2021年06月06日「主の言葉は真実です」

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主の言葉は真実です

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
列王記上 17章1節~24節

音声ファイル

聖書の言葉

1ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」2主の言葉がエリヤに臨んだ。3「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。4その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」5エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。6数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。7しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。8また主の言葉がエリヤに臨んだ。9「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。12彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。17その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。18彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」19エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」21彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」22主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。23エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。24女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」列王記上 17章1節~24節

メッセージ

 先ほど、共に聞きました列王記上第17章から預言者エリヤという人物が登場します。イエス・キリストはこのエリヤの再来ではないかと言われたほどに、旧約聖書ではたいへん名の知られた預言者の一人です。エリヤが生きた時代は、紀元前9世紀の半ば頃です。イスラエルが北と南に分裂していた時代です。その北に位置する北イスラエルという国で、預言者として神に仕えたのです。このエリヤという人物について、聖書はそれほど詳しいことを記しません。生い立ちであるとか、どういう仕方で預言者に召されたのかとか、そのようなことは何も語らないのです。1節で、「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤは」と簡単に紹介されるだけです。そして、すぐさま当時、北イスラエルの王でありましたアハブに対して、神の裁きを告げる場面から始まるのです。

 共にお聞きした第17章には、全部で3つの物語が記されています。大まかに申しますと、このような話です。一つ目は、神の裁きによって、北イスラエルに干ばつの災いが下るということ。そして、食べ物に困るエリヤを養うためにカラスが用いられるという物語です。二つ目は、貧しいやもめが、わずかな小麦粉と油でパン菓子を作り、エリヤを養ったという物語です。最後の三つ目は、先ほどのやもめの息子が病気で死んでしまったのですが、神様が生き返らせてくださったという物語です。それぞれの物語に大きな特徴がありますが、同時に3つの物語を貫く一つの主題・テーマというものがあります。それは「私たちのいのちはどこにあるのか?」ということです。「あなたのいのちはどこにあるのか?」そう聞かれたら、自分のいのちは自分の中にあると言う人もいるでしょう。信仰に生きる者ならば、いのちは神様の中にあると言うに違いありません。私たちのいのちは自分のいのちに違いありませんが、何よりも神様から与えられたいのちであることに間違いないからです。

 そして、本日の御言葉に耳を傾ける時にもう一つの事実に目が開かれていくのです。いのちというのは、実はこういうところにあるのだ。いのちというのは、実はこういうところで輝きを放つのだ。このことに気付かされていくのです。本日の聖書箇所には、神の裁きや天災、飢饉や貧困、病、そして、死というものが記されています。いわば、私どもの人生において、いのちの危機を覚える場面というのがいくつも並べられているのです。しかし、そこでエリヤややもめ、その息子が経験したことがありました。いのちの危機の中で、死の只中で自分たちのいのちが養われるという経験です。神が与えてくださったいのちは、実はこういう危機の中でこそ最も輝くのだということです。矛盾するようですけど、死の只中においてこそ、いのちがいのちとしての輝きを放つのだと言うのです。人生の最期においても、私どもの歩みを生き生きとしたものとするのです。大きな危機や苦難を経験することがあります。死を前にすることがあります。普通でしたら、そこでいのちの輝きなど見ることができません。誰もがいのちの終わりだと思うのです。しかし、私どもに与えられているキリストの福音というのは、そして、教会が人々に伝えるべき福音というのは、死の只中で輝くほどに力強いもの、確かな喜びに導くものであるということです。なぜなら、日曜日の朝にお甦りになった主イエス・キリストのいのちに生かされているからです。

 では、一つずつ順番に、それぞれの危機、また、神によるいのちの養いについて見ていきたいと思います。最初に少し申しましたが、物語の背景にあるのは北イスラエルという国です。王の名前はアハブと言いました。このアハブに神の裁きが下る場面から始まります。アハブの何が神様の御心にかなわなかったのでしょうか。本日の箇所のすぐ前のところ、第16章29節以下にアハブのことについて記されています。要するに、アハブはまことの神を礼拝せず、バアルと呼ばれる異教の神を礼拝しました。経済や農業が発展することを願い、バアルの神を利用したのです。また妻のイゼベルは、バアルを信じる異邦人でありました。彼女の影響もあって、アハブはバアルの神に心が傾いたと言われています。聖書には、「だれよりも主の目に悪とされることを行なった。」(列王記上16:30)「それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行なった。」(同16:33)と記されているとおりです。このアハブに対して、1節後半にありますように、神の裁きを告げるのです。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」

 もちろん、エリヤ自身も北イスラエルにいるのですから、干ばつや飢饉といった危機、つまり、いのちの危機をそこで経験することになります。それで、神様はエリアにこうおっしゃいました。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」私どもが、いのちの危機を経験する時、何が大事になってくるのでしょうか。それはなるべく安全な場所に身を隠すということかもしれません。信仰とは「戦い」に生きることだと言われます。信仰は確かに、戦うこと強くなることが求められます。逃げてはいけない時、しっかりと立ち続けないといけない時があります。でも、そこで覚えていただきたいことがあるのです。時に私どもは逃げる必要があるということです。身を隠す必要があるということです。そのような信仰のバランスを保つことが大事なのではないでしょうか。そして、戦うから強くて、逃げるから弱いのだと単純にお互いを批判しないことです。神様御自身がここで身を隠せとおっしゃっているのですから。そして、大事なのは自分の中で、戦うか逃げるかという判断をするのではなく、神様がおっしゃる場所、神様が指し示す場所に行くということです。主の言葉にすぐに従うことです。それが危機の中を生きるうえで大切なことす。

 エリヤも5節にあるように、「主が言われたように直ちに行動し」たのです。主の言葉に従ったエリヤは、神様が約束してくださったとおり、川の水を飲むことができました。また、食べ物はカラスが朝と夕に、パンと肉をそれぞれ運んできたというのです。一日に肉を2回食べるというのは、普通しないことだと言われています。危機の中で、いつも以上に、豊かな養いを神様から受ける。そのような恵みの経験をエリヤはここですることになります。いのちの危機を覚える時、この先どうしたらいいのか分からなくなります。死の恐れを覚えるくらいなのですから、どうしたらいいのか考える余裕さえないのかもしれません。逃げずにここで踏ん張って頑張るのか?あるいは、どこかに逃げるのか?そういう色んな選択というのが可能性としてあるかもしれませんが、そこで問われる根本的なことは、神様に従おうとする思いがあるかどうかというかということです。御言葉に聞き、その言葉どおりすぐにでも従う姿勢があるかということです。エリヤは、預言者として神の言葉を伝える働きに召されています。それは同時に、エリヤ自身がいつも御言葉の恵みに生かされているということでもあります。今回の出来事をとおしても、エリヤは主の言葉に従う者に、神は人の思いを超えた素晴らしい恵みをもって養ってくださる。これこそが信仰に生きる者の幸いだ。この神様が与えてくださる幸い、喜びを伝えるべく私は召されているのだ。エリヤは改めて自分に与えられている神様からの召しを覚えたことでありましょう。

 そして、もう一度、主の言葉がエリヤに臨むのです。8節から2つ目の物語が始まります。主はエリヤにこうおっしゃいました。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」(9節)ここでも神様が命じられたとおりエリヤはサレプタという場所に向かいます。サレプタという場所は、エリヤが住んでいたギレアドの反対側に位置する場所で、明らかにここは異邦人が住む場所でありました。まことの神ではなく、バアルの神を礼拝する人々が住んでいた場所です。ここに登場する一人のやもめもまた、イスラエルが信じるまことの神を知らない人物でした。そして、彼女は「やもめ」でありました。夫が先に死んだのです。昔の男性社会の中にあって、女性一人で生きていくこと、一人で家族を養っていくことは今以上にたいへんなことでした。生活も当然貧しいものでした。そこに干ばつや飢饉といった苦難が襲ってきます。アハブ王の罪のゆえに、社会全体が苦しみに包まれるのです。そして、この苦難の中で、誰が一番苦しむのでしょうか。同じ苦しみであっても、皆が同じように苦しむわけではないのです。なかでも、社会的に立場が低かったやもめのような存在は、そのダメージを最も受けた人たちでありましょう。

 しかし、この貧しいやもめがエリヤを養うのだというのです。自分のいのちすら危ないというこのやもめが、どうして他人を養えるというのでしょうか。でも、エリヤはここでも神の言葉を疑うようなことはいたしません。やもめのもとに行き、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」(10節)とお願いします。続けて、「パンも一切れ、手に持って来てください」(11節)とお願いするのです。やもめは答えます。12節「あなたの神、主は生きておられます。」これは信仰を言い表す言葉ではありません。彼女はまだまことの神を知らないのです。「あなたの神、主は生きておられる」というのは、自分の言葉に嘘偽りはありません。そういう意味で用いられていた言葉だそうです。ですから、信仰を言い表しているわけではないのです。このやもめにとって、真実なこと。それは彼女の言葉にありますように、「一握りの小麦粉」「わずかな油」「二本の薪」があるということだけでした。それらを用いて食べ物を作り、食べてしまえば、死ぬのを待つ以外に道はないというということです。

 「あとは死ぬのを待つばかりです…」なぜこのような絶望的なことしか口にすることができないのでしょうか。自然災害に襲われたからでしょうか。あまりの貧しさに、生きる術を見出すことができなかったからでしょうか。そういうこともあるかもしれません。しかし、問題を遡ってみますと、そこには神を神として礼拝しない罪、バアルという偽りの神・偶像の神を崇めようとした罪が、この悲惨な現実を生み出したということです。人間の都合によって造り出された神というのは、本当の危機から人間を救い出すことなどできません。富を持っていようが、貧しかろうが、もしそこで神を忘れるならば、生きる希望を見出すことができず、「あとは死ぬのを待つばかりです」としか言うことができないのです。

 しかし、まことの神は、「あとは死ぬばかりだ」としか口にすることができないような現実の中で、私どもを養ってくださるお方です。しかも、カラスであるとか、ここでは明日まで生きていけるかどうか分からない貧しいやもめを用いて、エリヤのいのちを養おうとするのです。やもめも15節にありますように、エリヤの言葉どおりにしたのです。つまり、これは神様の言葉にそのまま従ったということです。「これだけの食べ物でどうやって養うことができるのですか」とか、「これがなくなったら、私たちは生きていくことはできません」というふうに言い訳をしたり、文句を言ったわけではないということです。エリヤと同じように、神様のおっしゃるとおりにしたのです。そこに、「壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない」(13、16節)という神の言葉が実現します。つまり、危機の中で、死の只中でいのちが養われるという経験をするのです。

 また、13節を見ますと、エリヤはやもめにこう言っています。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」ここで強調されていることは、「まず」ということです。まず、あなたにはすべきことがあるのだということです。ここで言われている具体的なことは、まずエリヤのために小さいパン菓子を作るということです。「その後」に、自分とパン菓子を作りなさいということです。「まず」すべきこと、「その後」にすべきことがはっきりと分けられているのです。やめもにとって、まずすべきことは自分や家族のために何かをするということではありませんでした。エリヤのために、誰かのために持っているわずかな物を用いるということでした。

 御言葉に従うというのは、ある意味、自分のいのちを献げる覚悟が問われるということでもあります。つまり、「献身する」ということでもあるでしょう。主イエスも弟子たちに向かってこのようにおっしゃったことがありました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)自分のいのちを献げること、捨てること、これは自分の存在を大切にないこととは全然違います。自暴自棄になることでもありません。自分を捨てるというのは、「これだけあれば安心して生きていける」と思うものをすべて捨てるということです。一国のあるじのように国全体を自分の手の中に収めることができたとしても、反対に、やもめのようにわずかな小麦粉や油しか持っていなかったとしても、「これだけあれば自分は生きていける」と少しでも安心した時に、そこで神様のことすっかり忘れてしまということがあります。神様を忘れ、自分に執着する時に、自分を生きているようで、実は見失っているのだというのです。神様のために、福音のためにいのちを献げて生きる者こそが、本当の意味で自分を生きていると言えるのです。その私どもの歩みを根底から支えるのは、私どものためにいのちを献げ、救いを与えてくださった主イエス・キリストです。

 持っている物が、多いか少ないということは大きな問題ではありません。大事なのは主に従う信仰です。御言葉によって生きるということです。もちろん、私どもは必要な物を求めて祈ってもよいのです。主イエスが教えてくださった「主の祈り」の中にも、「日用の糧」を求めて祈るように教えてくださいました。食べ物をはじめ、着る物、住む場所、健康、友人、教育といった生きるうえで必要な一つ一つのことを求めて祈るのです。そういった一つ一つの中に、神様の恵みを数えて生きていくことができるようになります。間違っても自分の力によって手に入れたのだというふうに思い上がることがないように、日用の糧を求めて祈ります。日々、私どものいのちを養ってくださるよう、心から祈るのです。預言者エリヤも、エリヤが遣わされた場所で出会ったやもめも、主の言葉に従うことをとおして、計り知ることのできない神様の恵みの豊かさを経験することができました。わずかな小麦粉や油しか持っていなくも、死を待つしかなないという絶望の中にあっても、主に従うならば、そこにいのちの祝福が満ち溢れるのです。尽きることなく、なくなることがない恵みの中を生き続けることができるのです。

 このような豊かな経験をした預言者エリヤとやもめでありました。このことを受けて、最後の三番目の物語が17節以降に記されていきます。17節の冒頭に、「その後」という短い言葉があります。神様は、死の只中にあっても、私たちのいのちを養ってくださる素晴らしいお方であるということが知ることができました。しかし、その後に、その直後にと言ってもいいかもしれません。誰も予想していないことがここで起こったというのです。17節、18節をお読みします。「その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。『神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。』」やもめの息子が病にかかり、死んでしまったというのです。誰も予想していない心痛む出来事が起こりました。直前に、神様の偉大さを知っただけに、息子が死んだことはたいへん大きなショックを与えたことでありましょう。何が目の前で起こったのかさえよく分からなかったでありましょう。やもめにとっては、今まで見てきた神様の祝福が一気に崩れ落ちるような、そんな思いに捕らわれたことでしょう。預言者エリヤが伝え、信じている神は、私たちにいのちを与え、死を覚えるような絶望の中にあっても、必要なものを与え、いのちを養ってくださる神であったはずです。しかし、この神様への信仰が、息子の死によって、すべて崩れ落ちたのです。

 やもめは、預言者エリヤに問うのです。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」やもめは言うのです。あなたは私と何のかかわりがあるのか?あなたは何のためにここに来たのか?エリヤにとっては厳しく、鋭い問い掛けです。しかし、やもめは真剣です。何のためにここに来たのですか?私の罪を思い出させるためですか?私の罪のゆえに、息子を死なすためですか?この問いは、エリヤだけに向けられたものではないでしょう。今を生きるキリスト者に対して、そして、教会に対しても投げかけられている問いです。キリストの福音に生きようとする時、福音を伝えようとする時、必ずぶつかる問題ではないでしょうか。「あなたと私は何の関係があるのですか?」「神様と私は何の関わりがあるのですか?」この問いに何と答えることができるでしょうか。「私はあなたとは何の関係もありません。」「関わりたくもありません。」そう言われたら、福音を伝えることがとても難しくなってしまいます。「なぜあなたはキリスト者なのですか?」「何のために教会がここに立っているのですか?」そのように問われたら、どう答えるのでしょうか。とりわけ、愛する者を失った時、深い悲しみや苦しみに襲われた時、そこでどう答えたらよいのでしょうか。多くの人たちが、何と答えてくれるのかを待っているに違いありません。

 息子の死はやもめにとってだけでなく、エリヤによっても衝撃的な出来事でありました。エリヤは「あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」やもめからそう問われて、何も言葉を返すことができません。相手を納得させる言葉、相手を安心させる言葉をエリヤは持っていませんでした。自分が何かをするとか、自分が相手を説得させるとかということではなくて、ただ神に祈り願う他ないと思いました。それで、息子を引き取り、上の部屋の寝台に寝かせて、祈ったと言うのです。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」(20節)さらにエリヤは祈りを続けます。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」(21節)「祈った」と訳されている言葉は、「叫んで」と訳すことができる言葉です。エリヤは自分がどのような仕方で、やもめの問いに答えたらいいのか分からないのです。神に遣わされて今ここにいるはずなのに、語るべき福音の言葉があるはずなのに、そのことが分からなくなることがあるのです。だから、エリヤは答えるという形ではなく、やもめと同じ思いになって、神に叫ぶのです。「なぜこんな災いをもたらすのですか!なぜ、苦しみのうえに、更に苦しみを増し加えるのですか!この子のいのちを元に返してください!」神に祈り、神に叫ぶことをとおして、エリヤはやもめに答えようとしたのかもしれません。やもめが投げ掛けた問いそのものには、ちゃんと答えているわけではないかもしれません。しかし、神に祈るということの中に、神を信頼するという確かな信仰が表れているのです。たとえ、叫ぶような祈りであっても、言葉はきれいに整っていなくても、神をしっかり見つめて叫ぶならば、それはまことの祈りとなるのです。

 そして、神様はエリヤの祈りに耳を傾け、応えてくださいました。死んだやもめの息子を生き返らせてくださったのです。生き返った息子を受け取ったやもめは言います。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」やもめは今わかったのです。ついに分かったのです。まことの神は私たちのいのちを養ってくださるお方であるということ。貧しくても、苦しくても、絶望しそうになっても、そして、死んだとしても神というお方は、私たちをいのちの中に招いてくださるということ。そのことが分かったのです。この神様が与えようとしておられる福音を告げるために遣わされ、今ここに立っているのが預言者エリヤなのだということが分かったのです。そして、「あなたの口にある主の言葉は真実です」と信仰を言い表しました。主の言葉が真実であるとはどういうことでしょうか。主の言葉に偽りはないということでそうか。主が語られた言葉は、空しく地に落ちることなく、実を結ぶということでしょうか。主が語られた言葉は必ず実現するということでしょうか。いずれも正しいと思います。

 その上で、本日の物語をとおして考える時、主の言葉が真実であるということはどういう意味であるのか。そのことがよりはっきりすると思うのです。主の言葉が真実であるというのは、主の言葉は決して、死に負けることはないということです。主の言葉は死に打ち勝つ、まさにいのちの言葉であるということです。干ばつや飢饉といった天災、やもめが抱えていた貧しさや弱さ、そして、やもめの息子を襲った病と死、いずれも死の恐れを覚えるような出来事ばかりです。やもめの息子に関しては、本当に息を引き取ったのです。しかし、死の只中にあるようなエリヤに神様は語り掛けました。また、エリヤをとおして、神様はやもめに語り掛けました。そして、二人とも神様の言葉にすぐに従ったのです。そこに、神様のいのちの祝福が溢れ、その恵みに包まれるような経験をしました。日毎の糧を与えてくださるだけでなく、死の中において確かに輝くいのちを与えてくださったのです。

 列王記上の御言葉に先立ち、ルカによる福音書の御言葉を朗読していただきました。ここでもナインという町に住むやもめが、愛する一人息子を失うのです。息子の遺体が収められた棺が担ぎ出されます。母親は悲しみを抑えきれず、涙を流し続けています。そこに、主イエスが近づき、「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)と語られたのです。驚くべき言葉です。主イエスしか語ることができない真実の言葉、福音の言葉です。愛する者を失った人に、「もう泣くな」などと、私どもは決して口にすることはできません。失礼極まりない言葉だからです。しかし、主イエスだけは語ることができるのです。もう泣かなくともよい…。決して、単なる慰めの言葉でも、励ましの言葉でもないのです。なぜなら、主イエスがもう泣かなくてもいいようにしてくださるからです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(同7:14)主イエスの声は死という現実を突き破るようにして届けられるのです。そして、主イエスの声が届く時、私どもはこの若者のように、死んでも生きる者となります。そして、私どもが知っていることがあります。主イエスの言葉というのは、十字架で死に、復活してくださったお方の言葉であるということです。何の根拠もなしに、「もう泣くな」とか、「起きなさい」とおっしゃっておられるわけではありません。復活のいのちに主イエス御自身が生きておられます。その復活の主が、「もう泣かなくともよい」「起きなさい」。そうおっしゃってくださるのです。そこに、いのちの輝きがあるのです。

 なぜ、私どもがキリスト者としてこの世に立てられているのでしょうか。なぜ、この千里山の地に私どもの教会が立てられているのでしょうか。私どもは隣人やこの世界とどういう関わりがあるのでしょうか。真剣に問うべきことですし、たとえ答えを見出すことができても、そのとおりにできないもどかしさを覚えることもあるでしょう。私どもが生きる世界は多くの問題を抱えています。祝福がすべて奪われてしまったかのような絶望を味わうことがあります。魂においても渇きを覚えます。死の現実が目の前に広がっています。しかし、そのような現実の只中に教会が立てられているのです。そして、私どもはここに集い、礼拝をささげるのです。礼拝をとおして、私どもは主イエスによって養われ、主によって生かされている幸いを覚えます。主の言葉の真実こそが、死の只中にある私どもの歩みを最後まで支えるのです。そして、私どももやもめが告白いたしましたように、「主の言葉は真実です」と言って、福音を語ることができます。決して、尽きることも、なくなることもない、そのような神様の溢れんばかりの恵みが、ここにあるということを教会は語るのです。

 今から共に祝う聖餐も、復活の主イエスが心を込めて、そして、いのちを注ぐようにして準備してくださった恵みの食卓です。主イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださり、復活してくださいました。キリストによって、私どものいのちが養われている幸いをもう一度心に留めましょう。主の言葉の真実によって生かされている幸いを覚えつつ、神と教会のために仕えていきたいのです。お祈りをいたします。

 今朝も私どもを御前に集めてくださり心から感謝いたします。いつも御言葉を聞かせてください。必要なものをお与えください。死に勝利したもう主の言葉の真実に生かされている恵みを忘れることがありませんように、御霊をもって導いてください。私ども一人一人に、そして私たち教会に与えられている神様からの召しを確かにしながら歩みを重ねていくことができますように。主の恵みの言葉に応えて生きる幸いを、私どもにお与えください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。