を訪問したとき、コルネリウスは、ペトロに平伏して拝もうとしました。そのときにペトロはすぐに制止して「お立ちください。わたしもただの人間です」と言いました(10:26)。また、後に使徒パウロが世界宣教に出かけて行ったときに、自分にひれ伏そうとする人たちを止める場面が出てきます(14:15以下)。

 私たちもまた、ヘロデのように極端ではなかったとしても、自分の力や功績を誇りたくなる誘惑と無関係ではありません。どれだけ素晴らしいことをしても、その働きが主である神様の方を向いていなければ、虚しくなってしまうものです。反対にどれだけできることが小さなことであったとしても、それを主のために用いるならば、主がそれを大きく用いてくださる。この信仰の原理を、私たちはよくよく覚えておきたいと思います。