2025年08月10日「キリストの必死な救い」

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キリストの必死な救い

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書 19章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「ザアカイ」という名前には、意味があります。ザアカイとはユダヤ人の名前で、その意味は「純粋な者」あるいは「正しい者」という意味の名前です。ですから彼は要するに「名前負け」していたのです。「正しい者」「純粋な者」という名前をもちながら、その正反対をいくような歩みをしていたのです。

 彼は徴税人である。つまり、税金を集める仕事をしていたわけです。ただしそれは、ユダヤ人から集めて、ローマ帝国に納めるものでありました。当時のユダヤ社会は、ローマ帝国に占領されていて、ローマに税金を払う必要があったわけです。特にザアカイの住むエリコという町は、交通の要所でしたから、関税をとって、その関税を納めていたと言われています。その際に、ローマの人々というのは賢くて、直接税金を取り立てると人々から反感を買うものでありましたから、ユダヤ人の取立人を立てて、そこから税金を回収していました。そうしてローマに仕えて、仲間であるユダヤ人から税金を取り立てていたのが徴税人です。ですから一般的に、徴税人とは非常に嫌われていたわけです。仲間であるユダヤ人からお金を巻き上げて、それを敵国に納める悪い奴だと、周りからそのように見られていたわけです。

 そこまでして、人々に嫌われてまで徴税人になる人がいるのには理由があって、指定された金額よりも多く取り立てて、それを自分の懐に入れたり、あるいは裕福な人からは賄賂をもらったりして、いわゆる「旨味」があったからです。ザアカイはそのような徴税人の「トップ」「かしら」であり、「金持ち」だったとわざわざ書いてあります。どれだけ汚いことをしていたのか、どれだけお金を騙し取り、集めていたのか。そうした事情がすぐに想像ができる。そういう書き方がなされているのです。

 正しい人、純粋な人。こういう名前をもっていながら、そこからかけ離れた毎日を送っているのがわかります。親からどんなに期待されて、こういう名前をつけられたのかはわかりません。いずれにしても、本来の自分からかけ離れている。本来あるべきところに戻って来れない。お金は集まってくるでしょうけれども、周りから嫌われて、孤独に生きている。罪人の最たる者と言われ「あいつは天国にはいけない」と言われ、暗闇の中に生きている。生きているのに、まるで死んでいるような状態。それが、ザアカイの姿だったのです。

 そのようなザアカイの住んでいる町を、あるときイエス様が通っていかれます。そのとき、ザアカイはイエス様を一目見たいと思ったのです。彼は「群衆に遮られてイエス様が見えない」とわかったときに、いちじく桑の木に登ってまで、イエス様を見るという行動をとっています。徴税人のトップであり、人の上に立つ人間で、この世の財産をほしいままにしているかのような、そんな人が、恥もプライドも捨てて、木に登るのです。大の大人が、木によじ登ってまで、イエス様を見ようとするのです。その姿は、周りから見れば滑稽だった、常識はずれでおかしな姿だっただろうと思います。

 どうしてザアカイは、そんなにもイエス様を見たかったのでしょうか。ザアカイの心の内側について聖書にはひとことも書いていません。ですから推測するしかありません。ただ、心の内側から湧いて出てくるような「求める思い」が、この人にもあったのではないか、と思います。「心の飢え渇き」と言ってよいものです。孤独でもあったでしょう。そういった暗い心が、キリストと出会うことで何かが変わるかもしれないという思いとなっていったのだと思います。

 私たちの内側にも、そのような「飢え渇き」があるのではないでしょうか。うまく説明ができなかったとしても、教会に足を運んだら何かが変わるかもしれない、という、そういう思いです。イエスをひとめ見たら、何かが変わるかもしれないという、そういう漠然とした「求め」です。主は、そのような私たちの魂に触れてくださるお方なのです。

 ザアカイは、イエス様を見ようとしました。木に登ってまで、必死に、探し求めようとしました。けれども、この御言葉が本当に伝えようとしていることは、実は反対のことなのです。すなわち、これはザアカイがイエス様を見つける話ではなくて、イエス様がザアカイを見つける話なのだということです。

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」と仰います。イエス様は、救いから離れていたはずの「あいつは天国には行けない」と言われていたはずのザアカイを救うために、迷子になった羊を捜して来たのです。この「失われた者」とは、ひとことで言うならば「神様の前からの行方不明」のことです。神様の前からの行方不明、です。例えば親と子どもが買い物に出かけて、子どもが迷子になってしまったときには、親は必死になって子どもを探します。迷子になった子どもも、不安でこわい思いをするのでしょうが、親はもっと必死になります。誰かが失われるというのは、そういうことなのですね。 私たちがどんなに自分が汚れた存在だと思っていても、罪に汚れていると思っていても、或いは自分に価値などないのだと思っていても、イエス様は必死に捜しておられます。そして、一人一人の名前を呼んでくださるのです。

 私たちは、かつては神様から離れて歩んでいました。失われていました。行方不明でした。罪人とは、そういう存在です。けれども、神様は「一人くらい良いか」とは決して仰いません。なぜならば、一人一人が、神様の目から見て、値高く尊いからです。神様は、そのような私たちを今でも必死に探し求めておられます。イエス・キリストを通して、ご自分のみもとに、何としてでも連れ戻そうとしておられます。「帰ってきなさい」と招いておられるのです。その、神様の招きを、今日、この場所で、受け止めたいと思います。