2021年07月11日「聖書がわかる」

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聖書がわかる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 4章16節~30節

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聖書の言葉

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 19主の恵みの年を告げるためである。」 20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。ルカによる福音書 4章16節~30節

メッセージ

 これまであまり考えたことがなかったのですが、主イエスが人々に福音を宣べ伝える時、いったいどのような場所でそのお働きをなさっていたのでしょうか。主イエスの歩みはエルサレムに向かう歩み、つまり十字架に向かう歩みでしたら、ずっと一つの場所に留まり続けたわけではありません。福音書に記されています主の御業を思い起こす時に、もちろん家や会堂が舞台になったこともありますが、湖や山の上であったり、何でないような道端であったりというふうに、どちらかと言うと、屋根がある場所というよりも、屋外で起こっている。そんな印象を受けるのです。

 なぜこんなことを申したのかというと、今日の私どもキリスト者の生活、その中心となるのはやはり「教会」であり、そこでささげられる礼拝だからです。主イエスが地上におられた時に、いわゆるキリスト教の教会堂はまだありません。代わりに、「シナゴグ」と呼ばれるユダヤ人にとって、信仰生活だけでなく、普段の生活においても大切な役割を果たしていた場所がありました。シナゴグ(会堂)は、礼拝以外にも町の公民館や学校、法廷など様々な形で用いられていました。そして、今で言う教会堂の原型となったものです。しかし、主イエスはシナゴグと呼ばれる会堂に居続けたわけではありませんでした。会堂での礼拝を大事にしつつ、いつも外に出て、福音を宣べ伝えておられたのです。でも、それは会堂での礼拝や信仰生活をそれほど大切に思っていなかったからではありません。

 16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。「いつものとおり安息日に会堂に入り」とありますように、主イエスの歩みにおいてどうしても欠くことができないもの、それが安息日に会堂に入り、神を礼拝するこということでした。「いつものとおり」というのは、私たちで言う「習慣」ということでしょう。習慣といえば、あまりにも当たり前すぎて、それほど特別な感じはしないかもしれません。でも、よく考えると習慣というのはとても大事なことで、食べることにしろ、寝ることにしろ、少しでも狂いが生じると、生活全体に大きな影響を及ぼしてすぐに体調を崩してしまいます。主イエスにとっての習慣、これがなくてはわたしがわたしとしていられなくなるもの、それが安息日に会堂に集い、神を礼拝することです。私たちで言えば、主の日、日曜日に教会に集い神を礼拝することです。主イエスは地上におられた時、教会に行っておられたのだろうか?今まであまり強い関心を持ってきませんでしたが、今朝の御言葉を聞きますと、明らかに主イエスは会堂での生活、教会生活を大切にしておられたことがよく分かります。

 さらに興味深いのは、この福音書を記しましたルカという人が、主イエスのガリラヤでの伝道のお働きを記す最初の一ページに、故郷ナザレにある会堂での出来事を記したということです。ルカはこれまでクリスマスの出来事、主イエスが洗礼を受けた出来事を記します。そして、本日の箇所の少し前には悪魔の誘惑に見事勝利なさった場面が記されます。聖霊で満たされた主イエスはいよいよガラテヤの地で伝道を始められます。他の福音書では、次のような主イエスの第一声で、伝道の働きが開始されます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)この主の言葉は、この時限りの言葉ではなく、色んな場所を周り、福音を語る度にいつもお語りになった言葉だと言われます。説教の中心となるようなメッセージです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 けれども、ルカという人はこの主イエスの言葉を記しません。代わりに、いつものように安息日に会堂で御言葉をお語りになる主イエスの姿を記すのです。そして、この時は故郷ナザレの会堂が舞台になっています。安息日、それは神様が人々に備えてくださった恵みの日です。「この日、わたしと会おう」と確かな約束をしてくださった日です。その神様が御自分の約束をすっぽかすはずはありません。必ず私どもと出会うために来てくださいます。そして、会堂というのは「ここで会いましょう」と約束してくださった大切な場所です。神様が約束してくださった大切な日、大切な場所に主イエスもまたいてくださいます。たまに顔を出すというのではなく、いつものようにいてくださるのです。そして、会堂でささげられる礼拝において、御言葉を朗読してくださり、福音を告げてくださいます。主が共にいてくださる礼拝において、私どももまた罪赦され、自由なものとされるのです。主イエスにとって、どこで最初に福音を告げるべきなのか。色んな選択肢があったかもしれません。会堂よりももっと人が集まる場所、例えば、神殿であったり、逆に誰も足を踏み入れないような荒れ野で、誰にも気付かれない形で福音を告げるということもできたでしょう。しかし、主イエスはそうではなくて、当時の人々の信仰や生活の拠点となっていた会堂で福音を告げられたのです。2千年前、ガリラヤの地で伝道を始め、最初に故郷ナザレの会堂で福音を告げてくださった主イエスが、今、この礼拝においても共にいてくださる。このことにとても深い慰めと励ましを覚えます。ここに来れば、主イエスにお会いできる。ここに来れば、解き放たれる、救われる。このことを信じることができるし、主と共にある幸いと畏れの中で、なすべき働きや奉仕をとおして教会を建て上げていくことができるのです。

 さて、この時会堂でささげられていた礼拝は、今のキリスト教会の礼拝ともずいぶん重なるものがあると言われます。モーセ五書と呼ばれる律法と預言書から御言葉が朗読され、説教がなされます。詩編を歌い、祈りをささげていました。この時代の聖書は、今みたいに製本されていません。大きな巻物になっています。17節にこうあります。「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」主イエスが手にしたのはイザヤ書の巻物でした。そして、18節、19節に記されている御言葉を朗読されたのです。具体的な個所は、イザヤ書第61章1〜2節にあたる部分です。17節に、「次のように書いてある個所が目に留まった」とありましたが、これは巻物を適当に開いていたら、偶然目に入ったので、この個所を読むことにしたというのではありません。明らかに、主イエスがここから福音を語りたいと願われ、ここをお選びになったのです。

 18節、19節をもう一度お読みします。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」先程、この個所はイザヤ書第61章の御言葉だと申しました。ただ、丁寧に読み合わせてみますと、今用いている聖書と微妙に言葉が違っているところがあります。そして、イザヤ書第61章だけではなく、第58章の御言葉も少し引用されているところがあります。おそらく福音書を記したルカは、イザヤ書第61章をそのまま書き写したというよりは、主イエスがお語りになった説教が全体として何を伝えようとしていたのか。そのことを、短い言葉で表すために、工夫をし、編集をしてここに記したのではないかと思います。そして、このイザヤ書に基づく主イエスの説教の主題は「解放」であり、「自由」であるということです。「福音」という喜びの知らせというのは、私どもが解放されることであり、自由な身になるということです。それが救われるということなのです。なぜなら、私どもは捕らわれ人であり、見えているようで肝心なものが見えていない存在であり、不自由な存在、そして、惨めな存在であるからです。

 だからこそ、神様は私どもを解き放ち、自由な者とし、見るべきものをしっかりと見つめて生きていくことができるようにしてくださいました。19節の「主の恵みの年」という言葉は、旧約聖書レビ記第25章に由来する言葉で、そこでは「ヨベルの年」と呼ばれています。出エジプト記21章にも同じようなことが記されています。そこでは、6年間奴隷として主人のもとで働けば、7年目には奴隷の身分から解放されるという決まりがありました。レビ記に記されているヨベルの年というのは、7年の7倍にあたる49年です。49年間捕らわれた後、その次の年、つまり、50年目には自由の身になることができたのです。このことは何も奴隷に限ったことではありません。貸していた土地や家は持ち主のもとに戻り、借金は帳消しになったのです。そのようにして、社会の間にある格差や不公平を是正するために、50年に一度のヨベルの年は大きな意味を持ちました。私たち社会の中にある歪みというのは、そこに生きる人間自身の歪みでもあります。それが50年に一度すべてがリセットされ、新しくされます。奴隷だった者が自分の家に帰って行くように、本来いるべきはずのところに戻って行くことができるのです。本来立つべき場所からもう一度新しい人生をやり直すことがゆるされるのです。それがヨベルの年が持つ大きな意義です。特に、社会的に貧しい者、捕らわれの身にある者たちには、まさに主の恵みの年だったのです。主イエスが来てくださったことによって、主の恵みの年がここに来ているのです。主イエスが来てくださったことによって、神の国、神の愛の御支配がもうここに来ているのです。

 そして、誰よりもこのことを喜んでいるのは神様御自身です。すべてがあるべきもとの場所に戻り、新しくされるヨベルの年は、神様にとっても大きな喜びでありました。そして、ここで私どもは考えなければいけません。主イエスと出会う前、私どもを捕らえて、私どもを不自由にさせていたものとは何だったのかということです。救いの恵みにあずかる前、私どもはいったい何の奴隷になっていたのかということです。社会が悪い、あの人が悪いと言うのではなく、自分の心にある深い問題として、何が自分を不自由にさせていたのでしょうか。それが「罪」ということです。罪も神様に対する「借金」であると聖書では語ります。この世に生きていて、色んなしがらみがあるのですけれども、一番しつこくまとわり付いて来るのが罪の問題であり、死の問題です。これは7年経ったからといって、50年経ったからといって、自動的に解決できるような問題ではありません。本当に罪赦され、自由な者とされ、神様のもとに帰って行くためには、私たち人間の力ではなく、神様御自身が助けてくださらなければいけません。本来、私どもが居るべき場所に帰り、神様との関係がリセットされ、新しく歩み始めるためには、神様の助けがどうしても必要なのです。

 そのために、神様のもとから遣わされたお方こそ、今、ここでイザヤ書の言葉を読み、福音を告げ知らせているお方であるイエス・キリストです。18節に「主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは」とあるように、主イエスは神のもとから遣わされたという使命感のもとで、御言葉をお語りになります。油を注がれたというのは、救い主として神によって立てられた者ということです。「それがわたしなのだ」と主はおっしゃいます。決して、自分の勝手な思いでガリラヤの町に乗り込んで来られたのではないのです。また、イザヤ書の引用の中で、「告げ知らせる」という言葉がありますが、これはただ単に告げるとか、伝えるということではありません。これは王様からの命令を布告するという意味での「告げる」ということです。主イエスは王である神に代わって、王である神の権威で福音を宣べ伝えるのです。主イエスも王である神から遣わされたという強い使命感のもと厳かに、喜びをもって御言葉をお語りになったことでありましょう。

 主イエスは御言葉を朗読した後、巻物を係の者にお返しになりました。会堂にいる者たちが、主イエスがお語りなる言葉に集中して耳を傾けます。主はこうにおっしゃいました。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」もちろん、主イエスの説教がこの一言で終わるようなものではなく、実際はもっと長いものだったでしょう。しかし、結局、主が人々に伝えたかったのはこのことに尽きると言ってもいいのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

 主イエスは「今日」とおっしゃいました。過去でもありませんし、未来でもありません。「今日」「今」実現したというのです。ルカがこの福音書の中で語る「今日」とい言葉は、昨日、今日、明日というふうに時間の流れの中にいつも存在する意味での今日ではありません。待ちに待った今日、特別に価値のある今日です。今年も前半が終わりました。180日以上の今日という日を過ごしてきました。自分の人生に当てはめるならば、年齢の分だけの今日という日を生きてきたのです。それらの日々の中で特別な今日、特別な日というのをそれぞれが持っています。誕生日はもちろんのこと、結婚記念日であったり、子どもの誕生日であったり、あるいは愛する者の死というふうに悲しみを覚える今日という日もあるでしょう。そして、キリスト者にとって忘れることができない今日というのは、主イエスにお会いした日です。主イエスに救われた日、罪の奴隷から解き放たれ自由にされた日です。洗礼を受けた日です。

 ルカは他の個所でこう言っています。一つ目は、クリスマスの夜、天使が羊飼いたちに告げる場面です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」第2章11節の御言葉です。まことの救い主がこの世界にお生まれになりました。何にも増して特別な今日という日であり、この知らせを聞いた羊飼いたちは、この後、生まれたばかりの主イエスに会いに行きます。そこで彼らの人生は大きく変えられていきました。二つ目は、徴税人の頭であったザアカイと主イエスが出会う場面です。罪深い生活にどっぷりと浸かって生きていたのがザアカイでした。主イエスに関心はあったものの、心から救われたいとまでは思いませんでした。しかし、主イエスとの出会いをとおして、自分は神によって救われなければいけない人間であることに気付かされます。そして、喜んで主イエスを自分の家に迎え入れるのです。主イエスはザアカイに宣言してくださいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムのなのだから。」第19章9節の御言葉です。ザアカイにとっての救いの日、それが今日という特別な日です。そして、最後は主イエスが十字架につけられた場面です。主イエスの両隣には犯罪人の十字架が立っていました。主イエスは片方の犯罪人に向かってこう約束してくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」第23章43節の御言葉です。主イエスは最後の最後まで福音を宣べ伝えておられます。この福音を信じるならば、十字架の死という絶望の中にあっても、救いという楽園に入れられるのです。犯罪人は、人生最悪の日に、キリストにある救いあずかりました。人生においてこれ以上にない今日という日が、最後に待っていたのです。

 このようにルカが語る「今日」というのは、何気無い日常の流れの中にある今日ではありません。私どもの人生において、特別に価値のある今日。神の救いにあずかる今日ということです。そして、この価値ある今日という日は、例えば、洗礼を受けたその日だけの話ではないということです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主は告げてくださいました。この主の言葉は、今も私どもの歩みの中でいつも響いている言葉であり、絶えず私どもの中で起こり続けていることです。そして、この時、安息日に主イエスが会堂で御言葉をお語りになったように、今は主の日の礼拝において、主が私どもと共にいてくださり、罪の赦しを告げる喜びの知らせを語り続けてくださいます。

 聖書の言葉は、今日、耳にしたとき、実現するとありました。「耳にしたとき」とありますが、丁寧に訳すと「耳の中で」となります。「耳にしたとき」というふうに理解すると、あなたがたがちゃんと聞いてくれたから聖書の言葉は実現した。ちゃんと聞いてくれるなら、聖書の言葉は実現する。そのように間違って理解される恐れがあります。聖書の言葉が真実かどうか。それを最後に決めるのは私どもではありません。少し乱暴な言い方をしますと、私どもが聖書の言葉を聞いても聞かなくても、神がお語りになることはいつも真実であるということです。あなたがたの罪を赦し、自由へと解き放ち、もう一度、神と共に新しい人生を歩み始めることができる。この約束は確かであるということです。もちろん、語られた御言葉が正しく聞かれなければいけないということ。それは言うまでもないことです。それも、何かイエス様はこんなことを言っているらしいというふうに、どこかのニュースや噂を耳にするような聞き方をするのではありません。まさに、王様が民に向かって喜びの知らせを告知される、その言葉を私どもも存在をかけて聞くことが求められます。そして、語られた聖書の言葉が空しいものではなく、必ずあなたの中でも実現し、成就する。そのことを確かなものとしてくれるのは、主イエス御自身です。主は御言葉を語ってくださるばかりか、御言葉の恵みを私のうちに満たしてくださるお方でもあるということです。主イエスこそ神のもとから遣わされた者、油注がれた救い主であるからです。

 だから、聖書の言葉と御言葉をお語りになるお方を切り離してはいけません。しかし、この後御言葉を読み進めていきますと、主イエスの故郷ナザレにおいて、人々は主イエスを受け入れるどころか、最後は町から追い出し、崖から突き落として殺そうとしたということが分かります。22節以降に記されているように、最初は主イエスをほめ、恵み深い言葉だと思ったのです。しかしよく考えてみると、主イエスが語られた御言葉に対する驚きというのは、何よりも今、目の前で聖書を語る男が「ヨセフの子ではないか」ということです。昔からこの町で育ち、幼い頃からいつも顔を見ていたあのヨセフの子ではないか。あのヨセフの子であるイエスが、今、大きくなって立派なことを話しているという驚きです。結局のところ、ナザレの人々は主イエスのことを神のもとから遣わされた救い主として見ることができていないということです。主イエスの正しいお姿を見ることができていないのです。立派なことを言っているかもしれないけれども、結局、イエスも一人の人間に過ぎないのだということです。それが、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉に込められた人々の思いです。

 主イエスは続けておっしゃいました。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。…「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(23〜24節)「医者よ、自分自身を治せ」というのは、当時の諺のようなものだと言われています。要するに、他人の病気を治している時間があったら、まず自分の病を治せという意味の言葉です。主イエスも十字架につけられた時、「自分で自分を救ってみろ」「自分を救えないのに、どうして私たちを救えるのだ」と言って、罵られました。それと同じ意味です。また、カファルナウでした色々なこと、つまり、奇跡の御業のことですが、その奇跡を故郷ナザレでも行ってみたらいい。そうしたら、お前のことを神から遣わされた者として信じてあげようというのです。お前が語る言葉を神の言葉として聞いてあげようというのです。主イエスの言葉にも表れていますように、ナザレの人々の問題は、イエスの言葉を聞くには聞くのですけれども、あなたが語る言葉が神の言葉であるかどうか、最後に判断するのは私たちだ。私たちの中にある基準で、イエスよ、あなたの言葉を聞くというのです。しかし、このような姿勢でいくら神の言葉を聞こうとしても、それが彼らの耳の中で成就するということはあり得ないのです。

 主イエスはさらに旧約聖書に出てくる物語を取り上げて、故郷ナザレの人たちのことを痛烈に批判なさいました。預言者エリヤの物語に登場する一人の貧しいやもめがいます。預言者エリシャの物語に登場する将軍ナアマンがいます。詳しい話をする時間はできませんが、やもめもナアマンも救いからは遠いとされていた異邦人です。しかし、そのふたりの異邦人が救われたのです。ふたりが他の人よりも優れていたのではありません。救われたのは、ただ神様の憐れみによります。ただ神の憐れみ、恵みによるというのは、人間の側の条件というものは一切ないということです。そして、やもめもナアマンも最後には幼子のように、エリヤやエリシャをとおして主がお語りになる言葉を、そのまま受け入れて信じたのです。それは人間的な常識からすれば、こんなことが本当に起こりうるのかと疑ってしまうようなことであったり、こんなバカバカしいことを信じてどうなるのだと思えるような言葉ばかりでした。でも最後は信じたのです。「安心して信じることができるように、まず神様らしい奇跡、神様らしいしるしを見せてください」と言ったのではありません。主がお語りになる恵みの言葉にすべてをお委ねしたのです。

 御言葉を聞くというのは、主イエスを信頼し、主イエスに自分を委ねるようにして聞くということです。自分が基準となり、自分がまるで神にでもなったかのようにして聞くのではありません。奇跡やしるしを先に見ないと信じないというのでもないのです。もし、そのような御言葉の聞き方をしてしまうとき、御言葉を理解できないということに留まらず、主イエスを自分の中から追い出し、ナザレの人々のように主イエスの存在を消そうとしてしまうのです。そして、実際、主イエスのいのちを奪ったのです。だから、主の十字架が立ったのです。

 だから、信仰をもって御言葉を聞くというのは、自らの貧しさをよく知るということでもあります。神など私の人生に必要ないと言い張って、自由に生きているつもりだけれども、本当はどうしようもない惨めさを抱えている人間であるということを知るということです。罪と死の虜から救われ、神様との関係がもとに戻らない限り、私は生きていくことができない人間であるということをよく知るということです。そのために、主イエスが神様のもとから救い主として遣わされたこと、その主イエスが今も生きておられ、今ここで私のために御言葉を語ってくださっている。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」まさに、この主イエスの言葉が私の中で満たされている。主の恵みの年が今始まっている。そのことを心から信じることができれば幸いです。

 主の弟子の中に、一番最後まで主の復活を信じることができなかったトマスという弟子がいました。復活の主はトマスにこうおっしゃいます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)また、同じく主イエスをこの目で見ながらも幾度も罪を重ねたペトロという弟子は、生まれたばかりの教会の人たちの信仰を見てこう言うのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Ⅰペトロ1:8)自分を基準にして御言葉を聞くのではなく、主の言葉の真実に自分の存在、自分の救いを委ねつつ聞くのです。

 聖書の言葉を聞き、聖書の言葉を理解すること。聖書がわかるということ。これは信仰に導かれるうえでも、洗礼を受けてからも大切なことです。何から何まで分からないと信じないというのも困りますが、反対に神様のことも聖書の話もまったく分からないけれども、どうも神様はいるらしいから信じようというのもおかしな話です。やはり、御言葉を聞く、聖書がわかるという経験はどうしても必要です。今日、わかった!今、ついにわかった!この御言葉経験が私どもの信仰生活を喜びへと変えていきます。主イエスをますます愛する者とされていきます。

 詩編第119編130節に次のような御言葉があります。最後に紹介して説教を終わります。「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」御言葉が開かれるというのは、御言葉が語られるということです。語られる御言葉を聞くということは、まるで扉が開かれるようなものなのです。そして、開かれた扉の向こうから光が射し込み、私の存在を明るく照らし出します。無知な者にも理解を与えます。自分が抱えている罪の闇を救いの光が覆うようにして包み込むのです。キリストにある救いの光の中で、本来自分が生きるはずであった神と共にある歩みを、今ここから始めることができるのです。「ついに、聖書がわかった」「ついに、神様の救いがわかった」と言って、神を賛美しながら新しい歩みをここから始めることができるのです。お祈りをいたします。

 主イエス・キリストの父なる御神、あなたが備えてくださった主の日、私どもを教会に呼び集めてくださり感謝いたします。罪によって捕らわれた者となり、貧しく惨めな者となってしまった私どもを解き放ってくださいました。救いによって与えられた自由をこうしてあなたのために用いることがゆるされ感謝します。あなたにある赦しの恵みの中に立ちつつ、今も様々なものに捕らわれ、まことの自由を見失っているこの世の現実を覚え祈ることができますように。今日、あなたのために救いの言葉を語ってくださるお方がここにいるということを証しし、キリストの福音を告げる者として、私たちを豊かに用いてください。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。