2024年03月10日「祈りの家となるために」

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祈りの家となるために

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13そして言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」
14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。マタイによる福音書 21章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 12節に、イエス様が「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出して、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」とあります。商売人に対して激しい憤りを示しておられるのです。なぜでしょうか。

 イエス様は13節で、イザヤ書とエレミヤ書を引用して語っておられます。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」イエス様にとって「わたしの家」とは、ここで言う神殿であり、主の神殿は「祈りの家」と呼ばれるべきであるということです(イザヤ56:7)。祈りとは、主なる神様に心を向け、神様と交わりをもつことです。神殿とはそのような祈りの場であり、神様の御心に聞き従う礼拝の場でなければならない、ということです。ところが、イエス様に言わせると「あなたたちは、それを強盗の巣にしている」。祈りが失われ、神様との生きた交わりが失われた場所になってしまっている。イエス様は、このことを問題視しておられるのです。

 ですから、ここで問われていることは、礼拝でささげられているものに心が伴っているかどうか、ということなのです。礼拝の形は規定通り守られていたとしても、そこに礼拝者の心が伴っていなければ、「主の神殿だ」と言って安心しても、「救われた」と言ってみても、神様の目から見ると、それは虚しい言葉なのだということです。

 今日の御言葉を読みながら、私もまた、ひとりの礼拝者として、自分の日常生活を思い、また礼拝に臨むあり方を思い、改めて襟を正されるような思いがいたします。イエス様は私たちに、「あなたの礼拝は、本当の礼拝になっているか」と問いかけておられるように思います。本当に神様の御旨を真剣に聞き、それに従って生きているか。真心から自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の御業により頼んで生きているか。神様に向き合う心が伴っているか。

 このように問われたときに、むしろ私たちは神様に対しても隣人に対しても罪を犯している、そんな弱い自分の姿を発見するのかもしれません。胸を張って「できます、できています」と言うことのできる人がどれほどいるだろうかと思います。私たちは、神様のみ前に出ることなど出来ない、そういう罪と弱さをもつ者です。…けれども、そんなときに覚えたいことは、そのような私たちを主イエスは癒して下さり、礼拝者としてくださったということです。イエス様は目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました(14節)。そのイエス様が私たちに対しても癒しを与えて下さるのです。その癒しと、私たちの罪を赦して下さるということです。私たちを神様のみ前に出て礼拝をすることができる者として下さるということです。そのためにイエス様が十字架の道を歩まれたことを思い起こしたいと思います。そして、十字架の血を流してくださったことで、私たちの口に、神様を、主イエスをほめたたえる讃美の言葉を与えて下さったのです。