2021年02月21日「あなたはどこにいるのか」

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あなたはどこにいるのか

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
創世記 3章1節~9節

音声ファイル

聖書の言葉

1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」創世記 3章1節~9節

メッセージ

 初めて教会に来た人はどのような思いで、その日、家に帰るのでしょうか。たいていの人は多くを語ることなく帰っていかれます。礼拝の雰囲気はとても良かったし、教会には親切な人もたくさんいた。そのように好印象を抱く人もいれば、期待していたけれど、どうも自分は馴染めそうにない。聖書の話を聞いても、話の内容は分かるけれどもあまりピント来ないという人もいることでしょう。例えば、こういう声をよく聞くことがあります。「罪」の話を急に聞かされると、耳を塞いでしまったり、「私はそこまで悪い人間ではない」と言って、自己弁護を始めてしまうということです。確かに、「罪」をどう語るかというのは、たいへん難しい問題です。説明はできるけれども、それを聞いた本人の心にが動かされ、悔い改めの思いが生まれるかどうかはまた別の話だと思います。しかし、「神の救い」ということを考える時、どうしても避けることができないのが、この「罪」の問題です。そして、罪の問題というのは、罪それ自体をずっと考えていても分からないところがあります。結局は、神様のことがよく分からないと、罪のこともよく分からないと思うのです。神の救いの光が差し込む時、初めて、私どもが抱えていた闇というものに気付かされるのです。

 先程、共に聞きました創世記第3章に記されている物語も、聖書の中ではたいへん有名な箇所の一つです。聖書は神様がどのようなお方であるかを語りますが、神様が一人で好き勝手なことをしておられる、その神の一人舞台を鮮やかに描いている、そういう話ではありません。例えば、「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)という言葉で聖書は始まりますが、そこで、私どもは演劇を見ている観客のように、神のなさることの素晴らしさにただ驚いて、聖書を閉じてしまうということではないのです。なぜなら、この私も神に造られ、いのちを与えられた存在だからです。しかも神と共に生きる者として創造されたのです。神はいつも私どもを招いておられます。「あなたも遠くから見えていないで、この舞台に上がって来てほしい。そして、わたしと共に生きてほしい」と。神が世界をお造りになられたのも、私どもの人間を造られたのも「あなたと共に生きたい」という神様の御心が貫かれるためでありました。

 ところが、聖書のページを2枚もめくらないうちに、新共同訳聖書では「蛇の誘惑」という小見出しがあり、何か不気味な物語が急に始まっていくのです。ここが本日の箇所ですけれども、最初に申しました「罪」について聖書が語る最初の場面です。神と共に生きるはずの舞台から、転がり落ちてしまった場面です。人間の「堕落」「堕罪」と呼ばれることもあります。今、礼拝の中で信仰告白している「ウェストミンスター小教理問答」もそうですけれども、「罪とは何か」ということに触れる時、必ず読まれる聖書の御言葉がこの箇所です。もちろん、この箇所にだけ人間の罪が語られているかというと、そうではなくて、この後も人間の様々な罪が明らかになりますが、その始まりと言えるものがここにあるのです。

 しかし、改めて冷静になってこの創世記第3章を読んでみますと、とても不思議な感じがするかもしれません。なぜ聖書は蛇が女を誘惑したという話をもって、人類の罪を描き始めるのでしょうか。画家たちもこぞってこの堕落の場面を描きますが、そういう絵を見ていますとどこか滑稽に思えてくることがあります。蛇の誘惑は、まるでお伽話を聞いているかのように思えてしまうことがあるのです。罪の恐ろしさを言葉や絵で表現しようとするならば、もっとリアルで生々しいものを描くべきではないでしょうか。例えば、次の第4章には人類最初の人殺しの話が出てきます。しかも、兄が弟を殺したというのです。こういう恐ろしい物語が初めにあったほうが、罪の恐ろしさや悲惨というものを多くの人に分かってもらえると思うのです。それなのに、なぜ蛇に誘惑されたとか、そんな子ども騙しのような話から始まるのでしょうか。「私はもっと人間の罪の悲惨というのを見聞きし、体験してきたことがあるのだ」と反論したくなる人もいるでしょう。また、「私はそこまで悪い人間ではない。多少は人を悲しませるようなことをしてきたし、良からぬ思いが働くこともある。でも、それは皆一緒ではないか」と言い返したくなる人もいるかもしれません。「『罪人』と言われることは気分がいい話ではない。自分にはダメなところもあるけれども、まともなところもある。その良い部分をもっと積極的に評価すべきではないか。」そのように、聖書が語る罪の話を聞きながら感じることがあるのです。しかし、「罪」という現実に目を背けるということは、言い換えれば、「私は別に神に救われる必要はない」と言っているようなものなのです。そして、このことこそ、悪賢い蛇や悪魔の思う壺ということにもなるのです。

 最初に造られたアダムとエバが犯した罪というのは何だったのでしょうか。短くまとめると神様との約束を破ったということです。第2章16節、17節にこうあります。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」神様と人間の約束、それは、園のどの木からも食べていいけれども、「善悪の知識の木」からは食べてはいけないということでした。ただ、これも私ども人間の感覚からすれば、おかしな話かもしれません。確かに、約束を破ることはいけないことです。しかし、私どもも経験していますように約束にも大小があります。では、「食べてはいけない」という約束は大きな約束なのでしょうか。それとも、小さな約束でしょうか。どちらかと言うと、小さな約束かもしれません。親と子どもがするような約束です。仮に約束が破られたとしても、いくらでも換えが効くではないかと思ってしまうのです。しかし、このようにこの御言葉を思い巡らすこと自体が、何かたいへん恐ろしい罠にはまってしまっているような気さえするのです。

 改めて、創世記第3章は何を私どもに伝えようとしているのでしょうか。堕落へのきっかけをつくったのは、「蛇」という動物です。後に、「悪魔」であるとか「サタン」と呼ばれるようになりました。女のエバにこのように話し掛けるのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(1節)既に最初のこの言葉の中に、蛇の悪賢さというものが働いています。神様はアダムとエバに、園のすべての木から取って食べなさいと命じられました。大きな自由というものを神様は与えてくださったのです。しかし、蛇は神が人間に与えた自由にはまったく触れません。代わりに何に注目したかというと、それは禁じられているたった一つのことです。つまり、「善悪の知識の木を食べてはいけない」ということです。蛇は、「この木の実だけは食べてはいけない」という一つのことを物凄く大きなものとして女の前に見せるのです。そして、「園のすべての木から食べていい」という神様の大きな祝福を小さくし、小さくするどころか無きものにしました。それが、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という言葉の中に表れているのです。神様はとにかくあれもこれも禁止し、否定するお方であるということに、心の目を向けさせようとします。そして蛇は女に同情するのです。「お前はかわいそうな人間だ。神様にあれもこれもと否定されて辛いだろう。さぞ、困っているだろう」というふうに。

 では、蛇の問いに女はどのように答えたのでしょうか。蛇は尋ねます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」この3〜4節の女の言葉と、先程お読みした第2章16〜17節の神様の言葉とを丁寧に見比べていただきますと、いくつかの違いがあることに気付いていただけるかと思います。ある部分が抜けていたり、ある部分が付け加えられていたりというふうに、いくつか違いがあることに気付かされるのです。最初の蛇の言葉を聞いて、女はどこかで、神様という方は私に自由を与えてくれない方、私を縛り付け、否定する方という間違った知識が刷り込まれてしまっていますから、3節で、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と答えたのです。神様は、「食べてはいけない」とはおっしゃいましたが、「触れてはいけない」などとは一言もおっしゃっていません。女は神様のことを誤解し、過剰に恐れを抱き始めているのです。また極め付けは、3節の終わりです。「死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と女は言うのですけれども、神様は、「食べると必ず死んでしまう」とおっしゃったのです。死ぬかもしれないではなく、「必ず死ぬ」のです。だから、食べてはいけないのです。でも、女はここでも神の言葉を聞き損ねました。あるいは、都合よく解釈したのです。また2節でも、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」と言っています。そのとおりなのですが、神様がおっしゃったのは、「すべての木から取って食べなさい」ということでした。「すべての木から」ということの中に、神様が人間に与えてくださる祝福や自由の豊かさが込められているのですけれども、女は神様のことを祝福に満ちたお方というよりも、「〜してはいけない」と命じて、私を不自由な人間にしようとする恐ろしいお方であるということに心が傾いてしまっているのです。

 「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」そう答えた女に対して、さらに蛇はこう言います。「決して死ぬことはない。」(4節)はっきりと死ぬことはないと言って、女が抱いている不安を打ち消します。「あなたは死なない。大丈夫だ」と言って、安心させてあげるのです。そして、安心できるちゃんとした根拠があるということを、5節でこのように言っています。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」蛇は言うのです。なぜ、園の真ん中にある木のみを食べると、「必ず死ぬ」などと神が言っているか、お前には分かるか?それは、お前たちが「善悪の知識の木」を食べると、目が開け神のようになるからだ。そんなことになると、神にとってたいへん厄介な問題になる。だから、神はお前たちを奴隷のように不自由にして、自分の意のままにお前たちを操りたいだけなのだ。だから、お前たちに自由など与えるつもりはない。お前たちのことを考え、お前たちを愛しているなどというのも全部嘘だ。その証拠に、神はお前たちに「知恵」を与えていないではないか。こんな神のもとにいては、一生がんじがらめで不自由な生き方しかできない。だから、神のもとを離れ、自分の意志で自分の好きなように生きたらいい!

 そして、蛇の言葉を聞くうちに、女の中に変な安心感、神が与える平安とは似ても似つかない偽りの平安に満たされ、心がさらに蛇の言葉に傾いていくのです。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」既に女は神の言葉を忘れてしまっています。神様から「食べてはいけない」と命じられた木が、自分の目に美味しそうに見えるようになりました。そして、女は実を取って食べてしまいます。そして、一緒にいた男のアダムにも渡し、男も何の抵抗もなく食べてしまいました。そのようにして、人間は罪に堕ちたのです。そして、この罪をきっかけにして、神と人との関係、人と人との関係においても亀裂が生じ、人間は深い闇の中を歩まなければいけなくなりました。この罪の根本は、神と人との関係が壊れてしまっているということです。さらに申しますと、神様との関係というのは、神様の言葉をどのように聞くかということを深く結びついているのです。エバも、そしてアダムにおいても言えることですが、もし神様の言葉、神様の約束をちゃんと聞いて、それを信じていれば罪を犯すということはなかったでありましょう。しかし、エバは蛇に唆され、神の言葉を間違った仕方で理解してしまいました。余計な言葉を付け加えたり、自分の目にかなう仕方で神様の言葉を理解しようとしたということです。ここを読む度に、私自身牧師として、また説教者として深い畏れを覚えます。正しく御言葉に聞いて、それを語るということもそうですが、ちゃんと御言葉に立って自分自身がいつも生きているのだろうかということです。どんな誘惑にも負けることなく、神様が与えてくださる祝福の中を生き抜いているのだろうかと思うのです。一つ約束を破っただけじゃないかとか、女が渡してきたらこんなことになったとか、最後には全部神様のせいだと言って、もう何が何なのか分からない生活、不安ばかりの生活をしてしまってはいないかということなのです。

 さて、「決して食べてはならない」と言われた善悪の知識の木を食べた男と女はどうなったのでしょうか。7節にこのように記されています。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」一つは、二人の「目が開け(た)」ということです。蛇の言うとおりに目が開けたのです。しかし、問題は開けた目で何が見えたのかということです。果たして神のように賢くなることができたのでしょうか。そうではありませんでした。開けた目で見たものは、自分たちが「裸」であるという事実でした。そして、お互い裸であることを知り、恥ずかしくなりいちじくの葉で隠したのです。第2章25節にはこうありました。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」罪を犯す前は、裸でも恥ずかしくなかったのです。それはアダムとエバの間においてだけでなく、神様の前に立った時も恥ずかしくなかったということです。神様の前にも、妻や夫の前でも何も隠す必要などない。何か隠さないとお付き合いできないという関係ではなく、裸のまま、ありのままで豊かな交わりを持つことができたのです。でも、罪によってそれができなくなりました。隠し事をしながら、不安を抱えながら生きなければいけなくないました。

 目が開かれた二人もまた、「罪」というものが、「悪」というものがどういうものかをここで知りました。聖書が繰り返し語ることがあります。「主を畏れることは知恵の初め。」(箴言1:7)であるということです。私どもが第一に知るべきこととは何か。どのような知恵を身に付ければ、私どもは賢く生きられるのか。それは主を畏れることだと。「畏れる」というのは恐がるとか怯えるということではなくて、神を心から敬うこと、礼拝することです。人が神を畏れることを忘れ、自分中心に生きようとする時、時代や場所に関係なく必ず悲惨な結末が訪れます。罪の恐ろしさ、悲惨というものを聖書は初めから私どもに警告しているのです。人間は長い歴史の中で、数え切れないほどの知恵を身に付け、それを生かし、文明・文化というものを発達させてきました。5年前、10年前といった短い期間を振り返ってみただけでも、ずいぶんと進歩したと思うところはたくさんあると思うのです。そして、その恩恵にあずかっているのも事実です。しかし一方では、人間が自らの知恵と力を頼り誇りとし、罪の問題を蔑ろにして、神の栄光をあらわして生きようとしない。そのような現実がまだ続いているのではないでしょうか。

 本日の創世記第3章は、「罪」の問題をはじめ本当に多くのことが語られています。様々な切り口で多くのことを語ることができるでありましょう。ある説教者はこの箇所に現代人がなお抱える「不安」という問題が語られているというのです。不安に陥るその原因、不安の正体がいったい何であるかを私どもに示しているというのです。私どももまた様々な不安を抱えています。神様との関係を考える時、家族をはじめ共に生きている隣人のことを考える時、不安になります。将来のこと、病気や死のことなど不安が尽きることはありません。では、その不安になってしまう原因、正体とは何なのでしょうか。如何にして不安を克服することができるのでしょうか。さらに賢くなり、力をつけ、神のようになれば不安に打ち勝つことができるのでしょうか。

 そうではないのです。私どもの神が願っておられることは、「わたしが語る言葉をしっかりと聞いてほしい」ということです。いつもわたしとの正しい関係、健やかな関係に生きてほしいということです。ここにしか罪赦され、平安に生きる道はないのだというのです。そして、初めて罪を犯した人間に、神が最初に語り掛けてくださった言葉がありました。「どこにいるのか」(9節)という言葉です。「あなたはどこにいるのか」と神は呼び掛けておられるのです。8〜9節をお読みします。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」聖書が語る神は、私どもを捜す神です。私どもの名を呼ぶ神です。罪と不安に陥り、それをどうすることもできずにいる人間を神は初めから捜しておられるのです。「どこにいるのか。」

 もちろん、神様はすべてをご存知ですから、「どこにいるのか」などと言わなくても、二人がどこにいるかは十分分かっておられるのです。ではなぜわざわざ、「どこにいるのか」と尋ねておられるのでしょうか。それは、「どこにいるのか」という声に応えてほしいからです。「どこにいるのか」と尋ねられ、「はい、神様、私たちはここにいます」と応えてほしいからです。しかし、アダムとエバの二人は、その神様の思いに応えることができませんでした。「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」たのです。これまで神様に呼ばれ、神様が共におられることが喜びであったにもかかわらず、罪に陥り、神の前に立つことができなくなりました。神様の前に進み出て、罪の赦しを願うこともできません。依然として、神は恐ろしい方であり、それゆえに自分の罪を隠し、自分で罪の問題を解決しようとします。10節以下を見ますと、罪を女や蛇のせいにしたり、またこうなったのは、結局は神様のせいだと言わんばかりの勢いです。そのようにして、罪から逃れようとする人間の姿が描かれていきます。そして、人間は罪の責任を負うこともできません。自分の罪、自分の裸を隠すこともできないのです。

 しかし、神は呼び掛けておられます。「どこにいるのか」と。なぜなら、あなたに応えてほしいからです。神様の前に出てきてほしいからです。「どこにいるのか。」この呼び掛けは、昔から今に至るまですべての人に向けて語られている神の言葉です。そして、人はそれぞれの仕方で、この神の声に応えて生きている存在なのです。「私は神からそんなことを言われた覚えなはない」と言う方もおられるでしょうが、その人なりに、「私はこのように生きるのだ」と決めて生きているのです。また、「神に頼る人間は弱い人間だから、私は一人で力強く生きる」と言って生きる人もいます。あるいは、キリスト教信仰というものに関心があるものの、なかなか「信じる」ところまで踏み出せない。まだ「どこにいるのか」という声に、ちゃんと返事ができていないという人もいるでしょう。また、もう既に信仰を言い表し、キリスト者として生きている者にとっても、「どこにいるのか」という神の声を無視することはできません。「どこにいるのか」という問いは、私どもの立ち位置、居場所を問う問いでもあります。神の御心にかなった場所、神との正しい関係の中にいつも立っているか?という問いでもあるのです。「どこにいるのか」という神の御声がいつも響いているからこそ、信仰において弱さを覚える時も、もう一度神の前に立つことができるのです。

 そして、私どもが信じる神は、「どこにいるのか」と呼び掛けておしまいというのではありませんでした。神の前に立つことができない私どもを見つけるために、神はすべてを注いでくださるお方です。私どもがエデンの園に戻る道は、人間が神のようになる道ではなく、まことの神であられるお方がまことの人間になってくださる道の中にあります。その道を歩まれたお方こそ、神の独り子であられるイエス・キリストです。主イエスもまた、父なる神がどれだけ「あなた」という一人の人間を愛しておられるかということ、その「あなた」が神の前からいなくなってしまった時、どれだけ神が悲しまれるのかということを、一所懸命、存在をかけて語ってくださいました。そして、このわたしは「あなた」を見つけ、神のところに連れ戻すために、父のもとから遣わされたのだ、と告げてくださったのです。

 先週14日(日)の夜に教会員のN姉が天に召されました。17日(水)に葬儀が執り行われました。詳細は報告の時にありますが、N姉は洗礼を受ける前から聖書に関心をもって読んでおられたようです。でも、私がN姉と一緒に、「今日はここを読みましょう」と言って、共に分かち合った聖書箇所はそれほど多くはありません。それだけに、はっきりとあの日、聖書のどこを読んだかということが私の心に刻まれています。昨年11月8日(日)でした。自宅での洗礼式の日、共に読んだのがルカによる福音書第19章に記されている主イエスとザアカイとの出会いの物語です。葬儀の時もこのザアカイ物語から説教しました。主イエスは最後にザアカイにこのようにおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:9〜10)ここでも、はっきりと主はおっしゃるのです。「わたしは失われた者を捜すために来たのだ」と。

 ザアカイは、いちじく桑の木に登り、自分の小さな体を葉っぱや枝でさらに隠すようにして、目の前を通り過ぎようとする主イエスを見ていたのです。そして、ああ、これでイエスという有名な男を見ることができた。明日からはまた徴税人の頭として生きようと思っていました。しかし、思いがけないことが起こりました。道を進んでいた主イエスが、自分のいる目の前で急に足を止め、上を見上げ、自分の名前を呼ばれたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)ザアカイは自分を捜す神の御声をはっきりと聞いたのではないでしょうか。「ザアカイ、どこにいるのか?」「ザアカイ、お前がいる場所はそこで本当にいいのか?」罪に染まり切った自分への厳しい声であったかもしれません。しかしそれ以上に、そのあなたをどうしても救わなければいけない。どうしてもあなたを見つけ出して、神のもとに連れ帰らなければいけないという、救いに招く主の御声でもありました。そういうふうに、自分のことを愛のまなざしをもって見つめ、自分の名前を呼んでくださる方に初めて出会ったのでしょう。ザアカイは喜んで木から降り、主イエスを自分の家に迎え入れました。そして、「今日、救いがこの家を訪れた」と主は救いを告げてくださったのです。

 神様は、私どもがもう一度、御前に立つことができるように、そして、御言葉を聞き、神と共に、隣人と共に喜んで生きていくことができるように、今も「どこにいるのか」と声を掛けてくださいます。「どこにいるのか」と声を掛けつつ、失われた私を見つけるために必死になり、追いかけてくださるのです。だから、この私もまた主イエスに見出していただいたのです。N姉が洗礼をお受けになったのは86歳の時、召される4ヶ月程前でした。でも、生まれる前から神様の選びのうちに置かれ、本人が気付いている・気付いていないにかかわらず、絶えず「あなたはどこにいるのか」と神様は愛をもって呼び掛けてくださいました。だからこそ、N姉の洗礼は家族や教会はもちろんのこと、神様にとって本当に大きな喜びとなりました。この神様の喜びというものを、私の喜び、私どもの喜びとして生きていくこと。そのことを神はいつも願っておられます。それゆえに、「どこにいるのか」という神の御声が止むことは決してないのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたは「どこにいるのか」と尋ね、私どものことを捜していてくださいます。そして、キリストのゆえに、あなたの前に立つことができるようになりました。それゆえに、御霊によって私どもをますます強め、御言葉に聞き従う者として、日々成長させてくさい。そしてまだ、信仰を言い表していないものの、既にあなたの選びの中にいる羊たちがたくさんいると約束をしてくださっています。主の御体である教会が、主の御声を語り続ける教会として立ち続けることができるように強めてください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。