2021年10月17日「教会で知るすばらしいこと」

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聖書の言葉

7しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 8そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。9「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。10この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。14こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、15むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。エフェソの信徒への手紙 4章7節~16節

メッセージ

 本日、いつもどおりに主の日の礼拝をささげていますが、同時に今日は「教会修養会」という位置付けの中で礼拝をささげています。修養会全体の主題は、「これからの千里山教会〜新会堂が与えられた今、共に考え、歩み出そう〜」です。おそらく全体のプログラムの長さからして、「懇談会」としてもよかったかもしれません。1泊2日で行うわけでもありませんし、教会とは違うどこか静かな場所で行うというのでもありません。コロナ禍を考慮してということもあると思いますが、しかし、それでも「修養会」という名称にしたのは意味があると思います。どこかで何泊かしたからと言って、それで修養会になるわけではないからです。教会生活をするようになると、よく「修養会」という言葉を耳にします。他のところではあまり聞くことのない言葉です。古い言葉だと思われているのかもしれません。そういうこともあって、子どもや若い人たちを対象とした修養会は名称を変えて、「キャンプ」であるとか、「リトリート」と呼ぶようになりました。ただ、「修養会」という名称にもちゃんと意味があります。漢字の話になりますけれども、「修養会」の「養」という字は、「養う」という意味です。「修」というのは、学問を「修める」ということです。でも、単なる「研修会」を教会員で一緒にしましょうというのではありません。学ぶことによって、知識を得ることができます。真理とは何かを知ることができます。大事なのは、それによって、人格を形成することができるのです。教会の場合は、教会形成ということです。

 もう少し、「修養会」ということについて話しますと、「修」という字は、後ろから水をかけて清めてもらうという宗教的な意味を持つ漢字です。水をかけて清めるということです。しかも自分で自分に水をかける禊(みそぎ)のようなものではありません。後ろから誰かに水をかけてもらうのです。修養会に参加する者同士、水をかけ合うのです。そこに生まれる交わりを楽しむのです。修養会の交わりの中で言葉が交わされ、祈りを共にします。多くの祈祷課題がありますが、今回のテーマにあるように、「これからの千里山教会」のために祈り、私どもの働きが、主にあって祝福され実りあるものとされるように祈り求めていきます。そして、忘れてはいけないのは、キリスト者にとって、私どもの存在を清めてくださるのは神様であるということです。御自身の教会を清いものとしてくださるのも神様です。神様の言葉が私たち一人一人を、そして教会を清い者へと造り変えてくださるのです。そして、神様と教会の御用のために約立つ者としてくださるのです。私たちはそのことを祈り求めつつ、礼拝をささげ、修養会の時を過ごします。

 新会堂が与えられてから、約1年9ヶ月ほどになりますが、最初にこの会堂で礼拝をささげたのは、昨年の1月26日でした。その日の午後から定期会員総会が行われました。「教会に生きる喜び」と題して、先程、共に聞きました同じエフェソの信徒への手紙第1章15節以下から説教を語りました。昨年の年間聖句が第1章23節の御言葉です。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」その時、難しい話をしたつもりはありません。要するに、教会というのは素晴らしい場所だということです。教会とは何なのでしょうか?皆様にとって教会とはどのようなところなのでしょうか?それは、この世のどこにもない素晴らしい場所だということです。どうしてそう言えるのでしょう。それは、すべてにおいてすべてを満たしておられる主イエスがおられる場所だからです。本日の第4章でも、10節で「(キリストが)すべてのものを満たすために」とか、13節で「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」と言っています。「満たされて生きる」ということは、人間にとってとても大切なことです。しかし、問題は何によって満たされるのかということです。それはイエス・キリストによって満たされるということです。キリスト以外の他のもので満たされることを求め、事実、それで満たされたと言って満足できたとしても、それは自己満足で終わっているということもあるでしょう。あるいは、生きている時や元気な時だけではなく、いざという時に、死を前にした時に、いや死んだ時にさえもなおそこで満たされたと言って、安心することができるかどうかということです。あるいはまた、イエス・キリストだけでは足りないから、他のもので補って満たさなければ、私の人生は本当に幸せにはならないというのでもないのです。キリストはすべてにおいてすべてを満たしておられる方だからです。キリストによってでしか満たされないものがあり、それによって、どんな時も私は満たされたと言うことができるのです。

 ところで、「教会は素晴らしい場所だ」というのですけれども、もう少し、整った言葉で教会について言い表すこともできるかもしれません。それに「教会は素晴らしい」と言うけれども、色々と教会には問題もある。そもそも、罪人の集まりなのだからと思っておられる方もいるかもしれません。イエス・キリストは信じているけれども、教会は信じることができないと言う方もおられるかもしれません。それらの問題を地上の教会が抱えていることも事実です。それらの問題を見て見ぬ振りをしなさいと言っているわけではありません。あるいは、理想と現実、建前と本音を使い分けながら、教会形成をしようというのでもないのです。地上の教会に生きる時、私どもはそこで互いに重荷を担い合います。大きな問題に直面し、自らの罪を嘆き、自分の弱さに涙することもあるでしょう。しかし、教会から離れたくなるような弱さを覚える中で、もう一度、神様の愛と赦しの恵みを知り、心から「教会は素晴らしいところだ」と告白することができればどれほど幸いなことでしょうか。求められているのは、「使徒信条」にもありますように、「教会を信じる」ということではないでしょうか。主イエスが、教会は「わたしの教会」であり、「わたしの体」であるとおっしゃってくださるのです。そのために、父なる神様は、御子を遣わしてくださり、主イエスは御自分のいのちを十字架でささげてまでして、私どもを御自分のものとしてくださいました。そればかりでなく聖霊が宿る宮として、つまり、神がここにおられるということをここで明らかにしてくださるために、教会を与えてくださいました。そのキリストの体である教会を信じますか、愛していますか、ということです。そこに私どもの信仰が問われるのです。

 本日もエフェソの信徒への手紙第4章を読みました。使徒パウロが晩年に書いた手紙と言われています。そのパウロが「教会とは何か」ということについて、最後に心を込めて記した手紙と言っていいでしょう。お読みした第4章から新しいテーマが始まります。それは、キリストによって救われた私どもが具体的にどのように生きていけばいいのか。そのキリスト者の生活について語り始めるのです。お読みしませんでしたが、第4章1節にこうあります。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み(なさい)」。キリストに招かれたというのは、キリストに救われたといことです。キリストが私のことを呼んでくださった。声を掛けてくださった。その主の御声に導かれるようにして、救いの恵みにあずかることができました。そして、救われてからも、いつも主イエスは私どもを招かれます。「わたしについて来なさい」「わたしに従いなさい」「神に招かれた者として相応しく歩みなさい」。

 では、神に招かれた者として相応しく歩むとはどういうことでしょうか。キリスト者の生活とはどのようなものなのでしょうか。これも一つに絞ることが難しいかもしれません。同じキリスト者であっても、同じ主イエスから遣わされて生きていても、生活のスタイルは人それぞれです。家庭での生活、学校での生活、仕事の内容も皆違っています。また、時間や曜日によって、生活のスタイルを切り替える人もいるでしょう。「これが私の生活」と言える一つのものを見出すのは難しいかもしれません。また、一日や一週間の中で、自分が一番時間や労力をかけて行なっていることが、自分にとって一番大切な生き方だと言えるかというと、必ずしもそうとは言えないところがあるのではないでしょうか。なぜこんなことに時間を費やし、余計な苦労を負わなければいけないのかと思うことが、私どもの生活の中にはあるからです。あるいは、信仰を与えられたからと言って、遣わされた場所での生活が、いつも楽しいことばかりかというと、決してそうではないと思います。信じても何も変わらないように見えることがあります。神を信じていても、信じていなくても同じように楽しいことがあり、同じように苦しいことがあります。

 改めて、神に招かれた者として相応しい歩みとはどういうものなのでしょうか。この手紙を書いたパウロにとって、その答えは明確でした。それは「教会生活」をするということです。そして先程も申しましたように、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。第4章においても、12節で「キリストの体」と言っています。4節では「体は一つ」と言っています。最後の16節でも「体全体」と言っています。パウロが書いた他の手紙においても、例えば、コリントの信徒への手紙一(12:27)やローマの信徒への手紙(12:5)の中でも教会というのは「キリストの体」であるということを語ります。「教会の頭」もまた、15節にあるようにキリストです。キリストが、教会を愛をもって支配していてくださいます。そして、キリストの体は一つだということです。神はただお一人しかおられないからです。それゆえに、3〜6節では、「一つ」とか「一致」とか「唯一」という言葉を繰り返します。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって…。」

 教会というのはよく考えてみますと、エフェソの教会だけではなく、千里山教会も世界中どこの教会においても、同じ人間が集まっているわけではありません。聖霊の働きによって、「イエスは主である」(コリント一12:3)という告白を共にしているものの、それぞれ違う人間です。違うからこそ、お互いを受け入れることができず、色んな問題や争いの原因になることもあります。何もキリスト教会に限らず、この世にある色んな集まりや組織においても言えることです。けれども神様は、教会に集う人たちは、お互いそれぞれ違っているということを否定的に見ているわけではないのです。「多様性」というふうに言えるかもしれませんが、聖書はこのことを「賜物」と言います。だから、7節でパウロはこう言います。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」

 賜物というのは、正確に言うと「キリストの賜物」「キリストが聖霊をとおして与えてくださる賜物」ということです。つまり、キリストが与えてくださったものだということです。だから、キリストの賜物は同時に、「恵み」であると言います。だから、賜物というのは自分の力でつかみ取ったのでも、自分が欲しいと願ったから与えられたものではありません。私どもが願うよりも先に、主イエスが与えてくださったものです。「キリストの賜物のはかりに従って」とありますが、これは「キリストのお考えによって」と言い換えてもいい言葉です。教会に生きている一人一人に対して、主イエスのお考えがあります。そのお考え、はかりによって、あなたにはこの賜物を、あなたにはこの賜物をというふうにそれぞれ与えてくださるのです。それぞれ違う賜物を用いて、それぞれ別のことをしなさい。自分がしたいことをしたいようにしなさいというのではないのです。一人一人違う賜物が与えられていますが、目的は一つです。12節にあるように、キリストの体である教会を造り上げるということです。私どもは、主に結ばれると同時に、共に生きる教会の仲間とも一つになり、教会を建て上げ、造り上げていくのです。だから、最後の16節でパウロはこのようにも言っています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」私どもはキリストの体のそれぞれの部分であり、節々なのです。教会に集う一人一人も、与えられた賜物も違いますが、それらがしっかり組み合わされ、結び合わされ、一つになるところで教会が形づくられていきます。

 教会を造り上げるためにキリストが与えてくださった賜物について、パウロは改めて言葉を重寝て語りまる。8〜10節でこう語ります。「そこで、/『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた』と言われています。『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」8節の鉤括弧で括られている言葉、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」という言葉は、詩編第68編19節の引用です。詩編第68編は神の勝利を歌う詩編です。パウロは詩編の言葉を主イエスに重ね合わせながら読んでいます。「昇られた」というのは、十字架で死に、復活された主イエスが天に昇られたということです。その時に、捕らわれ人であった私どもを天の住処に連れて行ってくださったというのです。フィリピに宛てた手紙の中で、「私たちの国籍は天にあります」(フィリピ3:20)というふうにもパウロは言っています。そして、パウロが詩編の言葉を聞きながら、特に心に留まったことは、「昇った」と言うからには、主が天から地上に「降って」来られたお方でもあるということです。何のために降って来られたのでしょうか。神のもとから失われた罪人を探して救うためにとか、十字架にかかるためにとか色んな言い方ができますが、ここではそれらのことを踏まえたうえで、教会に生きる者たちに賜物を与えるために降って来られたのだというのです。そのために、まず教会を造る準備をしてくださったのです。地上に降り、私どもを救い、教会の土台、礎を築いてくださいました。そして、賜物を与えてくださったのです。そういう意味で私どもは、天において居場所があるだけではく、地においても、「教会」という居場所が与えられているということです。そして、天に昇られた主イエスは、地上の教会に賜物を与えてくださったのです。そのことを10節では、「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られた」と言っています。

 主イエスが与えてくださる賜物は、それぞれ違います。ですから、11〜12節にありますように、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき…」とあるとおりです。使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師というのは、どれも同じ働きのように見えるかもしれません。細かいことをお話する時間はありませんが、この時既に、パウロもそうでしたけれども「巡回伝道者」と言って色んな教会を回って奉仕する人と、私のように一つの場所に「定住」して奉仕する者とに働きが分けられていたようです。ただ大事なのはここに出てくるどの人も、御言葉を語る働きに召されているという点においては皆同じです。教会の中核にあるのは神の言葉です。御言葉が語られ、それが神の言葉として聞かれなければ、神様の愛の御支配を見ることはできないでしょう。神様が共におられることが分からず、教会がキリストの教会として立つこともできなくなります。また、キリストから与えられる賜物は、牧師や教師や伝道者だけに与えられるというのではありません。12節の「聖なる者たち」というのは、教会員全員のことです。「適した者とされる」というのは、整えるとか準備をするという意味です。キリストの体を造り上げるために、主から与えられて賜物を生かして奉仕をします。その奉仕がちゃんとできるように整え、必要を備えてくださいます。

 そのように、キリストが与えてくださった賜物を、それぞれが生かし、一つキリストの体なる教会を造り上げていく時に、そこに何が生まれるのでしょうか。13節にこうあります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」次の14節以降の御言葉においても言えることですが、ここで一つ鍵になる言葉は、「成長」という言葉です。13節では、「成熟した人」とも言われています。これは「完全な人」になるということです。最後の16節では、「キリストによって」教会が造り上げられるということが言われています。教会は、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長することを目指して歩んでいます。頭であるキリストに向かって、成長しているのです。しかし、目指すべきお方、目標とするべきお方が遥か遠くにおられるのではなく、聖霊によって、私どもと共にいてくださり、キリスト自らが御自分の教会のために今も働いていてくださいます。私どもはその主の業に仕えていくのです。

 では、教会が成長するというのはどういうことでしょうか。「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで」とか「頭であるキリストに向かって」と言うのですが、具体的にどうことなのでしょうか。また、私ども一人一人が成熟した人間になるというのはどういうことなのでしょうか。「教会の成長」と聞きますと、おそらく多くの方が、教会に人がたくさん来るようになる。伝道の実りとして、洗礼を受け救われる者が多く与えられ、最初10人にも満たない小さな教会が、何百人もの人が集う大きな教会になるということ。これこそが教会の成長だと考えるのです。なかなか受洗者が与えられない状況が続く中、どうしたらあれ程までに大きく成長ことができるのだろうか。その秘訣を誰もが知りたいのだと思います。私自身が一番問われることかもしれませんが、受洗者が与えられえないというのは、やはりどこかに足りない部分があると思いますし、悔い改めるべき点があると思います。これらのことを、神様の前に立ち帰って考える必要はいつもあると思います。

 けれども、一方で、小さな教会や無牧の教会は教会でないないのでしょうか。また、私たちの教派では、「教会」と呼ぶところと、「伝道所」と呼ぶところがあります。実際、三分の一くらいは伝道所です。では、伝道所は教会と呼ばれているところに比べて、教会制度や経済的にも十分整っていないから教会ではないのでしょうか。そんなふうに思っている人はいないと思います。それぞれの教会が抱えている問題をしっかり受け止めながら、いつも主の前に立ち帰り、成熟した人間になることができるように。教会として成長していけるように祈りつつ、前進しているのです。そして、パウロが語る「成熟した人間」になるということ。「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」ということ。また15節にあるように、「頭であるキリストに向かって成長」というのはどういうことでしょうか。もちろん、救われる者が多く与えられることを願っていたに違いありません。けれどもここでパウロは、そのようには言わないのです。成熟する、成長するとはどういうことでしょう。それは14節にありますように、誤った教えに「もてあそばれたり、引き回されたり」しないということです。キリストを知ること。しかも正しく知ることによって、私どもはこの世の教えや価値観に惑わされることなくしっかり立つことができます。また、15節にあるように、「愛に根ざして真理を語る」ということです。16節にあるように、「自ら愛によって造り上げられてゆく」ということです。愛を行い、真実を語ることができるようにというのです。だから、パウロはこのあと25節以下、愛に根ざした言葉がどのような言葉であるのか、その言葉の吟味までさせています。教会が真実の喜びに生きるようになるためには、愛をもって語る以外に道はないからです。

 キリストの体である教会を造り上げるために、教会員一人一人に賜物が与えられえています。キリストの体の部分であり、節々が補い合い、組み合わされ、結び合わされることが大切です。その体の部分である一人一人が尊ばれなければいけません。そのために必要なのが、「愛」ということです。「愛」ということに関連して、パウロは第4章2節で、「愛をもって互いに忍耐し」と言いました。これは「愛をもって互いに受け入れる」と訳してもよいでしょう。でもお互いのことを受け入れるのにも忍耐がいるということでしょう。しかし、忍耐というのは、我慢することではありません。我慢するというのは、本来褒め言葉ではなくて、自分に固執し過ぎて高慢になるということです。だから我慢しているということは、その人をまだ受け入れていないということなのです。しかし、忍耐するということは、その人を受け入れるということです。受け入れながら耐えるのですそれが愛だというのです。そこに教会が一つになる道があります。だから反対に、「未熟な者」というのは、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間ですが、同時に、その人はまことの愛を見失っているということでしょう。神をまだ深く知らないからです。そして、私どもは「もう救われているから、未熟な者ではない」と言いたいところですが、胸を張って「私は成熟した人間」「完全な人間」と言うことができない自分であることをも知っています。だから、神様のことを深く知り、愛に生きるために。そして、キリストの体に連なる私ども一人一人が一つになって、教会を造り上げるためには、どうしても祈らなければいけません。真実の祈りの家にならなければ、教会を共に建て上げていくことはできないのです。

 パウロもまた祈りをもってこの手紙を書きました。昨年、初めてこの会堂で礼拝をささげた時、朝においても、夕においてもパウロがエフェソの信徒への手紙の中にある祈りの言葉を聞きました。一つは、説教の最初のほうで申しました第1章15節以下から、もう一つは、第3章18〜19節にある祈りの言葉です。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」キリストの愛の豊かさを、自分の中にある物差しで測ることなどできません。しかし、人知を超える愛の豊かさの真ん中に立たせていただきながら、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるのか。その素晴らしさに圧倒されるような恵みの経験をここで共に重ねていきたいと願います。また、教会にしかない素晴らしさをぜひ多くの方々に知っていただきたいと願います。千里山教会の歩みが、キリストの愛によって、豊かに満たされますように。お祈りをいたします。

 教会の頭であられるイエス・キリストの父なる神様、私たち千里山教会の歩みを初めから今に至るまで守り導いてくださりありがとうございます。キリストの愛をもって、あなたのものとされた私どもが、その豊かな愛に生かされ、与えられた賜物を用いながら、キリストの体なる教会を共に建て上げていくことができますように。あなたの前に立つ時、自分の未熟さや貧しさを思いますが、同時に、測り知ることのできないキリストの愛の中にある自分であることを思い、感謝しつつ、神と教会のために喜んでお使えしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。