2021年07月04日「我らの国籍は天にあり」

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聖書の言葉

3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

メッセージ

 大きな墓地に行きますと、明らかにこのお墓はキリスト者や教会のものだと分かることがあります。聖書の言葉が記されているからです。色んな御言葉が刻まれていますが、先程共に聞きましたフィリピの信徒への手紙第3章20節の言葉も、暮石に刻まれている代表的なものの一つだと思います。新共同訳聖書で「わたしたちの本国は天にあります」と訳されている言葉です。以前の口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。こちらのほうが馴染みのあるという方も多いかもしれません。いったいどういう理由でこの御言葉を選ばれたのでしょうか。少なくとも、この御言葉によって慰められ、励まされた経験をしたからでしょう。お墓には愛する家族や教会員が眠ります。お墓の前に立つ度に、故人のことが思い出されて悲しくなるということがあるかもしれません。けれども、同時にそこで暮石に刻まれた御言葉を目にします。「わたしたちの本国は天にあります」「わたしたちの国籍は天にある」。愛する者は、今、「天」というこれ以上にない確かな場所にいるのです。しかも、一人でいるのではなく、甦りの主に結ばれて共にいるのです。もっと噛み砕いて言えば、愛する者は天国にいるということでしょう。神様がおられる天に帰って行ったということでしょう。だから、悲しみ続ける必要なはい。今、愛する者は神様のもとにいるのだから。おそらく、そのような慰めをこの御言葉から受け取ってきたのではないでしょうか。

 「わたしたちの本国は天にあります」という御言葉は、愛する者を失うという深い悲しみの中にも透き通るようにして届く言葉として、多くの人たちを力づけてきました。しかしながら、この御言葉が持つ豊かさというのは、そこに留まるものではないでしょう。年齢を重ねた人、病の中で死を間近にしている人、愛する者を失った人、そういった人たちだけに意味を持つ御言葉なのでしょうか。決してそうではないと思います。普段から自分は死とは無関係だと思われるのも困りますが、自分はどちらかとうと健康的で、若くて、死に関する深い悩みは正直あまりないという人もいることでしょう。あるいは、若いというよりも、どちらかと言うとまだ小さな子どもである。そういう人たちも教会にはたくさんいるのです。彼らにとって、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉は、それほど重要な御言葉ではないのでしょうか。もちろんそんなことはありません。子どもたちにとっても年を重ねた者たちにとっても、健康な人も病を抱えている者もすべての者が共に聞くべき御言葉がここにあります。なぜなら、すべての人が神様からいのち与えられ、この地上に生きているからです。そして、大切になってくるのは、与えられたいのちをどう生きるかということです。だから、大人だけの問題ではなく、むしろ、若い人や子どもたちにとっても極めて重要な問題となってきます。その時に、「わたしたちの本国は天にあります」「わたしたちの国籍は天にある」というこの御言葉が、実はその人の生き方を決定付けると言ってもよいのです。救いとは何であるかということを告げているからです。この御言葉があるからこそ、死ぬ時はもちろんのこと、この世を生きる時においても、確かな支えとなるのだと喜んで告白することができるのです。

 そして、「わたしたちの本国は天にあります」という御言葉の豊かさをより知るためには、前後の文脈にも注目しながら、その恵みを共に味わいたいと願います。まず、17節でこの手紙を書いたパウロはこう言います。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」最初にパウロがフィリピの教会の人たちに語っていることは、「わたしに倣う者となりなさい」ということです。「模範」としなさいということです。自分の生き方が、まるであなたがたのお手本であるかのように聞こえますが、パウロはここで自分を誇っている訳ではありません。そうではなく、フィリピの教会の人たちを招いていると言ったほうがいいでしょう。お読みしませんでしたが、少し前の14節でこう言っています。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」私たちは不完全であるかもしれない。しかし、キリストが確かに私たちを捕らえていてくださる。だから、共に前に向かって歩もう!目標に向かって走り出そう!パウロは教会の人々に呼び掛けつつ、招くのです。ここで、パウロは「私に倣うように」と言うのですけれども、ではパウロの中に何を見たらいいのでしょう。何に倣えばいいのでしょうか。一つは、前の段落12節以下に記されていますように、キリストによって捕らえられていることです。それゆえに、後ろのものを忘れ前に向かって歩もうとすることです。後ろのものというのは自分の過去もそうですが、何よりも自分の罪が主イエスによって赦されされたことです。そして、私を愛し、私を救ってくださった神様の御声に従って前に進んでいくことです。そのような神様の恵み、信仰の歩みを見て、倣ってほしいというのです。

 先程申しましたように、パウロは自分を誇るために「私に倣うように」と言っている訳ではありません。信仰に喜んで生きるためには、自分のことも含め人間が抱える現実ばかり見ていても仕方ないところがあります。神様を真っ直ぐ見つめ、御言葉に聞く必要があります。しかし、パウロはそのことを承知のうえで、明らかに「私に倣うように、模範とするように」と言うのです。私をちゃんと見なさいというのです。私どももそれぞれの信仰生活、あるいは、どういう仕方で信仰に導かれたのかを考える時、色んな人のことを思い出すことができるのではないでしょうか。家族がキリスト者であれば、家族の存在が信仰生活において大きな意味を持つでしょう。自分一人で勇気をもって教会を訪ねた時、優しく声を掛けてくれたあの人のこと。信仰とは何か?聖書には何が書いているか?そのことを丁寧に教え、洗礼に導いてくれた教会の牧師や教会員を思い出す人もいるでしょう。キリスト者になってからの信仰生活においても、共に生きる教会の仲間は大切な存在であることに変わりありません。ナチスの時代に生きたボンヘッファーという牧師は素敵な言葉を残しました。「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである。」私たちは信仰の歩みにおいても、しばしば弱さを覚えることがあります。しかし、そういう中で教会の仲間たちとの交わりに生き、言葉を交わします。自分の中のキリストは弱いかもしれません。しかし、兄弟姉妹の中にいるキリストはもっと強いのです。そのことに気付かれ、信仰が新たにされる、強くされるということが、私どももあるのではないでしょうか。そして、私どももまた「私に倣いなさい」と周りの人に言うことができます。「あなたも私のように生きてごらん」と伝えることができます。キリストに愛され、捕らえられている自分の姿を示しながら、福音を伝えることができるのです。

 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」パウロは喜びをもって、フィリピの教会の人々を招きます。しかしながら、この時、パウロの心は喜びだけでなく、深い悲しみに満たされていました。18節です。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」「涙ながらに言いますが」とあるように、パウロは涙を流しています。よほどの悲しみに襲われていたのでしょう。その悲しみの涙を直接フィリピの教会の人たちに見せることできません。だから、「涙ながらに」という言葉を敢えて記し、深い悲しみを伝えようとしています。そして、パウロの願いはただ一方的に悲しみを教会の人たちに伝えるということよりも、ここでも「私に倣う」ということをしてほしいのだ。私の悲しみは、あなたがたにとっての悲しみ。私の涙は、あなたがたも流すことのできる涙であるはずだ。そのことをパウロは信じているのです。涙をもって訴える悲しみとはいかなる悲しみなのでしょうか。愛する者を失ったとか、自分の死が近いとかそういうことではどうもないようです。「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と言うように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いという事実。そのことに対する悲しみの涙です。キリストの十字架が人々に重んじられていないのです。重んじるのではなく、軽んじられているのです。十字架など必要ないと思っているのです。キリストの十字架に敵対している者が多いのです。

 では、キリストの十字架に敵対する人たちとはどういう人たちなのでしょうか。例えば、キリスト教会を迫害する人たち。つまり、この世の権力者たちや他の宗教の人たちのことを考えるかもしれません。あるいは、昔からキリストの十字架のことを信仰があるなしにかかわらず、色々考える人がいました。その中で、キリストの十字架は人間の救いとは関係ないと言う人もいます。イエスという人は、最後は十字架でいのちを犠牲にした英雄であり、十字架をとおして愛の模範を示したのだと考えた人たちもいました。確かに、教会を迫害する者など間違った仕方で、キリストの十字架を理解する人たちもいます。しかし、それはキリストの十字架の意味をよく知らないところから生まれる敵対心です。

 もっと厄介なのは、キリストの十字架のことをよく知ったうえで敵対する人たちです。パウロが指摘するのはまさにその人たちのことです。十字架をよく知っている人たちというのは、洗礼を受け、教会に生きている人たちです。キリストの十字架の意味をよく知っている人たちが、なぜ十字架に敵対するのでしょうか。普通に考えたらあり得ないことだと誰もが思いますが、実際、教会において様々な問題が起こったのです。そして、このことは昔の教会、昔のキリスト者たちに限った話ではないということです。どの時代においても、注意しなければいけない問題です。当時、教会の中で大きな問題となり、影響を与えていたのが「ユダヤ主義者」「律法主義者」と呼ばれる人たちでした。第3章2節で、「あの犬ども」「よこしまな働き手たち」と呼ばれている人たちです。彼らはキリスト者になったものの、自分たちがこれまで大事にしてきたユダヤ的伝統というものを大切にしようとしました。特に「割礼」を受けているということを大きな誇りとしていたのです。つまり、キリストの十字架も大事かもしれないけれども、キリストの十字架だけではダメなのだ。十字架だけでなく、割礼を受けていることも大事だと主張し始めたのです。十字架だけでなく、自分たちが大事にしているものを付け加えないと救われないと考えたのです。割礼もそうですが、立派な行い、善い行いをしなければ救われないということでもあります。でも、そういう信仰というのは、結局、キリストの十字架などいらない。結局、大事なのは自分なのだということです。自分の行い、自分が持っているもの、自分たちの伝統というふうに、結局自分が大事なのであって、そういう生き方というのは、ただ自分を喜ばすだけのものです。自己実現のために生きているに過ぎないのです。十字架についてくださったキリストに、まだすべてを委ね切れていないのです。

 パウロは言葉を重ねて言います。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(19節)キリストの十字架を軽んじ、自分の栄光のために生きようとしている者たちの正体は何であるか。「彼らは腹を神とし(ている)」というのです。とても思い切った言葉です。「キリストの十字架だけでは不十分だと」言うならば、それはまったく違う神を信じているに過ぎないのだと言うのです。そのように言われたら、敵対している人たちは、「いや、私はイエス・キリストを信じています。聖書が証しする神をちゃんと信じています」と言い返すに違いありません。しかし、パウロからすれば、それは神を信じているとは言えない。あなたがたは別の神を神として生きているだけだと言うのです。「腹を神とする」というのは、自分の思いや考えを神とすることです。つまり、神は自分なのだ。自分がいつも中心なのだということです。またこのようにも言っていました。「彼らは…この世のことしか考えていません。」この世というのは、地上の歩みのこと、自分のことです。とにかく自分の幸せになること以外考えられないのです。そして、自分の幸せのためなら何でもするのです。「キリストの十字架だけでは足りない」というのは、神様が邪魔だと思っていることと一緒です。神様を無視して生きていることと一緒なのです。

 自分のことしか考えないような生き方、つまり、腹を神とする生き方というのは、キリストの十字架を必要としない生き方でもあります。十字架を必要としないならば、自分の恥も罪も解決されず、そのままであるということになってしまいます。もし自分の中にある恥や罪というものを土台にして、自分の人生を築き上げようとする時、その先にいったい何が待っているのでしょうか。パウロは言います。「彼らの行き着くところは滅びです。」とても厳しい言葉ですけれども、本当にそのとおりなのです。ただパウロはここで、「お前たちなんか滅んでしまえばいい。」そういうことを言おうとしているのではないです。十字架に敵対する者たちにもう一度分かってほしいのです。キリストの十字架以外に救いはない。他の何もいらない。キリストの十字架によって救われて生きるということが、どれだけ確かで希望に満ちたことであるのか。そのことをもう一度知ってほしいのです。パウロの涙には、キリストの十字架に敵対する者に対して、悲しくて情けないという思いと共に、もう一度、キリストの十字架の恵みの中に帰ってきてほしいという思いが込められています。

 神様を信じるというのは、神様のことを知り、神様のことが分かるということです。どうしたら分かるのでしょう。どうしたら分かってもらえるのでしょうか。色んな方法で知ることができますし、色んな仕方でまだ神様を知らない人たちにアプローチすることができるでしょう。でも、一番大事なことがあります。大事というのは、ここにおいて神が神であるということが明らかになるということです。神が神であられるということ、神様が神様らしいというのは、どこで分かるのでしょうか。それがキリストの十字架なのです。キリストの十字架は私たちの罪を救うためのものです。でもそれだけではないのです。私どもが信じるべき神がどのような神であるのか、そのことが一番はっきり分かる場所、それが十字架です。神様が神様として一番輝きを発揮される場所こそ十字架である。そう言ってもいいでしょう。パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中でこう言っています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)人々は言います。「十字架のどこに救いがあるのだ?十字架のどこに神がいるのだ?」しばしば、躓きとなった十字架です。今でもそうかもしれません。しかし、パウロは喜びと確信をもって語ります。十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です!

 そして、説教の最初で触れました20節の言葉が続きます。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」20節の冒頭に、「しかし」という接続詞があります。十字架に敵対する者たちに対して、「しかし」私たちの信仰はこうなのだということを明らかにしていくのです。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。…」ところでなぜ、パウロがここで「本国」とか「国籍」という言い方をしたのでしょうか。「本国」というのは、他にも「市民権」とか「共同体」と訳されることがあります。本国とか国籍という言葉遣いをしたのは、明らかにフィリピとう町が当時置かれていた状況が意識されています。フィリピというのはギリシャの北のほうに位置する町です。当時は、地中海一帯を支配していたローマの植民地でした。植民地というのは聞こえがわるいですが、ローマの法にも守られ、多くの恩恵を受けていたとい言います。それゆえに、フィリピの人たちのローマに対する愛国心や帰属意識は相当強かったのです。自分たちがどの国に属しているのか、それによって受ける恩恵や力というのをよく知っていたのがフィリピの人たちでした。ですから、「わたしたちの本国は天にあります」というのは、単に故郷が懐かしいという話ではないのです。その国に属することによって、その国の力に守られ、生活が支えらえていくということです。どの国に属するのか。国籍はどこなのか。その違いというのは、決して小さい違いではないはずです。とても大きい違いなのだと思います。生活のあり方そのものに決定的な力を与えるからです。

 私どもは、日本という国に生まれ、日本という国でずっと生きてきた人がほとんどでしょう。皆、日本国籍です。ただ同じ日本という国でも、仕事の関係などで色んな町で暮らしたことがあるという人は多いと思うのです。その度に感じることは、同じ国であっても、それぞれの都道府県、市町村によって様々なサービスの違いがあるということです。どこの県やどこの町に籍を置いている人間なのか。小さいことかもしれませんが、そのことによって自分や家族の生活に影響を及ぼす度合いが変わってくるということを知っていると思います。まして天に本国があり、天に国籍がある私どもの生活や生き方が、どれほど大きな影響を受けているかということです。影響というよりも生き方そのものが根底から覆されるような違いが与えられているのです。そこに私どもの救いがあり、喜びがあるのです。だからこそ、「わたしたちの国籍は天にある」という御言葉は、愛する者を失った人たちだけでなく、子どもたちも含め、すべての人に決定的な意味を持つ言葉となるのです。

 「わたしたちの本国は天にある」と言うのですけれども、では「天」はどこにあるのでしょうか。美しい空を見上げてもそこに天はありません。空の遥か先の宇宙に天はあるのでしょうか。それとも私どもの心の中に天は存在するのでしょう。天はどこにあるのでしょうか。天というのは何丁目の何番地というふうに何か住所を持っている訳ではありません。「天」というのは、分かりやすく申しますと、神様がおられるところ、神様の御心がなるところです。もう少し別の言葉で申しますと、「使徒信条」でも告白していますように、復活した主イエスが天に昇られ、神の右に座しておられる場所です。つまり、主イエスがまことの王として支配しておられる場所です。また、主イエスは十字架にかけられる前に、弟子たちにこのようなことをこうおっしゃいました。「父なる神様のところには住む所がたくさんある。もしなければ、わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く。用意したらあなたがたを迎えるに行く。わたしはあなたがたを神様のところに行くことができる人間とするために、十字架で死に、復活するのだ。そのようにして、わたしがいる所にあなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2-3)天というのは目に見える場所ではないのです。神を信じ、十字架による救いを信じる時に初めて見えてくるものです。私はキリストの恵みにしっかりと捕らえられている。罪も死もすべて神様の御支配の中にある。キリストにおいて示された神様の愛から引き離すものはもうどこにもない。この救いの恵みを信じる時、私どもは天を知っているのです。知っているだけでなく、天に国籍を持つ者とされているのです。だから、天から与えられる恩恵をこの地上の歩みにおいても十分に受けることができます。天から与えられる神の力に守られながら、地上の歩みを重ねていくことができるのです。

 私どもは、この地上においてそれぞれの国の国籍を持って生きています。同時に、キリスト者というのは天に国籍を持つ者としてこの地上を生きるのです。二重の国籍を持ちながら生きていくのです。この世の歩みというのは、あくまでも途上でありまして、やがて来たるべき日に私どもの本国である天に移されていく歩みだということです。だから、地上のことに心を奪われたり、引きずられてはいけないのです。自分の欲望を神にしてはいけないのです。キリストの十字架の恵みを無駄にしてはいけないのです。天に本国がある者に相応しい生き方というのが、やはりあるはずなのです。

 私どもはどういう生き方をしたらいいのでしょうか。パウロは言います。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」私どもは終わりの日に心の目を向けます。終わりの日、救いを完成するために、主イエスが必ずこの世界に来てくださいます。本国が天にある私どもは再臨の主を待ち望みつつ生きるのです。さらに、終わりの日との関連で、パウロはこう言うのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」十字架によってキリストと共に死んだ私どもは、キリストと共に復活することが約束されています。そのことをパウロは、卑しい体が主イエスと同じ栄光ある体に変えられると言っています。「卑しい体」というのは、今この体をもって生きる私どもの存在が醜いとか、価値がないと言っている訳ではありません。やがて与えられる栄光ある体に比べて卑しいということです。考えてみますと、私どもが地上において、体を持って生きることのたいへんさを知っているのだと思います。病を患い、年齢とともに体の弱さや衰え、痛みといったものを感じます。そして、人間というのは体と心を切り離して考えることができませんから、肉体に何かしらの問題が起これば、心や魂にまで大きな影響を及ぼすことになります。そして、やがて私どもは死を迎える日が来ます。この世界が、この地上の歩みが決して永遠に続かないように、私どもの地上のいのちにも限りがあるということです。

 しかし、そこで私どもは思い起こすことができます。私どもの本国はどこなのかということを。私どもの本国は天にあるではないか。今も復活の主イエスがおられる天からのいのちの賜物をいただいているではないか。主イエスが再び来てくださった時、私は主と同じ栄光ある体に変えていただける。主イエスに似る者とされる。それほどまでに主イエスの愛が私を支配していてくださる。こんなに嬉しいことはない。だから、主イエスを待ち望もうというのです。また、救いの完成について語るヨハネの黙示録には、次のような慰め深い御言葉があります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)体をもって生きるこの地上の歩みが、涙しなければいけないほどに悲しみと嘆きに満ちたものであるか。その痛みを神様は知っていてくださいます。しかし、地上で流し続けたそれらの涙を神様が拭ってくださるのです。涙拭われた目ではっきりと見ることができるのは、神が共におられるということです。これほどの幸いはありません。

 最後にパウロはフィリピの教会の人たちに心からの愛をもって呼び掛けます。第4章1節「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち…」そして続けて言うのです。「このように主によってしっかりと立ちなさい。」「しっかり立つ」というのは、戦争で敵から攻められても、持ち場から離れず、その場所をしっかり守ることを意味する言葉だそうです。信仰というのはそういう意味で戦いです。いつか、主イエスが来て何とかしてくれるだろうと言って、のんびりなどしていられません。主イエスから任せられた持ち場を自分の都合で勝手に離れるわけにはいかないのです。主から遣わされた場所で、躓くことなく、逃げることなく、しっかりと立ってほしい!パウロはそう呼び掛けます。自分の力で立つのではありません。主によって、主に結ばれて、主の導きの中で、しっかりと立つのです!キリストの十字架の赦しと恵みの中にいつも立ち続けるのです!必ず主イエスは来てくださる。だから主に信頼しよう!主の言葉に聞き続けよう!

 そして、主によってしっかり立つというのは、自分一人だけの問題ではなく、教会共同体としてしっかりと立ち続けるということです。そこにキリストの体である教会が形づくられていきます。「わたしたちの本国は天にある!」これは教会にとっての喜びの信仰告白です。今から共に聖餐にあずかりますが、そこで何を知るのでしょうか。それは、私どもが何によって生かされているのかということです。私どもはキリストの十字架によって生かされているということを、聖餐の度に思い起こします。主の十字架の他に救いはないということを知るのです。私どもを罪と死から救い出すために、主は御自分のいのちを十字架の上で献げてくださいました。私どもは、この救いの恵みに感謝し、恵みに応えて生きる者たちです。もう自分のために生きるのではなく、神の栄光のために生きる者とされているのです。自分たちの貧しさ、罪を覚える日々ですが、しかし、そこに十字架の主がいてくださいます。だから、主にあっていつもしっかり立つことがゆるされるのです。そして、私たちの本国が天にある幸いを覚え、主にある望みを日々新たにしていきたいのです。お祈りをいたします。

 主の十字架によって罪赦され、主の復活によって神と共にある永遠のいのちに生かされている恵みを感謝いたします。自分が誰であり、どのように生きていけばいいのか。そのことをしばしば見失ってしまう私どもですが、その度に、十字架の主のもとに立ち帰ることができますように。また、私たちの本国が天にあることを喜びとし、終わりの日まで、主によって支えられながら、日々確かな歩みをしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。