2025年12月14日「アドベント(3)〜主を賛美しよう〜」
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アドベント(3)〜主を賛美しよう〜
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
フィリピの信徒への手紙 2章6節~11節
聖書の言葉
6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。フィリピの信徒への手紙 2章6節~11節
メッセージ
この御言葉は初代教会が礼拝で歌っていた賛美歌(賛歌)だったのだろうと言われています。つまりこの手紙を書いているのは使徒パウロですが、ここはパウロ自身の言葉というよりも、賛美の言葉を引用する仕方で語っているものと思われるのです。それゆえにこの箇所は「キリスト賛歌」と呼ばれています。
その内容は、イエス・キリストのご降誕から十字架に至るその地上生涯を端的に語り、その従順とへりくだりのゆえに、キリストが高く挙げられたということです。短い言葉の中に、御子イエス・キリストをお遣わしくださった父なる神様の恵みと、その御心にどこまでも従順にしたがって謙遜の限りを尽くしてくださった御子イエス・キリストの愛が溢れ出る、大変印象深い御言葉になっているわけです。それゆえ、初代教会は、礼拝のたびごとにイエス様のへりくだりのお姿を思い起こしながら、信仰の歌を歌い続けてきたのでした。
今日の御言葉に示されている、イエス・キリストの「へりくだり」のご生涯を、アドベントのこの季節にあらためて思い巡らしてみることは、意味のあることではないかと思います。そうすると、私たちは主の姿に照らされて、自分の内にある頑なさと向き合わざるを得なくなるのです。
神の御子が、私たちのもとに来てくださるために、どこまでも低くなられたというのに、自分はどうだろうか。本当は手放してもよいはずの小さなプライドや、「こうありたい」というこだわりに、気づかないうちにしがみついている自分はいないだろうか。誰かに仕えるより、どこかで仕えられたいと願ってしまう思いが、自分にはあるのではないか。そうした弱さが、この御言葉を思い巡らすときに、いつもよりはっきりと見えてくるんじゃないかと思うのです。
けれども、そのような私たちのところにこそ、イエス・キリストは来てくださいます。弱さや欠けを抱えたままの私たちの中に、主は「そこに行きたい」と願ってくださるのです。
クリスマスは、大いなる神の御子が、あえて小さく、そして卑しい者となって、私たちのもとに来られた出来事です。この出来事こそ、神さまがどれほど私たちを愛し、近づいてくださったかを物語る、かけがえのない恵みなのです。イエス様は、本来はどこまでも高いところにいらっしゃるお方でありましたが、その身分に固執しようと思わないで、どこまでも低く、私たちのもとに飛び込んできてくださいました。そのようなイエス様を、どのようにしてお迎えするのか。主を賛美して、喜びのうちにお迎えする。そこに導かれたいと願うのです。
アドベントは、主をお迎えする準備の季節です。主が私たちを生かすために、自らこの世に飛び込んでくださり、そのいのちを捨ててくださいました。その主イエス・キリストの命によって、今私たちは生かされています。
「イエス・キリストは主である。その御名を、私は心から賛美します」。
こういう信仰の姿勢で、主イエスをお迎えしたいと願います。