2021年03月28日「祈りは聞かれている」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

祈りは聞かれている

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ダニエル書 10章1節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

1ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。2そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。3その三週間は、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった。4一月二十四日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。5目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。6体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。7この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかったのだが、強い恐怖に襲われて逃げ出し、隠れてしまった。8わたしはひとり残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。9その人の話す声が聞こえてきたが、わたしは聞きながら意識を失い、地に倒れた。10突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わたしは手と膝をついた。11彼はこう言った。「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。12彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。13ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。14それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」15こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。16すると見よ、人の子のような姿の者がわたしの唇に触れたので、わたしは口を開き、前に立つその姿に話しかけた。「主よ、この幻のためにわたしは大層苦しみ、力を失いました。17どうして主の僕であるわたしのような者が、主のようなお方と話すことなどできましょうか。力はうせ、息も止まらんばかりです。」18人のようなその姿は、再びわたしに触れて力づけてくれた。19彼は言った。「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」こう言われて、わたしは力を取り戻し、こう答えた。「主よ、お話しください。わたしは力が出てきました。」20彼は言った。「なぜお前のところに来たか、分かったであろう。今、わたしはペルシアの天使長と闘うために帰る。わたしが去るとすぐギリシアの天使長が現れるであろう。21しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。ダニエル書 10章1節~21節

メッセージ

 昨年から聞き続けてきましたダニエル書を終わりのほうに近づいてきました。バビロンに連れて来られたばかりのダニエルはまだ少年でしたけれども、もうここではずいぶん歳を重ねています。バビロンの支配も終わり、今度はペルシア帝国の支配下にあります。どうもダニエルは捕囚が終わっても、故郷エルサレムに戻ることはなかったようです。そして、ここでもダニエルは以前のように幻を見たということが記されています。

 4〜6節にこのように記されています。「一月二十四日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。」「麻の衣」であるとか、「純金の帯」というのは、祭司や天使が身に着ける服装だと言われています。この時、幻を見たチグリス川の岸辺にいたのは、ダニエルだけでなく、何人かいたようです。でも、幻を見たのはダニエルだけでした。周りの人々はなぜか恐怖に襲われて、逃げ出してしまいます。一人残されたダニエルは次第に力が抜け、意識を失い、地に倒れたというのです。

 新約聖書に登場する使徒パウロが、ダマスコへ向かう途中、復活の主とお会いした場面を思い出す人もいます。天からの光に圧倒され、パウロは地に倒れ、目が見えなくなってしまいました。同行していた人たちも、主の声は聞こえるものの、姿が見えないために呆然と立ち尽くしていたというのです。私どもが神と出会うということも、ダニエルやパウロのように圧倒され、打ちのめされるような経験をするということではないでしょうか。ここでダニエルが幻で見た「一人の人」というのも、実はキリストのことではないかと理解する人たちもいるほどです。神様とお会いし、神様がなさることを知った時、もちろんそれは嬉しいことですが、同時に恐れを与えるものだということです。それは絶えず、神のなさることを驚きのまなざしで見つめ、心動かされるということでしょう。そして、神様の御前に立つ自らの姿勢を整えるということです。ダニエルはそういう生き方を大切にした人でありました。

 ダニエルは幻を見て、地に倒れ伏せていました。でもそのダニエルに触れ、彼を起き上らせた者がいました。10〜11節。「突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わたしは手と膝をついた。彼はこう言った。『愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。』こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。」ここで倒れているダニエルに触れ、立ち上がらせたのは誰なのでしょうか。16節には、「人の子のような姿の者」と記されています。具体的に誰かということは記されていないのですが、前の第8章、第9章との関わりから恐らく天使ガブリエルのことだと思われます。そこでも天使ガブリエルが倒れているダニエルを立ち上がらせたり、祈り訴えているダニエルのもとに近づき、彼に触れ、神の御心を示してくださいました。本日の第10章においても、再び天使ガブリエルが登場します。そして、13節、20節には大天使長ミカエルが登場します。この第10章が注目している一つのことは、「天使」のことです。天使とはいかなる存在であるのかということです。

 「天使」という言葉は、キリスト者であるなしにかかわらず誰もが知っている言葉だと思います。おそらく「天使」と聞くと翼があって、頭の上には光の輪っかがある。そういう姿を想像する人も多いでしょう。あるいは、子どものことを「天使のようだ」と言うことがあるように、天使はかわいらしい存在の象徴のようなものとして理解されているところがあると思います。しかし、聖書が語る天使というのは普通人々が想像するようなものではありません。聖書が語る「天使」というのはどのような存在なのでしょうか。天使というのは、別の言葉で言い換えますと、彼らは「使者」であるということです。神の使者、神から遣わされた者であるということです。ですから、天使の働きの中心は神の御心を告げることです。そして、神の救いの計画が実現するために、共に戦ってくれる力強く、頼れる存在でもあるということです。

 「信仰が戦いである」ということは、ダニエル書が繰り返し語ってきた大きなテーマでした。異教の国バビロンの地で、如何にまことの神のみを信じる信仰に生きることができるのかということです。そこにはどうしても戦いや苦難というものが伴います。そのような信仰の戦いをどのような仕方で戦い抜けばいいのしょうか。それは何か暴力や武器をもって戦ったり、訴えるというのではありません。何よりも「祈り」をもって戦うということです。静かに、そして、時に激しく祈るダニエルの姿が幾度もダニエル書には記されています。本日の第10章においても、ダニエルの祈る姿が記されているのです。2〜3節「そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。その三週間は、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった。」ダニエルの心からの嘆きは、祈りとなり、断食をはじめ禁欲の生活とも直接結び付いていきました。12節で天使はこのダニエルの祈りについて、「神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし」とあります。「苦行」というのは、要するに禁欲をしたということですが、これは「へりくだる」と訳すことができる言葉です。何か苦しい修行をして、自分自身を高めようというのではないのです。苦難の意味というのは、苦難そのものを乗り越えないとその本当の意味が分からないというのではありません。むしろ、自分を神様の前に低くし、へりくだることによって、あるいは、悔い改めることによって、神様の御心を知るということなのです。

 日々、祈りの生活に生きる私どもですが、時に嘆かざる得ない状況に立たされることがあります。神の力に圧倒されて倒れるならば幸いですが、自分の問題を含め、この世のことで思い煩い、疲れ果てて、倒れ込んでしまうことがある私どもです。もうこんな状況で立ち上がることもできない。戦うことなどなおさらできないと思ってしまうのです。でも、神様が願っておられることは立ち上がってほしい。祈りをもって戦ってほしい。そして、苦難の中にあるあなたに示そうとしているわたしの御心をぜひ知ってほしい。神様はそのことを願っておられます。だから、神のもとから遣わされた天使が、この時もダニエルに触れてくださいました。天使が触れたというのは、神様が触れてくださったというふうに理解してもよいことです。天使はダニエルに触れ、言葉を掛けます。11節「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」そして、ダニエルは震えるように立ち上がったというのです。

 天使はダニエルに次のように伝えます。12節。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」天使がここで伝えていることの一つは、祈りは聞かれているということです。興味深いのは、祈り始めた最初の日から、ダニエルの祈りの言葉は聞かれていたというのです。このことは前の第9章23節でも同じことが言われていました。「お前が嘆き始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。」天使ガブリエルはそのようにダニエルに言いました。聖書は繰り返し祈り求めることを教えます。しかし、それは何か「御百度を踏む」ということではありません。祈りというのは、私どもの功績ではありません。私はダニエルのように三週間も祈り続けた、あるいは、百回も同じこと祈り続けた。そのこと自体が神様の前に意味を持つのではありません。祈りの言葉は、私どもの心から生まれることもありますが、祈ることができるということ自体が神様の恵みそのものです。諦めることなく何度も祈ることももちろん大切です。ダニエルも繰り返し祈ったのです。しかし、恵みを与え、御心を示すのは神御自身であるということです。そして、私どもの嘆き、祈りを先取りするかのように、神は祈りを初めからちゃんと耳を傾けてくださり、神様の側でちゃんと祈りへの応答を用意してくださっているのだということです。私どもも目に見える結果として、まだ祈りが聞かれていないのではないかと思ってしまうことがあります。私どもはすぐに祈りに応えていただきたいと願うものですから、その祈りに対する神の応答が目に見える形や結果で表れないと、すぐに不安になり、時に呟いてしまうこともあることでしょう。最初から祈りを聞き、祈りに対する御心を用意しておられながら、なぜすぐに私どもに教えてくださらないのだろうか。それはよく分からないことがあります。しかし、変に不安になったり、疑いの思いに捕らわれる必要はないのです。祈りにすぐに応えてくださらないから、信仰生活には意味がないとか、もう私の人生は絶望だと嘆くこともないのです。祈りは確かに聞かれているという信仰に立ちながら、神を信じて、御心を示される時を待つことができるのです。たとえ、苦難の日々が続こうとも、祈りを絶やさず神の前に立ち続けます。祈るべきことを祈り、戦わなければいけないことしっかりと向き合い、霊的な戦いを続けていくのです。

 この信仰の戦いは、孤独な戦いではありません。私の祈りは教会の仲間と共にささげる祈りでもあります。何よりも私どもの先頭に立っておられるのは神御自身です。そして、この信仰の戦い、祈りの戦いに新たに加わっている者たちがいる。それが天使だと言うのです。13節にこうあります。「ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。」20節にもこうあります。「なぜお前のところに来たか、分かったであろう。今、わたしはペルシアの天使長と闘うために帰る。わたしが去るとすぐギリシアの天使長が現れるであろう。」天使は私どもと信仰の戦いを共にしてくれる存在です。ここに登場するガブリエルは、まずぺルシアの天使長と戦います。ペルシアの天使長と言っても、これは堕落した天使のこと、悪魔的な存在と言ってもいいでしょう。ペルシアの天使長との戦いに勝利したら、今度はギリシア天使長と戦うのだと言います。この世の権力に苦しむキリスト者ですが、この苦しみを共にしながら、しかし、神こそがまことの王であり、支配者であることを明らかにしてくださるために、天使は戦ってくださるというのです。そして、信仰の歩みにおいて弱さを覚え、つまずき、倒れてしまうならば、その度に天使は声を掛け、私に触れてくださいます。18〜19節をお読みします。「人のようなその姿は、再びわたしに触れて力づけてくれた。彼は言った。『恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。』こう言われて、わたしは力を取り戻し、こう答えた。『主よ、お話しください。わたしは力が出てきました。』」

 やがて時が満ちた時、神が私どもと同じ人間としてこの世界に来てくださいました。神の御手というのは、何か漠然としたものや、何か象徴的なものではなく、イエス・キリストというお方の中にはっきりと表されています。主イエスはその御手をもって人々の病を癒されたり、数々の奇跡の御業を行ってくださいました。そして、最後にその主イエスの御手は十字架につけられたのです。しかし、ここにまことの救いが生まれました。今日から教会では受難週が始まります。キリストの苦しみというのは、エルサレムに入城されてからの十字架で死ぬまでの一週間だけということではなくて、地上に生まれた時から常に苦難に満ちていました。同時にそれは戦いの歩みにもなりました。主イエスに敵対した人たちがいたということもありますが、何よりも十字架そのものに対する恐れです。その恐れというのは、神に呪われ、神に見捨てられて死ななければいけないということです。だから、主イエスは十字架にかけられる前に、激しい祈りをささげました。それこそ、ダニエル以上に、神を畏れ、血が滴るような汗を流しながら、もだえ苦しむようにして祈られたのです。

 それが「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる祈りです。ルカによる福音書第22章39節以下に次のように記されています。新約聖書の155頁です。ここではゲツセマネではなく、「オリーブ山で祈る」となっています。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」43節を見ますと、天から天使が現れて、苦しみもだえる主イエスを力づけたと言うのです。この43節と次の44節は括弧で括られています。ある写本にはこの二つの節が抜けているものもあるということです。なぜかと申しますと、おそらく、神の子であるお方が、こんなに苦しむはずはない。まして、天使に助けられなければ祈ることができないほどに、苦しみ、弱さを覚えるはずはない。これは主イエスには相応しくない姿だ。そう考えたのでしょう。しかし、考えてみますと、私どもはゲツセマネの時の主イエスほどに激しい祈り、苦しみもだえながら祈ることが本当にあるだろうかと思います。神の御子でありながら、天使に助けられなければ祈ることができないほどに、弱い所に立つことができるのだろうかと思うのです。そして、主イエスほど、神を神として畏れ、苦しみもだえたお方は、他に誰もいません。そのようなお方が十字架で死んでくださったからこそ、私どもは罪と死の中から起き上がり、神の御前に立つことができるようになりました。

 そして、主イエスはゲツセマネで祈られた時、一緒にいた弟子たちのことを心に掛けてくださっていました。主の十字架は弟子たちのための十字架でもあるからです。主は弟子たちに繰り返しおっしゃいました。「誘惑に陥らないように祈りなさい」「目を覚ましていなさい」。残念ながらこの時、弟子たちは眠り込んでしまいましたが、復活の主とお会いした時、弟子たちは目を覚まして祈り続ける者に変えられたに違いありません。祈りをもって、誘惑と戦ったのです。自分たちを助けてくれる天使と共に、そして主イエスと共に信仰の道を歩み抜きました。「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」天使も神も私どもに声を掛け、私どもに触れてくださり、力づけてくださいます。そして、私どもの口にも言葉が与えられるのです。「主よ、お話しください。わたしは力が出てきました。」私どももダニエルと同じ言葉を口にしながら、畏れつつ、神の御前に立つ者とされるのです。お祈りをいたします。

 父なる御神、あなたのことを心から畏れると共に、あなたが私どものために行ってくださる素晴らしい御業にいつも驚き、喜ぶことができますように。目を覚まして祈ることできるように、あなたによっていつも励まされ、信仰の道を歩み抜くことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。