2021年03月28日「今日、あなたは楽園に」

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今日、あなたは楽園に

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章39節~43節

音声ファイル

聖書の言葉

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書 23章39節~43節

メッセージ

 主イエスが十字架の上でお語りになったたいへん慰め深い言葉を聞きました。43節の御言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この主の言葉を最初に聞いたのは、主イエスと一緒に十字架につけられていた犯罪人の一人でした。私どもが主イエスを信じる信仰が与えられるというのは、主イエスと真実に出会うところから生まれます。あるいは、主イエスとの真実の対話をとおして、救いに導かれるのです。この一人の犯罪人も主イエスと出会うことができました。しかも、主と出会った場所というのは本人にとって、思い掛けない場所でした。それが十字架の上での出会いでした。私どもも様々なかたちで主イエスとお会いし、信仰に導かれてきたでしょう。そして、皆が自分の思いを遥かに越えたところで、主とお会いしたと言うに違いありません。では、十字架の上で主イエスとお会いするというのは、この一人の犯罪人にとって、そして私どもにとって何を意味するのでしょうか。

 十字架刑というのはローマ帝国が行なっていた処刑法です。しかも極刑でした。自分が死ぬということほど、悲しく辛いことはないでしょう。そして、十字架でつけられて殺されてしまうというのは、息を引きとる最後の最後まで肉体的にも精神的にも苦しまなければいけない、最悪の死に方です。そして、ユダヤ人にとりまして木にかけられて殺される、つまり、十字架につけられて殺されるということは、「神に呪われて死ぬ」ということを意味しました。神の民にとって、神に呪われた死を死ななければいけないというのは、肉体の死を死ぬこと以上に絶望的なことでした。十字架の上で死ぬということ、これ以上に最悪な日はありません。でもこの人生最悪の日に、一緒に十字架につけられている主イエスはおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」主はおっしゃるのです。「どうかこのことだけは忘れないでほしい。わたしは今日あなたと一緒に楽園に入る。」主はこの男の同伴者として、死を突き抜けたいのちの支配の中に向かわれるのです。

 そして、十字架上での主の言葉が、後の教会の人々にとって深い慰めとなったのは、この私もまたいつか死を迎える時が必ず来ることを知っているからでしょう。キリスト者にとって、「死」というのは、必ずしも最悪なことではありません。既に死に勝利した主のいのちに生きているからです。しかし、死を前にした時、恐れや不安を抱くことは正直あるのだと思います。心は強くても、重い病によって、体が言うことをきかないことがあります。そして、弱音を吐いてしまうことがあるのです。あるいは、死に向かう静かな時間の中で、自分の人生に起こった様々なことを思い起こし、胸が苦しくなることもあります。そのような意味で、死というのは、キリスト者にとっても人生最大の試練と言うことができます。しかし、その試練の中で、人生最後の日々において、聞くべき言葉があるのだと言うのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 また、信仰をまだ言い表していない者にとりましては、人生の最後においてさえ、主イエスは私を見捨てることなく、救っていてくださるのだという慰めの言葉として、この十字架の言葉を聞いてきた人も多いのではないでしょうか。まだ、主を信じていない本人だけではなく、愛する家族や友人の救いを覚えて祈っておられる方にとりましても、大きな励ましになる言葉です。諦めることなく、キリストの福音を伝えようという思いを多くの人々に与えてきた言葉です。

 そして、福音を誰かに宣べ伝える時も、礼拝で御言葉を聞く時も、そこでどういう言葉が語られ、その言葉にどのように応答するのかが、とても大事になってきます。つまり、対話をするということです。神様からの一方的な関係ではなく、対話をし、共に生きるということを神御自身大切になさるからです。主イエスは十字架にかけられている時も、一人の犯罪人と対話をしています。十字架の上というのは、先程申しましたように、誰も生きたくないような場所です。しかし、主はそのような場所でこそ対話を重んじられます。死を前にしても、主イエスは「あなたに話したい」と心から願っておられるのです。 

 もうずいぶん前になりますけれども、キュブラー・ロスというアメリカの精神科医が記した著書に『死の瞬間』という著書があります。世界的にもベストセラーになった本です。その後、続けて『死の瞬間の対話』という本が出版されました。死を迎えつつある患者との対話を記録したものです。教会でも比較的よく読まれているのではないかと思います。キュブラー・ロスは、このようなこと言っています。「多くの人は自分の死を前にして、これまで生きている間にやってきたことを思い出す。そして、今からよい人間になろうとしても取り返しがつかないことを悲しんでいる。このまま死んでしまったらどうなるのだろうかという不安に捕らえられている。そしてこの不安に勝つことができないと思っている。」そのように言うのです。安らかに死ぬことができない不安、平安のうちに死を受け入れることができない問題が最後に残ると言うのです。どうしたら死を受け入れることができるのでしょうか。しかも平安のうちに…。死に対する不安、恐れというのは、死んだ後のことが分からない、見えないということかもしれません。要するに、死を前にして救いが見えないということです。もし死を越えたところにある救いが見えたならば、たとえ、罪の問題をはじめ様々な不安に苦しむことがあったとしても、心の底では主にある平安のうちに生き、死ぬことができるのです。

 十字架の主イエスと犯罪人の一人の対話は、死の直前に交わされた対話、しかも、死に打ち勝つ救いに導く対話です。しかし、だからと言って、私どもは死ぬ間際になったら、この主イエスの言葉を思い出したらいい。それまでは神様の御心から外れた歩みをしていても、最後には赦してくださるのだから…。そのような思いで十字架の主の言葉に聞くことは、明らかに間違った聞き方です。私どもが主の日毎にささげている礼拝というのは、一つの言い方をすると、死への備えをしていると言えるのです。主の日というのは、主の復活をお祝いするということです。死に打ち勝ってくださったいのちの主と共にある幸いを覚えながら、自分のいのち、そして、死を見つめます。礼拝は私どもが死に直面した時に見るべきものを、先取りするようなかたちで今見させていただいているということでもあります。本日から受難週が始まります。十字架に向かわれる主イエスのお姿を改めて心に深く刻みたいと願います。そして、主イエスの十字架の死は、私どものいのちと死に深く関わるものです。それだけに、主が語られた十字架の言葉を聞き逃すわけにはいきません。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 主イエスが十字架につけられた時、二人の犯罪人も一緒でした。一人だけではなく、二人の犯罪人が一緒に十字架につけられました。十字架という場所ではありましたが、二人の犯罪人は主イエスに一番近い場所にいたのです。共に十字架につけられたという意味では、主イエスも犯罪人も仲間であると言えるかもしれません。しかし、こんなに近いところいながら、主イエスと真実にお会いすることができた人と、そうでない人がいたのです。ところで、この二人の犯罪人ですが、いったいどんな犯罪を犯したというのでしょうか。十字架という極刑に処せられるくらいですから、相当大きな犯罪を犯したのだろうと考えます。ただ、聖書には具体的な罪名は記されていません。しかし、おそらく彼らは政治犯、テロリストではなかったかと言われています。つまり、この時、ユダヤを支配していたローマ帝国に反逆する罪で捕らえられたのです。二人は政治犯として捕らえられ、十字架にかけられることになったのですが、彼ら自身は罪の自覚というものはなかったと思います。自分たちを苦しめるローマに立ち向かっただけの話で、むしろ、自分たちは正しいことをしている。それなのになぜ、捕らえられ、十字架につけられなければいけないのか。自分たちは犠牲者だと思っていたことでしょう。

 最初の犯罪人が、同じく十字架にかけられている主イエスに向かって、こう言ったのです。39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」「お前はメシアではないか」「自分を救ってみろ」という言葉は、先にユダヤの議員やローマ兵たちが、十字架の主に向かってあざけるようにして言った言葉とまったく同じです。犯罪人にとって、主イエスの存在は興味深かったのでしょう。この男は自分のことを「メシア(救い主)」と自称している。自分たちもまたローマの支配からユダヤを救い出すために活動している。しかし、三人とも今十字架につけられている。さあ、自分のことを「メシア」と自称しているイエスという男は、ここで何をしてくれるのだろうか?

 最初の犯罪人は「自分自身と我々を救ってみろ」と言っています。でも、心から「私たちをお救いください」とお願いしているのでないことは明らかです。主イエスに何かを期待しているのでもないのです。どうせ何もできないだろうと言って、主イエスのことをののしり、侮辱しているのです。この男は、主イエスの近くにいながら、主の救いが見えていませんでした。主を近くで見て、主に語りかけながら、その思いは絶望で満ちていました。自分が抱いている不平や苦しみについて、主をののしるというかたちでしか表すことができなかったのです。私どももまた神について、自分の尺度で計ってしまうことがあります。そして、自分の基準から外れるようなことが起こると、すぐに神に文句を言います。聖書を読みますと、神の民が、神に向かって激しく嘆き訴えるようにして祈る場面がいくつもあります。神に祈る言葉として相応しくないと思えるような言葉で、訴え祈る場面もあります。表面的に見ますと、十字架の犯罪人の言葉と何ら変わらないように見えます。そして、神に訴えること、不平や不満を述べ、「神よ、あなたが正義を行なってください」と祈ること自体は決してわるいことではありません。むしろ、「苦難の時、わたしを呼ぶように」と神は私たちの祈りや訴えを待っておられるのです。しかし、そこで大事なのは心から神を信頼して、祈り訴えているかどうかということです。神を信頼して嘆き訴えることと、神に失望して、神をののしることはまったく違うことなのです。

 神を神として畏れ、信頼しているかどうか。このことが十字架の上、死の間際だけに限らず、いつも問われていることです。そして、この主への信頼、畏れというものがどこで与えられるのでしょうか。次に出てくる二人目の犯罪人は、主をののしった男にこう言いました。40〜41節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」二人目の犯罪人は、自分の「罪」に気付いています。その罪の報いとして、今、十字架の裁きを受けているということを自覚しています。しかし、その罪というのは、これまで自分たちがしてきた行い、つまり、政治犯と呼ばれるようなことをしてきたことではありません。先にも言いましたように、自分たちがしていることを正しいことだと信じて生きてきたからです。もちろん、十字架の上で、自分の人生を振り返るときに数々の悪い行いを思い出したのかもしれません。でも、この男はもっと深いところで罪の問題と向き合うことになりました。それが、40節の「同じ刑罰を受けているのに」という言葉、そして、41節の「この方は何も悪いことをしていない」という言葉です。一人目の犯罪人は、主イエスと自分は同じだと思っていました。イエスもまた、ローマに逆らい、人々を混乱に陥れるようなことをしたのだろうというふうに。しかし、二人目の犯罪人は、自分と主イエスを同じように見ることができませんでした。むしろ、主が自分と同じ十字架につけられていることに違和感を覚え、神に対する深い恐れを抱きました。それが、「この方は何も悪いことをしていない」という言葉です。何の罪もないお方が、なぜ、十字架という極刑に処せられ、神に呪われた死を死ななければいけないのか。この違和感と恐れです。

 そして、罪を犯したことのない聖い人間ということを遥かに越えて、「イエスこそまことの救い主」であるという信仰が与えられたのは、どのようにして起こったのでしょうか。この男が、主イエスのことについてどれほど知っていたのかは定かではありません。その主イエスを間近に見、主の言葉を近くではっきりと聞いたのが、十字架の時でした。おそらく、十字架の主イエスのお姿、そこでお語りになる言葉を聞いて、確信へと導かれたのでしょう。とりわけ、この男にとって決定的となったと言われる言葉が、第23章34節の主の言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」何の罪もない人が十字架にかけられるというこれ以上にない苦しみを味わいながら、「父よ」と神を呼びながら、自分を十字架につけた人々の赦しを願っている。いったい、このような祈りを十字架の上で祈ることができるこの人は何者なのだろうか?二人目の犯罪人は深い恐れを抱いたことでありましょう。同じ十字架であっても、明らかに自分の十字架とイエスの十字架は違う。その違いとは何なのだろうか?イエスの十字架とは何を意味するのだろうか?そのようなことを考えたのではないでしょうか。

 私どもは、もしかしたらこの二人の犯罪人のように酷い人間ではない。死ぬとしても、もう少しまともな死に方をすることができると思ってしまうことがあります。たとえ、犯罪人だとしても、一人目のように主イエスをののしるようなことは絶対にしない。私は救われた二人目のほうの犯罪人なのだと。しかし、私どもは二人の犯罪人と自分を完全に切り離して考えることが果たしてできるのでしょうか。もし、十字架にかけられた二人の犯罪人と自分を切り離してしまうならば、主イエスの十字架の意味を知ることはできないのだと思います。主イエスの十字架の死が、神に呪われた死であると同時に、そのことによって、私ども人間を罪から救うための十字架であるということが結局分からないまま終わってしまうのではないでしょうか。この私もまたあの二人のように、罪のゆえに、十字架の上で神に呪われて死ぬ運命にあったのです。主イエスの私の罪を背負って十字架で死んでくださったということは、たとえ私が十字架という悲惨な死に方をしたとしても、神に見捨てられることはないということです。十字架の上においてさえ、希望があり、いのちがあるということです。

 二人目の犯罪人は、主イエスに対して次のようにお願いしました。42節「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」男は、自分が主イエスに心を留めていただけるような存在であるなどとは少しも思っていません。もし、思い出していただけるとしたら、それは主イエスの憐れみと恵みによるのです。「御国においでになる」というのは、あまり聖書が用いない表現です。御国に入るということですが、普通は、「御国が来る」「神の国が到来する」という表現をいたします。これは明らかに、主イエスの再臨を意味する言葉です。主がまことの王として救いを完成するために、もう一度、この世界に来てくださる。その時に、どうか主よ、あなたと一緒に十字架についた男がいたことを思い出していただければ幸いです。私は救われる資格など何一つありません。でも、私のことを少しでも覚えていただければ、もうそれだけで十分です。男はそのように、十字架の上で主にお願いしたのです。

 主イエスはお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」「はっきり言っておく」という言葉は、原文のギリシア語では「アーメン」という言葉です。「本当です」「真実です」という意味です。私どもが祈る時、最後に口にする言葉です。ここでは、主イエスが「アーメン」「はっきり言っておく」とおっしゃいます。私どもの祈りもまた主イエスの真実によって支えられるものですが、真実そのものである主が、「これだけは真実だ。だから、忘れることなくわたしの言葉を心に刻んでほしい」とおっしゃるのです。「アーメン、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 犯罪人は、十字架の上で未来のことを考えていました。主よ、あなたの御国が来る時に、私のことを思い出してください。しかし、神の救いはずっと先にならないと与えられないものではありません。この地上にいる限り救いも喜びもない。死んでからでないと、人生の意義を見出すことができないというのではないのです。「今日、わたしと一緒に楽園にいる」と主イエスは約束してくださるのです。十字架の上で、主イエスとお会いした「今日」という日が、あなたにとって特別な、価値ある一日になるのだと言うのです。その特別な「今日」という日から始まる人生は、やがて死ぬという人間最大の試練を前にしても、価値を持つものとなります。この犯罪人は、数時間後には十字架の上で死んでしまうのです。この男だけでなく、私どもの死というのは、単に肉体の死ではなく、罪の報いとしての死という意味がありました。神に呪われて死ぬしかない運命にあったのです。しかし、そのような神の呪いを免れるようにして、まことのいのちの中に入って行くことができるようになりました。主イエスが十字架についてくださったからです。主が私どもの死を十字架で代わりに死んでくださり、神の呪いをすべて引き受けてくださったからです。だから、主イエスとお会いした今日という日から、既に死に勝利したいのちの歩みが始まっているのです。

 また、主イエスの約束は、主と一緒に「楽園」にいるということでもあります。「楽園」というのは、「パラダイス」とも訳される言葉です。パラダイスの語源は、ペルシア語にあるそうです。「庭」とか「植え込み」という意味があるそうですが、もう少し細かく説明すると高い塀に囲まれた庭です。「楽園」「パラダイス」と呼ばれるその場所だけ、特別な塀によって囲まれています。だから、簡単に入ることができないのです。死の力でさえ、その塀を乗り越えて、私どものいのちを呑み込むことなどできません。また、楽園は荒れ野の中にあって、その場所にだけ水があり、緑があるのです。まことのいのちに満ちた場所、それが楽園です。

 また、「楽園」という言葉を聞く時に、聖書の最初に記されている「エデンの園」を思い起こす人もいます。エデンの園は、神の祝福に満ちた場所でしたが、アダムとエバが「取って食べてはいけない」と言われていた木の実を食べ、罪に堕ちてしまいました。そして、エデンの園、楽園から追放されたのです。キリストの十字架によって救われるというのは、もう一度、神の祝福の中に入って行くことです。だから、楽園というのは具体的にどこどこにある場所というよりも、関係性を表す言葉だと言う人もいます。イエス・キリストのおかげで、神様と私どもの関係が修復された、平和の関係になったということです。神との関係が平和であるならば、もう何も恐れることはないのです。死という恐れや不安の中にあっても、主にある平安が私どもの支え、慰めるのです。主が一緒にいてくださるがゆえに、死の只中にあってもそこが楽園になるのです。主のいのちに満ちた場所となるのです。そして、神様との平和な関係、主イエスと一緒に楽園に生きることができる恵みは、死んでからの話ではありません。既にここから始まっているのです。

 犯罪人の男は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉を、十字架の上で聞きました。十字架の上ほど最悪な場所は他にありません。何一つ望みがなく、救いようのない場所です。しかし、そこで主イエスは彼と出会ってくださり、救いを約束してくださいました。主御自身にとりましても、十字架という場所は最悪な場所です。しかし、主イエスは十字架の死を前にしても、一人の人を救うということを決して諦めておられません。主イエスが諦めておられないのですから、私どももまた諦めることなく、望みをもって救いを求めることができます。また、喜びと勇気をもって伝道の業に励むことができます。主イエスとの出会いに遅すぎるということもありませんし、どんな妨げにも邪魔されることなく、主イエスは私どもに救いを届けてくださいます。主の十字架は私どもに救いをもたらす神の力だからです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この言葉を忘れることなく、心に刻み、今日という特別な一日から始まる日々を大切にしていきたいのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたは私どもとの出会いを求めてくださり、私どもを救いたいと、いつも願っていてくださいます。あなたの愛の熱心さは、私どもが絶望し、望みを持つことができないような中にあっても、確かに与えられるものです。主よ、それゆえに、私どももますます主を信頼し、神様との良き関係の中に生き続けることができますように。私どもの救いのために、十字架で死に、甦ってくださった主のお姿を深く心に刻むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。