2025年08月31日「渇くことのない、生きた水」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

渇くことのない、生きた水

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章1節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― 3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4しかし、サマリアを通らねばならなかった。 5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネによる福音書 4章1節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 この、サマリアの女性について語るときに、ほとんど必ず言及されることがあります。それは、彼女が人目を避けて生きていたということです。このときの時間は、「正午」であったと書かれています(6節)。太陽が照りつける正午に、水を運ぶなどということは、普通はしません。この女性は人の目を避けて、水を汲みに来たわけです。

 どうして彼女が人の目を避けていたのか。おそらくその理由は、16節以下のやりとりに記されている事柄にあります。彼女は、今まで5人の男性と結婚しては別れてを繰り返していました。さらに今連れ添っている男性は、結婚していない男性だと言うのです。これは当時の倫理観からすると、とんでもなく汚らわしいものだと見做されることでした。人々から軽蔑され、つまはじきにされ、おそらくサマリア人同士であったとしても、彼女は誰からも口をきいてもらえなかったものと思われます。

 当時の社会で、5人の男性と結婚・離婚を繰り返して、さらに6人目と同棲しているというのは、並大抵のことではないように見えます。けれども私は、その心の奥底にある願いは、実際には誰もが抱いているようなごく普通の願いだったのではないか、とも思うのです。彼女は要するに、真実な愛を求めていたのでしょう。そしてこの女性は、結婚生活によって、自分の魂の渇きが癒されることを期待していたのです。けれども、しばらくすると、その期待が引き裂かれてうまくいかなくなってしまう。そして次に結婚しても、やっぱり裏切ったり、裏切られたりする。そういうことを繰り返してきたのです。

 私たちは、心に渇きを覚えると、それぞれ何かでその渇きを満たそうとします。それは異性かもしれませんし、お金かもしれません。あるいは権力、地位かもしれません。そういったもので自分を満たそうとすることがあります。現代は、私たちの心の隙間を埋められるかのように宣伝されている物が世に溢れています。私たちは、自分の「外」に、心の隙間を埋めるものを求めがちです。しかしそれは、「飲んでもまた渇く」(13節)のです。

 けれども、ここでイエス様が語っておられることは、私たちの「内側から」満たされていくということです。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(14節)。」

 イエス・キリストを信じるところで、内側から満たされていく。そういう水をいただくことができるということです。ただ単に水を飲んで渇きがなくなったということではなくて、私たちの内側から水が湧き出てくる。「その人の内で泉となる」。そういう根本からの満たしを与えることができるのは、イエス・キリストだけなのです。このイエス・キリストと出会う場所は、礼拝です。イエス様に満たされる。その幸いを、礼拝でご一緒にいただきたいと願っています。