2025年04月13日「イエスの十字架を語る」
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イエスの十字架を語る
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 2章14節~23節
聖書の言葉
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17『神は言われる。
終わりの時に、
わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
18わたしの僕やはしためにも、
そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
19上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
20主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。使徒言行録 2章14節~23節
メッセージ
本日は受難週の礼拝です。教会のカレンダーでは、この一週間は特にイエス・キリストが、十字架にかけられ、死なれたことを深く心に留める一週間です。今日の御言葉には、ペンテコステの日にペトロが語った説教が記されています。聖霊が降ったこの日に教会が誕生したのですから、このときのペトロの説教は、教会にとって初めての説教だと申し上げることができます。その説教の中に、すでにイエス様の十字架のことが語られているのです(22〜23節)。
イエス様を十字架にかけて殺した責任については、もちろんこれを語っているペトロ自身も決して無関係ではありません。ペトロ自身も同じイスラエルの民であり、彼もまた個人的にイエス様の十字架に加担しています。彼は、イエス様が捕らえられた際に、イエス様のことを三度も「知らない」と否定してしまいました。ペトロ自身もそのことはよくわかっていたはずです。ペトロが「あなたがたは」と言って十字架の責任を迫っているこのとき、おそらく、きっと、彼自身も自分の罪を見つめていたのだと思います。そして語る者も聞く者も、皆で悔い改めてイエス・キリストに向き合うように、そのように導こうとしています。
イエス様を十字架にかけて殺す罪は、私たちにも無関係ではありません。イエス様は、私たちの罪を背負って赦すために、身代わりになって死なれました。その意味で、当時のユダヤ人も、今の私たちも、このことはすべての人が真剣に向き合うべきだと言えます。
しかし同時に、23節には、このイエス様の十字架が「神のご計画」であったことに触れられています。その計画とは端的に言って、私たちが癒され、罪赦されて、もういちど神様と一緒に歩めるようになるというご計画です。イエス様は確かに、誰も受けたことのないほどの苦しみをお受けになりました。そのようにご自分の命を投げ打ってまで、私たちの命を買い取ってくださいました。ここに、神様のご計画があります。独り子を犠牲にしてまでも、「あなたを生かしたい」という神様の御心があります。私たちは、自分の罪を見つめて自覚すると共に、イエス様が十字架の上で実現してくださった神様の救いのご計画をしっかりと見つめていきたいと思うのです。
21節に「主を呼び求める者はみな救われる」とありました。「主」という呼び名は、これまでは父なる神様のことを指していましたが、ここでペトロの念頭にあるのはイエス・キリストのことでしょう。この終わりの時代において主の名とは、イエス・キリストの名なのです。イエス・キリストが私たちの主となってくださった。イエス・キリストの名を呼ぶものは皆、救われる。イエス様は、私たちの罪を背負って十字架で死なれたお方です。復活して天にあげられ、今私たちと共に歩んでくださるお方です。イエス・キリストの名を呼ぶものはみな、救われる。私たちはイエス様の御名を呼び求めていきたいと願います。そのとき、罪を背負うイエス様の愛と救いの恵みを味わい知るに違いありません。