2021年05月30日「終わりの時が来るまで」

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終わりの時が来るまで

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ダニエル書 12章1節~13節

音声ファイル

聖書の言葉

1その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。2多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。3目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。4ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」5わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。6その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた。7すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」8こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」9彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。10多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。11日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。12待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。13終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」ダニエル書 12章1節~13節

メッセージ

 夕礼拝では、昨年2月から旧約聖書ダニエル書を1章ずつ読み進めてきました。本日の第12章をもってダニエル書は終わります。捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて来られた時、まだ少年だったダニエルも、今はもう人生の晩年を迎えています。そして、ダニエルは明らかに「死」を前にしています。次のような言葉でダニエル書は閉じられるのです。13節「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」神様は「憩いに入りなさい」とおっしゃいました。この「憩う」という言葉は「休む」というふうにも訳されますが、「死」を意味する言葉です。それに続く、「時の終わりにあたり」というのは、この世界の終わり、終末の出来事を意味しています。私ども一人一人の人生の最後には何が待っているのでしょうか。それは言うまでもなく、「死」ということです。しかし、その「死」という一般的には忌み嫌われることを、「憩う」「休む」というふうに言い換えているところに深い慰めがあると思いますが、それはただ言葉のニュアンスだけの問題ではありません。なぜ、死ということの中に慰めや希望を見出せるのか。死は「憩う」ことだと言うことができる根拠は何であるのか。そのところをしっかりと見つめる必要があります。

 私たち一人一人にも終わりがあり、この世界にも終わりがあります。キリスト者であるなしに関わらず、多くの人が終わりの出来事について関心を持っていることでしょう。しかし、興味半分で知ろうとするのではなく、真剣に終わりのことを問い、考えなければいけません。なぜなら、終わりのことをどう理解するかということが、そのまま、私どもがどう生きるかということに結びつくからです。自分の人生にもこの世界の終わりにも、希望を見出すことができれば、私どもは姿勢を正して限られた人生、そして、重みのある人生を賢く生きることができるでしょう。逆に、死んだら何も希望はない。この世界が最後にどうなるかなんて知ったことではない。そのように、空しさを覚え、諦めに支配されるならば、今を生きることに喜びを見出すことはできないのではないでしょうか。

 この後、見ていきますけれども、神様は聖書をとおして、あなたの人生の終わりにも、この世界の終わりにも希望があり、救いがあることを語ります。終わることは終わるのです。でも、いわゆる絶望的な終わり、破局を迎える意味での終わりではないということです。終わりは、神が与えてくださる救いが完成する時です。その救いの恵みに、今既にここであずかっているからこそ、私どもは地上の歩みを最後まで真剣に生きることができる。そのように神様は私どもを励ましておられるのです。

 毎週日曜日、主の日に教会に集まって、礼拝をささげるということ。この礼拝は私どもにとって何を意味するのでしょうか。礼拝とは何か?ということについて、色んな言い方をすることができるかもしれませんが、一つはっきりと言えることは、終わりの日に、神様の前に立つための備えをしていることです。あるいは、自分が死ぬ時のための備えをしているということです。もちろん、礼拝は神様へ感謝をささげる時であり、一人ではなく教会の仲間と共に神様を心から喜ぶ時です。しかし、同時に、私どもは終わりの日に、神様の前に立たなければいけないのです。それは、神様に裁かれるといったそういう恐ろしさを覚えることではありませんが、私どもの生き方が問われるということ。このことに変わりはありません。そういう意味では深い畏れを覚えます。喜びつつ、私どもは神を畏れ、礼拝をささげます。そこで、もう一度、主にある救い、復活のいのちの希望に生かされている幸いを与えられるのです。たとえ、死の力が間近に迫って来ても、憩うようにして復活の主のいのちに包まれて地上の歩みを終えることができるのです。

 さて、神様はダニエルにこうおっしゃっています。1節の途中からお読みします。「その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」「その時まで、苦難が続く」とありますが、「その時」とは具体的にいつまでなのでしょうか。「苦難」とはどのような苦難なのでしょうか。この苦難というのは、前の章、第11章40〜45節を指すと言われていますが、ここを読んでも具体的なことがすべて分かるわけではありません。はっきりと国の名前などが記されているところもあるのですけれども、どうもはっきりしないのです。しかし、そのような中で多くの人たちが共通して語ることは、「その時まで、苦難が続く」という「その時」というのは、終わりの時、つまり、終末の出来事を指すということです。そして、主イエスが来られるまで、数多くの苦難が続くのです。1節で語られる「苦難」というのは、「これとこれ」というふうに限定できるようなものではありません。だから今でも、この国、この世界に、そして私たち一人一人にも苦難があります。

 けれども、神様は「しかし」と言って、言葉を続けられます。「しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」苦難の中にあっても、苦難の中で死ぬということがあっても、あなたがたは救われると約束してくださいます。ではどういう人たちが救われるのでしょうか。「イエス・キリストを救い主と信じている人」と言えば、もちろんそうなのですが、1節では、「お前の民、あの書に記された人々は」とあります。神がイエス・キリストをとおして与えてくださる救いを受け入れ、信じることは大事なことです。しかし、それよりも大切なのは、神様のほうの側で、私ども一人一人の名を、しっかりと御自身の心に刻んでいてくださるということです。それは神様が、「わたしはこの人を救う。この人がどれだけ苦しんでも、信仰の弱さを覚えても、わたしはこの人を救う。いや、もう救われている」という神の力強い救いの宣言であります。聖書全体を見ますと、他の箇所でもいくつか似たようなことが記されています。フィリピの信徒への手紙や黙示録では、「命の書」と呼ばれるものに、私どもの名前が記されているということ(フィリピ4:3、黙示録3:5)。そして、命の書に名前が記された者は消されることはないという約束が語られています。神様は私たちの名を「命の書」に記し、私たち一人一人のことを心にしっかりと留めてくださいます。このことが救いでありいのちなのです。そして、「命の書」に自分の名前が記されるほどに、神様の救いは確かであるということ。この真理が、私どもの信仰の歩みを最後まで支えるのです。苦難を覚える時もこの救いの真理に立ち帰ることができるからです。

 次の2節では、「復活」あるいは「永遠の生命」ということが語られています。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」旧約聖書というのは、あまり「復活」ということを多く語りません。まったく語っていないわけでもありませんし、キリストの甦りの光の中で読む時、これは明らかに復活のことを語っていると理解できる箇所もあるのですが、それでも主イエスが地上に来られた後の時代に比べると少ないのです。「永遠の生命」という言葉も、私どもは当たり前のように信じ、普段の信仰生活の中で用いていますが、旧約聖書では「永遠の生命」という言葉遣いは実はここだけです。もちろん今の時代に生きる私どもにとりまして、この箇所も甦りの主の光の中で読む必要はあるでしょう。死というのが終わりではなく、終わりが終わりではない。むしろ開かれているがゆえに、希望がある。そのように言うことができるのは、主イエスが私どもの復活の初穂として、甦ってくださったからです。このように神様はダニエルに対して、苦難があるということを語りつつ、そのような中にあっても救いは確かにあるということを語ります。終わりの日は、救いと希望に満ちた時なのだとはっきり語ってくださったのです。

 また、ダニエルはまた新たな光景を目にすることになります。5〜7節にそのことが記されます。川の両岸に二人の人が立っています。そのうちの一人が、川の上流に立つ麻の衣を着た人物に尋ねます。「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか。」麻の衣を着た人は答えました。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」これらの言葉をダニエルは聞いていたのです。でもこのように言ったのです。8節「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。』」ダニエルはこの二人の対話が何を語っているのか、さっぱり分からなかったというのです。6節の言葉は、私どもも分かると思います。「これらの驚くべきこと」というのは、苦難のことです。だから、この苦しみはいつまで続くのですか?と尋ねたのです。終わりの日に希望があることは分かる。でも、この苦難がいつまでかを知りたいのです。どの時代のキリスト者も同じように問い続けたのではないでしょうか。しかし、問題は「いつまでですか?」という問いに対して、次のような答えが返ってきたということです。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」この言葉は分かるようで分からない言葉です。特に、「一時期、二時期、半時期」とありますが、知りたいのはその時間・期間の具体的な長さでしょう。ただ、これもはっきりしないのです。ダニエル自身も言葉としては理解できていたと思いますが、具体的なことは何も分かりませんでした。だからもう一度尋ねるのです。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」もう、「いつまでですか?」とは尋ねていません。「これらのことの終わりはどうなるのですか?」と言い換えて、主に尋ねています。神様は先程も終わりの日のことを告げてくださいました。でも、まだダニエルはしっかりと受け止めることができなかったのでしょう。もう一度尋ねるのです。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」

 神様はお答えになります。9節「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。」神様はダニエルが納得するような説明をしてくださったわけではありませんでした。「前に、わたしはこう言っただろう」と言って、繰り返し終わりの時のことを語ってくださったのでもないのです。むしろ、「終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」とおっしゃいました。ますます、ダニエルはよく分からなくなってしまったかもしれません。一見、冷たい神様の態度に見えるかもしれません。ダニエルが理解できないというのならば、私どもはなおさら分からないということになってしまうと思うのです。人生最後の日々において、とても大きな課題、しかもよく理解できないような課題を、ダニエルは神様から与えられた。そういう思いがしないでもありません。

 しかし、ダニエル書をとおして、神様は最後にダニエルだけでなく、私たちをも解くことができない謎の中に封じ込めようとしておられるのでしょうか。そのようなことを考えてしまうかもしれませんが、実はこの「理解できない」ということの中に、信仰生活を続けていくうえで大切なメッセージが込められているのです。まず7節の「一時期、二時期、そして半時期」という期間を表す言葉がありました。この一時期が何を指すのか。二時期が何を指すのか。具体的にどのくらいの長さなのか。それらのことについて、謎を紐解くようにして考える必要はないと思います。ここで神様は「一時期、二時期、半時期」ということをおっしゃっています。神様がここでおっしゃっていることは、苦難そのものに区切りを付けておられるということです。つまり、苦難が永遠に続くことはないということです。必ず、苦難そのものに区切りが・ピリオドが打たれるとうことです。どのような苦難であっても限界が必ずあるということです。苦難そのものが絶対的なものではありません。一つの苦難が終われば、また別の苦難に襲われることもあるでしょう。苦難が終わる前に、その只中で地上のいのちを終えるということもあるかもしれません。しかし、すべてを支配しておられる神様の祝福の中で死ぬことができます。そして、死をもたらす世の力ではなく、神の力こそが絶対である、確かであるということが、終わりの日に明らかにされるのです。

 また、ダニエルが「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねているように、神を信じながらも、神様に尋ねなければいけないほどに不安なこと、分からないことが、今日のキリスト者の中にもたくさんあります。聖書をとおして神様がおっしゃることは分かるけれども、十分に理解できないという部分も多くあることでしょう。信仰生活というのは、何か全部分からないとダメなのではないかという思いがあるかもしれません。もちろん、これだけは知っていただかないと困るということはあります。私どもが信じる神は、いったいどのような神であるかをちゃんと知っていただきたいのです。しかし、何から何まで全部分からないと、神を信じたということにならないのでしょうか。そんなことはないのです。神様御自身が、9節でダニエルに「秘められ、封じられている」とおっしゃっているように、終わりの日にならないと明らかにされないことというのがあるというのです。それは、「あなたは全部分かる必要はない。分からなくても、わたしのことをちゃんと愛し、信頼して生きていける」という神様からのメッセージでもあります。分からないのに、分かった振りをして立派なキリスト者を演じる必要はありません。分からないからこそ、聖霊の助けを祈り求め、神様をますます信頼して最後まで生きていくことができる。そのような信仰の道を神様は備えてくださっているのです。

 日本のプロテスタント教会の最初期において、たいへん大きな働きをした人に植村正久という牧師がいます。この植村牧師についてこういう話が残されています。ある人が洗礼を受けることになりました。洗礼の前には、私たちの教会でもそうですが「試問会」というものがあります。この人に教会として本当に洗礼を授けてよいかどうかを判断するのです。植村牧師は洗礼をするその人に、「今あなたに与えられている信仰とはどのようなものか。」そのように尋ねたのです。その人はこう答えたというのです。「自分は何も分かっていません。ただ聖書の御言葉の一つがありがたかっただけです。」そう言って、自分が愛する御言葉を口ずさんだというのです。もしかしたら、植村牧師が期待したような答えではなかったかもしれません。しかし、植村牧師と教会はその人に洗礼を授けることを決めました。御言葉に信頼する姿勢、神様に委ねる姿勢をそこに見出すことができたからではないでしょうか。「もう自分は全部分かった」と言い切るのではなく、分からないけれども主に信頼する。その信頼する心が、主の日の礼拝ごとに養われることを願って、その人に洗礼を授けたのです。

 神様は、「これらのことの終わりにはどうなるのでしょうか?」と尋ねてきたダニエルに、対して「ダニエルよ、もう行きなさい」とおっしゃいました。「分からないので教えていただきたいのですが…」と言ってきたダニエルに対して、「もう行きなさい」とおっしゃったのです。大事なことは、今ここですべてを理解するということよりも、「もう行きなさい」という言葉に従うことだと神様が思われたからです。分からないから、理解できないから前に進まないのではなく、分からないからこそ、「行きなさい」という言葉に押し出されるようにして、前に進んで行くのです。これが信仰の道です。

 11節、12節には「千二百九十日」「千三百三十五日」といった謎のような数字が記されています。この数字が何を意味するのか、色んな諸説があるのですが、これも具体的な歴史の出来事を表すというよりも、終わりの日の出来事を理解したほうがよいと思われます。そして、「千二百九十」とか「千三百三十五」というふうにはっきりと数字が記されているということは、7節にもあったように、ちゃんと定められた期間があるということです。また、これらの数字は漠然とした「時」を表す言葉ではなく、「日」という言葉が用いられていることから、同じように苦難の期間が定められており、苦難が終わるときが必ず来るということ告げています。だから、その時まで忍耐をもって待ち望む者は幸いだと、神様はおっしゃるのです。

 ダニエルは少年時代にバビロンに連れて来られ、それからはずっと異教の国で生きることになりました。途中で捕囚の期間も終わりましたら、故郷エルサレムに帰ろうと思えば帰ることができたでしょう。しかし、ダニエルは異教の地に残って、信仰に生きることを決断しました。何よりも神から与えられた使命として受け取ることができたからこそ、最後まで働きが守られたに違いありません。苦難があろうとも神が定めたもう期間があるからこそ、忍耐しつつ望みをもって生きていくことができたのです。そして、ダニエル自身、自分は若い時から運命のいたずらによって翻弄され、不幸な人生を送ることになったなどとは思っていなかったことでしょう。時に、私どものお手本となるような強く、立派な一面を見せたかと思えば、神のなさることに対して恐れおののいたり、本日の箇所のように十分に理解することができなかったりというふうな一面を見せることもあったダニエルでした。しかし、最初から最後まで、神の言葉に支えられて信仰の戦いに生き抜いたのです。

 ところでまだ触れていませんでしたが、3節に次のような言葉がありました。「目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」「目覚めた人々」というのは、10節にも記されていますが、正しくて深い洞察力をもって信仰に生きる人々のことです。「多くの者の救いとなった人々」というのは、他の者を救いに導いた人たちのことです。そのような人たちには、大空の光のように、夜空の星のように輝くのだ。つまり、神様からの報いが最後に与えられるというのです。ダニエル自身がこの御言葉が示すような生き方をした人でありましょう。苦難の中にあっても、神から与えられた知恵によって、目の前に起こる事柄を正しく見抜くことができました。幾度も祈りを重ねながら、神に信頼し、すべてをお委ねして生きたのです。ですから、たとえ人間的に見て、「この人の人生は、苦労ばかりで不幸な人だ」と言われるようなことがあっても、神様の目からすれば本当に輝いた人生であるということです。

 私どもはダニエルの姿を見ながら、これほど立派に賢く生きることなどできないと、どこかで思ってしまうかもしれません。まして輝きを放つほどの光を放って生きているだろうかと、謙遜でも何でもなく、本当にそう思うことがあるのです。しかし、そうであるがゆえに、神に祈り、神の言葉に聞きながら、ますます神様を信頼する者として歩んでいきたいと願います。神様の言葉に信頼するならば、苦難の中でも教会は伝道することができるのです。人々を救いに導く生き方をすることができるのです。

 最後に神様はおっしゃいました。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」「お前の道を行け」というのは、好き勝手に生きろということでないことは明らかです。神が定めた道を行くのです。しかし、その道を「これが私の道だ」と感謝をして、言うことができる。何が起ころうとも、「これが私の道だ」と言って、最後まで歩むことができるのです。これほど幸いなことはありません。

 私どももやがて死を迎えます。そして、神が定めたもう時に、終わりの日が来ます。主イエスがもう一度この世界にやって来られるのです。その時、救いが完成し、祝福に完全にあずかることができます。13節に「お前に定められている運命」とありましたが、以前の翻訳では「あなたの分(あなたの割り当てられた分)を受けるでしょう」と訳されていました。終わりの日、神から与えられる祝福があります。復活し、永遠のいのちに完全にあずかるということです。神様は終わりの日、私どもにおっしゃってくださるに違いありません。「たいへんな中、よく信仰に生き抜いたね。これがあなたの分だよ。」そう言って、神様はご褒美をくださいます。「ここがあなたの場所だ。ここで永遠の安息がある。わたしが共にいるのだから。」そう言ってくださるに違いありません。

 私どもは自分の人生がいつ終わるのか分かりません。私ども取り巻く苦難がいつ終わるのかもも分かりません。しかし、必ず終わりが来ます。区切りを付けてくださいます。だから、自分の人生を含め、「終わり」ということの中に、絶望ではなく、希望を見出すことができるのです。そして、改めて思わされますのは、主の日ごとに、七日ごとに、こうして教会に集って、礼拝をささげるということ。これも神が私どもに与えてくださる確かな区切り、大切な区切りではないでしょうか。もちろん七日経てば、問題がすべて解決するということではないかもしれません。まだ苦しみは続きますし、「いつまでですか」と神様に尋ねざるを得ないのです。

 しかし、初めに申しましたように、主の日ごとに神様の前に経ち、終わりの日の備えをします。死の備えをします。畏れつつ神の前に立ちます。しかし、同時にどれほどの祝福と慰めがここにあることだろうかと思います。私どもの罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストが復活してくださいました。この確かないのちに今あずかりながら、再び来たりたもう主を待ち望むことができます。終わりの日、私たちもまた眠りから目を覚ますのです。そして、キリストの義をまとって、神の前に立つのです。この確かな希望が、苦難多きこの世の生活を、最後まで支え、意味あるものとするのです。お祈りをいたします。

 救いの喜びに生かされながらも、同時に信仰に生き抜くための戦いに召されている私どもです。戦うということが、どれほどたいへんなことであるのか、時にいのちを失うほどに厳しいものであるということを、キリスト者たちは歴史の中で経験してきました。人間の力や知恵ではどうすることもできない苦しみの中に、あなたは繰り返し御言葉を語ってくださり、その度に希望を与え、今ここに生かされている確かな意味を教えてくださいました。主よ、これからもキリストの御体である教会に私どもを集めてくださり、あなたの御前に生かされている幸いを兄弟姉妹方と共に覚えることができますように、どうかお導きください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。