2021年05月09日「いつも帰るべきところ」

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いつも帰るべきところ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 17章11節~19節

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聖書の言葉

11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ルカによる福音書 17章11節~19節

メッセージ

 私たちキリスト者の生活をひとことで表すと、どのような生活をしていると言えるのでしょうか。もし他の誰かから、「あなたはクリスチャンみたいだけれども、普段どんなことをしているの?」そのように聞かれたらどう答えるでしょうか。なかなか上手く答えることができずに困ってしまうかもしれません。困ってしまうというのは、短い言葉で上手く言えないということです。クリスチャンの生活とひとことで言っても、色んなことをしています。日曜日には教会に行くし、そこで礼拝をささげ、奉仕をします。普段の生活でも、祈りをささげ聖書を読みます。献金もささげます。信仰生活はそのように多くの側面を持っています。でも一方では、たいへんシンプルなものではないでしょうか。

 どういうことかと申しますと、キリスト者の生活は、神様に「感謝」する生活。主イエスに感謝する生活であるということです。主に感謝しているからこそ礼拝をささげるのであり、主に感謝しているからこそ奉仕をするのです。「感謝」というのは、小さな子どもに分かりやすく話すと、「ありがとう」と言うことです。「イエス様、ありがとう」と言って、毎日を生きていくことです。決して、難しいことをしているわけではありません。洗礼を受けて、キリスト者になるということは、主イエスに感謝をささげて生きることなのです。信仰と言うと、難しいことや複雑なことをしていると思われがちです。少し自分にはハードルが高いなと思われてしまうこともあるでしょう。でも、本当はそんなことはないのです。周りの人に「イエス・キリストを信じることは、キリストに感謝すること。それで十分です」と言ったならば、「何だ、そんなことか」と思われてしまうかもしれません。しかし、主イエスに感謝するということが、どれだけ私どもの信仰を根底から支えるものであるか。そのことを皆様はよく知っておられると思います。

 伝道者パウロも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言いました(Ⅰテサロニケ5:16-18)。どんなんことにも感謝するというは、普通だったらあり得ないことでしょう。決して自分の気持ちに嘘をついて、感謝する振りをすることではありません。キリストにおいて救いが与えられているということは、あなたがどんな状況にあっても感謝することができるほどに、キリストの恵みがいつも届くことを確信しているということです。「感謝なんかできない」と言う時に、主イエスの前にもう一度立ってみたらいい。主はあなたを見捨てるはずなどないということが分かるはずだ。主イエスから離れては、あなたは片時も生きていくことはできない。そのことが救われている者の恵みなのだ。だから、主イエスにあって、いつも神に感謝しなさい。パウロはそう語るのです。

 先程、共に聞きましたルカによる福音書第17章においても、一人のサマリア人が主イエスのもとに戻って来ました。15節、16節です。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」長く苦しんでいた病がついに癒されたのです。嬉しかったに違いありません。しかし、そこで留まることをしませんでした。自分が今、真っ先にすべきことは神を賛美し、主イエスの感謝をささげることだったのです。「大声で神を賛美しながら」とあるように、病が癒されたサマリア人の喜びと感謝は相当大きなものだったに違いありません。そして、病が癒されたこと以上に、主イエスのところに戻ることができる喜びを、この時、初めて気付かされたのではないでしょうか。自分には帰るべき場所がある。主イエスのところに帰り、感謝をささげることこそが、私がこれまで求めていた生き方なのだ。本当の私の姿なのだ。そのことを初めて知り、喜びにあふれたのではないでしょうか。

 ところで、この時、病が癒されたのは一人のサマリア人だけではありません。17節で「清くされたのは十人ではなかったか」と主イエスがおっしゃったように、癒され清くされたのは十人もいたのです。12節にも「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え」とあります。主イエスはエルサレムに向かう旅の途中でした。サマリアとガリラヤの間にある村に主は入って行かれます。そこには、「重い皮膚病を患っている十人の人」がいました。「重い皮膚病」と訳されている言葉は、かつて「らい病」と訳されていました。新共同訳聖書も最初出版された時には「らい病」と訳されていましたが、十数年前翻訳が変更になり「重い皮膚病」という言葉になりました。「らい病」というのは、今は「ハンセン病」と呼ばれていますが、どうも聖書で語られている「重い皮膚病」とまったく同じものではないということが分かってきたからです。以前、「らい病」と訳していたのは、その病を患った人たちを取り巻く環境が、聖書が書かれた時代ととても似ていたからだと思います。日本においても、らい病患者に対する厳しい差別と偏見が生まれ、彼らを家からも社会からも追い出して、隔離するという悲しい歴史を背負っていました。

 旧約聖書においても似たようなことが記されています。レビ記第13章を見ますと、重い皮膚病にかかっている患者は、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。そして、宿営の外で住まなければいけないと記されています(レビ13:45-46)。病の汚れというのは、肉体的な汚れというよりも、宗教的な汚れを意味しました。病を患うということは、神とあなたの関係が正しくないからだ。あなたは神の前に汚れた存在なのだから、神の前に立って他の人たちを一緒に礼拝することはできない。そのように考えられていたのです。ですから、ここでも十人の病を患った人たちは、主イエスに憐れみを求めながら、近くまで行くことはできませんでした。社会からも神様からも遠く離れた場所から、主イエスに聞こえるように声を張り上げて叫んだのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」

 この時、一緒に主に向かって叫んだ十人のうち、九人がユダヤ人で残り一人がサマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人の長く敵対関係にあったのです。イスラエルが捕囚という苦難を経験した際、当時支配していたアッシリア人との間に混血の民が生まれました。純粋な血を重んじるユダヤ人にとって、異邦人の血が混ざってしまったことは許しがたいことでした。それ以来、お互い対立するようになったのです。しかし、この村ではユダヤ人であるとか、サマリア人であるとか、そういう違いは何の関係もありません。お互い仲が悪くても、信仰的な違いがあっても、十人は一つになって主に憐れみを求めました。「病」という共通点が、彼ら十人を一つに結び合せたのです。

 十人の叫びは主イエスの耳に届きます。ただ主はここで十人に近づき、彼らの体に触れて癒すということはなさいませんでした。彼らは汚らわしいからとか、病気が移るからということではなかったと思います。同じルカによる福音書第5章を見ますと、重い皮膚病で苦しんでいた人が、同じように主に癒しを求めた物語が記されています。その時、主は御自分の手を差し伸べ、その人に触れて癒してくださったのです。しかし、本日の第17章ではそうではありませんでした。主イエスの憐れみの業としての癒しだけではなく、「十人の信仰」ということについても、ルカは焦点を当てていたからだと思われます。ですからこの時、代わりに主はこのようにおっしゃったのです。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」病と祭司とはどのような関係があるのでしょうか。病というのは、宗教的な問題として理解されていました。ですから、病が治ったということを最終的に判断するのは、医者ではなく祭司だったのです。祭司から病が完治したことを認めてもらえば、その後、清めの儀式を一週間行い、社会に復帰することができたのです。そのような意味で、祭司の存在は、病を持つ者たちにとって無視することができませんでした。

 ただ、主イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃった時点では、病は癒されておりません。治っていない体で祭司のところに行って、何の意味があるのでしょうか。「お前たちがいるところはここではない」と言って、追い返されるだけでありましょう。けれども、主の言葉を聞いた十人は、主のお言葉どおり、すぐに祭司のところへと向かったのです。本来居るべき村の隔離された場所から、祭司のもとへ向かったのです。おそらく、村の他の人々は彼らの姿を見て驚いたに違いありません。なぜ病人がここにいるのだと、冷たい声を浴びせ、怒り出す人もいたことでしょう。彼らに触れたらたいへんだと言って、逃げ出した人もいたかもしれません。しかし、十人にとっては周りの視線や声などまったく気にならなかったのでしょう。ただ主の言葉を信じ、祭司のもとへ向かったのです。そうしたらどうなったのでしょうか。祭司のところに向かう途中、彼らの病は癒され、清くされたというのです。

 本当に驚くべきことがここで起こりました。病の中にあった十人には、主の言葉を信じる信仰がありました。「まだ治っていないのに、なぜ祭司のところにいかなければいけないのだ。そんなことよりも、私たちの病を早く癒してください。」そのようには言わなかったということです。主がおっしゃるままに従って歩き出しました。ここに私どもが信仰について考えるうえで大切なことが教えられていると思います。神を信じるという時、何か目に見える「しるし」が与えられているから信じるとか、病気が癒されたという「実感」があるから信じるというのではないのです。もちろん、信じるということは曖昧なことではありませんし、信じたからこうなったという見える変化、手応え、味わいというものを求めるのは当然のことでありましょう。けれども、この時の十人はまだ病が癒されていないにもかかわらず、主の言葉を信じて歩き出したのです。実感を得られなくても、主を信頼し、歩き出したのです。そして、その道の途中で病が癒されました。主の言葉を信じて歩いているその途中で、癒されるという神の奇跡、神の恵みを味わったのです。そのような信仰が私どもにも求められています。自分たちが望んでいる目に見えるしるしや結果が先にあるから、信じようというのではないのです。まだ分からない部分があるけれども、主の確かな言葉に信頼し、歩み出すということです。その歩みの中で、主は救いをはじめ、私どもに必要なものをすべて備えられていくのです。

そして信仰というのは、主の言葉を信頼して歩み出すとともに、主が与えてくださった恵みに応えて生きるということでもあります。では、病を癒された十人はどのような仕方で神に応えたのでしょうか。ここから物語が大きく展開していくのです。十人の内、一人の人だけが主イエスのもとに戻って来ました。15節、16節です。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」けれども、あとの九人は戻ることはありませんでした。祭司のもとへと急いだのです。主の言葉を信じて歩み出すということにおいて一つであった十人は、その後の歩みにおいて大きく別れてしまいました。

 順番は前後しますが、なぜ九人は病が癒され、体が清くなったことが分かったのに、主イエスのもとに戻らなかったのでしょう。それは、主イエスが「祭司のもとへ行け」とおっしゃったのだから、そのとおりにしただけだということかもしれません。しかし、その背後にはやはり一日でも早く、祭司から「あなたの体は清い」と認めてもらい、家族のもとに戻り、社会に復帰したいという思いが第一にあったからだと思います。体が清くなったことは嬉しいことに違いないのですが、祭司に認めてもらいお墨付きをいただかなければ、これからの新しい生活は何も始まらないと考えたのです。あるいは、このように考える人もいます。ユダヤ人というのは自分たちが神の民であるといういわゆる「選民意識」がとても強い人たちでした。だからこそ、苦難に陥った時、私たちは神に選ばれているのに、なぜこんな辛い目に遭わないといけないのかと嘆いたのです。九人のユダヤ人たちも、重い皮膚病を患いながら、どこかで「よりによって、なぜ私たちが…」という思いを強く持っていたかもしれません。だから、病の苦しみから解放された時、嬉しさもあったと思いますが、同時に神の民である自分たちの本来の姿はこうなのだ。自分たちは癒されて当然だという思いも少なからずあったことと思います。いずれにせよ、彼らが何よりも優先したのは祭司のところに行くということでした。

 一方で、十人中たった一人だけ、祭司のところではなく、自分の病を癒し、体を清めてくださった主イエスのもとに戻って来た人がいました。それがサマリア人でした。15節に「その中の一人は、自分がいやされたのを知って」とありました。「知る」というのは、「見る」という意味があります。病が癒され、清められたということだけではなく、その背後にある神様の愛と憐れみをしっかりと見ることができたのです。だから、この一人のサマリア人にとって、今何よりも優先すべきことは、神を心から賛美し、私を癒してくださった主イエスに感謝をささげ、礼拝をささげることだと思いました。そして、祭司のところへ急いでいた足を止め、向きを変えて主イエスのほうへと歩き出したのです。

 わざわざ戻って来たのは「サマリア人だった」と16節にあるように、この一人の人は神の民から切り離され、救いが誰よりも遠いとされていた人でした。まことの神をどこかで知っていたかもしれませんが、礼拝などしたことがない人でした。そのサマリア人が、主イエスの御業をとおして、まことの神を知りました。自分がユダヤ人であるとか、異邦人であるとか、そういうことは救いにまったく関係ないのです。神の救いの御手は、この私のような者にも確かに与えられるということを、このサマリア人は知たったのです。そして、同時に自分が本当に帰るべき場所がどこであるのか。私が私として健やかな人間として生きることできる場所はどこなのか。そのことを見出すことができたのです。だから、大声で賛美しながら戻って来ました。主イエスの足もとにひれ伏し、感謝をささげました。「ひれ伏す」というのは、礼拝をささげるということです。

 また、感謝をするにせよ、礼拝をささげるにせよ、そこには必ず対象となる相手がいます。その相手と向き合わない限り、感謝をささげることはできません。そして、感謝すべき相手と向き合う時、そこに出会いが生まれます。そういう意味で、戻って来た一人のサマリア人は主イエスとお会いすることができたのです。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスから言っていただいたのです。私どもが主イエスと本当に出会うということはどういうことなのか。そのことがここで語られているのです。戻って来なかった九人のユダヤ人もまた、主イエスのことを知っていました。でも、本当の意味で主と出会うことができなかったのです。

 真実の出会いとは何か?ということを考える時、この物語が告げている大切なことは、「癒し」と「救い」は違うのだということです。主イエスは本日の箇所や他の福音書の箇所にも記されているように、病を癒すという奇跡を行うことがおできになります。本日のところでも十人全員の病を癒してくださいました。「祭司のところに行くように」と命じられたのは、決して、彼らがわたしの言葉を信じるかどうか試してみようというのではなくて、癒された体を祭司に見せ、早く家族や社会の中に戻ってほしいという主の配慮が表れている言葉です。そして、主の言葉を信頼した十人は祭司のところへ行く途中、皆癒されたのです。主イエスが奇跡の御業を行ってくださったのです。しかし、九人のユダヤ人の信仰はここで終わってしまったのです。神の奇跡によって自分の病が癒されることしか関心がありませんでした。けれども、その奇跡を行ってくださった主イエスが心から望んでいることは、癒しや奇跡のその先にある神の救いに気付いてほしいということです。それは、あなたと真実に出会いたい。そして、あなたに救いを与えたいということでもあります。願いがかなったから、もう神様との関係は終わったというのではないのです。むしろ、主イエスの足もとに立ち帰ることによって、私どもは救いの物語を生き始めるようになるのです。だから、わたしのところに戻って来てほしい。主はそのように心から願われるのです。

 17節、18節で主イエスはこのようにおっしゃっています。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」この言葉には、帰って来なかった九人に対する主イエスの悲しみ、嘆きが込められています。裏を返せば、「どうか戻って来てくれないか」という呼び掛けの言葉として理解することもできるでしょう。「ほかの九人はどこにいるのか。神を賛美するために戻って来た者はいないのか…」九人のユダヤ人を探す主イエスの声は、今日もなお響き渡っています。「帰るべきところに帰って来てほしい。ここに救いがあるのだから…」

 主イエスはこの時、11節にありましたように「エルサレムに上る途中」でした。つまり、十字架の道を真っ直ぐに歩まれている途中であったということです。それは帰るべき場所を見出ことができず、彷徨っている者を見つけ出し、神のもとへ連れ戻すためです。自分にとって都合のいい仕方でしか神を信じることができない者を、心から神を礼拝する者へと造りかえるためです。神との真実な出会いをとおして、私どもがどんな時も神に感謝し、賛美する人間として生きることができるように、主イエスは十字架の道を歩まれました。

 戻って来たサマリア人が、主イエスのもとへと急いだ理由も実はここにあります。サマリア人もまた主イエスと別れた後、祭司のもとに行ったことでありましょう。イエス様によって救われたから、あとの生活はどうなってもいい。社会の中で生きていけなくてもいいということではなかったと思います。だから、祭司のもとに行くことも大事なのです。主御自身がそう願っておられるのです。けれども、それよりもまず先に自分がすべきことがある。そのことにこのサマリア人は気付かされました。それが主イエスに感謝することです。この時、主はエルサレムに向かう途中でした。どこかの宿でしばらくゆっくりされていたのではないのです。ですから、もし今この時を逃したならば、主イエスに直接感謝をささげることができなくなると思ったのです。だから、真っ先に主イエスのもとに向かったのです。

 私どもの生き方というのも「何を最優先するか」ということの中によく表れてくるのではないでしょうか。キリスト者もそうでない方も、生活する中で何を一番優先して生きているのか。そのことの中に、その人が持っている人生観や価値観のようなものが現れてくると思います。そして、キリスト者であるならば、「日曜日の礼拝を優先する」とか、「教会活動を優先する」と言うに違いないと思います。しかしながら、私どもの普段の生活は色んな側面を持っています。毎日、教会に行くわけでもありませんし、周りの人たちが皆キリスト者でもありません。やるべきこともたくさんありますし、思いがけないアクシデントも起こります。そのような中で、どうしても私どもは何を優先して、何を後回しにするのかということを選んでいく必要があります。簡単に分けることができるものもあれば、悩みながら選ばなければいけないこともあるでしょうか。そういう中で、日曜日の礼拝をはじめ、すべてのことを信仰的、教会的な視点でちゃんと見ることができなくなることがあります。そこで何を優先するかが分からなくなってしまうのです。また、この時のサマリア人のような緊急性というものは、今の私どもにはないかもしれません。それは良い意味でもありますし、そうでない面もあります。この時間、この場所に行かないと主イエスにお会いできないということはありません。教会では主イエスにお会いできるけれども、家ではお会いできないかと言うと、もちろんそんなことはありません。しかし、神様の前に立つことの緊張感をいつも保つことができなくなった時、神を信じていることに間違いはないのですが、それがただの甘えになって終わってしまうこともあるのではないでしょうか。信じているようで、実は神様に甘えているだけ。そして、実際は自分に都合のいい生き方を選択しているに過ぎないということがあるのではないでしょうか。その時、私どもはそこで大切なことを見失っているのです。

 「神を信じることは、神に感謝すること」だと説教の初めに申しましたけれども、このことも緊張感を欠くと、自分の気分次第で感謝したり、感謝しなかったりということになってしまいます。でも、神が望んでおられることは、どんなことにも感謝するということでした。そして、感謝するということを本日の物語と照らし合わせ考える時に、それは主イエスのところにいつも、どんなことがあっても戻って行くということです。今は感謝できないからか、主イエスのところに帰らなくてもいい。まだ人生も長いし、少し落ち着いてから主のもとに帰ろうというのではないのです。主イエスは願っておられるのです。「奇跡としか思えないような素晴らしいことが起こった時も、悲しく辛い出来事が起こった時も、いつもわたしのところに戻って来てほしい。」「あなたが誰よりも、どんなことよりもわたしとの出会い、わたしとの関係を一番大切にするために、今ここに戻って来てくれたこと。そのことが嬉しいのだ」と。

 癒されることと救われることは違うということを申しましたけれども、神の救いを知るというのは、奇跡そのものを見るだけではなく、奇跡の先にある神の愛と憐れみを見るということです。そのようにして主のもとに帰る時、癒しだけではなく、救いそのものを与えられるのです。最後にここでもう一つ、癒しと救いの決定的な違いが何であるかと見たいと思います。私どもが神の救いの中を生きるとはどういうことかを最後に見たいのです。その鍵となるのは、戻って来た一人のサマリア人だけ聞くことができた言葉にあります。最後の19節です。「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」この主イエスの言葉を聞くことができたのは、戻って来た一人のサマリア人だけだったということです。癒されたけれども、戻って来なかった九人のユダヤ人は、「立ち上がって、行きなさい」という、この主の言葉を聞くことができませんでした。

 ここに癒しと救いのもう一つ大きな違いがあるのです。主イエスの十字架と復活によって与えられた救いにあずかって生きる者は、この主イエスの言葉を一度だけでなく、生涯にわたって聞き続けるのです。このサマリア人もこの後、社会に戻って新たな生活を始めたと思うのです。その中でたいへんなこともたくさんあったと思います。周りの人から「なぜお前はサマリア人なのに、キリストを信じたのか」と詰め寄られたこともあったかもしれません。人間関係でもめることもあれば、病気やけがをすることもあったでしょう。けれどもその時に、いつも自分の背後で、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という主イエスの言葉が響いていたに違いありません。その度に、「この私ももう一度、主のお言葉どおり立ち上がることができるのだ。今私の前におられる方を信じることの中に救いがあるのだ。」そのように励まされ、目には見えませんが、主の足もとでひれ伏すようにして感謝をささげたことでありましょう。

 イエスのところに戻って行かなければ、聞くことができない福音の言葉があります。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この言葉を私どもも生涯にわたって聞き続けます。そのために、喜びの時も悲しみの時も、主の足もとにひれ伏すようにして戻って行くのです。主イエスの中にこそ私どもの救いがあり、感謝すべきことがあり、生きる喜びがあるからです。もう一度立ち上がり、主が遣わしてくださる場所で、新しい歩みを重ねていくために、私どもは主イエスの前に立つのです。主イエスとの出会いが与えられ、主の救いの恵みに生きる者は、いつ何をしても主イエスのことを大切にするようになります。私どもはどんなことが起こっても、そこで主イエスの存在をもう無視をして生きることができなくなりました。だからこそ、いつも帰るべきところに帰ります。この日、私どもは帰るべきところに帰ってくることができました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスの福音が私どもの歩みを最後まで支えてくれるのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたは私どもにいのちを与えてくださいました。あなたから与えられた恵みに感謝をささげ、喜んで生きるためです。そのために、罪と滅びの中からもあなたは御子をとおして救い出してくださいました。主によって、帰るべき場所を新たに見出すことができたことを心から感謝いたします。私どもが戻って来ることを喜んでくださる主イエスの思いを、何よりも大切にして受け止めることができますように。そして、これからも教会生活をとおして、ますます救いの恵みに生かされていることを喜ぶことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。