2021年07月25日「神を神として生きる」

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神を神として生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 先月から出エジプト記に記されている「十戒」について御言葉から学んでいます。昔から教会の中では、「使徒信条」「主の祈り」と並んで礼拝や信仰生活の中で大事にされてきた文書です。「三要文」とも呼ばれます。これらを丁寧に学び、身に付けることによって信仰の足腰を鍛えられ、健やかな歩みへと導かれていくのです。信仰生活というのは心の中だけで、色々考えながら生きていくことではありません。実際にこの世に遣わされ、隣人との関わりを持ちつつ、具体的に生きていくのです。それも神の民とされた者として生きていくのです。そして、キリスト者の悩みというのは、実にそういった具体的な生活の中で覚えるものだと思います。その時に、十戒の言葉が私たちの歩みを正し、そしてもう一度前へと押し出す大切な役目を担ってきました。

 十戒の言葉は、「〜してはならない」「〜しなさい」というふうに、言葉の表現としては少し厳しい感じを受けるかもしれませんが、キリスト者たちはそこに福音の響きを聞き取ってきました。決して、自分たちを縛り付ける言葉ではなく、自由へと解き放つ言葉として。あるいは、単に自分たちの罪を指摘する言葉ではなく、その罪からキリストによって救っていただいた者の感謝に満ちた生活の指針として、この十戒に生きてきたのです。そのことを理解するうえで、十戒の前文にあたる言葉がとても重要になってくると前回申しました。第20章2節に記されている言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神様はお一人なのですから、「わたしは主、あなたの神」と言って、わざわざ御自分の名を名乗る必要はありません。それにも関わらず、神様は御自分のことを私どもに紹介してくださいました。名前を持ちながら、「自分の名前なんかよりも肩書きが大事だ」と言って、自分の存在意義を見失っている者たちの神となってくださいます。そして、私どもにとってどのような神であられるのか。そのことを教えてくださるために、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とおっしゃってくださいました。神様との関係、その土台にあるのは、神様が私たちに何をしてくださったか。その神様の御業です。その御業の中心にあるのは、イスラエルの民をエジプトの国の奴隷から救い出してくださったことでした。神様は御自分のことを紹介なさる時に、あなたの存在なしにはわたしがわたしでいることはできない。わたしはあなたなしに生きていくことはできない。そうおっしゃってくださるのです。だから、罪の奴隷からキリストによって救い出してくださいました。罪の奴隷となっていた私どもをもう一度、御自分のためにするために、いのちを惜しまずすべてをささげてくださったのです。ここにキリストの十字架があります。御子のいのちを注いでまでして、私どもを御自分のものとしてくださいました。まさに、神様にとって宝そのものである私どもを決して見捨てるはずはないのです。それが、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という十戒の前文の意味です。

 このことを踏まえたうえで、本日の第一戒が始まります。第20章3節にあたる言葉です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」これは要するに、あなたが礼拝すべき神は、ただお一人の神を除いていないのだということです。この世界において、神様はただお一人だけであるということ。これはもちろんそのとおりです。しかし、第一戒は「神様はお一人しかいないのだから、その神様を礼拝しましょう!」ということを、単に教えようとしているのではないということです。第一戒を理解するうえでも、やはり2節の前文が重要な意味を持ちます。つまり、イスラエルの民であるあなたがたをエジプトの奴隷から救ってくださったのは、ただお一人の神しかおられない。だから、あなたがたを救ってくださったお一人の神を心から礼拝しよう!と呼びかけるのです。あなたがたを救い出してくださったお一人の神を礼拝することは当然なこと。他の神々を礼拝するなどあり得ない話だと言うのです。十戒の言葉を授かり、十戒の言葉に生きようとする民は、神様が私たちにとってどのようなお方であるかをよく知っているのです。神様というお方は、ただお一人であるとか、全知全能の神であるとか色んな言い方をすることができるのですけれども、やはり、ここではエジプトの国、奴隷の家から救い出してくださった神であるということです。その神様がシナイ山と呼ばれる山で、モーセに十戒を授けてくださいました。

 このことを、「神の契約」と言うことがあります。契約というのは、この世で交わされる契約書のことではありませんし、生活するうえでの規則がいくつも並べられているようなものでもないのです。もっと積極的な意味を持つものです。神様と向き合い、神様を礼拝するところで、はじめて神が与えてくださった契約の意味や、契約に生きる恵みがはっきりと見えてくるのです。私どもの神が契約の神でいてくださるというのは、たくさんの規則で私どもの生き方を窮屈にするのではなく、むしろ自由へと解き放ちます。神に造られた人間として、何をなすべきか、何を大切にすべきか。そのことを知り、信じて生きるならば、私どもの歩みは祝福されます。

 そして、第一戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という戒めはとても重要な意味を持ちます。一番最初の戒めということだけでなく、後の九個の戒めに生きるうえでも欠くことのできない戒め、すべての戒めを規定するような大事な戒めであるということです。

 さて、私どもが用いています新共同訳聖書では、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と訳されています。ただ、原文のヘブライ語を忠実に訳しますと、もう少し興味深い言葉になります。ずいぶん前の訳ですけれども、文語訳聖書と呼ばれるものは、「汝、わがかおの前に、われのほか何物をも神とすべからず。」と訳されています。また、ある人の訳では次のように言われています。「お前のためにあってはならない、ほかの神々が、私の面前に。」つまり、一つの大きな特徴は、「顔」であるか「面前」という言葉がちゃんと訳されているということです。「神の御顔の前に」「神の面前に」という言葉です。このことから「神の御前に生きる」という言葉が生まれました。ラテン語に言い換えると、「コーラム・デオ」という言葉になります。宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切に用いた言葉だと言われます。神の御前に生きるというのは、主の日の礼拝においてはもちろんのこと、普段の生活においても私どもは神の御前に生きる者とされている。そのことをとても大事にしたのです。

 そして、神の顔、神の面前とういうのは「神の目」「神のまなざし」と言い換えることもできます。いついかなる時も、私どもが神の前にあるというのは、神のまなざしの中に置かれているということでもあるということです。このことを私どもはどう思うでしょうか。それによって、私どもの生き方はずいぶん変わってくると思うのです。一つは、四六時中、神様に自分の生活が見られては困る。どこか落ち着かない。とても恐いというふうに思うことです。もう一つは、いつも私のことを愛してくださり、私を罪から救ってくださった神様が、どんな時も私を見捨てることなく、御自分のまなざしの内に置いてくださる。これほどの平安はない。そう言って生きる生き方です。もちろん私どもは平安のうちに生きたいと願います。神様のまなざしの中に置かれていることを、喜びとしたいと願います。神様の御前に私どもが生きるということは、ある緊張を呼び起こすのも事実です。いつも神様が見ておられるのですから、好き勝手なことはできません。誤魔化したり、何かを隠したりするようなこともできません。しかし、神様のことを心から愛しているならば、そのことを窮屈だとか、つまらないなどと言うことはないと思うのです。むしろ、神様の前にいつもあることを覚え、姿勢を正して生きていくことができます。愛する神様を前にして、何一つ隠すことなく、いいことも悪いこともすべてをさらけ出して生きていくことができます。そのようにして、感謝すべきことを感謝し、悔い改めるべきところを悔い改めることができます。私どもの神は救いの神であり、愛と赦しに満ちておられるお方です。そして、契約の神でいてくださいます。私どもが神の掟に十分に生きることができなくても、神が私どもを最後まで責任をもって支えてくださります。だから、私どもは神様の前にいつも立ち帰り、新しい歩みをすることができます。神様の前でやり直しがきく人生を歩むことができるのです。

 ですから、聖書が語る「罪」というのは、神様の御顔の前から逃げ出してしまうことです。神のまなざしが届かないような遠い所に行けば、自分は好きに生きることができる。幸せになれると勘違いしてしまうことです。聖書が語る神というのは、ただお一人の神であるということです。次の第二戒では偶像の神々の問題が出てきますが、神というお方はもともとお一人です。世界が造られる前から、何人も他の神々がおられたのではありません。それなのになぜあっちもこっちにも神々がいるというようなおかしなことが起こっているのでしょうか。それは、人間が神を造ったからです。今の私たちの神では不満だと言って、自分に都合のいい神を造ったのです。あるいは、「自分こそが神なのだ」と言って、すべてを自分中心に考えて生きるようになりました。神様であるとか、共に生きる人たちであるとか、そんなものはどうなろうが知ったことではない。自分の幸せのためには、残酷なことさえ平気で行うようになりました。

 創世記を読みますと、私ども人間が神にかたどって創造されたということが記されています。神にかたどって、神に似せてというのは、十戒の文脈で考えるならば、神の御前に生きる者として創造されたということです。そして、神様が顔を持っておられるというのは、神様が人格を持っておられるということです。私どもと共に生きること、私どもと交わりを持って生きることを喜びとされているということです。しかし、人はこの神様の願いを受け止めることができませんでした。アダムとエバは、「食べてはいけない」と言われていた木の実を取って食べてしましました。神のように賢くなれると蛇に唆されたからです。神様は罪を犯した二人を探されます。神様の足音が近付いてきます。恐ろしくなった二人は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたというのです。罪によって、神の御前に生きることができなくなりました。これまでは、神の愛に満ちたまなざしの中で生きることが喜びであったはずなのに、罪によって神に見つめられることが恐怖でしかなくなりました。これが神と共に生きられなくなった人間の悲惨です。しかし、神様は二人を探されるのです。「どこにいるのか?」と言って、もう一度、共に生きることを願っていてくださるのです。

 繰り返しになりますが、十戒には、聞いてすぐ分かるとおり「〜してはならない」という言葉がほとんどです。この戒めを与えてくださった神様が私どもに取ってどのような神様なのか?そのことをちゃんと知り、信じることができれば、決して堅苦しい戒めではないと申しました。しかし、そう言いながらも、もし十戒の戒めを聞きながら、神様が持っておられる厳しさというものを少しも感じることができないならば、それはそれでたいへん困ったことになってしまうと思うのです。「十戒の戒めは、厳しいことを言っているように聞こえるけれども、別に強制でも何でもない。別に守ることができなくても大した問題ではない。」そのように神様は悠長なことをおっしゃっておられるのではないということです。守っても守らなくてもどちらでもいいということではないのです。必ずこの戒めは守らなければいけないということです。この戒めに生きてもらわなければ困るのだということです。もし神様がどちらでもいいなどというふうに、人間の耳に聞こえがいい言葉を語るならば、誰も神の戒めなど守らないでしょう。それは、神様に甘えてだらしない生活をしてしまうということにとどまらず、神のみ顔を避け、神を蔑ろにする生き方へと必ず結び付いていきます。

 神様がいつも願っておられることを、あなたが人間らしい生き方をしてほしいということです。御心にかなった生き方をしてほしいということ。それだけだと思います。もちろん、与えられた賜物によって、生き方はそれぞれですけれども、神に造られ、神の御前に生きる人間として生きてほしい。神を神として礼拝する人生を送ってほしいということです。十戒の「〜しなければならない」というのは、愛に満ちた言葉であるとともに、厳しさを伴う言葉です。同時にこういうふうに訳したほうがいいと多くの人が指摘します。つまり、「〜しなければいけない」という言葉の本来の意味は、「〜したくてしょうがない」「〜しないはずがない」というということです。あなたはこういうふうに生きることになっている。あなたはそれを選ばずにはいられないのだ。あなたはわたしのほかに、他の神々を愛するはずなどない。そんなことはあり得ないというのです。それがあなたの自然な姿、あなたらしい生き方であるはずだろう、というのです。

 イエス・キリストが十字架でいのちをささげてまでも、私どもを罪から救い出してくださいました。だから、私どもは二度と罪の奴隷に戻ってはいけないのです。再び罪の虜となってしまうことが、あなたの人生をどれだけ狂わせてしまうのか。そのことがどれだけ神様を悲しませてしまうのか。神様はよく知っておられます。だから、あなたを罪から救い出したただお一人の神を神として生きるように、主はそう命じられるのです。

 そして、神を神とする生き方、その中心にあるのは神を礼拝するということです。神の民が一同に集まる主の日の礼拝において、私どもは神の御前に立ちます。神と向き合います。神のまなざしを一番近くに感じる時です。深い畏れの時であると同時に、福音の喜びに満ち溢れる時でもあります。礼拝の中で御言葉を聞きます。御言葉をとおして、私どもの神がどのような神であるのかをもう一度教えられます。一週の歩み、あるいは、これまでの信仰者としての歩みを、神様の前で思い起こしながら、悲しい気持ちになるかもしれません。しかし、そういう自分が今ここに招かれて、福音を聞くことがゆるされている恵みを知るのです。だから、ここからもう一度、神を神として生きる歩みを始めよう!神様から与えられた祝福を失ってしまうような生き方は絶対にしない。いや、そんな生き方ができるはずはない。私どもの生き方は、まことの神を神として生きる以外にないのだから。神を礼拝することこそ私たちの喜び、力の源!そのように告白しつつ、主に従う歩みを再び始めていくのです。お祈りをいたします。

 主の日、あなたの前に立つことがゆるされ感謝いたします。ここに私たち人間の本来の姿があり、喜びがあることを思い起こすことができますように。主の恵みを数えることができないと言って、他の神々をつくり出すようなことがありませんように。私たちの救いの神でいてくださるあなたの御顔の前に、まなざしの前に置かれていることに畏れと喜びを覚え、あなたの民としてふさわしい歩みを重ねていくことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。