2021年06月20日「満たされて生きる秘訣」

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聖書の言葉


10さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節

メッセージ

 千里山教会では先週もフィリピの信徒への手紙から御言葉を聞きました。伝道者パウロがギリシアにあるフィリピの教会に宛てて記した手紙です。フィリピの教会はパウロの働きによって生まれた教会です。でも、そのパウロは今、フィリピの町にいないのです。ではどこにいるのか。パウロはローマの権力によって捕らえられ、今、獄中にいるのです。フィリピの人たちはパウロ先生のことが心配でなりませんでした。きっと牢獄の中で、苦しい思い、痛い思いをしているに違いない。そのことを想像するだけで辛くなったことでしょう。けれども、ある時、パウロ先生から手紙が届くのです。しかも1枚というのではなく、何枚も届いたのです。そして、もっと驚いたのは、手紙の内容でした。余程苦しい思いをして、「助けてほしい!」という嘆きや叫びが記されていると思ったら、そんなことは何一つ記されていないのです。このフィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれるほどに、「喜び」という言葉がたくさん記されています。パウロ先生は苦しんでいるのではない。死の恐怖に捕らわれていない。むしろ、解き放たれて生きている、喜んでいる。「あぁ、良かった」と安心したと同時に、不思議な思いに捕らわれたに違いありません。どうして、牢獄の中で喜ぶことができるのだろうか。いついのちを奪われてもおかしくない状況の中で、果たして喜ぶことができるのだろうか。私たちもパウロ先生のように生きることができているだろうか?もう一度、いや何度もパウロ先生からの手紙を読み返したに違いありません。それも、教会の仲間たちと共に、礼拝の中で読んだのです。不思議だなと思いながら、しかし、私たちもまたパウロ先生を生かしている喜びと希望にあずかっているのだと、感謝したことでありましょう。

 本日の第4章は、この手紙の終わりの部分にあたります。お読みしませんでしたけれども、第4章4節以下に次のような言葉が記されていました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」パウロは最後にも、重ねるようにして喜びを語ります。思い煩うことはやめよう。苦しくなったら、近くにおられる神にすべてを打ち明けるように祈ったらいい。神はすべてを知っていてくださるのだから。キリスト・イエスによってあなたがたを守り、平安を与えてくださるのだから。事実、この御言葉によって励まされたキリスト者たちはたくさんいるのだと思います。

 そして、10節でも「わたしは主において非常に喜びました」と言って、喜びを語ります。ここでは、具体的に何をパウロは喜んでいるのでしょうか。10節の前に、「贈り物への感謝」という小見出しがありますように、ここではフィリピの教会の人たちが送ってくれた贈り物、献金に感謝をし、喜んだということです。何よりも贈り物に込められた、教会の人たちの「心遣い」を感謝して受け取ったのです。ただパウロは、直接的な言葉で、「贈り物を送ってくれてありがとう」とは言いませんでした。「わたしは主において非常に喜びました」と言うのです。少し回りくどい言い方と言えばそうですが、キリスト者らしい言葉遣いとも言えるのです。それは、キリスト者が使う決まり文句というようなことではなくて、パウロは何をするにしても、何を考えるにしても神様との関係、イエス・キリストとの関係を大切にした人であったからです。神様との関係の中で、このことは何を意味するのか?この喜びは、この悲しみは何を意味するのだろうか?そのことをいつも考え、考えるだけではなく、先程の4節以下にあったように、いつも祈った人でありました。また、4節にも、10節にも「喜ぶ」という言葉がありますが、「主において常に喜びなさい」「わたしは主において非常に喜びました」とあります。大事なのは、「主において」という言葉です。「主の中で」と訳してもいいでしょう。自分の中で喜ぶのではないのです。自分の心を覗き込んで、喜びはどこにあるかな?喜べそうなことは何かな?というのではありません。そんなことをしても、何一つ良いものは見えてこないでしょう。むしろ、見たくもないドロドロとしたものが見えてきて、余計落ち込むだけだと思います。大事なのは「自分の中で」ということではなくて、「主の中で」「主において」喜ぶということです。自分の心を主に打ち明けるようにして、そして、すっぽりと主の中に包み込まれるような恵みの経験をするのです。

 ここではフィリピの教会からの贈り物を、神様との関係の中で感謝し受け取っています。贈り物に感謝をするというのはどういうことでしょうか。一つは、教会からの贈り物によって、パウロ自身の生活が支えられるということですが、それだけではないと思います。贈り物や献金が最後にどういう形で実を結ぶのかということを見つめる必要があります。パウロの生活が支えられるということももちろんそうなのですが、パウロの生活が支えられることによって伝道の働きが前進し、福音が多くの者に告げ知らされ、救いの民が起こされるということです。私どもも教会のために献金を献げ、また今日は神学校にも献金を献げますが、その目的は牧師や教会、神学校などの必要を支えるという面だけでなく、その先にある神様の思いに目を向けなければいけません。だから、単にお金を出して支えるというのではなく、献げ物が御心のままに用いられること、御国の前進のために用いられることを祈りつつ献げるのです。パウロも、贈り物に込められたフィリピの教会の人たちの心遣い、それは祈りのこもったその心遣いに対して感謝し、主において喜んだのです。

 もう一つ、ここで目を留めたいのは、10節の真ん中あたりにある「ついにまた表してくれたことを」という言葉です。「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。」「表してくれた」というのは、本当はもう少し美しい意味の言葉なのです。「花が開く」「開花する」という意味です。「再び芽生えてくれたことを」とか「よみがえってくれたことを」と訳している聖書もあります。花が開くというのは、その前は花が咲いていなかったということ、つぼみだったということでしょう。以前は、花が咲いていたけれども、やがてその花が閉じてしまった、散ってしまったということです。そして、ここで言われている花が開くとか閉じるというのは、パウロとフィリピの教会の関係を譬えて言われているものです。何が理由かは分かりませんが、パウロと教会の関係があまり上手く行かなくなったというのです。それで、贈り物がしばらく送られてこなかったという時期があったということです。しかし、今、閉じていた花が再び開いたのです。そして、パウロはこのことを決して何かの偶然と捉えるのではなくて、贈り物が再開されたことの中にも、神様の働きがあることを思い、喜んだのです。

 10節の終わりで、「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」と言っています。つまり、いつ贈り物を再開すべきか?そのタイミング、その「時」というがよく分らなかったということです。しかし、神様がその相応しい「時」を備えてくださったのだと言うのです。旧約聖書のコヘレトの言葉には、「何事にも時があり」と言って、人間が経験する様々な時を記します。それは私どもが定めたのではなく、すべて神が定めてくださったということです。その神のご支配の中で、与えられた生涯を精一杯生きようというのです。ここでは特に、パウロとフィリピの教会について語る文脈の中で、花が再び開くこと、相応しい時ということが言われています。牧師だけでなく、教会に生きる者ならば誰もがいつも心の中で、教会の仲間のことを思うものです。そして、執り成しの祈りをささげます。特に、最近顔を見なくなったけれど、あの人はどうしているのだろうか?最近どころではなく、もう何年も教会に来ていないけれども元気にしているだろうか?そういうことがいつも気になり、心に引っ掛かるものだと思います。そして、声を掛けるにも色々と気を遣うものだと思います。それこそ相応しいタイミングや時を見極めることが難しいということを私どもは知っています。しかし、神はそのような「時」、「再び花が開く時」を備えてくださいます。だから、その時が来ることを待ち望み、なすべき教会の業に仕えていくことができるのです。

 さて、この手紙の中で繰り返し語られる喜びということですが、次の11節、12節ではこのように言われています。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」ここで言われていることは、「満足する」ということです。どんな境遇に置かれたとしても、私は満足する。満ち足りて生きることができる。そういう素晴らしい生き方を私は主から教えていただいたと言うのです。喜びというのは、心から喜ぶことができないと意味がありません。喜ぶ振りをしようと思えばできますが、その時、自分の心はまったく満たされていないのではないでしょうか。どこか空しいだけだと思います。ではどうしたら満足する生き方をすることができるのでしょうか。私の生き方に何も不足はないと心から言うことができるのでしょうか。

 この「満足する」という元のギリシア語ですが、この言葉は、当時ギリシア哲学のストア派と呼ばれる人たちが使っていた言葉だそうです。キリスト教であろうが、他の宗教であろうが、どのようにしたら満たされた人生を生きることができるのか?このことはすべての人にとって、大きな課題であると思います。ただストア派の人たちが「満足する」「足りる」と言う時に、それは自分で自分を訓練して、自分で自分を強めて、その結果、満足を得るというふうに理解していました。そして、自分を訓練するということですが、これは何もいい学校に行って、いい仕事に就くということだけではなくて、例えば、誰よりもいっぱい物を集めて満足するということもあるでしょう。お金があれば色んなものを手に入れることができるかもしれません。しかし、物によって支配されるはちょっと違うのではないか。大事なのは心。心を豊かにしないといけない。心を豊かにするためにはどうしたらいいか。それは何があっても動じない心を持つことだ、ストア派の人たちはそう考えたのです。嬉しい時も、悲しい時も何事もなかったかのように動かない心を持つ。それが強い人間、満ち足りた人間なのだと。

 しかし、こういう考え方を聞いていると、確かに動じない心を持つことも大事かもしれないと思う一方、本当にそんな生き方をすることができるのだろうか。そもそも、何があっても動じないというのは、人間としてどうなのだろうか?そういうことを皆様もどこかで感じておられることでしょう。昔の人たちも、ストア派のようなものの考え方を聞いて、この人たちの心は豊かでも何でもない。むしろ、心が砂漠のように乾き切っていると批判したほどです。もちろん、パウロも「満足する」という哲学の世界の言葉を同じように用いながら、その意味するところはまったく違います。修練を重ねて満足の域に達するのでもありません。物をたくさん手に入れるのでも、何事にも動じない心を自分でつくりあげるのでもないのです。パウロは言います。「私は何よって生きるのか?私は何によって満ち足りた人生を生きることができるのか?自分の力によってか、自分の強さによって満足する生き方を極めるのか?いや違うのだ。」そして、13節でこう言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

 パウロが語りますように、私どもまた色んな境遇の中に置かれることがあります。豊かだと思える時もあれば、貧しさを覚えることもあります。健康な時もあれば、病に苦しむこともあります。そして、豊かさや貧しさというものは、物資的・肉体的なことだけでなく、心や魂の問題としても考える必要があると思います。今自分は福音によって生き生きとした毎日を送ることができている。いつもいのちの手応えを感じる。そういう時もあれば、まるで神を信じている人間のようには到底思えないほどに、落ち込んでしまうこともあるでしょう。いったいそのような絶望とも言えるような状況の中で、どうやって満足することができるのでしょうか。どう考えても私どもには理解できないのです。できるとしたら、今置かれている境遇から抜け出す他ないのです。あるいは、自分を苦しめるあらゆるものに、自分の力で打ち勝つ他ないのです。いずれにせよ、苦しみそのものが目の前から消えてしまわない限り解決はないと考えるのです。私どもも時に環境を変えること、その場から逃げること、自分自身を鍛え上げて強くなること、そのようにして自分自身を変えていき、つくりあげていくことがよくあるでしょう。そのことがまったく無駄だとは言いません。

 でも、パウロはここで、そういうことはまったく言わないのです。ひたすらパウロが語ることはイエス・キリストのことです。12節の終わりに、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」自分の力で手に入れたのではない。授かったのだ、与えられたのだというのです。イエス・キリストから、いつかなる場合にも対処する秘訣を授かったのです。「秘訣」という言葉も、教会の言葉ではなく、当時の密儀宗教の入会儀礼の際に用いられた言葉だそうです。しかし、パウロは他の宗教の言葉を用いて、私たちもキリストから秘訣をあずかっているのだと語ります。そして、それは私パウロ一人にこっそり主が与えてくださった秘訣ではない。フィリピの教会の人たち、あなたがたにも与えられている秘訣。あなたもまた主において喜んで生きてほしい。自分の置かれた境遇に満足することを覚えてほしい。それが主イエスの願いであり、伝道者パウロの願いでもあります。そして、その秘訣を授けてくださる主イエスというお方はどういうお方なのか?パウロは短くこう語ります。主イエスは私を強めてくださるお方。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

 主イエス・キリストは強いお方であるということを、パウロは色んな境遇の中で知り続けたことでありましょう。今、獄中から手紙を書いていますが、パウロは「私を鎖でつなぐことができても、神の言葉をつなぐことできない」と言ったことがありました。牢獄の中で、声高々に賛美したこともありました。キリストの圧倒的な力というものを、苦しみの中においてもいつも経験してきたのです。

 そのパウロが伝道者として忘れるこができないある一つの出来事について、コリントの信徒への手紙二第12章に記しています(新約339頁)。「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:7~10)パウロに与えられたとげというのは、病だと考えられます。病の苦しみさえ取り除かれれば、自分が健康になるということよりも、そのことによって今以上に多くの働きをすることができ、結果として豊かな実りを得ることができる。つまり、救いの恵みにあずかる者が多く与えられると考えたからです。だから、幾度もこのとげを取り除いてくださいと祈りました。しかし、主から帰ってきた言葉は以外な言葉でした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉です。病の苦しみは苦しみのまま残るのです。そういう意味では、祈りが文字通り聞かれたわけではありません。しかし、パウロが願った以上のものを主は与えてくださいました。置かれている境遇は依然として変わらないのです。その境遇から抜け出したり、病に打ち勝つ健康を手に入れたのでもないのです。しかし、「わたしの恵みはあなたに十分である」という主の言葉を聞くことができました。「主の力は病という弱さの中にあって、あるいは、様々な苦難の中にあって、大いに発揮されるのだ」という、主の恵みの言葉を聞くことができました。病そのものの苦しさや痛みというものは前と変わらないのだけれども、そこに主がいてくださり、主の力がそこに宿っているからこそ、私はここで生きていくことができる。弱さの中でも生きていくことができる。主イエスと共に、そして教会の仲間と共に…。パウロは言います。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」弱さや貧しさの中にあっても、キリストが私を強めてくださるからこそ、「弱いときにこそ強い」と言うことができる。キリストのために満足することができると言うのです。

 また、私ども一人一人も弱さや貧しさを抱える存在ですが、地上にある教会共同体も弱さや苦しみを覚えています。パウロは今日お読みした15節以降においても、ファリピの教会に対して感謝の言葉を記していきますが、本日の最後の箇所14節でこう言っています。「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」何気ない一言であるかもしれません。しかし、パウロは心を込めて、「あなたがたは私と苦しみを共にしてくれたね。本当にありがとう」と語るのです。「共にする」という言葉は、ギリシア語で「コイノーニア」と言います。教会の中で比較的よく知られているギリシア語の一つでしょう。「コイノーニア」というのは、交わりという意味です。私たちは仲間だ、同志だということです。私たちは「苦しみのパートナー」だと言うのです。伝道者として経験する苦しみを、フィリピの教会の人たちは共にしてくださいました。今獄中にいるのですけれども、その苦しみをも覚え、祈り続けたのです。そして、「苦しみを共にする」という時、何よりもその中心にあるのは、主の苦難です。主の十字架に表されているように、主の苦難を共にするパートナー、仲間であるということです。やがて主イエスの苦しみは、復活へと導かれることを私どもは知っています。神が強いお方であるということがどういうことであるか。そのことを主イエスの復活によって明らかにしてくださいました。もう死の力さえ、私どもを支配することはできない、主イエスの復活のいのちの恵みに押し出されるようにして、喜び満たされながら歩むことができるのです。

 本日は礼拝の後、臨時会員総会を行います。私は前の月の終わり頃には、翌月の説教箇所について考えるのですけれども、今日、ここでめぐみキリスト伝道所の方と共に礼拝することも、まして会員総会が行われるもまったく思ってもいませんでした。でも、神が恵みの言葉を与えてくださったと心から感謝しています。本日扱う議題は、正直喜ばしいものではなく、むしろ、悲しく辛いことでありましょう。神の御前に、私自身が厳しく問われるような思いさえいたします。私だけでなく、めぐみキリスト伝道所の方もそうですし、千里山教会の方にとっても同じだと思います。神様の前で、私たちの弱さや貧しさ、苦しさを嫌というほど覚えながら、しかし、私たちはその苦しみを共にすることができます。苦しみのパートナーになることができます。そして、苦しみつつ、弱さを覚えつつ、しかしそこで望みを持つことができます。私どもを強めてくださる主イエス・キリストが、私ども教会の中に宿っていてくださるからです。主がお甦りになったからです。

 そして、ここでこそもう一度、主から教えていただきたいと心から願います。私どもの置かれている境遇に満足できるように。いついかなる場合も対処できる秘訣が与えられているということを思い起こすことができるように。「弱い時にこそ強い」と喜んで信仰を言い表すことができるように。私どもの祈りに主は必ず応えてくだるのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたの言葉を愛する兄弟姉妹方と共に聞くことができました。私たち一人一人も、教会も色々な境遇に置かれることがあります。しかし、神よ、あなたはどのような時も、私どもの神でいてくださいます。御子をお与えくださったほどに、今も私どもを愛し、慈しみを豊かに注いでいてくださいます。どうかそれゆえに、自分たちの力によるのでなく、ただ主の力によって生かされ、強められることを共に学び続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。