2021年09月26日「祝福から祝福へ」

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聖書の言葉

1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。7だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。12律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~14節

メッセージ

 先程、讃美歌142番を共に歌いました。私が好きな賛美歌の一つでもありますし、御言葉と共に十字架の主を思い起こす度に、必ずと言っていいほど歌いたくなる賛美歌でもあります。「さかえの主イエスの 十字架をあおげば」と歌い始めます。「あおぐ」と訳されています言葉は、元の英語で”survey”(サーヴェイ)という言葉です。「見渡す」「測量する」「調査する」と訳すこともできますが、ある牧師は探照灯(サーチライト)の話をしながらこの賛美歌について説明をします。真っ暗な闇に光が当てられます。恵みの原点はどこにあるのか。いのちの原点はどこにあるのかを突き止めるためです。その光は真っ直ぐに十字架にかけられたキリストに向けられているのです。十字架についてあれこれ議論したり、学ぶことも大事かもしれませんが、それに留まらず、キリストの十字架をじっくりと観察するように見入ることが大切なのです。

 ガラテヤの教会に宛てて手紙を記した使徒パウロは、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言いました。それは芸術家・美術家たちがこぞって、十字架につけられたキリストを描いたように、絵を描いたり、彫刻を造ったりというのではありません。また、十字架刑というのは、手に釘を打ち込まれ、腹を脇腹で刺され、そのまま何時間も何日も放置されなければいけませんでした。その痛々しく悲惨を十字架の上で経験された主イエスについて語り、同情の涙を誘ったわけでもないのです。パウロがしたこと、それは御言葉の説教をとおして、十字架の主イエスを人々の前にはっきりと示したということです。それも「福音」として、「喜びの知らせ」として人々に語り伝えました。そして、ガラテヤの人たちは喜んでキリストの福音を受け入れ、救いの恵みにあずかることができたのです。

 私どももまた、光が当てられた十字架の主イエスをじっくりと見つめ、そこに見えてくる真理に捕らえられ、引き込まれるようにして、救いへと導かれました。そして、主の十字架は、私どもの生活の中で絶えず見つめ続けるものです。礼拝堂に十字架があるなしに関わらず、礼拝において私どもは十字架の言葉を聞き続けます。そして、教会は十字架の福音を掲げ、まだ教会に来たことのない方、神様をまだ知らない方が、十字架の主イエスをとおして救いと祝福の中に招き入れられることを願って、神様と教会に仕えていきます。

 今朝、共に聞いていますガラテヤの信徒への手紙ですが、この手紙を書いたパウロは声を荒げるようにして、あるいは、心の底から嘆くようにして語ります。パウロが書いた手紙は新約聖書の中にいくつも収められていますが、このガラテヤの信徒への手紙は、パウロが最も感情を激しく表している手紙であると言えます。手紙の最初からパウロはこう言います。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)「あきれ果てている」と言ったパウロは、第3章において、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と言っています。心から嘆くように、また怒りを込めるようにして、「あなたがたは、物分かりの悪い」とはっきり語ります。「物分かりの悪い」というのは、「愚かな」とか「分別のない」ということですが、ある人は「あなたたちは馬鹿だ」と訳しています。私どもも冗談半分で、あるいは、相手が少しおっちょこちょいなことをした時に、「何、馬鹿なことをしているの!」とつい口にしてしまうことがあります。ただ、馬鹿と言いながらも、本気で怒っている訳でもありませんし、本気で相手を蔑んでいるわけでもないでしょう。また、相手との関係が良好だからこそ、「馬鹿だ」「愚かだ」と言えるところもあるかもしれません。パウロもガラテヤの教会の人たちを愛していますし、いつも「物分かりが悪い人たち」と呼んでいるわけではありません。普段は、「兄弟たち」と言って、愛をもって呼び掛けています。しかし、ここでの「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」というのは、愛を込めつつ、しかし、真剣に嘆き、真剣に腹を立てて怒りをあらわにしている言葉です。「何、馬鹿なことをしているの」という軽い話ではないのです。なぜなら、物分かりが悪いということが、ガラテヤの教会の人たちにとって致命的な問題であるからです。生きるか死ぬかを左右するほどのものであるからです。

 では、なぜガラテヤの教会の人たちは物分かりが悪くなってしまったのでしょうか。何が彼らを愚かにしたのでしょうか。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と言っています。何者かに惑わされたことによって、物分かりが悪くなってしまったのです。パウロは誰がガラテヤの人たちを惑わしたのかを既に知っていました。それは、ユダヤ主義的キリスト者と呼ばれる人たちです。この後の2節、3節で「律法を行う」とか「肉によって仕上げる」という言葉があります。このこととも関係するのですが、彼らはキリストの福音、十字架による救いを受け入れてはいるものの、同時にキリストの十字架だけでは足りない、十字架だけでは完全な救いに至ることができないと考えました。救いが完全なものとなるためには、神の掟である律法をしっかり守って生きなければいけない。なかでも、自分たちユダヤ人が昔から大切にしてきた「割礼」を受けなければ救われないのだと考えました。割礼というのは、男性の性器の包皮を切り取ることを言いますが、イスラエルの民にとって、割礼を受けているということが、神の民であることのしるし、救いの恵みをあずかっていることの確かなしるしとされていました。そのように、割礼をたいへん重んじるユダヤ主義的キリスト者たちが、ガラテヤの教会にやって来たのです。そして、「キリストの十字架だけでは救われない。律法を行わなければ救われることはない」という教えを説いたのです。そして、ガラテヤの人たちは彼らの教えに惑わされてしまったのです。だからパウロは、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と深く嘆いたのです。

 「惑わされる」というのは、惑わされるだけの不思議な魅力というものがあったからでしょう。この言葉は、元々魔術のような不思議な力によって、目や心が本来見るべきところから反れてしまうということを意味しました。ガラテヤの教会の人々がしっかり見つめなければいけないもの、それはキリストの十字架です。彼らは主の十字架を信じていました。けれども、だんだんとぼやけてきたのです。十字架を完全に否定するつもりはありませんでしたが、しかし、十字架だけで本当に救われるのだろうかと不安に思うようになってしまったのです。律法を完全に守ることも、割礼を受けることも、要するに自分の中に救いの根拠を少しでも見出したいということでしょう。

 聖書が語ることは、神様は私どもを罪から救うために、すべての手続きを御自分でしてくださったということです。神様がイエス・キリストを遣わしてくださり、主は十字架で私たちの罪を背負って死んでくださったのです。だから、あなたはもう赦されている。イエス・キリストを救い主と信じれば、あなたは救われると語ります。そして、信じることができるように、神の霊である「聖霊」をも与えてくださったのです。救われようがない罪人のために、神様は何から何まですべて御自分の働きによって救いを与えてくださいました。御子イエス・キリストのいのちを犠牲にしてまでも、私どもを救うことを御心としてくださいました。ガラテヤの人たちも、私どもも感謝して、神様が私どものためにしてくださった素晴らしい御業を受け取るだけなのです。パウロは別の言葉で「福音を聞いて信じた」という言葉を繰り返します。神様の言葉、キリストの福音を聞いただけなのです。そして、信じただけなのです。そのことによって救われたのです。

 しかし一方で、救われるために本当に自分は何もしなくていいのだろうか。聞くだけでいいのだろうか。信じるだけでいいのだろうか。そのことに不安を覚える人が出てきたのです。何かを自分でしたほうがいいのではないか。何かこれといったはっきりしたしるしがあったほうが安心できるという人は案外多いのではないでしょう。でも、信仰に生きるというのは、自分の確かさを頼りにすることではありません。たとえそれが、わずかなものであったとしても、自分の中にあるもの、自分が持っているものに拠り所を置くならば、本当に神を信じているとは言えないのです。ある人は、「信じる」ことと「信頼する」ことは違うのではないかと言います。信仰があるなしに関わらず、人は誰かを信頼して生きていると思うのですが、その場合の「信頼する」というのは、「信頼に値する何か」を見つめているだけではないかというのです。「その人自身」を見つめて、信頼するというよりも、その人が持っている「物」を見て、「あぁ、この人は信頼できる」と思うわけです。能力があるとか、お金を持っているというふうに、何かの条件をつけて、その人を見、信頼できるかどうかを判断しているのです。

 しかし、「信じて生きる」というのは、先程のような信頼するということとはまったく違うのです。たとえ、信頼するに値するような物を持っていなかったとしても、信じるということです。また、信じるということは、「これこそが真理だ」と言って、確信することも大事なのには違いないのですが、よく考えますと不安な面もたくさんあると思います。まだ、目に見えない部分がたくさんあるからです。まだ、実現していないことがたくさんあるからです。神様を信じること、イエス・キリストを救い主と信じることも、これと重なる部分があります。決して、信じるに値しないけれども、それでも神様を信じるということではありません。けれども、「ここに救いがある」と言って、神様が光を当ててくださった十字架のイエス・キリストのお姿は、普通に考えれば、到底「救い主」として受け入れがたいものです。

 パウロ自身も、キリスト者になる前は熱心なユダヤ教徒でありまして、キリスト者を迫害することこそ神に喜ばれる生き方だと信じていました。何を隠そうパウロがキリスト者を迫害していたその理由は、十字架につけられて死んだイエスを救い主だと信じ、宣べ伝えていることでした。十字架のどこに自分たちを救う力があるというのか。そこには、弱さや惨めさしか見えてこないのではないか。いのちどころか、死と滅びしか見えないではないか。それなのに、なぜ十字架につけられたイエスが、私たちを救うことができると言い張っているのか。パウロにはまったく理解できませんでした。十字架のキリストを信じることは、まさに愚かさの極みだと思っていたことでしょう。割礼を受け、非の打ち所がないほどに律法を完全に守って生きることのほうが、どれだけ自分を安心させることができるだろうかと、パウロは真剣に思っていました。

 でも、そんなパウロが復活の主イエスと真実にお会いした時に、十字架に対する価値観がまったく変わりました。生き方も180度変わったのです。そして、キリストを迫害する者からキリストの福音を宣べ伝える者に変えられたのです。十字架のキリストを宣べ伝えることは、「愚かな手段」であるとパウロは言っています(Ⅰコリント1:21)。パウロ自身もそうだったように、人間からすれば十字架のどこにも救いは見えないからです。だから、「十字架のキリストこそ、私の救い主である」と信仰を言い表すことができるのは、まさに神の業、神の霊の業によるとしか言いようがないのです。だから、4節でこう言います。「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」キリストの十字架によって、罪赦され、救われる者となるということ。聖霊を与えられ、信じる者とされること。それは、「あれほどの体験」と呼び得るものなのです。パウロの回心の出来事も、彼の人生もまさに劇的と言えるような激しいものでしたが、このことは何もパウロ個人のことだけに限った話ではありません。

 私どもも十字架の主によって救われ、今キリスト者とされていることも同じように、「あれほどの体験」をしているのだということです。私どもの人生というのは、どれだけ豊かな体験、経験を積んだかということで測られるところがあるかもしれません。この世を生きる上で、キリストに救われているという一点だけで志望した学校に入れたり、希望した職に就けるわけではないでしょう。だから、信仰生活を真面目にするよりも勉強をしたり、資格をとったりというふうに、色んな能力を身に着けようとするのです。信仰生活においても、自分が十字架の主によって救われているということは、あまりにも当たり前過ぎて、それよりも色んな賜物が与えられること願ったり、主の召しに忠実に応えることができる力が与えられることを願ってしまうのです。そのように、「あれほどの体験」と言いながらも、どこかで別の体験や力に頼ろうとしてしまう自分がいることを思わされます。でも、事柄はまったく逆で、十字架の主によって救われた体験をしているからこそ、今の私があり、将来の私があるのです。たとえ、思いどおりにいかなくても、私はあれほどの体験をしている、私は祝福の中に置かれている。そのことを信じ、喜びと誇りをもって生き、なすべき働きに仕えることができます。

 また、パウロは同じガラテヤの信徒への手紙第2章19〜20節でこう言いました。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」パウロは言うのです。もう自分は死んだのだ。自分の力に頼ったり、自分の目に見える力だけを頼りにして生きようとしていた古い自分は死んだのだ。キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。そして、生きているのはもはや私ではない。私は私として生きることができているのは、キリストが私の内に生きておられるからだ。すべてはキリストのおかげだと言うのです。あなたがたも同じではないか。それなのに、あなたがたはなぜ十字架のキリストから目を反らすのか。なぜイエス・キリストを無視するのか。なぜキリストが自分の内に生きていることを迷惑がるのか。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

 そして、キリストの十字架こそ、私どもに与えられた神様からの福音であるということを「聞いて信じる」ということがどういうことか。パウロはそのことを旧約聖書に記されているアブラハムの物語をとおして語り直してみせるのです。パウロは御言葉の中に、つまり、神の御業の中に自分自身を正しく位置付けているのです。神様の言葉を信じて生きる生き方、たとえ、その生き方に不安が伴ったとしても、なお信じて生きる生き方というのは、パウロが自分勝手に考えたことではありません。主イエスが地上に来られる前の時代から、既に聖書が語っていることなのです。アブラハムのことについて、パウロは6節でこう言います。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。」「義と認められた」というのは、神様から正しい者とされる。神様との関係が正しい者とされるということです。つまり、神様の救いの中に入れられるということです。

 アブラハムが義とされたのは、彼が神様や周りの人から褒められるような立派な行いをしたからというのではなくて、ただ神が語られた約束の言葉を信じたということだけでした。神様はアブラハムに命じられました。先に朗読していただきましたけれども、創世記第12章にはこうありました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記12:1~2)アブラハムにとって、信じることができるのはただ神様の言葉だけでした。「わたしが示す地に行け」というだけで、具体的にどこに導かれるのかこの時はまったく分からないのです。住み慣れた場所を離れて、新しい場所に行くことはとても不安です。また、アブラハムは75歳という年齢になっていました。今更新しいことを始めるという年齢ではないかもしれません。そのように、アブラハムは神様からの呼びかけに対して、それを拒否するだけの理由をいくつも持っていました。人間の目からすれば、信頼できるようなものはないのです。しかし、それでもアブラハムは神様の約束の言葉を信じ、従ったのです。

 そして、信じて歩み出してからずいぶん月日が経ちました。しかし、神の約束はまだこの時点で何の進展もないのです。神様の祝福が、この先の子孫にまで及ぶようになるというのですけれども、その肝心な子孫、子どもがいまだに与えられません。アブラハムも妻のサラも年を重ねていましたから、もう人間的な望みというものは見えなくなっていたのです。だから、神様の約束の言葉を自分なりに勝手に解釈して、自分なりに納得しようとしたことがありました。

 そのように、不信仰の罪に陥ったこともあるアブラハムですが、神様は絶望するアブラハムを外に連れ出します。自分の中に閉じこもっていても、自分であれこれ考えてみても何も分からないからです。自分の外に出ないと分からないのです。神の言葉に耳を傾けないと分からないのです。だから、神様はアブラハムを外に連れ出し、夜空に輝く星を示しながらこうおっしゃるのです。創世記第15章5〜6節です。「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラハムが「神様の前に義とされた」とのは、彼が何かをしたということではなく、神の約束の言葉を「聞いて信じた」ということです。それによって、義とされ、祝福にあずかることがゆるされました。この神の祝福は、アブラハムと彼の子孫だけではなく、異邦人に、世界全体に及ぶものであることが既に約束されています。ガラテヤの人たちも、キリストのものとされている私どももまた、信仰によって義とされるという点において、アブラハムとまったく同じなのです。救いに値しない者が、ただ信仰によって、ただ聞いて信じることによって義とされたのです。それゆえ、私どももまたアブラハムの子孫なのです。

 律法の実行によって、私どもが救われることはありません。そもそも律法をすべて守ることができる者は誰一人としていないのです。そして、律法を守ることができないということは、「呪われている」ということでもあります。神に呪われたならば、救われる道はもうないのです。神に見捨てられるしか他ないのです。しかし、私どもがキリストの十字架によって救われているということはどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストが、私どもが受けるべき呪いを、十字架の上ですべて引き受けてくださったということです。13節の「木にかけられた者は皆呪われている」という言葉は、旧約聖書・申命記21章22〜23節からの引用です。昔、死刑に当たる罪をおかし処刑された者の死体は、木に吊るされ、神に呪われた者となりました。十字架刑に処せられることも同じことを意味したのです。私どもを贖うために、キリストは十字架について死んでくださいました。神の呪いをすべて引き受けてくださいました。この「贖う」というのは代価を支払うということです。キリストは御自分のいのちを代価として十字架の上で支払ってくださいました。罪の奴隷であった私どもを買い戻し、神様のもとへとお返しするためです。

 教会において、毎日の歩みにおいて、私どもはキリストの福音を聞き続けます。十字架の言葉を聞くのです。十字架の言葉を聞くということはどういうことでしょうか。それは、神の呪いが最もはっきりと見えるのが、キリストの十字架であるということです。そして、神に呪われたキリストの十字架を見つめながら、私どもがそこで知ることは、私どもにはもう祝福しか残っていないのだという確信です。私どもはまったく呪われていないところに立つことができるのです。この世界を見つめる時、あるいは、自分の人生を見つめる時、「あぁ、自分は何て呪われた人生なのだ」と落ち込んでしまうことがあります。もう自分たちの手には負えないほどに、呪いの力に取り憑かれているのではないかと思うことがあります。けれども、私どもはそこでキリストの十字架の前に立ち、十字架の主を真っ直ぐ見つめることのできるまなざしが、聖霊によって与えられています。どんなに深い絶望の中にあっても、必ずそこに立っている主の十字架、そこから響き渡る十字架の言葉によって、いのちの旅路を続けていくのです。そして、祝福をこの世界にもたらすために、私どもは主の十字架を掲げ、福音を語り伝えるのです。キリストの十字架が立つ世界こそ、まことに祝福に満ちた世界であるからです。お祈りをいたします。

 十字架の主を真っ直ぐに見ることができるように、御霊の助けをお与えください。自分を呪い、隣人とこの世界を呪い、そして、神様さえも呪いたくなるような深い闇に取り囲まれながらも、その悲惨をすべて御自身の身に引き受け、十字架で死んでくださった主イエスをしっかりと見つめることができますように。十字架によって救われた私どもの歩みが、どのような力にも負けることのない確かな祝福の中に置かれていることを信じ、祝福の旅路を教会の仲間と共に続けていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。