2021年03月07日「本当に必要なことはただ一つ」

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本当に必要なことはただ一つ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 10章38節~42節

音声ファイル

聖書の言葉

38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書 10章38節~42節

メッセージ

 私どもは、何をもって「愛」に生きていると言えるのでしょうか。何をしたら胸を張って「愛」に生きていると言えるのでしょうか。誰にもできないような大きなことや勇気がいることを行っていくことでしょうか。あるいは、ひたすら忍耐に生きて、その人とずっと寄り添っていくことでしょうか。いずれも愛に値する生き方と言えましょう。でも、人の見た目からすれば小さなことであっても、ちゃんと「愛」と呼べるものがいくつもあるのではないでしょうか。例えば、「思いやり」や「心配り」といったものがあります。少しあの人のことが気になって、電話をする。手紙を書く。あるいは、直接その人と会うことができたならば、優しく声を掛けることもあります。自分としては何でもないようなことやちょっとした言葉であったとしても、相手の人はそのことによって大いに励まされるということはよくあることです。また、大切な人を自分の家などに招待する時、小さなことかもしれませんが、たくさんの気づかいをします。部屋を掃除し、少し美味しいお茶やお菓子を用意することでしょう。相手の人に喜んでもらうために精一杯のおもてなしをします。他にも、私たちは色んなことを気にしながら、普段の生活をしていると思います。なるべく隅々まで行き届くように、心を配ります。もしかすると、こういう配慮というものは、当たり前のように思われているところがあるかもしれませんが、実際行ってみると決して楽ではないことが分かります。私が生きている愛が大きいのか、小さいのかということよりも、どんなことがあっても揺らぐことのない堅固な愛、真実の愛に生きることができたならば、自分や相手の人にとってだけでなく、神様が一番喜んでくださるに違いありません。

 誰かを思いやり、心を配って生きる。そのように小さな愛であると同時に、確かな愛に生きたいと願う私どもです。しかし、そのような私どもの日常の歩みにおいても、多くの思い煩いが生じるのも事実ではないでしょうか。そして、キリスト者にとりましては、人を愛する生活と共に、神を愛する生活が中心にあります。そして、不思議なことに神を信じ、神を愛する生き方の中においても、思い煩うという経験をすることがあるのです。愛の対象が人間であるならば、多少色んな労苦があるのは分かりそうなものですが、神を真っ直ぐに愛して生きようとする時に、なぜか思うようにいかない、そういう経験をすることがあります。主イエスに出会い、救いに導かれた私どもの愛の歩みが、神に対しても、自分や隣人に対してもいつも真っ直ぐなものとなるためには、どうしたらいいのでしょうか。神の恵みに満ちた思いやりに生きるために、私どもは何を選び取るべきなのでしょうか。

 今朝も先週に引き続きルカによる福音書第10章の御言葉を共に聞きました。主イエスとその一行がある村にお入りになったのです。村の名前は分かりませんが、ヨハネによる福音書を見ますと、「ベタニア」という村であることが分かります。この村に主イエスがやって来られた目的は明確で、神の国を宣べ伝えるためでありました。この主イエス一行を歓迎し、自分たちの家に迎え入れた人がいました。それがマルタという女性です。マルタは40節で、「主よ」と呼びかけていますように、主イエスを信じる信仰に生きていました。また、このマルタにはマリアという妹がいました。他にもラザロという兄弟がいたことが、ヨハネによる福音書から分かっているのですが、ルカによる福音書には記されておりません。主イエスを迎え入れたマルタという名前は、「女主人」という意味があります。女主人の名に相応しく、40節にありますように、色んなもてなしをしたのです。一方で、妹のマリアは、39節にありますように、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」のです。

 マルタは活動的に働いていて、マリアは静かに座っています。この両者の姿は対象的な姿ですが、実はそれ以上に注目すべき光景があることがここにあります。妹のマリアが、主イエスの足もとで主の言葉に聞き入る。この姿は、「弟子となる」「先生に倣う」という姿勢を表しています。ですから、マリアは主の足もとにひざまずきながら、主の言葉を聞き入っているということは、「私は主の弟子です」という信仰を無言のうちに言い表していると言えるのです。しかし、当時のユダヤの背景からすれば、女性が神の前にひざまずいて、御言葉を聞くというのはあまり考えられないようなことでした。ある本に記されていたことですが、あるカトリックの神父が知人の案内でユダヤ教の会堂であるシナゴーグを尋ねたのだそうです。金曜日の夜のことでした。向こうでは日が暮れると新しい一日が始まるという理解ですから、私たちで言うと土曜日に当たります。ユダヤ教徒にとっては、「安息日」と呼ばれる日が始まったばかりでした。祈るために人々が会堂に集まってきます。でも女性が座るはずの2階席は空席が目立ちます。会堂に来るのはほとんど男性で、彼らが座る1階席は満員です。奇妙に思いました神父が知人に尋ねると、「女性は安息日の食事の準備に忙しいから来ていないのだ。敬虔なユダヤ教徒の家では、今でも女性が働きに出て家計を支え、男性は一日中、トーラー(旧約聖書)の勉強に没頭している。」そう答えたのだそうです。女性は御言葉に直接仕えるというよりも、御言葉を聞いている男性に仕えることによって、間接的に御言葉を学び、仕えている。そのような理解が常識でした。ですから、マリアが主イエスの足もとで主の言葉を聞いている。これはたいへん驚くべき姿なのです。

 しかしながら、この時、家に一緒にいました姉マルタにとりまして、妹が主の言葉に聞き入っている姿を見て、たいへん心動かされたということではないようです。40節にこうあります。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」また、次の41節では、主がマルタの心を見抜いてこうおっしゃっています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」マルタは苛立ち、腹を立てています。その怒りはマリアだけではなく、主イエスにも向けられていきます。そして、思い悩み、心乱しているのです。なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。愛する主イエスが来てくださったのにもかかわらず、そして、主に喜んでいただきたいと願って色んなもてなしをしているにもかかわらず、なぜ心乱し、ついには主イエスに対してまで苛立ちを覚えてしまったのでしょうか。

 マルタがこの時にしていたことは、主イエスや弟子たちをもてなすということでした。長い旅の中、体力的に疲れを覚えているに違いない。きっとお腹も空いているだろう。美味しい食事をとって元気なってもらいたい。そして、また福音を多くの人々に伝えていただきたい。そのように、マリアは主イエスのことを思いやり、思いやるばかりか実際に多くのもてなしをしたのです。そして、家にいるのは主イエスだけではなくて、弟子たちを含めたくさんいたことでしょう。主イエスのためといえども、体力的にもきつかったことでありましょう。でも、マルタは最初文句一つ言わずに、喜んでもてなしをしたのです。「もてなし」と訳されているのは、「奉仕」とか「執事」というふうにも訳される言葉です。そして、マルタがこの時に抱いた苛立ち、怒りというのは、もてなしや奉仕の量が多いとか、できないようなことをやらないといけないとか、そういうことではなかったと思います。たいへんにはたいへんなのですけれども、そこに奉仕の喜びを覚えるのも事実でありましょう。マルタも喜んで主イエスに仕えていたのです。

 しかし、一つ大きな問題が生じました。マリアが主イエスの足もとで、主が語られる言葉を聞き入っていたことです。そして、主イエスのために何ももてなしをしていないというふうに見えたということです。「マリア!そこに座っている場合ではないでしょ。愛するイエス様が来てくださったのに、そこで何をしているの!立って、私と一緒にイエス様のために一所懸命もてなしをしなさい!」やがて、その腹立たしい思いは、最後には主イエスに向けられていきます。「イエス様、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるように、マリアにおっしゃってください!」マルタは自分がしていることが正しいと思っていました。私は主イエスのことをちゃんと愛している。主に対する心配りもできている。主が今何を必要としているか、何を欲しているかも分かっている。だから、主のために奉仕することができるのだと。でも、なぜそのマルタが腹を立ててしまったのでしょうか。それは自分が正しいと信じて行ってきた愛の業、奉仕の業が主に認められていない、主から無視されている。そう思ったらからではないでしょうか。まるで、主はマリアの味方をしているみたいだ…。こんなにも主のために仕え、もてなしをしている私のことを誰も何も見ていてくれない…。イエス様さえも見てくれない…。

 聖書は主イエスに対するマルタのもてなしに対して、「せわしく立ち働いていた」と記します。休む時間もなく忙しく働いていたということですが、この「せわしく立ち働く」というのは、脇へ引きずられる。脇へ引っ張られるという意味があるそうです。あるべき中心から引き離され、周囲の事柄に心が散り散りになってしまうということです。主のために仕えながら、例えば、料理を載せたお皿を主のもとに運ぶ度に、御言葉を聞いているマリアの姿が目に入ったのでしょう。一回ですべて運び切ることはできませんから、何度も台所と主イエスのもとを往復します。その度に、マリアの姿が目に入り、同時に御言葉を語っておられる主の姿が目に入ってきます。マルタは思いました。「マリアもイエス様も、私が今何をしているのか。どれだけたいへんな奉仕をしているのか。少しは分かっているに違いない。」「しかし、なぜ誰も何も言わないのだろうか?なぜ、先に食事をして、ゆっくり体を休めてから、御言葉に聞きましょう、ということを言わないのだろうか?」もてなせばもてなす程、苛立ちもまた積み重なっていったのです。41節には、「思い悩む」とありますが、これは「思い煩う」というふうに訳すこともできます。思い悩みは、その人の心と体を蝕んでしまうのです。また、「心を乱している」というのは、トラブルに巻き込まれる、トラブルに陥るという意味です。マルタは心が錯乱し、ある種のヒステリーになっているということです。愛の業、奉仕の業に生きながら、そして、神様のためにと思って精一杯のことをしながら、自分がしていることを喜ぶことができず、他人を非難し、主イエスさえも非難する。なぜこんな矛盾することが起こってしまうのでしょうか。明らかに、そのような心を主イエスがお喜びになるはずはありません。主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音とまったく反対のところにある思いだからです。神様の愛と喜びによって心が満たされているのではなく、思い煩いによって心が一杯になり、本来あるべきところから脇へそれてしまっています。ある人は、「心乱れる」という言葉を、「心は空っぽ」と訳しました。「あなたの心は空っぽだね」と言われたら、マルタは驚き、そして反論したに違いありません。「私の心は空っぽなんかではありません。空っぽだったら、こんなにたくさんの奉仕ができるはずないでしょう。私の心はイエス様のことで一杯です。」

 しかし、主イエスは、私どもの愛と奉仕の中に生まれる深い問題というのをよく見抜いておられたのです。そして、このことはマルタ一人やマルタの家庭だけの問題というのではなくて、教会という「神の家」に生きる私どもにとっても真剣に考えなければいけない問題であるということです。昔から教会はこのマルタとマリアの物語を読む度に、例えば、こういうことを考えたことがありました。なるほど、教会にはマルタのように一所懸命お世話し、奉仕してくれる人もいれば、マリアのように静かに御言葉を聞いている人もいるというふうに。つまり、クリスチャンには、マルタのタイプとマリアのタイプの二種類が存在する。あるいは、日曜日だけマリアのように静かに御言葉を聞いて、次の日からはマルタのように忙しく働くというふうに、時と場合によって、自分のタイプを使い分ける人もいるのです。そして、大事なのは自分がマルタのタイプであろうが、マリアのタイプであろうがお互いを批判しないということです。それぞれのあり方を受け入れるということ、認め合うということです。しかし、果たして、マルタとマリアの二つのタイプにくっきりと分けることによって、教会は教会として成り立つのでしょうか。健やかな教会として成長していくことができるのでしょうか。御言葉を聞くことも、奉仕することも教会の歩みにとって欠くことのできないことですが、それらを二つに分けることだけで、信仰生活の問題は解決するのでしょうか。もし、ここで主イエスが、「マルタよ、神を信じる者には二つのタイプがある。あなたのように一緒に奉仕をしてくれる人と、マリアのようにわたしの足もとでわたしの言葉を聞く人。両方とも大切なことなのだから、そのことをちゃんと理解してほしい。」もしおっしゃったところで、マルタは心から納得し、そして、健やかな思いでこれからも奉仕を続けることができたのか?ということです。

 今日のマルタとマリアの物語を巡って、教会の歴史を振り返ります時に様々な議論が生まれてきました。先程の二つのタイプに分けて理解しようとするということもそうですが、どちらかと言うと、マルタを弁護する立場の人々が多く現れたということです。最後の42節に、「しかし、必要なことはただ一つだけである」とありますが、ずっと昔には、「必要なことはわずかだけである。いや一つだけだ」と訳されていた写本が見つかっています。「必要なことはただ一つ」と言い切れない曖昧さがここにはあります。必要なことはいくつかあるけれども、そのうちの一つを選んだのだ。そのように理解したいのでしょう。どうして、「必要なことはただ一つ」という言葉をそのまま受け入れることができないでしょうか。「必要なことはただ一つ。それは御言葉に聞くことだ」などと言われると、主イエスから自分たちが行っている奉仕をまるですべて否定されているように思えたからでしょう。自分たちは主イエスから受け入れられていないという思いは、マルタのように人を批判する思いにつながります。そして、この世界が成り立つためには、この教会が成り立つためには、御言葉を聞くだけではだめ。祈っていただけではだめ。私たちのように、色んな奉仕、働きをしないと成り立たないのだと。

 しかし、主イエスは本当に私どもの奉仕をご覧になって、「そんなことしても意味がない」などと本当にとおっしゃっておられるのかということです。この福音書を記しましたルカという人は、他の福音書記者よりも、当時社会的に弱い立場にありました女性に光を当てている人です。マルタとマリアの場面もそうなのですけれども、他にも8章1節以下を見るとこういう御言葉が記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」神の国を宣べ伝えるために、一緒について行ったのは男性の弟子たちだけではありません。女性たちも一緒について行きました。そして、彼女たちの奉仕、心配りがどれだけ「伝道」ということを考えるうえで重要であるか、どれだけ主イエスの地上の歩みに置いて支えになったかを記すのです。主イエスは、マルタの奉仕をまったく否定しておられません。あるいは、「今、わたしが御言葉を語っているから静かにしていなさい」と叱られたわけでもないのです。むしろ、マルタの奉仕をご覧になって喜んでおられたに違いありません。

 しかし、奉仕をしながら、脇道にそれ、思い煩い、心が空っぽになっているマルタに一言こうおっしゃいました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」「ただ一つ」というのは、「あれもこれも」というのではないのです。マルタは、「あれもしないといけない。これもしないといけない」という思いが溢れながらも、結果として、心乱してしまいました。主のお姿が見えなくなってしまったのです。だから、必要なことはただ一つだのだ。「あれもこれも」でなく、「あれかこれか」ということなのです。そして、マリアは「良い方を選んだ」と主はおっしゃるのです。「良い方」というのは、「あれとこれどちらがいいだろうか?どっちが私にとってベターなのか?」ということではありません。両者を比較して、こっちも捨てがたいけれども、やっぱりこっちするというのではなく、「私はこれを選ぶ。私にとってのベスト、一番いいものはこれだ。私にはこれしかないのだ」ということです。だから、ここでマリアに対して、「座っていないで働きなさい」と命じるということは、彼女にとって掛け替えのないものを奪うことになる。それは彼女のいのちと関わることだと、主はおっしゃるのです。

 「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マリアは必要なただ一つのことを選びました。この道を選ばなければ、私の生活も愛の業もすべてが成り立たなくなってしまう。そのいのちの言葉を語ってくださる主の足もとにひざまずきました。よく考えてみますと、私どもの人生は「選ぶこと」「選択すること」の連続です。そして、私どもはきっと自分にとって、これがベストだと思うものを選んで、前に進んでいるに違いないと思います。また、そのような歩みの中で、キリストとお会いし、救いの恵みにあずかることがゆるされた私どものです。教会では、「神に救われた」ということを、「神に選ばれた」という言葉で言い表すことがあります。私が神を選んでくださったのではなく、神が罪人であるこの私を選んでくださった。ここに救いが生まれるのです。そういう意味で、私どもは普段「選ぶ」と言うよりは、「選ばれる」ということを大事にする傾向があるかもしれません。でも、主イエスはここで、「マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいます。選んだのはマリア自身です。そして、マリアが選んだことは私どもにとって必要なただ一つのことであったというのです。私どもの人生というのは、何を選ぶかによって大きく変わってくると思うのです。そして、なかには選び直すことができないということもあるのです。もちろん、いいと思って選んだものの、その道が思いのほか険しかったと思うことはしばしばありますが、選ぶものを間違えればやり直しがきかないということも、実際にあるのではないでしょうか。でもマリアは良い方を選びました。結果的にいい道を選択したとか、そういう軽い気持ちではなく、まさにマリアは自分の存在をかけるような思いで、主の足もとにひざまずくという道を選んだのではないでしょうか。

 ところで、本日の箇所は、どちらかと言うと主イエスとマルタの対話が中心にあると言っていいでしょう。妹のマリアは主の足もとに静かに座っています。そのことをマリアは選んだということしか記されていません。マリアはここでは一言も発していないのです。しかし、マリアだけでなく、私どももそうですが、普段、御言葉を聞くという時、どういう姿勢、どういう心で読んでいるかということです。先週の礼拝で共に聞きました「善きサマリア人の譬え」の中で、譬え話をお語りになる前に、主は律法の専門家に向かって、「永遠の命を得るためには(救われるには)、どうしたらいいと聖書に書いているか?聖書をあなたはどう読んでいるか?」(ルカ10:26)と問われました。律法の専門家の問題は、聖書を文字通りそのまま読み、神様の愛と憐れみの心で読むことができなかったことです。だから、倒れている人を見てもその人を助けることなく、祭司やレビ人のように、道の向こう側を通り過ぎて行ってしまったのです。日々、御言葉に聞きながらも、神の愛と憐れみを忘れ、自分の愛を正当化して生きていたのです。でもそのような生き方は、神からも隣人からも遠く離れた、まさに道の向こう側を歩いていることと同じでした。本日のマルタもまた主イエスを愛し、その主の働きを支えるために、せわしく立ち働くのですけれども、「せわしく立ち働く」という言葉の意味にもありましたように、奉仕をすればするほど脇へ脇へと引きずられていったのです。そして、最後には思い煩い、心を乱してしました。このように、「御言葉を聞く」「聖書を読む」と一言で言いましても、それは簡単なことではないのです。それこそ、読み間違えればたいへんなことになってしまします。だから、マリアは「その話に聞き入っていた」とありますように、語られる主の言葉に全存在をかけて、集中をして耳を傾けていたのです。やがて、マリアは主の言葉に自分自身がまったく包み込まれるような経験をしたに違いありません。そして、そのような御言葉体験が、私どもをあのサマリア人のように隣人愛へと押し出していくのだ。そのことを聖書は私どもに伝えたいのです。

 ですから、マルタとマリアという二つのタイプに分けて理解し、お互いの信仰の姿勢を評価し合うとか、あるいはお互いを裁き合うとか、そういうことを主はここでおっしゃりたいのではないのです。そして、主イエスは自分のために一所懸命奉仕してくれているマルタに対して、「マルタ、マルタ」と名前を二回呼び、彼女の怒りをなだめ、諭そうとしています。主イエスはマルタを愛しておられるからです。「わたしを信じ、わたしを愛しながら、思い煩わないでほしい。心を乱し、心を空っぽにするような生き方をしないでほしい。」主はそのように願っておられます。「だから、もう一度、わたしの足もとに座りなさい。わたしの語る言葉によって、恵みに満たされなさい。」主はそのように愛するマルタを平安へと招いておられるのです。

 教会をはじめ、多くの場所で愛と奉仕に生きる私どものです。しかし、そこでマリアのような苛立ちを覚えてしまうことがあります。奉仕の内容や量を減らせばよいのでしょうか。もちろん、そのような奉仕の仕方を工夫する必要もあるでしょう。しかし、主の足もとにひざまずき、御言葉に聞く姿勢をいつも整えない限り、私どもが抱える根本的な悩みが消えることはありません。主の言葉に正しく聞かない限り、いつまでも私どもの心は乱れたままです。「私は満たされていない」「私は誰からも愛されていない」と不平を言い続けます。自分だけではなく、神と隣人を心から愛することができず、その愛に生きることができない自分の貧しさを自分で繕い、ほどけたらまた自分で繕うというという作業を永遠に続けるだけです。そして、聖書は自分の力によって、自分の愛の貧しさ、自分の罪をどうすることもできないのだとはっきりと語るのです。しかし、主の言葉に聞く時に、目の前の事柄に心を奪われることはありません。混乱が多い歩みの中にも、主にある平安と秩序の中を真っ直ぐに生きていくことができる道が与えられるからです。

 主イエスが、マルタとマリアの家をはじめ、村々を行き巡り、福音を宣べ伝えたのもこのためです。だから、家の中で一番奉仕をしているのはマルタでも、マリアでもなく、主イエスであるということです。マルコによる福音書第10章45節に、主イエスがお語りになったこのような言葉があります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」主イエスの足もとに座り、御言葉を聞くというのは、私のためにすべてを注ぎ、奉仕してくださっている主の御業を精一杯受け止めて、感謝するということです。もちろん、主イエスは御自分に仕える者の働きを喜んで受け入れてくださいます。でも、そこで忘れてはいけないことは、主イエスは、私どもに仕えるためにこの世界に来てくださったということです。私どもの罪の奴隷から救い出すために、御自分のいのちを献げてくださったということです。

 今から私どもは聖餐の恵みにあずかります。「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃってくださった、その大切な一つのものを主はここで与えてくださいます。御言葉が指し示すイエス・キリストの恵みを、この聖餐をとおして思い起こし、主を喜び祝うのです。ここで、私たちのために仕えてくださり、私の隣人になってくださった主の救いの御業を思い起こすのです。そして、「イエスこそ、この家、この教会のあるじ。私の主人。」であることを告白し、ここから立ち上がって歩み出して行くのです。それは、永遠の命を受け継ぐことがゆるされた私どもが、サマリア人のように隣人愛に生きるということでもあるでしょう。主の憐れみの言葉によって、私どもは神と隣人を愛し、仕える一つの生き方へと、召し出されていくのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたの言葉の中に自分がすっかり入り込むような恵みの体験をお与えください。御霊の働きを祈り求めつつ、御言葉に集中し、御旨にかなう歩みをしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。