2021年03月21日「自分のために泣きなさい」

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自分のために泣きなさい

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章26節~31節

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聖書の言葉

26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ルカによる福音書 23章26節~31節

メッセージ

 エルサレムに行きますと、ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」と呼ばれる道があります。「悲しみの道」と呼ばれる道です。この道は、主イエスが十字架を背負って、「ゴルゴダの丘」「されこうべ」と呼ばれる場所に向かわれた道です。「ヴィア・ドロローサ」と今呼ばれている道と、主イエスが実際に歩まれた道が同じであるかは定かではありません。今は観光地化されているところもありまして、実際のところはよく分からないのです。しかし、主イエスが十字架を背負って、ゴルゴダの丘に向かわれたことは確かな事実です。「十字架刑」というのはローマの処刑法です。しかも、一番残酷な処刑方法と言われていました。その十字架に向かう主イエスの歩みの中には何も明るい要素はない。そのように人々は考えたのでしょう。主イエスはまさに「悲しみの道」を歩んで行かれるのです。

 先程、子どもたちにもお話しましたように、教会では今、「受難節」という時を過ごしています。今年は4月4日がイースターです。受難節は、主が復活されたという喜びに向かう歩みであるとも言えますが、その前に主の十字架があることを忘れてはいけません。もちろん、キリスト者にとりましては、主の十字架もまた救いそのものであり、それゆえに、喜びそのものです。しかし、その喜びは手放しに喜ぶことができるというものではないと思います。主イエスの悲しみや苦しみを正しく見つめることこそが、主の十字架と復活をとおして与えられる救いの喜びを、まことの喜びとして受け止めるうえで大事になってきます。

 今朝はルカによる福音書第23章26節以下をお読みしました。ここはどういう場面かと申しますと、主イエスが人々に捕らえられ、裁判を受け、十字架刑の判決がくだった、そのすぐあとの場面です。裁判で処刑の判決がくだされた者は、その日のうちに刑が執行されることもあったようです。主イエスも同じでした。他の福音書を見ると記されていることですが、十字架刑の前には鞭で体を打たれることがありました。あまりの激しさに、鞭打ちだけでいのちを失う者もいたそうです。鞭打ちの後、十字架を背負って刑が執行されるゴルゴダまで歩いて行かなければいけません。十字架を背負うというのは、十字架の横木に当たる部分です。しかし、体は鞭打たれボロボロになっています。そのうえで、重い横木を担いで歩いていかなければいけませんでした。主が歩まれたその道こそ、「悲しみの道」と後に呼ばれることになった道でした。26節の冒頭には「人々」という言葉がありますが、彼らはついさっき、「その男を殺せ!」「十字架につけろ!」と叫んだ人たちです。これまでずっと一緒だったいわゆる「十二弟子」と呼ばれる男性の弟子たちは、皆逃げてどこかに行っています。主は孤独の中、人々の敵意や憎しみ、また嘲りの中を進まれるのです。この十字架に向かう道の只中において、なお主イエスの後ろを歩き、従おうとした人たちがいました。26節に記されている「シモン」、そして、27節に記されている「婦人たち」です。彼らの姿をとおして、キリストの十字架が私どもにとって何を意味するのか。キリストの十字架をどのような心で受け止めたらいいのか。そのことを私どもに示してくれているのです。

 はじめに登場するのは、「シモン」という人物です。キレネ人という説明が付け加えられています。キレネというのは北アフリカ、現在で言うリビアに当たる国です。このキレネ人シモンが「田舎から出て来た」とありますように、エルサレム郊外にこの時は住んでいたのではと言われます。そして、エルサレムに来ていたのが過越祭と呼ばれるユダヤ人が大切にしている祭りをお祝いするために、つまり、巡礼するために来ていたのだろうと言われます。しかし、この時はどうもいつも様子が違っていました。例年よりも都が騒がしい。人だかりもできている。どうしたのだろうかと、半ば興味本位でシモンは人混みの中に入って行きました。するとイエスと呼ばれる男が、十字架を背負って歩いているのです。いったいこの男はどれだけ悪いことをしたのだろうか?そう思ったに違いありません。まして、この男が自分を含め、全世界の救い主であることなどまったく考えてもいなかったのです。

 さらにシモンには思いがけないことが起こりました。もう一度26節をお読みします。「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」主イエスは、体を鞭打たれ、十字架を背負って歩く体力はほとんど残っていませんでした。何度も地面に倒れ込んだのかもしれません。近くにいたローマ兵たちが辺りを見渡します。そこに丁度体力がありそうな男が立っていました。それがシモンです。シモンはローマ兵に無理矢理捕まえられて、主イエスの十字架を替わりに担ぐことになったのです。シモンにとっては思い掛けないことでした。なぜ、見ず知らずの男の十字架を背負わないといけないのか。なぜ、死刑囚の十字架を担がないといけないのか。こんなに屈辱的なことはない。きっとそう思ったに違いありません。しかし、シモンにとって、この主の十字架を背負ったという出来事が、彼の人生にとって決定的な意味を持つことになりました。やがて彼は「イエスこそ私の救い主」と信じ、キリスト者になります。そして、ローマの教会を支える重要な人物になったと言われています。それだけではありません。シモンの子どもたちまでもがキリストを信じる者となりました。そのことがマルコによる福音書やローマの信徒への手紙に記されています。

 いったいシモンに何が起こったのでしょうか。シモンは自らの意志によって十字架を背負ったのではありませんでした。理由も分からずに十字架を背負わされたのです。主イエスは弟子たちにかつてこのようにおっしゃったことがあります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)「十字架を背負う」というのは、キリストの弟子として生きるうえで、どうしても避けることができないことです。十字架を背負おうというのは、文字通り、十字架の横木を背負うことではありません。しかし、それぞれが重荷を背負って生きています。それは、自ら進んで背負ったものも中にはあるかもしれませんが、ほとんどはシモンのように自分が望んでいなかったものが多いのではないでしょうか。なぜ私だけがこんな苦しい思いをしないといけないのだろうか?その理由が分からない!と不平を呟きながら、生きていかなければいけない。そのようなこともあるのだと思います。しかし、キリストによって救われること、キリストの弟子として十字架を背負って生きるということは、実は自分の思い、自分の意志を越えたところで起こる出来事なのだと思うのです。私には神に選んでいただける資格など何もないし、そもそも神に関心すら抱いていない。でも、神様は私どもの思いを越えて、私を選び、私を捕らえられるお方です。シモンはこのあと、キリストの十字架を背負って歩みます。「イエスの後ろから運ばせた」とあるように、シモンは主イエスの後ろに立ち、主の背中を見つめるようにして十字架の道を歩んだのです。主イエスに従うことは、主の後ろを歩くことです。「自分が」「自分が」という思いを捨てて、主の御跡に従って歩んで行くのです。主の背中を見つめて従って行くのです。その時に、私を捕らえ、私を導いておられるこのキリストというお方がどういうお方であるのか。キリストの十字架が私にとって何を意味するのかが段々と見えてくるのです。

 さて、次の登場するのは27節以降に記されているように「婦人たち」でした。「嘆き悲しむ婦人たち」とありますように、悲しみの涙を流しながら、主イエスに従って行きました。彼女たちは一体何者であるのか。ルカは細かいことを記しません。ガリラヤからずっとついて来た女性たちなのでしょうか。それとも「泣き女」と呼ばれる人なのでしょうか。泣き女とは一種の職業でありまして、涙を実際に流したり嘆いたりすることによって、悲しみをそこにつくりあげようとした人たちです。葬儀の時もそうですけれども、誰かが処刑される時もその人の後ろについて行き、涙を流す習慣があったと言われます。そして、この行為は一つの徳として数えられることもあったのです。婦人たちがどういう人かははっきりしないところが正直ありますが、いずれにせよ共通する部分は、十字架につけられようとする主イエスを見て、深く嘆き悲しんでいるということ。そして、涙を流しているということです。

 主イエスは涙を流しながら、自分の後ろについてくる婦人たちに気付いておられました。婦人たちのほうを振り向いてこう言われるのです。28節です。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」本日の御言葉の中心となる言葉です。そして、28節の主の言葉は「十字架への道」という視点で捉える時、さらに深い意味を持ちます。今日の箇所の前を見ていただくと、そこには主イエスの裁判の様子が記されています。最初のほうでは、主イエスも御自分のことについてお語りになる場面がありますが、終盤におきましては徹底して沈黙を貫かれます。十字架刑が確定する場面においても、主は意義を唱えることはありませんでした。人々の「十字架につけろ」という声だけが大きくなっていくだけなのです。そして、十字架を背負って歩む主イエスが、ここでついに言葉を発せられます。このあと、十字架の上ではいくつかの言葉を口にされるのですけれども、十字架にかけられる直前にお語りになった最後の言葉が28節の言葉です。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」難しい話をされたのではありません。「泣くな」とか「泣け」というふうに二つのことをおっしゃっておられるのですけれども、本当に言いたいことは「泣け!」ということなのです。悲しむべきことを悲しみ、泣くべきことを泣くようにおっしゃいます。

 だから、主イエスは婦人たちの涙をご覧になって、「わたしのために泣いてくれてありがとう」とはおっしゃいませんでした。むしろ、彼女たちが主に向かって流す涙を拒否されたのです。主は「わたしのために泣くな」とおっしゃいました。彼女たちが主イエスのために流していた涙というのはどういう涙なのでしょうか。それは一言で申しますと「同情」の涙です。私たちが愛するイエス様がこんなにも苦しく痛い目に遭っておられる。そして、このあと十字架につけられて死んでしまう。こんなにも悲しいことはない、本当にかわいそうだ。そのような思いから生まれる涙です。痛々しい姿を見て、かわいそうだと思うことは誰にでもあることだと思います。まったく知らない人であっても、心痛むことがあるのですから、もしこの婦人たちが主イエスにずっとついて来た人であるならば、なおさら辛くなり、悲しみの涙を流すことも当然なことでありましょう。誤解していただきたくないのは、主イエスの痛々しい姿を見て、辛くなり涙することがいけないと言っているわけではないのです。しかし、その上で主は「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」とおっしゃいます。「わたしのために泣くだけではだめなのだ。あなたがたが本当に悲しむべきこと、本当に流すべき涙があることに気付いてほしい」主はそうおっしゃるのです。つまり、同情の涙だけでは主の十字架の意味を本当に理解することができないというのです。同情だけでは、主の十字架が、この私のための十字架であるということが分からないのだというのです。

 私どもは様々な涙を流します。嬉し涙を流すこともありますが、悲しみの涙を流すこともあります。実際に、涙が出なくても、心の中で激しく泣くこともあるでしょう。しかし、私どもの問題はその涙が、たとえ悲しみや嘆きの涙であったとしても、次第に独りよがりの涙、他人を裁く涙になってしまうことがあるということです。「どうして私だけこんなに悲しい目に遭わないといけないのだろう?」「誰も私のことを分かってくれない!」というふうに、嘆きが次第に不平に変わり、人を裁く言葉に変わってしまうことがあります。泣くことにおいてさえ、人は自己中心的になり、罪を犯してしまいます。嘆き悲しむこと、涙を流すことにおいて、神の御顔をしっかりと見つめることができなくなってしまうことがあることがあるのです。先に登場したシモンという男も、強制的に十字架を背負わされながら、「よりによって、なぜこの私が…」という思いがあったことでありましょう。心の中では泣きたくなるような思いだったかもしれません。

 相手に対して同情の思いを抱くこと。その人が負っている苦しみを見て、辛くなり悲しくなること。それは自然のことであり、人間らしいとも言えるのです。愛する主イエスが鞭打たれ、体から血が流れ、ボロボロになっている。周りの人々からは侮辱され、嘲られている。そういう姿を見て、心が痛むのは主を愛する者として当然のことです。しかし、忘れてはいけないのは、私どもが主イエスに対してかわいそうだと思ったとしても、主の十字架の苦しさを軽くすることははできません。まして、主の十字架を私が代わりに負うことなどできないのです。そういう意味では、冷たく聞こえるかもしれませんが、婦人たちの涙、そして、私どもの涙が主の前にどのような意味を持つというのでしょうか。主イエスは婦人たちに「わたしのために泣くな」とおっしゃいました。わたしのために泣いたところでどんな意味があるのかと言うのです。しかし、このような一見、冷たいような主の言葉の中にたいへん深い慰めがあると思うのです。主イエスは身も心もボロボロになりながら、その苦しみの中で人々のこと思いやっておられます。私どもがどこに向かって涙を流すべきなのかを教えてくださっているのです。そして、実はもっと深いところで流すべき涙があるのだと言うのです。主イエスは涙の深み、悲しみの深みに婦人たちを、そして私どもを招いておられます。

 もう一人のシモンという男に対しても同じです。彼は最後まで主イエスの十字架をゴルゴダまで運んだ英雄ではありませんでした。シモンは無理矢理背負わされた十字架を、最後には降ろしたのです。シモンが十字架についたのではないからです。最後に十字架の横木を担い、十字架につけられたのは主イエス御自身です。キリストの弟子として、十字架を背負って生きる私どもの歩みには必ず苦難が伴います。その苦しみの中で思い煩う私どもです。しかし、最後まで自分で負う必要はありません。最後には主イエスが背負ってくださるからです。その時に、主の十字架がこの私にとっていったい何を意味するのか。私がこれまで背負っていた重荷が何を意味したのか。そのことが同時に明らかになるのです。

 主イエスはおっしゃいます。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」あなたがたが本当に心から悲しむべきこと、心から涙を流すべきこととは何であるか?それは、自分と自分の子供たちのために泣くということです。そして、「自分のために泣く」というのは、自分の「罪」を心から嘆き悲しむということです。自分の罪を思って泣きなさい。悔い改めの涙を流しなさい。主がここでしておられることは、私どもを真実の悔い改めへと招くことです。自分の罪を嘆くことなしに、どれだけ十字架の主を見て、かわいそうだと思ったとしても、そこで主の十字架の本当の意味を理解ことはできません。神様の御前で、十字架の主のもとで心から悔い改める時、十字架に込められた主の愛をはっきりと見つめることができることができるのです。

 29節以下にはこう記されています。「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ここには旧約聖書からの引用の言葉がいくつか記されています。最初の29節の背景にあるのは、先に朗読していただきました哀歌第2章の御言葉があります。哀歌第2章18節、19節にこのような言葉ありました。「おとめシオンの城壁よ/主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て/水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ/あなたの幼子らのために。…」哀歌が記された背景にはバビロン捕囚と呼ばれる出来事があります。それは単に戦争に敗れたのではなく、神の民イスラエルの罪のゆえに、神の裁きとして人々は異国バビロンに連れて行かれました。エルサレムの都は廃墟と化し、人々は故郷を失いました。また、そこで起こった一つの悲劇は、母と子の絆も断ち切られてしまったということです。ですから、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」というのです。当時は、子どもが与えられるというのは神様の祝福と信じられていましたから、本来ならば、子どもがいない女の人のほうが不幸なのです。しかし、バビロン捕囚によって、つまり、人間の罪によって、母と子がバラバラになってしまう。そんなことが起こってしまうくらいなら、子どもなんかいないほうがましだという意味です。

 次の30節の「我々の上に崩れ落ちてくれ」「我々を覆ってくれ」という言葉は、ホセア書1第0章8節からの引用です。ここで見つめられているのも人間の罪の問題、そして、それに対する神の厳しい裁きのことです。あまりにも恐ろしい神の裁きを前にして、自分たちが神に裁かれるくらいなら、山が崩れて死んだほうがましだと言うのです。最後の31節には、「生の木」「枯れた木」という言葉が出てきます。これはエゼキエル書第21章3節からの引用です。「生の木」とは主イエスのこと、「枯れた木」というのは私たちのことを指しています。つまり、神の御子である主イエスでさえ十字架で苦しみを受けるのだから、罪によっていのちが枯れているような我々はどれだけ恐ろしい神の裁きを受けなければいけないのだろうかというのです。

 また、主イエスは28節で自分のために泣くだけでなく、「子どもたちのために泣け」とおっしゃいました。子どもために泣くというのは、母と子がバラバラになるということもありますが、もっと深い意味で捉えますと、罪というのは自分たちの世代で終わりものではない。子どもや孫たちをはじめ、後の世代にまで及ぶのだということです。それゆえ、神の裁きも終わることはないのです。だから、自分のために泣き、自分の子どもたちの罪や裁きを思い、泣きなさい。そして、悔い改めなさいとおっしゃったのです。

 主イエスが十字架を前にして、人々に求めておられたことは、自分の罪を嘆き悲しみ、悔い改めの涙を流して神のもとに立ち帰ることです。神を神として畏れることです。しかし、そこで思うことは、私どもは自分の罪を本当に嘆くことができるのかということです。主イエスはそのようなことを含め私どもが抱える深い問題を知っていてくださいます。私どもの罪を嘆き、嘆くだけでなく涙を流してくださいます。私どもが流すことができない涙を、主が私どもに先立って流してくださるのです。この福音書を記したルカは興味深いことに、主イエスの涙をしっかりと書き留めています。それが第19章41節以下です。新約聖書の148頁です。第19章42節、43節をお読みします。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。…』」エルサレムが近づき、都が見えた時、主イエスはその都のために泣かれたのです。前方には華やかなエルサレムの町が広がっています。しかし人々の心は廃墟と化していました。人々はエルサレム神殿で熱心に祈っていたことでしょう。しかし、主は人々の心を見ておられます。見た目は熱心であるかもしれないけれども、その祈りが独りよがり、自己中心的な祈りなってしまっているのです。祈るべき祈りを祈ることができない。つまり、神の御前にへりくだり、悔い改めの祈りをささげることができていないのです。神との正しい関係が損なわれ、彼らは平和の道を歩むことができない。裁きの道、滅びの道を突き進んでいる。それがどれほど恐ろしいことであるかさえも気付いていない。主イエスは、エルサレムの都を見て、悲しみの涙を流しながら、しかし、そこで十字架への思いをさらに固くされたのではないでしょうか。彼らを罪と裁きから救い出すために、わたしは十字架でいのちをささげ、神と人との間に平和をもたらすのだと。

 私どものために先立って泣いてくださった主イエスが、ここでは婦人たちに、そして私どもに向かって、「自分のために泣きなさい」とおっしゃいます。それは自分の罪深さのゆえに、神に裁かれ見捨てられるしかない、そのような自分を見て泣きなさいということだけに留まるものではないと思います。そのあなたの罪を背負って、わたしは十字架について苦しみ、死のうとしている。この神の救いを見なさい。救われている自分の姿に気付きなさいということでもあります。真実の悲しみと涙、そして悔い改めへの招きは、神の救いへの招きでもあります。また、主イエスに従う道は、十字架を背負って歩む道です。自分の思いを越えたところで背負わされる十字架を思いながら、なかなか自分の今の生き方を受け入れることができないことがあるかもしれません。どうしてこんな重荷を?と嘆きながら、なお独りよがりの涙を流してしまうことがあるかもしれません。しかし、私どもの前を歩む十字架の主はそのような私どもの苦しさも罪もすべて知っていてくださいます。そのような私どもを見捨てることなく、こちらを振り返ってくださり、「自分のために泣きなさい」という御声を聞かせてくださいます。そこに悲しみからも罪からも解き放たれた真実の涙を流すことができるのです。その涙をもって、主の十字架の歩みを共にすること者とされるのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたは私どもの罪を誰よりも深いところで知っていてくださり、悲しみの涙を流してくださいます。神様の義しさの前に、私どもは顔を伏せ、滅びを待つほかない存在です。しかし、主よ、あなたがまことの救い主としてこの世界に来てくださいました。私どもの罪を背負って、代わりに十字架で死んでくださいました。神よ、あなたの計り知れない御心に畏れつつ、感謝をいたします。なお、闇が覆うこの世界にあって、私どもがあなたの前にある罪の問題を蔑ろにすることがありませんように。自分の罪、この世界が抱える罪をしっかりと見つめつつ、主の憐れみを求め、祈り続けることができますように。主から与えられた恵みを無駄にすることがないように、これからも十字架の主を見つめて歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。