2024年02月25日「主の憐れみを求めて」

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主の憐れみを求めて

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章29節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

29一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
30そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
31群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
32イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
33二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。マタイによる福音書 20章29節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 この二人の盲人が本当に求めるところは、憐れみ深い主との出会いであり、その主に従って生きることでした。「目が開かれるように」と願う、その先で、主の憐れみ深い御手に触れていただき、イエス・キリストの憐れみの中に置いていただくことでした。彼らはイエス様に「何をしてほしいのか」と問われた時に、本当に自分が願い求めていることに気づかされ、それが言語化されたのではないかと思います。

 「あなたは私に何をしてほしいのか」。イエス様は、私たちにも、同じように問いかけておられます。私たちも日常生活の中で、いろいろな問題、あるいは祈りの課題をもっています。悩みを抱えた方は、その問題の解決を願う。それは、祈り願ってよいのです。病を抱えた方はその癒しを、人間関係に悩む方はその解決を、家庭の悩みをもった方は家庭の祝福を、職場の悩みを抱えた方は良い道を、それぞれ祈り願ってよいのです。それも叫ぶようにして、大胆に祈り求めてよいのです。大切なことは、その先にある主の憐れみを祈り求めることです。自分が求めているものは何なのか、なぜそれを求めているのか。そうしたことを自分に問いながら、祈りを深めていくことです。果たして目の前の問題が解決されればそれでよいのか、この問題の解決が与えられたら、もうそれで満足なのか。本当に自分が求めているものは何なのか。自分にとっての本当の問題は何なのか。こうしたことを突き詰めていくと、私たち人間が行き着く本当の求めとは、主の憐れみを願う、というひとことに辿り着くのではないかと思います。聖書は、私たち人間にとっての本当の問題は何かということを語っています。それは、憐れみに満ちた主を見失っていることだと、私たちに語っているのです。

 私たちにとっての本当の問題は、この主の憐れみを見失っていることです。罪によって、神様に対して盲目になっていることです。神様は私たちを深く愛してくださっているのに、私たちの目は神様を見ていない。神様のことが見えない。見ようとしない。そうした私たちの心の目を開くために、イエス様は十字架へ向かってエルサレムに歩まれます。これからイエス様が辿る十字架の道は、主の憐れみを見失っている私たちが、主のみもとで喜びを持って生きるために、私たちが本当に求める必要を満たすために与えられるのです。

 イエス様が開いてくださるのは、肉体の目だけではありません。主イエス・キリストを見つめ、主なる神様を見つめる心の目を開いてくださるのです。そうして目を開くことによって、イエス様は、私たちと神様との破れた関係を癒してくださるのです。今日の御言葉が、エルサレムに入る直前に置かれているのは、イエス様のお働き、その歩みが、結局ここに行き着くからだと思います。福音書のクライマックスである、十字架の意味を示した御言葉だと申し上げることができます。主が私たちに触れてくださるとき、私たちの目は開かれ、主の憐れみを受け取ることができるのです。