2021年10月24日「気前のよい神」

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気前のよい神

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章1節~16節

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聖書の言葉

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」マタイによる福音書 20章1節~16節

メッセージ

 私どもは普段何を期待しならが生きているのでしょうか。決して、楽とは言えない、私どもの歩みですが、それでも辛い思いに耐え、頑張ろうと思えるのはなぜでしょうか。それは、最後に自分が頑張って生きてきたことに対する、評価や報酬をいただくことができるからではないでしょうか。それも自分の頑張りに応じた正しい評価、正当な対価を与えられて、初めて自分の頑張りが報われたと思うことができるのです。しかしながら、私どもの現実は、すべてが思いどおりにいくわけではありません。これだけのことをしたら、これだけのものを手にすることができる。そのことを信じて歩んでいると思いますが、計算どおりすべてが上手くいくわけではないのです。人一倍、血の滲むような努力をしたのに、結果が思うように出ない。期待したような評価を得ることができなかった。そのようなことがよくあります。更に、私どもを苦しめるのは、他の人の方が自分よりもいい評価を得ている。良い対価をもらっているというふうに思えた時ではないでしょうか。明らかに、あの人は私よりも一所懸命になっているということが最初から分かっていたら、納得することができるでしょうが、自分と同じくらいの苦労しかしていない人が、あるいは、自分に比べて何もしていないような人が、自分よりも高く評価されたならば、誰もが不平を言うに違いないと思います。そして、真面目に生きることが愚かに思えてくるということもあるでしょう。そして、キリスト者としての生活をしている私どもも、どこかで報われたい、正しく評価されたいという思いからなかなか自由になれないところがあります。どれだけ祈っても、自分の祈りが聞かれない。どれだけ、一所懸命伝道しても実りが与えられない。そういうことがあります。もちろん神様に仕える私どもの歩みが貧しいことは分かりますが、それでも精一杯奉仕している私たちの働きに、神様が豊かに報いてくださってもいいのにと、つい呟いてしまうのです。

 本日は、マタイによる福音書第20章の御言葉をお読みしました。4つの福音書の中でマタイにだけ記されている主イエスの譬え話です。この譬え話の一つの大きな主題となるのが、最初に申しました評価、報い、対価ということです。実は、これらのテーマはこの第20章から急に始まったことではありません。聖書の大切な読み方の一つに、前後の文脈を理解しながら読むということがありますが、本日の前の章、第19章を見ますと、そこには「金持ちの青年」と呼ばれる福音書の中で比較的有名な物語が出てきます。彼が手にしたかったもの、報い、それは「永遠のいのち」、つまり、「救い」でした。青年は永遠のいのちを得るために、幼い頃から神様の掟をすべて守って生きてきたという自負がありました。ここまで真面目に、善い行いをしながら生きてきたのだから、救われて当然だと思いたかったのでしょう。けれども、青年は救いを確信することがどうしてもできませんでした。それで、どんな善いことをすれば救われるのですか?と主イエスに尋ねたのです。すると主は、財産を売り払い貧しい人に施しなさいとおっしゃいました。青年は主の言葉を聞いて、悲しみながら立ち去ったのです。財産にしがみつき、幼子が親を信頼するように、主イエスを心から信頼することができなかったからです。

 この様子を側で見ていたのが弟子たちでした。主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19:24)とおっしゃったその言葉を聞いて、弟子たちは驚きました。弟子たちもまた、お金だけでなく、どうしても手放せないものが他にもあったのでしょう。どうしたら自分たちは救われるのだろうかと途方に暮れる弟子たちに、「人間にできることではないが、神は何でもできる」と主はおっしゃってくださいました。それなのに、弟子の一人であるペトロがこう言うのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(マタイ19:27)要するに、自分は金持ちの青年とも他の弟子たちとも違って、すべてを捨てることができた人間ですと言って、自分を誇り、それに見合う対価をペトロもまた求めているのです。しかし、永遠のいのち、神の救いというのは、善い行いをたくさんすれば手に入れることができるわけではありません。多くの財産が永遠のいのちを保証してくれるわけではないのです。あるいは、すべてを捨てたからと言って、そのことが神様から評価されて、救われるわけではないのです。そして、第19章の終わりと、本日の第20章の最後16節に、似たような言葉が記されています。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ19:30)「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)後の者が先になるということ。もしこのようなことがこの世界でまかりとおるならば、人々から多くの不平不満が生まれ、誰も真面目に生きようとは思わないでしょう。けれども、天の国、神の国の秩序は違います。後の者が先になるということの中に、救いとは何かということが明らかにされているのだというのです。

 第20章から始まる主イエスの譬え話は、ぶどう園での労働を巡る物語です。ぶどう園の主人がいて、ぶどう園で働く人々がいます。主人は働いてくれる人たちを雇うために、夜明けごろに人々が集まる広場に行き、必要な人数を集めるのです。労働条件や報酬などをそこで交渉してから、主人の所有するぶどう園に向かいます。ここでは1日1デナリオンというという金額です。八千円とか一万円ぐらいの額になるでしょうか。しかし、この主人が他の主人と明らかに違うのは、早朝の一度だけではなく、何度も広場に足を運んではぶどう園で働いてくれる人たちを探し回ったということです。丁寧に数えて見ますと、夜明の早朝、午前9時、12時、午後3時、5時と計5回も、主人は広場に足を運ぶのです。何て熱心な主人だという人もいれば、何て無計画な人だという人もいるでしょう。事実、働き人を雇うのは、早朝の1回だけというのが普通です。自分が所有するぶどう園がどれくらい広くて、収穫をはじめ色んな作業をするためにどれだけの人数が必要なのかは分かっていて良さそうなものです。そういう意味でも、主イエスの譬え話に登場する主人は、いわゆる普通の主人とは違うのです。

 その違いが最もよく表れているのが報酬を支払う時でした。広場で最後に雇われたのは、午後5時にそこに立っていた人でした。7節にあるように、誰も雇ってくれなかったのです。とても落ち込んでいたかもしれません。この日の稼ぎがなければ、自分も家族の生活も大変苦しくなると思ったことでしょう。けれども、主人が目を留めていただいて、もう夕方の5時でしたが、少しだけ働くことがゆるされました。もう一日のだいたいの作業は終わっていて、後片付けを一緒に手伝うくらいのことしかできなかったのかもしれません。そして、一日のすべての仕事が終わって、労働者に報酬を渡す時が来ました。主人は監督に言うのです。8節「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」賃金を先にいただくことができるのは、一番最後にぶどう園にやって来た人でした。お金を渡す様子が、周りからも見えていたのでしょう。夕方の5時から来た人でさえ、1デナリオン貰っていることが分かった時、早朝から来た人はもっと貰えるに違いないと期待しました。しかし、彼もまた初めの約束どおり1デナリオンだったのです。

 そうすると、最初に雇われた人は、主人に不平を言います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」なぜ、彼が不平を言ったのか。これは別に、私がくどくどと説明しなくても分かっていただけるのではないでしょうか。もし、私どもが同じ立場だったら、同じように不平を言うに違いないと思います。要するに、自分は主人から正しく評価されていないと思ったのです。自分が朝早くから汗水流して、一所懸命働いたのに、それに見合った報酬を得ることができないから、それに腹をたてたのです。そして、決定的だったことは、夕方から来て、1時間やそこらしか働いていない者と自分が同じ、1デナリオンという賃金であったということです。もし、夕方5時から来た人が、例えば、1デナリオンの10分の1の額であったならば、自分が1デナリオンでも納得したことでしょう。そもそも、最初主人と雇用契約を結んだ時、1デナリオンもいただけるのですかと言って、喜んだに違いありません。だから、暑くてもきつくても一日仕事を頑張ったのです。しかし、後からやって来て少ししか働いていない人が自分の目に入り、しかも、彼と自分が同じ1デナリオンという賃金であることが分かった時、どうしても納得することができませんでした。

 この譬え話は、この世におけるあるべき雇用関係を教えている話ではありません。1日働いた人も、1時間働いた人も同じだけの賃金を渡すように。それが聖書の教えだというのではないのです。あくまでも、天の国の譬え、神の国の譬えです。もう少し噛み砕くと、神様の愛、神様の救いというのは、どういうものかということを教える譬え話です。最初の労働者の不平を聞いて、主人はこう応えました。主人というのは神様のことであり、労働者というのは私ども人間のことです。主人は言います。13節です。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。』」主人は、「友よ」と呼び掛けます。愛をもった呼び掛けですが、同時に、悲しみと痛みをもった呼び掛けです。マタイによる福音書には、ここともう2箇所で、「友よ」という呼び掛けが記されています。なかでも、私どもの心に刻まれているのは、主イエスを裏切ろうとする弟子のユダに対して、主が「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26:50)とおっしゃったことです。その主のお言葉どおり、ユダが裏切りを謀ると、人々が近づき主を捕らえたのです。御自分の愛する弟子であるユダが自分を裏切るということを、主イエスはどれほどの痛みをもって受け止められたのでしょうか。胸が張り裂けそうな思いを抱えながら、ユダのことを「友よ」と呼び、すべてを受け入れ、主は十字架に向かわれるのです。

 本日の譬え話の中でも、主人は早朝から働いていた労働者に「友よ」と愛を込めながら、しかし、悲しみをもって呼び掛けています。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」「友よ」と呼んでいただいた最初の労働者の中にあった問題は15節の最後にあるように、「ねたむ」ということでした。私どもの生活においても、強烈に支配している思いの一つではないでしょうか。この「ねたむ」という言葉の元々の意味は、「悪い目」ということです。ねたみは目つきに表れると言ってもいいのです。ねたみに支配されると、怖い目つき、悪い目つきになってしまうと思います。ただ問題は、体の目つきだけでなく、心の目つきも悪くなってきます。目を大きく開いて、見るべきものを真っ直ぐに見ることができなくなります。これと深く関連する御言葉が第6章22〜23節に記されています。山上の説教と呼ばれる主イエスの言葉です。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」ねたみに心が支配されるならば、目が曇り、見るべきものを見ることができなくなります。つまり、神様のお姿を正しく見ることができなくなるのです。その時、あなたの全身は暗い。あなたの中に光がないと主イエスはおっしゃいます。しかし、私どもの目から濁りが取り去られ、神様がどのようなお方であるのかをしっかりと見つめることができたならば、私どももまたねたみから解き放たれるのです。

 早朝から働いていた人は、主人の「気前のよさ」をねたんでいました。ここでもう一つ鍵になるのは、「気前がいい」ということです。これは多くの物を与えるということですが、もう意味を掘り下げると、恵みとして与えるということです。あるいは、弱い者への憐れみとして与えるということです。日本語ですと、気前がいいと聞くと、どこか太っ腹、度量が大きいという感じを受けるかもしれません。1時間しか働いていない者にも、1日分の賃金をあげよう。私はケチな神様ではない。誰に対しても大判振る舞いをしてあげようというふうに。でも、聖書が語る「気前がいい」というのはそういうことではありません。弱い者、貧しい者、罪深い者を見つめ、恵みと憐れみによって、その人にとってなくてはならない大切なものを与えようというのです。そして、主人である神様が神様であるというのは、「気前のよさ」の中に実によく表れているというのです。

 夜が明ける頃、広場には多くの人が仕事を得るために集まっていたことでしょう。働いて、賃金をもらい、生きていくために広場に集まっていたのです。また、雇用というのは、別の見方をすると主人からの贈り物です。主人が自分を雇ってくださったからこそ、仕事をし、生きるために必要な賃金を得ることができます。しかし、最初に雇われた人は雇用のありがたみが分かりませんでした。ぶどう園での労働を、賃金を得る手段としてでしか考えることができませんでした。ですから、主人からいただいた1デナリオンを「愛のしるし」として受け取ることができませんでした。

 ねたみによって、悪い目つきになった最初の雇い人の思いは、主人だけではなく、最後にぶどう園にやって来た雇い人に対しても向けられていきました。主人に不平を述べる言葉の中でこのように言います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」最初の雇い人は、「この連中」「この連中」と繰り返します。同じ主人に雇っていただいた同士であるという意識はまったくありません。ねたみに支配された目で、神の気前のよさを見失う時、共に生きる者をまっすぐ見ることができなくなります。ルカによる福音書に「放蕩息子の譬え」と呼ばれる物語があります。この物語もある意味で、正当な評価や対価とは何かを巡って記されている物語と言ってもいいかしれません。物語に兄と弟が登場します。放蕩の限りを尽くした弟息子を父は喜んで迎え入れ、祝宴を開き、肥えた子牛を屠ります。兄は家出などすることなく真面目に父のもとで働いていましたが、自分には子山羊一匹すらくれなかったと言って、怒り出すのです。父が自分を正しく評価せず、評価される価値のないような弟が常識を超えた恩恵を父から受けているからです。そして、ここに出てくる兄もまた弟のことを「私の弟」と呼ぶことができず、「あなたのあの息子」というふうに他人呼ばわりすることしかできませんでした。兄息子も父の家にいながら、父の心、神の御心を見失っていたからです。しかし、父は祝宴から出て来て、怒る兄をなだめ、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」とおっしゃってくださいました。

 マタイによる福音書に戻りまして15節をもう一度見ますと、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と主人は言っています。主人である神様の自由な御心が表れている言葉です。しかし、人によっては、傲慢な言葉に聞こえるかもしれません。自分のものなのだから、自分の好きなようにして、何が悪いのだというふうに。しかし、神様は本当にそのようなわがままな方、私どもを不公平に扱うお方なのでしょうか。神様は、「わたしのものは全部お前のものだ」と言ってくださるほどに、すべてを献げ、私どもを救いの喜びに招いてくださるお方です。また、同じ第20章28節に、次のような言葉があります。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」人の子とは主イエスのことです。私どもをねたみの罪から救うために、神は主イエスをこの世界に遣わしてくださいました。主イエスはここで、父なる神の気前のよさをお語りになりながら、最後に何をしてくださったのか。人の子であるわたしをとおして、神は何をしてくださるのかを明らかにしてくださいました。それがキリストの十字架です。私どもがどれだけ一所懸命働いてたくさんの賃金を得たとしても、決して手にすることができない救いを、主イエスは私どもの代わりに手に入れてくださり、分け与えてくださいました。主人が労働者に与えた1デナリオンは、神様が私どもに与えてくださる「救い」を意味します。しかし、救いの値段は、もちろんお金で買うことも測ることもできません。何によって、得ることができるのでしょうか。キリストが十字架でいのちを献げることによってです。身代金としてキリストのいのちが十字架の上で献げられたのです。主の十字架によって、私どもは罪の奴隷から解放され、自由な者とされたのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」とおっしゃった神は、気前のよい神であり、私どもの救いのために惜しみなくいのちを与えてくださる神なのです。

 主イエスがお語りになった譬え話を聞きながら、いった自分はどこにいるのだろう。どの登場人物に当てはまるのだろうか。そのように、聖書の中に自分を見出すことはとても大切です。ここでは、ぶどう園で働く労働者以外に見出しようがないでしょう。では、どの労働者でしょうか。早朝から働いていた労働者でしょうか。それとも、夕方から少しだけ働いた労働者でしょう。私どもの心にもねたみの思いがどこかにありますから、早朝から働いた人に自分を当てはめる人も多いことでしょう。昔から、教会では、朝から働いていた人たちを、律法学者やファリサイ派、あるいは、ユダヤ人と理解しました。真面目に信仰生活に励んでいたにもかかわらず、神の御心を見失い、主イエスに対しても敵対していた人たちです。一方夕方から働き始めた人たちを、徴税人や娼婦、罪人、あるいは、異邦人と理解しました。そして、後者の罪人と呼ばれる者たちが、救われ、16節にあるように、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということが起こっているのだというのです。確かに、そのとおりでしょう。そしてそうだとしたら、私どもまた、夕方から働き始めた労働者でもあるということです。私どももまた、神の憐れみなしに救われることがない罪人であるからです。

 そもそもなぜ、ぶどう園の主人は、1日1回でいいところを、5回も広場に行って、労働者を雇おうとしたのでしょうか。一人でもたくさんの労働者を雇い、多くの収穫を手にし、自分一人だけ豊かになりたかったのでしょうか。そんなことはないのです。聖書を見ると、3節に「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいた」とあります。6節、7節にはこうあります。「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。」つまり、朝以降の時間に広場に立っている人というのは、誰にも雇われなかった人です。雇われないということは、仕事にありつけず、賃金を得ることができないということです。そうしますと、自分を含め、家族を養うこともできなくなります。誰も雇ってくれないというのは、彼らにとって、まさに死活問題でした。ですから、夕方の5時になるまで広場に立っていた人というのは、もう本当に望みを失っていた人だということです。日が暮れようとするこの時間帯にいったい誰が、私を見つけ、私に声を掛けてくれるというのか。そんなことを期待しても無駄だと思っていたことでしょう。しかし、そこにぶどう園の主人が現れ、自分を雇ってくれるというのです。「わたしはこの最後の者にも支払ってやりたいのだ」と願っておられるのです。しかも、今日はあと少ししか働けないのに、1デナリオンも与えてくれるというのです。夕方まで広場にいた最後の労働者は本当に嬉しかったと思います。心らか主人に感謝したに違いありません。

 何度も広場に行き、労働者を探し、私ども人間が生きるために最も必要なもの、つまり救いを与えてくださるお方、その方こそが神様であり、主イエス・キリストです。神様は、一度だけではなく、何度も行って、私どもを探そうしておられます。それは無計画だからではありません。神様の救いの計画がここにはっきりとあるからです。人を救うことに熱心だからこそ、何度も行って、生きる喜びを失っている者、ねたみによって、神と人を澄んだ目で見ることができない者を探してくださるのです。誰もが「後にいる者」なのです。救いとはそのようにただ神様の憐れみによるものです。救われることにおいて、時間的な順番はあるかもしれませんが、与えられる救いの祝福において先も後もありません。

 最後に使徒パウロの言葉を紹介して終わります。パウロはこれまでの自分の歩みを振り返りながら、このように語ります。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一15:9~10)パウロは元々ユダヤ教のエリートでした。かつて、自分こそが誰よりも大きな人間、救いに近い人間だと信じて疑いませんでした。しかし、キリストにお会いし、キリストの救いにあずかった時、自分は誰よりも小さい存在であり、福音を宣べ伝える使徒としての値打ちなどないということに気付かされます。そんな自分がなぜ救われたのかを考えた時、自分のどこを探しても答えは見つかりません。今日の自分があるのは、ただキリストの恵みによるとしか言いようがないのです。キリストが何度も私のことを探すために来てくださったとしか言いようがないのです。そして今、キリストによって、神の前に立つことができる者とさせていただいたこと。これに勝る喜びありません。その時に、自分の評価も他人の評価も大きな問題ではなくなります。神に救っていただいた人間として、澄んだ目をもって神様を見つめていきます。そこに、自分と隣人を正しく見つめるまなざしが与えられていくのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたの前に立つ時、自分と周りを比べる余裕なのないほどに、自分が小さな存在であることを思います。しかし、そうであるがゆえに、あなたが救いの御手を真っ先に差し伸べてくださいました。神様の気前のよさによって私どもは救われました。それゆえに、自分を誇るのでもなく、あなたが与えてくださった澄んだ目で、神を見つめ、隣人を見つめていくことができますように。

主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。