2021年06月13日「教会で知るすばらしいこと」

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聖書の言葉

2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。フィリピの信徒への手紙 3章2節~11節

メッセージ

 本来ならば、本日は教会修養会を行う予定でした。コロナ禍で延期になり、残念ではありますが、こうして今朝も礼拝を守ることがゆるされていることを感謝いたします。先程、共に聞きましたフィリピの信徒への手紙の御言葉は、修養会のことを心に留める中で与えられたものです。延期になりましたから、急遽、他の箇所から語ろうかと思いましたが、聖書箇所も説教題も以前予告したままにいたしました。「教会で知るすばらしいこと」というのは、8節の「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」という言葉から付けたものです。「あまりのすばらしさ」という言葉ですが、以前は「絶大な価値」と訳されていました。飛び抜けて値打ちが高いということです。

 ではいったい、「教会で知るすばらしいこと」とは何でしょうか。他とは比べものならないほど飛び抜けた価値があると言えるものとは何なのでしょうか。特に、まだ教会に行ったことのない人、キリスト教のことをよく知らない人、まだ神様のことを信じていない人、そういった人たちにとって「あぁ、教会は本当に素晴らしいところだ。」そう言ってもらえる、いわば教会の魅力とも言えるものは何なのでしょうか。例えば、壮大な教会堂でしょうか。美しい音色を響かせるパイプオルガンや、きれいな賛美を歌う聖歌隊でしょうか。教会に足を踏み入れるきっかけ、キリスト教に関心を持つきっかけは様々です。そういう意味で、教会が色んな仕方で、なるべく多くの方と接点を持つように努めることも重要なことだと思います。

 ただパウロがここで言っているのはどうもそういうことではなくて、「わたしの主キリスト・イエスを知ること」なのだとはっきりと言っています。「知る」というのは、聖書を一所懸命読んで、あるいは、神学書のような専門的な本をたくさん読んで、キリストについての知識をたくさん得たということではありません。知識を蓄えることも大事ですが、ここで言われている「知る」というのは、その相手の人をよく知ることによって、その人と真実に出会うということです。知ると同時に、その人からもよく知られているということです。そのような人格的な交わり、出会いのことを意味します。キリストを知ること、キリストと出会うこと。これほど素晴らしいことはないというのです。

 また、本日の御言葉を見ますと、例えば、7節に「有利」とか「損失」という言葉があります。「有利」というのは、「利益」「益」と言い換えることもできます。イエス・キリストというお方を知り、キリストというお方と出会ったならば、あなたの人生は益になり、何をしても得をするようになる。そう言われたら、じゃあ、ちょっと教会に行ってみようかと思もいるかもしれません。でも、教会は、一般的にこの世で言われる「ご利益宗教」を売り物にしているわけではありません。だから、イエス・キリストを信じたからと言って、一生健康でいられるとか、商売が上手くいくとか、人間関係で悩むことがまったくなくなるわけでもないのです。洗礼を受けてキリスト者になっても、以前と同じように悩んだり、苦しんだりすることはよくあることです。神様のことを知れば知るほど、自分やこの世界のことを深く見ることができるようになりますから、それで余計に苦しむということがあるかもしれません。それだったら、教会に行っても意味がないのでしょうか。ありがたいキリストの教えだけを心に留めておけば十分ではないか。別に洗礼まで受けて、キリストに従う必要はないということでしょうか。もちろんそんなことはありません。どんなに自分にとってこれは不幸だと思うことがあっても、どんなにこれは自分にとって損だとしか思えないようなことがあっても、教会で知ることができる素晴らしさは変わることがありません。私たちが考えるどんな不幸、どんな損失にも決して負けることがない素晴らしさ、祝福がここにあるのです。パウロは喜びに溢れて、喜びのあまり興奮するように語るのです。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」

 それにしても、なぜパウロはわざわざキリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさということについて、わざわざ記そうと思ったのでしょうか。まだ神を信じていない人たちに対してなら、分かるのですけれども、この手紙を受け取ったのは既にキリストを救い主として受け入れている人たちの群れ、フィリピの教会の人たちです。この手紙を書いたパウロは今獄中にいます。もしかしたら、もうこのまま牢屋から出てくることなく、いのちが奪われるかもしれない。そういう緊迫した中から、フィリピの教会に宛てて手紙を書いています。そして、フィリピの教会もまたある意味、たいへん緊迫した中に置かれていました。2節でパウロは、「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」と三度も警告する言葉を重ねています。明らかにいつもの状態ではありません。緊急事態です。誰に注意したらいいというのでしょうか。その人たちについて、パウロも激しい言葉遣いをします。それほど事の深刻さを表しているのでしょう。「あの犬どもに」「よこしまな働き手たちに」「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを」と言うのです。彼らは教会を迫害する人たちではありません。彼らはユダヤ人キリスト者と呼ばれる人たちです。ユダヤ人と言いましても、当時はもう外国の至るところにユダヤ人がいたのです。でも、ユダヤ人キリスト者というのは、ユダヤ生まれのユダヤ育ちの人間だということです。生まれた時からユダヤ的伝統に生きていた人たちです。その人たちが、キリストを信じるようになったのはいいのですが、まだどこかキリスト以外の自分たちの伝統、習わしが染み付いていたのでしょう。キリストも大事だけれども、割礼を受けているかどうかというのも、救われるためには大事な条件だと教会の中で言い出した人たちがいたのです。それがユダヤ人キリスト者です。

 しかし、パウロは割礼などというものは単なる切り傷にすぎない。私たちの救いを保証するものでもないでもないと切り捨てます。割礼というしるしに頼ろうとする思い、そこに救いの根拠を見出そうとする思い、それらを「肉」という言葉で表現します。肉に頼るというのは、キリスト以外の別のものに頼ろうとする思いのことです。自分を支えるのは神の他にもいくらでもあると言っているようなものなのです。だから、注意しないといけないのです。そして、ユダヤ人キリスト者たちが主張しているように、もし、肉に頼って救われるというのならば、私は誰にも負けない自信があるのだと皮肉を込めてパウロは語ります。そのことが5節、6節で具体的に言われています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」生まれや家柄、経歴や日常生活において、私は誰にも引けをとらないという自負がありました。いわゆるエリートの中のエリートだということです。生まれた環境が良かったというだけでなく、その中で一所懸命努力をし、掴み取れるものはすべて掴んで手にしてきたのです。そして、神の掟を妨げる者がいたならば、その者を殺してでも信仰を守り抜く熱心さも持っていたのです。だからパウロは自分がしていることは正しいこと、神様も喜んでくださることだと信じて、キリスト教会を迫害していたのです。普通、自分で自分のことを「非の打ちどころのない者」という人はほとんどいないと思います。まして、神様の前で「自分は非の打ちどころがない」などとは言わないでしょう。でも、パウロにはそう言えるだけの自信があったのです。

 しかし、そのパウロが言うのです。過去の自分はもう損失でしかない。8節では、「塵あくた」と見なしているということです。「塵あくた」というのは、以前は「ふん土」と訳されていました。とても汚い言葉です。それほどに自分の誇らしかった過去は無価値なもの、ゴミ同然とさえ言うのです。いったいパウロに何が起こったのでしょうか。それが先程申しましたように、キリスト・イエスを知るということす。キリストに真実にお会いした時、そのあまりの素晴らしさに、誇らしかった過去の自分などどうでもよくなりました。過去の自分とキリストを比べて、キリストを信じる道を選んだというのではありません。過去の自分など、今の私にとって損失でしかない。塵あくたでしかない。まるで、昔の自分を憎むようにして、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)と語るのです。

 教会で知る素晴らしさとは、キリスト・イエスを知る素晴らしさであり、キリストと出会うことができた素晴らしさです。そして、キリストを知るということについて、パウロはまた別の言葉を用いて説明します。一つが、8節の最後「キリストを得(る)」ということです。得るというのは、獲得する、自分のものにするということですが、意味としてより丁寧に説明するなら、自分自身がキリストによって捕らえられるということです。そのようにして、キリストが私にとって大切な方、かけがえのない方となってくださったということです。これがキリストを知る素晴らしさの一つです。

 もう一つは、9節の最初「キリストの内にいる者と認められるためです」ということです。キリストを知るというのは、キリストの内に自分を見出すことです。自分はどこにいるのか?自分の居場所はどこなのか?その答えを見つけることが、そのまま私どもの生き方に結び付いて行きます。自分はどこにいるのでしょうか?どこに行けば自分を見出すことができるのでしょうか?それも嫌な自分、目を覆いたくなるような自分ではなく、いつ見ても喜んでいられるような本当の自分、生き生きした自分はどこに行けば見つけることができるのでしょうか。パウロは言うのです。それはキリストの内に本当の自分を見出すことができる。自分だけを見つめていては本当の自分を見つけることはできません。受け入れることなど到底できないような自分がそこにいっぱいいるだけです。そうではなく、キリストの内に自分を発見するのです。そこには、自分が求めていた本当の自分がいるのです。気付いていなかっただけかもしれませんが、神様が望んでおられる私の姿が、そして、私が私として喜んで生きていくことができる自分が、キリストの内にいるのです。私どもはキリストの内で新しい人間に造り変えられていくのです。イエス・キリストが私を新しい人間としてくださるために、主御自身が私のことを先に見つけてくださいました。自分で自分の居場所をつくりだしたり、見つけたりするのではなく、キリストが御自分の内に私どもの居場所を用意してくださるのです。ここがあなたの場所だ!ここにわたしと共に居たならば、安心して生きられる!主イエスはそのように告げてくださるのです。

 何のために生きているのか?自分の居場所はどこにあるのか?この問いは、すべての人にとって避けて通ることのできない大きな課題です。「自分探し」とか「自己実現」というふうに呼ぶこともあります。「これが本当の私」と言える自分を見つけて、その自分を最後まで喜んで生きていくのです。しかし、ここでも注意する必要があります。気を付けて、警戒しないといけません。「自分探し」も「自己実現」も言葉としては聞こえがいいかもしれません。でも、結局重要なのは自分自身ということです。もうずいぶん前になりますが、オリンピックでマラソン選手がメダルをとった際、「自分で自分を褒めてあげたい」とインタビューで答えました。多くの人がこの言葉に感動して、その年の流行語にさえなりました。普段なかなか自分で自分を褒めることなどできないものです。他人からもそんなに褒められることもないでしょう。国の代表になるような選手ですから、相当自分に対して厳しかったはずです。すぐに自分で自分を褒めたり、誰かから褒められているようでは、強い選手になることはできません。厳しく辛い練習を乗り越えて、ついにオリンピックという舞台でメダルを獲得する。そこで初めて、「自分で自分を褒めてあげたい」と言ってあげることができたのです。そして多くの人が、「自分で自分を褒めてあげたい」という言葉に共感したのは、きっと自分で自分を褒めたくても褒めることができない現実があるからでしょう。自分で自分を褒めることができても、気休めにしかならない。現実から目を逸らして甘えているからに過ぎないと思ったからでしょう。まして、周りの人からも褒められたり、認められることも少ないのです。だから、見事に結果を出し、「自分で自分を褒めてあげたい」と言い切ることができたマラソン選手の言葉に慰められたといいましょうか、憧れのような思いを抱いたのかもしれません。

 しかし、ある日本の神学者は以前「自分で自分を褒めてあげたい」という言葉ほど危ないものはないと、よく言っていました。その神学者は、そのマラソン選手を批判したというよりも、この言葉が一人歩きして、この国のメディアも国民も賞賛したことに警鐘を鳴らしたのです。自分で自分を褒めるというのは、違う見方をすれば、他の人が何と言おうが関係ない。自分がよければそれでいいのだということにもなってしまいます。また、信仰の心で「自分で自分を褒める」という言葉を聞く時に、神様が何と言おうと私は私。自分で自分を褒めることができたら、人生の目的を成し遂げたと言うことができる。そのように、言えなくもないのです。自分を見つけることも、自分の居場所を見出すことも生きるうえで大切なことです。でも、問題はそこで神様を見失ってしまうということです。自分を見つけるために生きていながら、そこで本当の自分を見失ってしまいます。自分で自分を褒めることができさえすればいいと思いながら、実はそこで孤独になっているのです。

 伝道者パウロは言いました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。」私は自分の内ではなく、キリストの内に自分を見出すことができた。キリストの内に自分の居場所を見出すことができた。その居場所をつくってくださったのもキリスト。自分で自分を見つける必要もない。自分で自分を支え、褒めてあげる必要もない。主イエス・キリストが私のことを見つけてくださり、私のことを愛してくださる。このキリストの愛によって生かされている自分を大切にすればいいというのです。

 ですから、9節の後半でこう言います。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」ここに「義」という言葉が繰り返されますが、義というのは、神様との正しい関係という意味です。神様との関係の中で、自分をちゃんと正しく位置付けることができているかということです。そして、この正しい関わりを確立してくださるのも神様御自身です。神様との正しい関係が崩れないように一所懸命になっているのは、私どもではなく、神様のほうです。こういうふうに譬える人がいます。神様との正しい関わりというのは、神様と私たちの間に橋が架けられるようなもの。橋を架けてくださったのは神様です。神様のほうから橋げたが延びてきたのです。大切なのは、その橋を誰が支えるかということです。私どもが橋を支えるのではないのです。橋を架けてくださった神様がしっかり橋を支える橋脚になっていてくださるのです。私どもはそれにぶらさがっているくらいであってもまったく大丈夫なのです。

 ぶらさがっているだけで大丈夫かなのだろうか?と不安に思う必要はありません。私どもを支える神という橋脚は、何があっても揺らぐことがないのです。たとえ、私どもの手が離れて、下に落ちそうになっても、神様はその御手でしっかりと捕らえていてくださるのです。その神の力がいかほどのものか。そのことをパウロは最後に語ります。10節、11節「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」キリスト・イエスを知ることは、キリストの「復活の力」を知るということだと言うのです。主の復活の力を知る時、私どもは死という人間にとって一番大きな試練。そして、一番最後にやって来る試練を前にしても揺らぐことがありません。実際は心揺らいで不安になったり、恐くなることがあるかもしれません。しかし、そこでも私どもは一人ではないのです。主が共にいてくださるのです。キリスト・イエスの復活の力が注がれているのです。死を前にしても主イエスの中に、自分の居場所を見出すことができます。

 10節で、「その苦しみにあずかって」と言いました。「あずかる」というのは、分かち合う、仲間になるということです。キリストの苦しみを分かち合うということにおいて、つまり、キリストの十字架の苦しみ、十字架の意味を分かち合うということにおいて、私どもはキリストの仲間であるということです。そして、キリストが私どもの仲間でいてくださるということは、キリストも私どもの苦しみを知っていてくださるということです。私の苦しさがキリストの苦しみとなり、キリストの苦しみが私の苦しみとなります。だから、私どもがキリスト者として歩みを始めたその時から苦しみの意味や内容が変わるのです。苦しみにおいて、私どもは本当に深いところでキリストと親しくなることができます。

 もうご高齢の牧師で隠退されている方ですが、奥様が舌癌を患って、何度も手術を繰り返さなければいけませんでした。最後は病院や施設に入らず、ご自宅で一緒に過ごしたと言います。介護もその先生がなさいました。愛する妻を最後まで支え続けて生きていくということは、体だけでなく、精神的にも辛く苦しい部分があります。そういう中で、その先生はひたすら神様に祈り続けました。どこか隅っこの部屋に一人隠れて祈るというのではなく、つまり、改まって祈るということではなく、家事をしながらでも、介護をしながらでも、奉仕の準備をしながらでも、ふと気付いたら「神様!」と心の中で呼び掛けていたと言います。やがて、奥様は天に召されます。その先生は、奥様が亡くなったことをたいへん悲しまれまし、そして、辛い経験をなさいましたけれども、自分は妻の病や死をとおして、「以前より、私は神様と親しくなれたような気がする。」そうおっしゃっていました。妻を失った悲しみを語りつつ、しかしどこか嬉しそうにして「私は前よりも、神様と仲良くなれた」とおっしゃっていたのが印象的でした。このことはその先生だけの話ではないでしょう。私どもも苦しみをとおして、神様と今よりももっと親しくなれるのです。そして、キリストは苦しみだけではなく、苦しみの極みである死においてすら私どもの仲間となってくださいました。主イエスがお甦りなられたように、私どももまた目を覚ます時が来るのちのす。私どもの死の中にも、主の復活の力が注がれているからです。だからこそ、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」そのように、喜びをもって語るのです。そして、この喜びは、私だけでなく、あなたがたも同じように心から告白することができるはずだと信じて疑わないのです。

 さて、本日行う予定だった教会修養会では、昨年、新会堂が与えられたという視点から「これからの千里山教会」ということについて共に考えようということでした。「これからの…」と言いましても、旧会堂の時から変わらず続けていることが、今はほとんどかもしれません。それは教会としてなくてはならない大事なことです。礼拝もそうですし、キリストの福音を宣べ伝える働きも、最初から教会に与えられている使命です。教会堂の姿・かたちは、新しく建替えましたから、一般的に言う教会らしい教会堂になったかもしれません。教会の近くに住みながら、あぁこんなところに教会があったのか、と足を止めてくれる人もいるでしょうか。「新しい会堂」が一つのきっかけになって、礼拝や集会に来てくれる人がこれからも何人も与えられるかもしれません。しかし、月日が経つにつれて、教会の人たちも、まして地域の人たちは、「教会堂が新しくなった」というふうには言わなくなります。教会堂そのものが新しくなったというのはたいへん大きな魅力ですが、それだけでなくて、今、この千里山教会を形づくる私たち一人一人が新しくされるという経験。このことがとても大切なのではないかと思います。教会堂という建物だけではなく、私たちもまた新しくなったという経験です。それも自分の力ではなく、また神以外の何ものによってでもなく、ただ神の御言葉によって、神の霊によって、そしてイエス・キリスト新しくされるのです。

 御言葉が証しするキリストの内に、私どもは何度も自分の姿を、そして教会の姿を見出します。御言葉を聞く度に、キリストが私どもの新しい姿を見せてくださいます。「ここがあなたの居場所、ここでわたしの体である教会を建て上げてほしい」という主の御心をいつも新しい思いで受け止めることができます。教会はキリストの福音に生き、キリストの福音を告げるのです。「私たちだけではなく、あなたもぜひイエス・キリストのことを知ってください。キリストと出会ってください。キリストの中で、本当に見つけたかったあなたの姿を見つけてください。自分の居場所を見つけてください。必ず見つけることができます。キリストの内に喜びがあり、平安があります。死に勝利にした復活の力が注がれている場所がここにあります!」

 また、より大きな視野で教会の働きを見つめる時、礼拝に招くことだけがすべてではないと思います。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と主イエスがおっしゃったように、教会そのものが地域の人たちの隣人となるということです。教会が町の人たちに寄り添い、居場所となるということです。具体的に何ができるかということについては、ご一緒に考えることができたらと思いますが、小さなこと、ささやかなことでもいいでしょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)主イエスがそうおっしゃってくださったように、たとえ小さな愛の業であっても、終わりの日に、神様の前で確かな意味を持つのです。そのような素晴らしい生き方を、今この場所から始めることができるのです。お祈りをいたします。

 新しい教会堂が与えられたことを感謝いたします。あれから1年が過ぎました。いまだコロナ禍という試練の中にあり、私たちが思い描いていたようなスタートを切ることができませんでした。しかし、礼拝を中心に教会の営みが守られていることを感謝します。新しい教会の仲間をも多く与えてくださいました。私たち千里山教会がこれからも福音の真理に立ち、主の御国の前進のために共に仕えていくことができますように。苦しい時も、死を前にした時も、揺らぐことのないように私たちを支えてくださり、それだけではなく、私たちに希望と力をも与えてくださいますように。そのような私たちの神をこれからも誇りとし、喜びとしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し、祈り願います。アーメン。