2021年09月26日「神の名を正しく呼んで生きる」

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神の名を正しく呼んで生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 月に一度の夕礼拝では、十戒に記されています神様の言葉を聞いています。本日は、その第三戒に当たる箇所です。7節にこのようにありました。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」問題とされている一つのことは、“みだりに”神様の名を唱えてはならないということです。「みだりに」という言葉は、「今日あまり聞かない言葉ではないか」とある説教者は指摘します。その先生は自分の子ども時代のことを思い出して、昔、バスに乗ると車内に「運転中、運転手にみだりに話し掛けないこと。」そのような注意書きが貼られていたのだそうです。用事のないのに、みだりに、つまり、必要もないのにむやみやたらに話し掛けますと、運転手も困る訳で、安全運転にも支障が出てしまうからです。私などはよく分かりませんが、昔は比較的「みだりに」という言葉はよく使われていたのだそうです。キリスト者であるなら、どの世代であっても、十戒をとおして「みだりに」という言葉を知っているかもしれませんが、私自身も普段十戒以外で使うことがありませんし、聞くこともほとんどない言葉の一つです。

 この「みだりに」という言葉ですが、先程のように、必要もないのに、むやみやたらにという意味を持っています。似たようなことですけれども、乱用する、不適切な、許可なしにといった意味もあります。色んな翻訳を読み比べていまして、特に興味深かったのは、「虚しいことのために」という訳です。私どもが神の名を呼ぶのには、何か理由があって呼んでいるに違いないのです。しかし、「虚しいことのために」というのは、理由も目的もなく、神の名を呼ぶということです。それは言い換えれば、自分のために、自分の利益のためだけに神を呼ぶということです。神をまるで自分の所有物、道具のようにしていることと、実は同じであるということです。しかし、人間としてこれほど虚しい生き方はありません。また、先月学びました第二戒において、「あなたはいかなる像も造ってはならない」という御言葉を聞きました。偶像礼拝を禁じる戒めですが、本来は「自分のために」という言葉が含まれているのです。「あなたは“自分のために”いかなる像も造ってはならない。」あなたは誰のために、何のために偶像を造るのか?あるいは、まことの神を偶像化してしまうのか。それは、結局自分のためなのだというのです。どれだけ金や銀や宝石で飾られた像であっても、中身は空っぽ。虚しいだけなのです。そして、神の名を呼ぶことにおいても、あなたがたは虚しい呼び方をしていないだろうか?結局、自分の利益のためだけに主の名を呼んでいないか?と問い掛けるのです。

 この第三戒の背景には、イスラエルの民が直面していた問題がよく反映されていると言われます。どういうことかと申しますと、イエスラエルの民は荒れ野を旅しながら、他の色んな民族に囲まれるようにして生きていました。エジプトにおいても、荒れ野の生活においても、歴史も文化も信仰も違う人々と共に生きていたわけですが、彼らはよく魔術や呪術や占いなどをとおして、神々を呼び出していたと言います。自分たちの都合のよい時に、自分たちの都合のよい仕方で、手軽に神々を呼び出していたのです。そのようにして、神々を自分の僕にして、自分たちの願い事に仕えさせていたのです。しかし、わたしの民であるあなたがたは、彼らの世に魔術や呪術のようなものでわたしを呼んではいけない。主の名をみだりに、虚しいことのために唱えてはいけないのだというのです。主イエスもまた山上の説教の終わりのほうで、このようなことをおっしゃったことがありました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」むやみやたらに、「主よ」と呼べばいいものではないのです。天の国に入ることができるのは、父なる神様の御心を行う者だけである。あなたは本当に御心を求めて、神の名を呼んでいるか?と鋭く問われるのです。

 みだりに神の名を呼んでしまうというのは、自分のことばかりしか考えていないからということですが、単純に考えますと、神様のことを心から畏れ、敬っていないから、みだりに神の名を呼んでしまうというのではないでしょうか。神を心から愛し、敬っているならば、神の名を乱用するということはないでありましょう。神様の前で自分勝手な振る舞いをすることもないでありましょう。

 ところで、この第三戒には、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」という言葉が付け加えられていました。これは「罰則規定」と呼ばれるものです。この戒めを守らない者には罰を与えるというものなのですが、誰も神様から罰を受けたい人などいないのです。そうかと言って、いつも正しく神の名を口にすることができているかどうかまったく自信がない。それで昔の人々はどうしたかと言うと、神の名を一切口にすることをやめてしまったというのです。それでついに、神様をどのように呼べばいいのか、その正しい発音の仕方まで忘れてしまったというのです。神の罰を受けたいなどとは思いませんが、しかし、神の名を呼ぶことなしに礼拝も信仰生活もちゃんと成り立つのでしょうか。そんなはずはありません。神の名を口にしなければ、祈ることも、賛美することもできません。また、あとで詳しく申しますけれども、神の名というのは、「神様の臨在」を表す言葉でもあります。ですから、神の名を呼ばない。あるいは、呼んだとしても、みだりに唱えるならば、私どもの礼拝も生活も、神様なしの虚しいものになってしまいます。

 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めは、言い換えると、「あなたの神、主の名を正しく呼びなさい」ということです。呼んではいけない、唱えていけないというのではないのです。神様は、「わたしの名を呼びなさい」と招いておられるのです。詩編第50編15節に次のような御言葉があります。「…わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」私どもが神の名を呼ぶこと、神に祈ることを待っておられるのです。その祈りに応えて、「わたしはあなたを救う」と約束していてくださいます。その時に大事なのは、神の名を正しく呼ぶということです。神様を信頼しているならば、私どもは神様のことを変に恐れたり、萎縮したりする必要はありません。大胆に神様を呼ぶことが許されているのです。そして、神の名を正しく呼ぶことによって、私どもは虚しい生き方ではなく、確かな生き方、まことのいのちに至る生き方に導かれていくのです。

 「神の名」ということですが、これは単に神様の「お名前」ということではなくて、神様というお方がどのようなお方であるのかを表しているということでもあります。そして、神様の存在・神様の臨在を表しているということです。以前も、十戒の説教の中で触れた箇所ですが、同じ出エジプト記第3章14節で、神様はモーセにこうおっしゃいました。「『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」というふうに、不思議な自己紹介をなさいました。もう少し詳しく申しますと、「わたしは生きて働く神、いつまでもあなたがたと共にあろうとする神である」。そのように言うことできます。あなたがたと共にいることができるために、わたしは生きて働くというのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。この一言に、神様の救いのお働きのすべてが込められているのです。旧約の時代だけに限らず、イエス・キリストをとおして、主なる神様が共にいることを明らかにしてくださったのです。そして、この十戒の中においても、「わたしは主、あなたの神」というふうに御自分のことを明らかにしてくださいます。しかも、ただ名前を明らかにするというのではなくて、御自分がどのような存在であるのか、それもあなたとの関わりの中で、わたしはどのような存在であるのかということです。神様は、いつもそのような仕方で御自分のことを私どもに明らかにしてくださいます。2節にもありますように、神様は、イスラエルの民であるあなたがたをエジプトの奴隷から救い出した神であるということです。だからこそ、わたしの言葉に聞き従うように。ここにあなたの祝福があるのだからと告げてくださるのです。

 そして、十戒の場面が終わりまして、そのすぐ後の23節、24節で、改めて主なる神様はこのようにおっしゃるのです。「あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」神様は正しい礼拝のあり方について、もう一度、教えてられるのです。そこで特に注目すべきは24節の後半です。「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」礼拝というのは、神の名を呼ぶことです。どうして、神の名を呼ぶことが礼拝であると言えるのでしょうか。それは、神の名を呼ぶところにおいて、神が臨在してくださり、礼拝する者を祝福してくださるからです。

 また、列王記上第8章29節にも次のような御言葉があります。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」この箇所は、イスラエルの王ソロモンが神殿奉献の際にささげた祈りの言葉が記されています。新会堂の献堂式においてもこの箇所から共に御言葉を聞きました。神様というお方はたとえ立派な神殿であろうとも、その中に閉じ込めておけるような小さな神ではありません。地上を超えて、天におられるお方、自由であるお方です。しかし、その神がエルサレムの神殿に、「わたしの名をとどめる」と約束してくださいました。神様が御自分の名を神殿に、そして、私たちの教会においても、その名をとどめてくださいます。ここに神が共にいてくださいます。だから神様との真実の出会いが与えられ、礼拝が真実な礼拝として成り立つのです。

 そして、礼拝を真実の礼拝たらしめるのは、神様が生きて今もここにおられるということですが、そのことが救いの歴史の中で、このことが一番明らかになったのは、イエス・キリストがこの世界に来てくださったことです。主イエスが十字架でいのちをささげてまでして、私どもにしてくださったこと。それは、神の名であり、天の父がどのようなお方であるかを明らかにしてくださるためでもありました。神の御名が正しくあがめられるところに、神の栄光があらわされ、そこに私どもの救いがあるのです。

 「祈る時にはこう言いなさい」と言って教えてくださった「主の祈り」においても、「天の父よ」と神の名を呼び、御名があがめられることを祈ります。その後も、神の御心を求め、神の御国が来ることを祈るのです。いずれも神様のための祈りであり、私たち人間のための祈りではありません。祈りというのは、自分のことであれ、他人のことであれ、とにかく自分の願いを神様に伝えることが祈りなのだ。そのように思い込んでしまっているところがあるかもしれません。けれども、主イエスが教えてくださった「主の祈り」はまったく違うのです。もちろん、日用の糧や罪の赦しといった毎日の生活の中で必要な具体的なものを求める祈りも含まれているのですけれども、それらのことに先立って祈り求めるべきことは、神の御名があがめられるということです。このことを抜きにして、いくら自分は満たされている。必要なものはたくさん持っていると言ってみても、虚しいだけなのです。

 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」この戒めを守り、神を正しく呼ぶところに、私どもの祝福があります。使徒パウロはこう言いました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)キリストによって罪赦され、救われているということは、「神の子」とされたということでもあります。また、救われるというのは、聖霊を与えられることです。この御霊の働きによって、私どもは心から信頼をもって、「アッバ、父よ」と大胆に呼ぶことができるようにされています。このことが救われている者の喜びです。天の父がどのようなお方であるかを主イエスから教えていただいた私どもは、もう恐怖を覚えながら、神を呼はなくてもよくなりました。感謝と信頼をもって神を呼び、神を礼拝することができます。

 神の子とされた私どもは、神の名によって新しく生きるものとされていきます。神の名に相応しい生き方をするようになるのです。私どもはイエス・キリストの御名が刻まれた存在であり、教会もまたキリストの名によって集められた共同体です。こうして、主の日に教会に集って、礼拝をささげていることも、キリスト者にとっては普通のことかもしれませんが、他の人からすれば驚くようなことかもしれません。せっかくの休みなのに、自分のために自分の好きなように日曜日を過ごしたらいいではないか、と言われるかもしれません。でも、神の名によって生きる私どもは、まず、週の初めの日曜日に神様に礼拝をささげることから始めます。神様のために、まず自分の生活も時間もささげて仕えることから始めていきます。これが私どもキリスト者の生活のリズムであるからです。

 また神様は、キリスト者だけでなく、すべての人間が神の名を正しく呼び、神の御名をあがめて生きることができるようにと、神様は願っておられます。私どもが、神の名を正しく呼び、礼拝をささげているのは、今教会に集っている私たち自身のためでもありますが、同時に、まだ神様の名を呼んだことがない者が救いへと導かれるためのものでもあります。自分の利益や都合のためだけに神を呼ぶのではなくて、神の御名があがめられるところで初めて見えてくる祝福によってこの世界が包まれるために、私どもは、神の名を正しく呼び続けるのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、御名をあがめ賛美いたします。私どもがあなたを呼ぶよりも先に、あなたは私どものことを呼んでくださり、いつも御許に招いてくださいます。神様が与えてくださる救いの恵みを益々深く知ることができ、心から喜んで神様の名を呼ぶことができますように。そして、いつも主と共にある幸いを覚えることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。