2025年07月20日「イエスの名のために」
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イエスの名のために
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 5章27節~42節
聖書の言葉
27彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
33これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 34ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 35それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 36以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 37その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 40使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 41それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 42毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。使徒言行録 5章27節~42節
メッセージ
使徒たちは捕えられて、今にも死刑の刑罰が執行されそうな危険な状況でした。けれども、神様が使徒たちを危機から逃れさせようとお思いになれば、時に応じて様々な手段を講じられます。前回は、主の天使の不思議な力によって牢屋から解放されました。今回は、大祭司たちサドカイ派と対立する立場にあるファリサイ派のガマリエルという人を用いて、使徒たちを釈放させたのです。神様は、時宜にかなって必要な助けを、私たちに与えてくださるお方です。
ただし、使徒たちは何のおとがめもなしに釈放されたわけではありません。40節にあるように、「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した」のです。この鞭打ちは決して軽い罰ではありません。これはおそらく40回より1回少ない、39回の鞭打ちであったと思われます。その意味は、「40回鞭打つと死んでしまうから、そのぎりぎりまで痛めつける」というものです。非常に激しい、強烈な痛みを伴います。さらに言うと鞭打ちには、人前で裸にされることもあり、辱めの意味もありました。日本と少し似たところがあるかもしれませんが、イスラエルも「名誉と恥」の文化でありますから、辱めは、重い刑罰であったのです。
ところが使徒たちは、これを喜びと受け止めたのです。それは言うまでもなく、鞭で打ち叩かれても、痛く感じなかったとか、そういう話ではありません。肉体の痛みを感じながらも、また辱めに晒されながらも、それにもまさる霊的な喜びがそこにあったということです。それは、イエス様の名のために辱めを受けているという信仰の喜びです。
かつてイエス様は、使徒たちの一人一人のために、また今ここにいる私たち一人一人のために、十字架の上で、肉体的にも精神的にもこれ以上ない苦しみをお受けになりました。私たちの罪を背負って贖うために、これ以上どこにもない苦しみを受けてくださいました。今、使徒たちは、イエス様に従うところで、イエス様ほどではないにせよ、苦難を受ける者とされています。そこで、彼らは自分たちがイエス様と一つにされていることの確かさをも実感していたのです。
今ここにいる私たちもまた、イエス様の十字架と復活による救いの恵みを共に味わいながら歩んでいます。その恵みによって新しくされて、イエス・キリストを証しする命の言葉を語っていきます。そこにおいて私たちも、様々な苦しみにあうことがあり、時には辱めをうけることもあるかもしれません。しかしそこには、主イエス・キリストと共に歩む証し人の喜びがあるのです。イエスの名のゆえに、苦しみを受けることがある。キリスト者の歩みとは、何の憂いもなく、悩みもない、といったものではありません。憂いと悩みがあってもなお、喜びと平安がある。それが、私たちキリスト者の歩みなのです。その歩みに、私たちの幸いがあります。たとえ迫害を受けることがあっても、神から出たものは、滅ぼされることがありません(39節)。そこに、私たちの希望があります。