2021年10月24日「休んで生きる」

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休んで生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 月に1度の夕礼拝では、出エジプト記に記されている「十戒」の言葉を共に学んでいます。本日は第四戒になります。第20章8〜11節に当たる部分です。見て分かるようにとても長い文言になっています。十戒の中で一番長い言葉です。短くまとめると、8節の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」となります。また、第四戒は十ある戒めのほぼ真ん中に位置します。一番長い言葉が、真ん中に近いところにあります。そして、第一戒から第四戒までが1枚目の石の板に、第五戒から第十戒までが2枚目の板に記されていると言われています。それぞれ、1枚目には神様との関係、2枚目には隣人との関係に正しく生きるために大切な戒めが記されています。第四戒は神様との健やかな関係に生きるための戒めに当たりますが、同時に、隣人との健やかな関係に生きるためにも重要な意味を持つ戒めです。神と隣人を愛する生き方を一つに結び合わせる上でも大きな意味を持ってくるのです。それが、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という神様の言葉です。

 「安息日」という言葉は、ヘブライ語で「シャーバット」と言います。私どもは日本語で「安息日」と理解していますから、その意味も何となく想像はつきますが、初めてこの戒めを耳にしたイスラエルの人々にとっては、「シャーバット」という言葉を聞いただけでは、意味がよく分からなかったのではないかと言われています。そして、たとえ日本語でも、安息日は「休む日」だといふうにしか理解されていないのかもしれません。休むことに変わりありませんし、休むことの大切さを聖書は教えます。しかし、安息日に休みをとって、自分の好きなことをする日と受け止められてしまいますと、安息日の本質を見失ってしまうことになります。

 イスラエルの人々に、「シャーバット」という言葉が何を意味するのか。その説明が必要だったように、私ども「安息日」という言葉を詳しく知る必要があります。何よりも、聖書が「シャーバット」「安息日」について説明をしてくれています。一つは、先程、お読みしました出エジプト記第20章8〜11節です。もう一度お読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」8節の「心に留めよ」というのは、「思い出せ」と訳すことができる言葉です。では何を思い出すのでしょうか。それが9節以下の御言葉です。つまり、ここに記されているのは、創世記第1章、第2章で語られている「天地創造」の物語です。六日の間にわたって、天と地をお造りになった神が、第七日目に休まれたからです。休まれたと言っても、七日目に神様は何もしておられなかったというのではなくて、お造りになった世界をご覧になって「極めて良かった」と言って、喜びと満足を表されてように、この世界を喜び、愛し、祝福してくださいました。創造の冠である私ども人間も、この神の祝福の中に置かれた存在であるということです。その神様の御心を思い起こす日として、安息日を過ごすのです。

 また、旧約聖書にはもう一箇所、十戒の言葉が記されている箇所があります。それが申命記第5章です。第5章12〜15節に第四戒に当たる言葉が記されています(旧約289頁)。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」出エジプト記の言葉と似ている部分もたくさんありますが、その根拠が違っています。先程の出エジプト記は、天地創造がその根拠となっていましたが、申命記では15節にありますように、エジプトの奴隷から解放された出来事がその根拠となっています。エジプトの奴隷であったイスラエルの民を救い出すために、神が力ある御手と御腕を伸ばしてくださいました。その神の御業を思い起こし、今も神が生きて働いておられることを心に留める日。それが安息日なのです。

 天地創造の御業とエジプトからの解放の御業を思い起こすために、「シャーバット」「安息日」が与えられています。創造の御業を照らし合わせる時、それは七日目に当たります。イスラエルでは、金曜日の日没から土曜日の日没までです。大まかに言うと「土曜日」ということになります。しかし、今日を生きる私どもにとって、安息日は日曜日に当たります。なぜなら、イエス・キリストが日曜日の朝に復活してくださったからです。これは別に、旧約聖書の十戒はもう古いということではありません。イスラエルの民をエジプトの奴隷から救うために、神は力強い御手をもって導き出してくださいました。その神の力ある御手と御腕をもって、私どもをイエス・キリストをとおして罪の中から救い出してくださいました。使徒パウロはこのようにも言っています。コリントの信徒への手紙二第5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」神の力ある御業によって、罪の奴隷から解放された私どもは、同時に、新しく創造された者でもあります。だからこそ、私どもは安息日に教会に集い、主の御業を思い起こし、主をほめたたえます。今では、「安息日」としてというよりも、「主の日」と呼ぶことのほうが多いでしょう。もう少し丁寧に言うと、「復活の主の日」「甦りの主の日」となります。

 安息日、あるいは、主の日を「聖別」しなさいと命じておられます。「聖別しなさい」と命じておられるのであって、単に「休みなさい」と言っておられるのではありません。聖別するために休む必要はありますが、休んで何もしなくていいとおっしゃっているのではないのです。しかし、主イエスの時代には、第四戒の目的が休むことだけに向けられていきました。休むと言っても、何が労働で、何が休みなのかその境目が曖昧ですから、律法学者たちはありとあらゆる細かい規則をつくりだしたのです。料理の際、煮たり炊いたりしてはいけないとか、病人を癒してはいけないとか、一定の距離以上移動してはいけないとか、細かい規則をつくっては、それを守ることこそが安息日を守ることだと信じていたのです。笑ってしまうような話ですが、当時の彼らは真剣でした。しかし、主イエスは「あなたがたの安息日理解は間違っている」と言って、律法学者と主イエスとの間にしばしば論争が起こりました。

 では、安息日の真の目的とは何なのでしょうか。安息日を「聖別する」とはどういうことでしょうか。聖別するとは、「取り分ける」ことです。神様のために取り分けるということです。日曜日という一日を神様に取り分けます。月曜日から土曜日までは遣わされた場所で働いているのですが、日曜日だけは、仕事を休んで、神様のために取り分けるのです。仕事だけではなく、色んな業をやめるのです。何のためでしょうか。それは、自分の業をやめて、神様に働いていただくためです。そのために、時間や場所を取り分け、神様に働いていただく場所、御言葉を語っていただく場所をつくらなければいけません。神様に自分を明け渡すと言ってもいいでしょう。それが聖別するということです。私どもは普段から、自分が何かをすることに一所懸命になり過ぎてしまうことがあります。あるいは、自分は何ができるのだろうかということばかりを気にしているところがあるかもしれません。そして、下手をすると、神様さえも自分の中から追い出してしまうほどに、自分のことでいっぱいになってしまうということがあるのではないでしょうか。だから、神様は「安息日を心に留めて聖別しなさい」と命じられるのです。私があなたの内に働くから、そのために安息日を聖別しなさい。私のために時間と場所を取り分けなさいと命じられます。それは、ある人にとっては本当に大きな戦いであるかもしれません。また、主の日の礼拝は何の妨げもなく来ることができるという人も、礼拝や奉仕のために十分に備えて臨む必要があります。誰にとっても、安息日を聖別することは修練が必要です。

 また神様は七日のうち、いつでもいいから適当な曜日に休んで、礼拝しなさいとおっしゃったのではありません。仕事や子どもの学校行事などの関係で、平日のこの日の朝だったら時間があるから都合がいいのだけれども。あるいは、来週は土曜日だったら空いているけれどもというふうに、毎回自分たちの都合に合わせて、週に1回休めばいいというのでもないのです。あるいは、六日間連続で働いて、次の七日目に休めばいいという話でもないのです。神様はわざわざ、「シャーバット」「安息日」と名付けて、特別な日をつくりだしてくださったということです。そこに大きな意味があります。神様は「安息日を心に留めるように」「思い出すように」とおっしゃいました。

 もう一度、「思い出す」ということを別の角度から考えてみたいと思うのです。同じ第20章24節には次のようにあります。「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」「わたしの名の唱えられる」とありますが、これは「わたしの名が思い出される」という意味です。安息日を思い出すことは、神の力ある御業を思い出すことです。天地創造の御業、出エジプトの御業、そして、十字架で死んだ主イエスを復活させた御業を思い出し、その御業を行ってくださった神の名を唱えるのです。その時に何が起こるのでしょうか。「わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」というのです。神がそこにいてくださるというのです。今も生きて働いておられる神とお会いすることができるのです。神との出会いの場を、神御自身が用意していてくださいます。それが、安息日であり、主の日なのです。だから、第四戒は何曜日でもいいから休みなさいとか、七日に一度休みなさいという教えではありません。神が定めたもうこの日にこそ、神を思い出し、神と出会う経験をするのです。そのために、仕事を休み、神様の時間の中を歩むのです。

 もちろん、神様はいつも共にいてくださるお方ですから、月曜日から土曜日までは神様とお会いできないということではありません。いつでも神様とお会いすることができます。色んな日に、色んな場所で、神様の祝福を覚えることができます。一対一で神様と向き合うことも必要でしょう。しかし、安息日というのは、一人だけで神様の前に立つ日ではありません。皆で共に集まる特別な日です。一人で信仰生活するのは不安だということもありますが、神を信じるということ自体が共同体によってなされるべきものです。十戒もモーセ一人に与えられたのではなく、イスラエルの民に与えられたものでした。共に集まって、神様を礼拝するためには集まる場所、つまり、今でいう教会堂のような場所が必要です。共に集まり礼拝を始める日時も決めておく必要があります。そこでも、土曜日や休日のほうがいいというのはなく、主が定めてくださった安息日・主の日をそれぞれが聖別して、共に集うのです。そこに神がいてくださるのです。

 礼拝をささげる時、「招きの言葉」から始まります。よく読まれる御言葉の一つに、マタイによる福音書第11章28節の御言葉があります。主イエスがお語りになった御言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」聖書の中でとりわけ慰め深い御言葉です。主イエスは、私どもが疲れやすい人間であることを知っておられます。色んな重荷を背負って生きていることを知っています。主御自身がまことの人として、人間が経験する疲れや渇き、悲しみを共にしてくださった方でもありました。仕事の疲れ、人間関係の疲れ、信仰においてさえも疲れを覚えることもあるでしょう。けれども、主イエスはそのような私どもを招いてくださいます。招いてくださるだけではなく、まことの安息を主は私どもに与えてくださいます。

 ヨハネによる福音書第20章で語られていることですが、主イエスの復活を喜ぶことができず、部屋の戸に鍵を恐れていた弟子たちの前に、復活の主が現れてくださり、平和を宣言し、新しいいのちの息を吹き込んでくださいました。主によって罪赦され、主にある平安の中、弟子たちは福音を携えて扉の外に出て行くのです。学校に通っていたとき、長い休みが終わりに近づくにつれ、何となく憂鬱な気持ちになったものですが、主が与えてくださる安息は、休みが終わっても、出て行ったその先でなお軽やかに生きる力を与えてくれます。私が背負っている重荷はただ重いだけ、ただ苦しいだけのものではないのです。私が背負っている重荷は、主イエスが与えてくださったものであり、そればかりではなく、主イエスが共に担っていてくださる重荷であることを知るのです。だから、扉の外には色んな問題があるのだけれども、主イエスが与えてくださる平安があるから生きていけるということが起こるのです。そのためにも、主イエスの招きに応えて、主の御前に集うのです。主の日、礼拝をささげるために、自分の時間を神様のために取り分けるのです。古代教会の指導者であったアウグスティヌスも次のような有名な言葉を残しました。「あなたは私たちを、あなた御自身のためにお造りになりました。私たちの心は、あなたのうちに安らうまで、平安を見出すことはできないでしょう。」神様のもと、主イエスのもとで休むことの中に、私どもの生きる目的があり、同時に平安があるのです。

 また今回、第四戒を学びながら、改めて教えられたことは、10節の御言葉です。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」つまり、自分だけ休めばいいというのではないということです。息子も、娘もとあるように、家族全員が休むことが求められています。そして、安息日に家族は働かないから、あなたがた奴隷が私たちの身の周りのお世話を全部しなさいというのではないのです。奴隷も安息日には休ませるようにと命じます。更に、「町の門の中に寄留する人々も同様である」とありました。町の門に寄留する人というのは、外国人や経済的な理由で家に住めなくなった人、何らかの事情で故郷に帰ることができなくなった人、飢餓や戦争による難民のことです。そういった人たちが最後に流れ着くように、町の門に辿り着いたのです。法的な保護もなく、生活の基盤を持たない人たちです。そのような人たちを、自分の家族同様に扱いなさいと神様は命じます。そして、安息日にはちゃんと休みを与えるだけでなく、共に礼拝をささげるようにと、主はおっしゃるのです。

 教会に集まる人は皆、血が繋がった家族ではありません。年齢も性別も仕事も、生活環境も皆違います。けれども、日曜日になるなとここに集まります。そして、神を礼拝することにおいて一つになるという恵みが与えられています。また、一方で教会に集う者たちの顔ぶれを思い起こしますと、私たちだけでなく、おそらく多くの教会で、まさに血の繋がった家族単位で教会に集うということがあるのだと思います。では家族とは何でしょうか。一つ同じ屋根に住んでいたとしても、今日それぞれの家族の環境は色んなものがあります。血が繋がり、同じ家に一緒に住んでいることだけが、そこに生きる者たちを幸せにするかというと、必ずしもそうではない現実があるのです。普通に過ごしていても、学校や仕事などの関係で、家を出る時間も帰って来る時間もバラバラなことが多いと思います。家で一緒に過ごす時間というのはほとんどありません。もしかしたら、寝ている時間が一番長いのかもしれません。そのような環境にあって、家族が本来共有しなければいけない時間とは何であるのか。それは安息日を心に留めて、聖別すること。神を礼拝することなのです。神様は礼拝の中に、家族が一つになるということを見ておられます。

 また、何らかの理由で、家族と共に教会に集い、礼拝を守ることができない痛みをも私どもはそれぞれに知っていると思います。ついこの前まで一緒に礼拝していた家族が天に召され、一人で教会に来る方がおられます。子どもが大きくなり、遠い場所に行ってしまう場合もあるでしょう。行った先で、ちゃんと礼拝生活をしているだろうかと、親としては気になります。教会から遠ざかってしまう家族もいるのです。あるいは、家族の中で、自分一人がキリスト者という場合もあります。毎朝、快く送り出してくれればいいのですが、余計な一言を言われ、腹を立てながら教会に来るということもあるでしょう。私どもはそれぞれの家族に属しながら、家族だからという理由で、いつも一つであるとか、家族だから何の心配もない。いつも幸せだと言って、手放しに喜んでいるわけではないと思います。だからこそ、「わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」という主イエスの言葉に導かれるようにして家の門の鍵を開け、教会に向かうのです。共に集うことができない家族のことを心に掛けながら、主の前に集うのです。だから、どうしてもこの時間だけは、神様のために聖別したい。どうしても、今日という日に神様とお会いしたい。神様が今日、わたしと会おうとおっしゃってくださったのだから、その約束を無視することなんかできない。そのような思いで、主の日、教会で礼拝をささげます。大げさでも何でもなく、本当に命懸けで主の日を生きるのです。事実、教会の歴史を振り返ると、死ぬことを覚悟して主の日の礼拝をささげていました。しかし、それは自分たちの信仰の立派さをアピールするために安息日を遵守したというような話ではありません。主が私どものためにお甦りになられたのだから、私たちは死を恐れることはない。どんな苦難や厳しい迫害の中にあっても、死を超えたいのちに今生かされているではないか。その主に、今日お会いすることができるではないか。こんなに嬉しいことはない。人々は主の日ごとに救いの恵みにあずかり、信仰の思いを新たにしたに違いありません。

 昨年からのコロナ禍によって、世界中の教会の礼拝のあり方が大きく変わりました。礼拝もずいぶん便利になったとか、場所は離れているけれども一緒の礼拝にあずかることができてありがたいというような意見を聞きます。特殊な事情ですから、外に出たくても出られない方にとっては、ライブ配信での礼拝参加をとおしてでも、恵みを得ることができるかと思います。しかし、私は安息日を聖別するということがどれだけたいへんで、どれだけの戦いと修練を必要とするのか、その苦しみや痛みを伴うことなのか、そのことをいつも忘れてはいけないと思います。幸い自分は何の問題もなく毎週礼拝に来ることができるという人も、他の兄弟姉妹のことや、コロナ禍で教会に来られない人を思うと苦しくなるのではないでしょうか。ライブ配信をとおして参加している方も、本当はここに来たいのです。でも来ることができないという痛みを覚えておられます。今日は別に教会に行かなくても、ライブ配信の礼拝で済ませばいいかなどとは、誰も思っていないと思います。そして、何よりも主イエスが十字架の苦難の道を歩み抜いてくださったからこそ、神が主を甦らせてくださり、主の日を私どもに与えてくださいました。私どもも、今日からそれぞれ主から与えられた重荷を担いながら、次の日曜日に向かって歩み出して行きます。主が歩まれたように、苦難の歩みであるかもしれません。遣わされた先でも、家の中でも面倒な問題が待っているかもしれません。しかし、主が日々の歩みにおいても、共にいてくださるからこそ、生きていくことができます。次の安息日、主の日を聖別するために、それぞれが出来る範囲の精一杯の備えをしながら、今日から新しい歩みを始めていくのです。お祈りをいたします。

 あなたが備えてくださいました安息日、主の日に、私どもをこうして御前に集めてくださり感謝いたします。色んな思いに捕らわれてしまう私どもですが、休む時を備えてくださり、あなたの御業に思いを向ける時を週ごとに備えていてくださいます。私どもも安息日を聖別し、神様のために献げることができますように。この世には多くの誘惑、戦いがありますが、イエス・キリストが御自分のいのちをもって主の日を与えてくださいました。それゆえに、私どもも心を尽くして、主の日の恵みの中を生き抜くことができます。そのための信仰の戦いを喜んで担うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。