2021年07月25日「まことの裁き、まことの赦し」

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まことの裁き、まことの赦し

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

音声ファイル

聖書の言葉

〔7:53人々はおのおの家へ帰って行った。8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

メッセージ

 先程、共に聞ききました聖書の箇所は、最初と終わりに括弧がついています。これにはちゃんと意味がありまして、昔の写本にはこの物語がすっぽり抜け落ちているものがほとんどだということです。資料によりますと、4世紀から5世紀頃になってやっとこの物語がヨハネ福音書に入れられたのではないかと考えられています。ただその後も、カトリック教会などではずいぶんと議論があったようです。これはヨハネではなく、ルカによる福音書に元々含まれていたのだという説もありますが、そのようなことよりも問題となったのは、物語の内容、中身そのものでした。一つは、主イエスが姦通の罪を犯した女に対して、あまりにも寛大過ぎないかということです。姦通の罪というのは、信仰を捨てることや人を殺すことと並んで大きな罪とされていました。その罪を犯した女を裁くことをせず、すぐに赦して、帰らせてしまった。義であり、聖なるお方であるイエス・キリストというお方が、罪の問題を放ったらかしにしていいのか。あまりにも簡単に赦していいのかということです。もう一つは、7節で主イエスの言葉です。主は人々に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃいました。けれども、皆、女に石を投げる者はいませんでした。誰もが自分の罪に心当たりがあったからです。「自分は罪を一度も犯したことがないと言うことができたならば、あなたは人を裁く権利がある。」そのように主イエスから言われたならば、私たちは何もできなくなってしまいます。そうしたら、この世界は何の秩序もない無法状態になります。罪が罪として、悪が悪としてこの世界にいつまでも残り続けることになります。本当にこのことが神様の御心なのだろうか。私たちも与えられた範囲内で、罪や悪の問題を対処する必要がやはりあるのではないだろうか。しかし、私たちは主がおっしゃるように日々罪を犯してしまう。だったら何もできないではないか。どうしたものかと言って、途方に暮れてしまうのです。

 そのように昔から教会の人々を戸惑わせてきたいわば曰く付きの物語ですが、最終的にヨハネ福音書の中に入れられることになりました。この物語こそ、主イエスにふさわしい物語であり、ここにキリストの福音があると教会の人たちが信じたからです。教会生活が長い人にとってはよく耳にする馴染みの聖書物語ですが、背景にはこのように様々な歴史的いきさつや人間の思いが複雑に絡み合っていました。でも、この物語を聖書に入れるかどうか?入れるとまずいのではないか?いや、やはり入れたほうがいいのではないか?その議論の中心になったのは、私ども人間の「罪」の問題であることに変わりないということです。そのようなことを今回、改めて思わされたのです。自分自身の罪のこともそうですけれども、他人の罪をどう見るのか。どう対処するのか。つまり、「裁き」の問題についても深く考えさせられる物語です。罪を裁くことと罪を赦すことは、相反することなのでしょうか。罪を赦すためには、その人のことを大目に見て、いつも寛大な態度を取ればいいということなのでしょうか。そのように色々と考えさせられるわけです。聖書が語る救い、その中心にあるのは紛れもなく「罪から救われる」ということです。それゆえに、私どもはやはりこの物語を素通りするわけにはいかないのです。この話を聞いてしまうと、この世を生きていくうえで都合が悪くなるとか、面倒くさいことになるなどと勝手なことを言っていられなくなるのです。罪の問題は自分のことにも、他人のことにも関わりますが、何よりも神様との関わりの中ではじめてはっきりと見えてくるものだからです。

 さて、今日の物語は、第8章3節にありますように律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の罪を犯した女をイエスのところに連れて来るところから始まります。姦通の現場を捕らえたというのですから、律法学者たちにとってはこれ以上にない証拠を手に入れたわけです。そして、姦通の罪というのは、最初にも申しましたようにたいへん大きな罪とみなされ、石打ちで殺されるという決まりがあったと旧約聖書には記されています。律法学者たちは主イエスにこのように問うのです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」主イエスのことを「先生」と呼び掛けてはいますが、彼らは主イエスのことを尊敬しているわけではありません。日頃から衝突していましたし、この時も6節にあるように「イエスを試して、訴える口実を得る」ことが目的でした。姦通の罪を犯した者は石で打ち殺される。これはまさにそのとおりなのです。しかし、主イエスはいつも愛と赦しの福音を語っておられましたから、もし、「聖書にあるとおり女を殺せ」などと言ったら、主イエスの評判は落ちてしまうことでしょう。それに、当時ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。死刑の判決を下すのもローマの許可なしにはできなかったのです。それにも関わらず、もし主イエスは「女を石で打ち殺すように」などと勝手に命令を下したならば、イエスという男とはローマに反逆した者として訴えることができたのです。また、反対に「女を殺してはいけない」と言ったならば、イエスは神の掟に背いた男だと言って、訴えることができたのです。いずれの選択をしたにせよ、イエスを訴える口実を見つけることができる。そのように律法学者やファリサイ派の人たちは企んでいたのです。

 しかし、主イエスは何もおっしゃいませんでした。その代わりにと言ってもいいかもしれませんが、6節の終わりにあるように、主イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められたのです。同じことが、8節にも記されています。とても印象深い場面です。律法学者たちの問いに答えず、かがみ込んで、地面に何かを書いておられます。私どもの関心を惹きますのは、主はいったい地面に何を記しておられたのかということです。聖書には何も記されていませんが、人々はその内容についてどうしても知りたいと思いました。それで色々なことが考えられてきたのです。

例えば、ローマの法廷では、裁判官が判決を下す前に判決文のための覚書を書いたと言われます。主イエスもそれにならい、判決を下す前に、地面に書いたのではないかというのです。つまり、7節で「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃっていますから、その言葉を先に地面に書いておられたのではと推測します。また、11節の「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という赦しの言葉を先に地面に書いておられたのではないかというのです。

 あるいは、旧約聖書に記されている御言葉を思い出す人たちもいます。例えば、エレミヤ書第17章13節に記されている御言葉を主イエスは身をもって示したのではないかと考えるのです。エレミヤ書第17章12節、13節にはこうあります。「栄光の御座、いにしえよりの天/我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」「あなたがたは生ける水の源である主を捨てたのだ」と預言者エレミヤは厳しくイスラエルの罪を問い、裁きの言葉を告げておられます。「生ける水の源」というふうに、いのちの源である「水」のことが出てきます。ヨハネによる福音書の第8章のすぐ前には「仮庵祭」と呼ばれるユダヤ人が大事にしている祭りのことが取り上げられていました。「仮庵祭」というのは別名「水の祭り」と称されています。祭りの期間中、池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、供え物や祭壇に水を注いだのです。主イエスは慰め深い言葉を大きな声でおっしゃってくださいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」第7章37節、38節の御言葉です。主イエスを信じるならば、渇くことも飢えることもない人生、どのような時も神が与えてくださる生きた水が流れている。その水によって、癒され、潤うことができる。そのような素晴らしいいのちに生きることができると主はおっしゃってくださいました。しかし、そのすぐ後に、本日の御言葉にあるように悲しい出来事が起こっているのです。姦通の罪を犯した女もそうですが、このことを口実にしてイエスを訴えることができると企んだ人々の罪をご覧になって、深く悲しみ、怒りを覚えておられるのです。

 主イエスがこの時、地面に何を書いておられたのか。今、いくつかのことを挙げました。もちろん、そのような想像も可能でしょうし、当時の歴史的な背景や聖書の文脈から判断してあながち間違いではないと思います。ただ一方でこの時、主イエスが地面に何を書いておられたのかということよりも、ここで主イエスがとっておられる行動、そのお姿そのものが大事ではないか。多くの人たちはそう指摘します。つまり、主イエスが身をかがめておられるというそのお姿です。そして、律法学者やファリサイ派の人々の問いに一切答えておられない。沈黙し、無視しておられるということです。彼らに対して完全に背を向けておられるのです。いつも人々と向き合っておられる主が、ここでは背を向けておられます。人間が神に背を向けるということはあるにしても、神の御子であられる主イエスが人々に背を向けておられる。人々を完全に無視して、黙っておられる。これはただならぬことが、ここで起こっているということです。つまり、主イエスは無言のうちに、律法学者やファリサイ派の人々を厳しく裁いておられるということです。

 律法学者やファリサイ派の人たちは、まさか自分たちが裁かれているなどとは思ってもいなかったでしょう。彼らは、いつも自分たちは正しい。いつも自分たちは立派な信仰生活をしていると自負していた人たちでした。そして、今回の場合、悪いのは明らかに姦通の罪を犯した女であるということが明らかでした。彼女は何も弁解する余地はないのです。そして、裁くことができるのは自分たちである。このことも明白でした。自分は正しい人間である。そのことが明らかになるというのは、誰にとっても気持ちいいことであるかもしれません。「あなたは間違っている」と言われるよりかは、「あなたは正しい」「あなたは立派だ」と言われたほうが、気分がいいのは明らかです。しかし、問題はその正しさや立派さというものをどのようにして手に入れるのかということです。これは律法学者やファリサイ派に限った話ではありません。すべての人に問われているということです。律法学者たちにとりまして、それは、人を「裁く」ということにおいて自分の正しさを主張したということです。もちろん、誰よりも御言葉に一所懸命生きたという面もありますけれども、そのことは同時に自分たちよりも真面目に信仰生活をしていない者たちを見下し、裁くという面を持っていました。私どももどこかで、人を裁く時の快感のようなものを知っているのだと思います。自分が完全に正しく、相手が完全に間違っているということが明白になった時、人はこれでもかというほどに相手を打ちのめすことができます。相手は何も抵抗できないのですから、裁く側の自分たちはやりたい放題です。むしろ、裁く側のほうが裁くほうよりも残酷であるとさえ思えることもよくあるのではないでしょうか。そして、今回の律法学者やファリサイ派の場合、女の罪などどうでもいいのです。主イエスを訴えるための口実さえつくれればそれでいいのです。この女がどうなろうが彼らにとって知ったことではないのです。主イエスはそのように、人を裁くことに喜びを覚え、自分の正しさに酔いしれる律法学者たちを、人の罪を罪としてちゃんと受け止め、対処することができない彼らに対して、身を屈めながら背を向け、無言のうちに裁きをくだしておられます。一所懸命聖書を学びながら、彼らのうちに生けるいのちの水が流れていない現実を深く嘆いておられるのです。

 しかし、それでもしつこく彼らは主イエスに問い続けてくるものですから、主イエスはついに立ち上がってこうおっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして主はまた、身をかがめて地面に何かを書き続けられたのです。主イエスは、「この女を赦してあげなさい」とおっしゃったわけではありません。むしろ、「石を投げなさい」「石を投げて殺しなさい」とおっしゃいました。ずいぶん激しい言葉です。しかし、石を投げるには条件がありました。あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず女に石を投げるようにというのです。この主イエスの言葉に律法学者たちはハッとさせられます。目を覚ますのです。自分たちは正しい、自分たちこそ人を裁く権利があり、そのことが喜びだと言っていた人たちです。しかし、この私にも罪はある。あの女ほどではないかもしれないが、罪がまったくないとは言えない。自分が誰よりも先に女に石を投げる権利などない。そのことに気付かされて、その場を立ち去ってしまいました。興味深いのは、9節にあるように、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」というところです。最初に立ち去って行ったのは、年長者でした。年齢を重ねるということはどういうことでしょうか。それこそ、色んな経験を積んで、誰よりも賢くなり、正しい人間になるということなのかもしれません。しかし、聖書が見つめるのは、人間の罪の現実です。年を重ね、経験を積んだからと言って、罪の問題を正しく対処できるわけではないということです。むしろ年を重ねるほど、人はますます罪深くなると言ってもいいでしょう。だから、若い者よりも年長者から先に自分の罪に気付き、その場から立ち去って行ったのです。

 そして、誰もいなくなってしまいました。残されたのは主イエスと女一人だけです。女はそこで主イエスの前から逃げようとはしませんでした。自分を殺そうとする者はいなくなったのですから、「これで安心だ」と言って、その場を去ることもできたでしょう。しかし、主イエスのもとにとどまったのです。そこで、主と一対一で向き合うことになります。主の前に立つことになります。主イエスは彼女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」(10節)女は答えます。「主よ、だれも。」主よ、あなた以外ここには誰もいません。9節の終わりに「真ん中にいた女が残った」とありました。「残った」というのは、「見捨てられた」という意味です。律法学者たちは、主の前から立ち去っただけではなく、連れて来た女をも見捨てていきました。自分の罪のことを心がいっぱいになり、女のこと、女の罪のことなどどうでもよくなったのです。見捨ててしまったのです。しかし、一人残され、一人見捨てられた彼女のもとに主イエスだけがいてくださいます。

 主イエスはおっしゃいました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女は答えます。「主よ、だれも。」「主よ、あなた以外ここには誰もいません。」

このことは同時に、本当に私の罪を裁くことができるお方は、主よ、あなたの他誰もいませんということでもあります。彼女は、自分の罪を裁くことができるただお一人のお方である主イエスと向き合うことになるのです。彼女は先程申しましたように、律法学者たちとは違って主イエスのもとから離れませんでした。主のもとにとどまりました。立ち去るか、とどまるか。ここに大きな違いがあります。律法学者やファリサイ派の人も主イエスの言葉を聞いて、自分の中にも確かに罪があるということに気付いたのです。自分の良心に痛みを覚えたのです。しかし、そこで主から離れ、主の前から立ち去ってしまいました。一方で、女性は主イエスのもとにとどまりました。自らの罪を覚える時、主イエスから離れるのではなく、主に寄りすがること、主のもとにとどまることが求められます。

 彼女は私の罪を裁くことができるのは、主イエスだけだということを知りながら、敢えて主のもとにとどまります。それはまるで、「主よ、あなたに裁かれるならば、私は喜んでその裁きを受けます」と言っているようにさえ思えるのです。不思議なことがここで起こっているのです。なぜなら、誰も裁かれることを喜ぶ人などいないからです。罪を犯したとしても、その裁きや罰から逃れたいと考えるからです。まして、神の御子であられる主イエスから裁かれたならば、もう救いはない。滅びるしかないと普通は考えてしまいます。でも、彼女は主イエスのもとから離れませんでした。それは自分の罪が、ただ一人の裁き主であられる主イエスによって真実に裁かれることをなしに、私の救いはないのだということに気付いたからでしょう。神の裁きや罰から逃れることさえできれば、罪の問題が本当に解決するわけではないのです。どれだけ裁きから免れようと必死になっても、心から安心することはできません。そうではなくて、自分の罪を罪として神様が真実に裁いてくださるならば、私はそこで本当に救われるということが起こるのです。

 主イエスは最後に彼女にこうおっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(12節)これは裁きの言葉ではありません。「わたしはあなたを罪に定めない」という赦しの言葉です。だから、主イエスは罪に対してあまりにも寛大すぎるという批判が生まれたのでしょう。しかし、「わたしもあなたを罪に定めない」という主イエスのお言葉にどれだけの重みがあるのか。それこそ、主イエスのいのちの重みが込められた言葉であることを、既に信仰に生きている者ならば知っているに違いないと思います。ただお一人、人間の罪を裁くことができる義しく聖いお方が、しかしここで、「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しの言葉を告げておられるというこの重みです。そして、このことは決して、この女性をはじめ私ども人間の罪を軽く見ているということではないのです。彼女のもとから立ち去ったあの律法学者たちのようにではなく、主イエスは罪の問題と真剣に向き合われます。だから主イエスもまた彼女から離れることはありません。罪という問題、神の裁きという問題と真剣に向き合うために彼女の前に、そして、私たちの前に主は立っておられるのです。

 そして、罪というのは神の裁きを受けることなしに、何も解決することはないし、安心することもできないのです。けれども、ここで大きな問題が生じてきます。誰が神の裁きに耐え得ることができるのかということです。誰も耐えることなどできないのです。だから、本当は神に裁かれたら、救われるというのはあり得ない話なのです。神に裁かれたら滅びる以外に道はないのです。しかし、私どもが神に裁かれることによって、救われるという誰も考えつかなかったような出来事が起こりました。この時、まだこの女性は知りませんでした。やがて、「わたしはあなたを罪に定めることはしない」と告げてくださった主イエスが十字架につけられたということを…。私の罪が神によって真実に裁かれ、そして、救われるためにイエス・キリストが罪人たちの身代わりになって十字架で死ななければいけませんでした。主イエスが私たちの代わりに十字架の上で、神の裁きを受け尽くしてくださったのです。ですから、主イエスは罪に寛大なお方ではありません。その罪を背負って十字架で死んでくださるほどに、真剣に私ども人間の罪に向き合い、神の裁きに向き合い、そして、私どもが救われることを心から願ってくださったのです。

 本日の御言葉で、二度に亘って主イエスが身をかがみ込んで、地面に字を書いておられる場面がありました。ある説教者は、罪を犯した女に向けられていた冷たい視線を、今度は御自分に向けさせるために、主はここでかがみ込み、地面に字を書いておられたのだというのです。まるで彼女の身代わりになるかのように、人々からの視線を一気に受けておられます。そして、本当の裁き主であられる主が身を屈めて低くなり、逆に裁かれるはずの律法学者たちは立っているのです。身を屈めるようにして低くなっておられる主イエスのこのお姿は、やがて十字架の死へと結びつきます。ここにまことの神の裁きがあり、同時にまことの神の救いがあります。そして、二度身を屈めてくださった主イエスは、7節と10節にありますように同じく二度、「身を起こして」くださいました。身を起こすというのは、「起き上がる」という意味を持つ言葉で、主の復活を表す時に用いられる言葉になりました。十字架の上で、私どもの罪を背負って裁きを受け死んでくださった主イエスは、三日目にお甦りになられました。罪と滅びに完全に打ち勝ってくださったのです。その復活の主が、今朝を私どもに告げてくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 罪を犯した女だけではなく、すべての人が聞くべき言葉。すべての人を真実に生かす救いの言葉がここにあります。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主イエスの十字架と復活の恵みによって救われる者とされる時、「もう罪を犯さない」というより積極的な新しい生き方へと押し出されていきます。「自分は罪を犯してしまった。神様や色んな人を悲しませてしまった。本当に悪かった。」そう言って、後悔するだけではなくて、もうこれからは罪を犯さないという生き方をすることができるように整えられていくということです。

 そして終わりの日、私どもは神様の前に立ちます。「終わりの日」というのは、「裁きの日」と言ってもいいのです。しかし、裁きの日が私どもにとって、「救いの日」となるのは、主イエスによって既に救っていただいたからです。もう自分は罪を犯さないと決意しながら、そのとおりになかなか生きられない自分であることを思います。自分の信仰が弱いからだというふうに、神様の前では何も言い訳することはできません。しかし、私どもは終わりの日においても、神様から聞くことができます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」罪の赦しが確かであり、これからは本当に罪を犯して生きなくてもよくなるのです。救いが完成したからです。主のお甦りを祝う主の日の礼拝において、私どもは終わりの日を先取りするようにして、絶えず主の赦しの福音を聞きます。そして、もう一度新しい歩みをここから始めるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主イエスは今日も私どもを生かす救いの言葉を告げてくださるのです。お祈りをいたします。

 本当ならば、神様の御前に立ち得ない私どもですが、ただあなたの憐れみによって、私どもを選んでくださり、この礼拝の場へと招いてくださり感謝いたします。罪のゆえに滅んで当然の自分が、御子イエス・キリストによって救われている喜びをいつも新鮮な思いで受け取ることができますように。私どもの歩みが御霊によって清められ、御心にかなう歩みをすることができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。