2021年02月07日「わたしたちを強くしてくださる方」

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わたしたちを強くしてくださる方

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節

音声ファイル

聖書の言葉

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節

メッセージ

 伝道者パウロがいのちを注ぎ出すようにして、そして、祈りを込めて語った言葉がありました。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」パウロの言葉と同時に、神御自身が私どもに伝えたいメッセージでもあります。「最後に言う」というのは、エフェソの教会に宛てた手紙の「結び」でという意味もありますが、それだけではないだろうと多くの人たちは推測します。なぜなら、この時、パウロは捕らえられ牢獄の中にいたからです。20節で、「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが」とあります。鎖につながれているというのは牢獄の中にいるということです。いつも死というものが近くにありました。明日の自分のいのちを保証するものはありません。だからこそ、パウロが語る言葉には力がありましたし、届いた手紙の言葉を読み、耳にした教会の信徒たちもまた緊張に満ちた思いで聞いたことでしょう。

 パウロは言います。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」それだけではありません。11節と13節には「神の武具を身に着けなさい」とあります。また、「立つ」という言葉も三度も繰り返し語られます。たいへん勇ましい言葉をパウロは最後に重ねるのです。「強くなりなさい!」「神の武具を見に着けなさい!」「しっかりと立ちなさい!」このような言葉を聞く時、皆様はどのように思われるでしょうか。ああ、そのとおりだ。しっかりしないと!強くならないと!と言って、立ち上がる人もいるかもしれません。しかし、一方でこういう言葉はあまり聞きたくないという人もいるでしょう。私はもう体も心も疲れ果てている。日曜日の朝起きて、教会に足を運ぶだけで精一杯。そこで、「しっかり立ちなさい」とか「強くなりなさい」と言われても、余計に苦しい思いになるだけ…。そのように思う方もおられると思うのです。自分を奮い立たせるような言葉よりも、疲れ切った魂が慰められるような御言葉を聞きたい。そこで平安を得たいと思うのです。立ち上がるのではなく、ゆっくりと座っていたい。そう願いたくなるほどに、私どもは疲れ果ててしまうことがあるのです。

 しかし、もしそうだとしたら、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」という言葉は、心と体が比較的元気な人にだけ当てはまる言葉なのでしょうか。魂に疲れを覚え、弱さを覚える者、自らの貧しさや罪に真剣に苦しみ、悩んでいる者にとってはあまり意味がないのでしょうか。もちろん、そんなことはないでしょう。様々な問題を抱え込み、ここに来て座り込んでいる私どもであるかもしれません。しかし、神はその偉大な力によって私ども強くしてくださるお方です。主に依り頼む時、神は私どもを立ち上がらすことがおできになるのです。

 宗教改革者のマルティン・ルターという人は、「むなしい器」という祈りの言葉を残しています。少し長いですがこのような祈りです。

ごらんください、主よ、満たされる必要のある空しい器を。              わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。                  わたしの信仰は弱いのです。どうか強くしてください。                わたしの愛は冷え切っています。                          わたしを温め、わたしを熱し、                           わたしの愛が隣人に届くようにしてください。                    わたしには強く、堅固な信仰が欠けています。                    ときとしてわたしは疑い、                             あなたにひたむきに信頼することができません。                   ああ、主よ、どうか助けてください。                        わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。                 わたしはあなたのうちに、わたしの持つ宝のすべてを置いています。          わたしは貧しく、あなたは富んでおられ、                      貧しい者に対して恵み深くあられる方。                       わたしは罪人であり、あなたは義であり、                      わたしは罪にまみれ、あなたのうちには義が満ち溢れています。            ですから、わたしはあなたとともにいたいのです。                  わたしはあなたからいただくばかり、                        あなたに差し上げるものは何一つありません。アーメン

 ルターは信仰の戦いを戦い抜き、プロテスタント教会の改革のためにすべてを注いだ人です。たとえ、自分が死ぬことがあったとしても、私は福音の真理を真っ直ぐに語ると言った人です。そのルターの心にはいつもこの祈りがありました。ルターは率直に祈るのです。私の愛は冷え切っている。私には強く、堅固な信仰が欠けている。時として私は疑い、あなたを信頼できなくなる。私は貧しい。私は罪人である…。しかし、その愛に冷え、信仰が揺らぎ、疑う自分、その自分を丸ごと神の光の中に置くのです。「ですから、わたしはあなたとともにいたいのです」と祈りながら…。そして、私どももここで神を仰ぎます。たとえ、私は弱くとも、主イエス・キリストは強くいてくださるからです。その主が私を愛し、すべてを注いでくださいます。

 私どもが洗礼を受けてキリスト者になるということは、何か特別で立派な人間になるのではありません。ルターが、聖書が語るまことの教会の姿に立ち帰ろうとしたように、キリストに救われた人間は神が願っておられる人間らしい人間になるのです。それは、神を必要とする人間になるということです。弱くても、愛が貧しくても、罪深くても、「私は神様なしには生きていくことができない」という信仰を告白して生きる人間になるのです。それゆえに、神の素晴らしさを賛美する人間になるのです。だから、パウロも言います。主に依り頼みなさい!主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい!

 強くなるように!神の武具を身に着けるように!しっかり立つように!これらは明らかに戦う姿勢を意味する言葉です。キリスト者として生きることは、戦いの中を生きるということでもあります。パウロは他の手紙の中で、私たちは「キリスト・イエスの立派な兵士」であると言いました(Ⅱテモテ2:3)そのキリストの兵士たちの集まりが教会であり、教会もまた戦う教会として生きるのです。信仰を与えられたら、静かに穏やかに過ごすことができることを期待するかもしれません。戦いなどということは、信仰を持っていない人たちがするようなことだ。キリストを信じている私たちには戦いなど関係がないのだと。確かに、「戦い」という言葉を聞く時、私どもの心は騒ぎます。安心などできないです。私どもはそれぞれに「戦い」というものを経験しています。それは戦う相手次第によるかもしれませんが、気を抜くことなどできません。必死になると思います。しかし、それでも戦いにおいて、大きなダメージや傷を負ってしまうことがあります。また、兵士であるとか、武具や武器を身に着けるということは、具体的に「戦争」のことを思い出す人もいるでしょう。実際に経験している人たちにとっては二度と思い出したくない出来事です。いったい誰が戦争を望むのでしょうか。多くの人が平和を望み、静かな日常を送ることができたらと願うものです。

 それだけに、キリスト者一人一人が戦う者となり、キリスト教会が戦う存在となるということはどういうことなのでしょうか。ある人は言います。「“戦う”という信仰の姿勢を、現代の教会は忘れかけているのではないか。」「教会が戦う姿勢を失う時、そのいのちさえも失うのだ」と。主に依り頼み、主の力によって強くされることを拒む時、私どもは立つことができなくなってしまうのです。

 説教の後、讃美歌380番を歌います。初めにこう歌います。

たてよ、いざたて 主のつわもの、見ずや、み旗の ひるがえるを。                                                                                                                                                                                 すべてのあだを ほろぼすまで 君はさきだち 行かせ給わん。

 一つ前の讃美歌379番にも初めにもこのような歌詞があります。

見よや、十字架の 旗たかし、君なるイエスは さきだてり。              進め、つわもの、すすみゆき、おおしくあだに たちむかえ。              勇め、つわもの いざいさめ、十字架の御旗 さきだてり。

 曲もまた力強いものです。しかしながら、新しくできた『讃美歌21』には、両方の讃美歌が掲載されませんでした。軍歌を思い出されるような曲だからでしょうか。理由は分かりませんが、このような信仰の戦いを歌う賛美歌を愛唱しているかどうかによって、信仰者としての生き方はまったく変わってくるのではないでしょうか。

 聖書には、「何もしなくてもいい」「このままで、ありのまままでいい」というメッセージもたくさん語られています。神様に罪から救っていただくという点において、私どもは立派な功績を積む必要などありません。ありのままでいいのです。キリストによって与えられる救いを感謝して、受け取ればよいのです。しかし、救われた者として生きる時、これまで以上に主を愛し、主を信頼する者に変えられていきます。弱い自分で満足するのではなく、弱さの中でさえ、主によって強くされるという驚くべき恵みの中を生きる者とされるのです。

 では、私どもは何と戦うというのでしょうか。11〜12節にこのようにありました。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」私どもの戦うべき相手、戦うべき敵、それは「悪魔」だと言います。戦う相手が「悪魔」と聞いてもどこかぴんと来ない、あるいは、どこか子どもじみていると思われるかもしれません。悪魔と言うくらいですから、いったいどんな恐ろしい顔をしているのかと想像する人もいるでしょう。そして、悪魔のことが「支配と権威」「暗闇の世界の支配者」というふうにも言い表されていますから、具体的に世の権力者や支配者の姿を思い浮かべる人もいると思います。また、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉もありました。「血肉」というのは「人間」のことです。「血肉を相手にしない」と言うのですから、私たちの戦いは人間ではなく、悪魔を相手にしているということでしょう。もちろん、悪魔は人間をとおして働くということもありますから、「敵は人間である」と言える部分もあるのです。歴史を振り返ると、人間がまるで悪魔のような存在となり、その力を好き勝手に用いてきました。人のいのちを救うのではなく、滅ぼし、奪い取るために用いてきたのです。エフェソの教会もまた、異教社会の中にあり、ローマ帝国の支配の中で苦しんでいたのです。

 どうして、今日、エフェソの信徒への手紙に耳を傾けたいと思ったかと言うと、理由はとても単純で、今週の11日(木)が「建国記念の日」として国によって定められているからです。そのことを意識してのことです。教会は「建国記念」などと言わないで、「信教の自由を守る日」として毎年大切にしています。コロナ禍でなければ、今年も多くの集会が行われていたことでしょう。「国を建て上げる」という時に、私どもは何よって建て上げるのかを考えなければいけません。日本の国も異教社会ですから、様々な力を用いて、しかも神の御心ではない別の力が働くということはいくらでもあります。天皇制の問題もそうですし、為政者たちも悪魔に心奪われることがよくあります。

 しかしながら、問題はそれだけではないと思います。つまり、悪魔の策略に陥るのは世の権力者や為政者たちに限ったことではないということです。そのように、他の誰かと自分との間に線を引いてしまい、「私は悪魔とは関係ない」などと思い始めてしまうことが、もう既に悪魔の思う壺ということになります。「悪魔の策略に対抗して」とパウロは言います。私どもが戦いは血肉を相手にするのではありません。悪魔と戦うのです。悪魔は策士です。やり方が実に巧妙です。あの手、この手を使って働き掛けてきますし、いわゆる悪魔のような恐い顔をして近づいてくるわけではないのです。最もらしい言葉を口にしながらで私どもに近づいて来るのです。「神を信じて、何かいいことがあったか?今、あなたはとても苦しんでいるではないか?それでも神はあなたを見捨てていないと言えるのか?一度、落ち着いて考えて、これからどう生きるかを決めたほうがいい。」「いつになったら平和が実現するのだろうか?いつまでも幻想を抱くのはやめたほうがいい。力を用いて気に入らない者を滅ぼし、あなたがこの世界の王として立てばいいではないか。力が強い者が勝利して、王となる。それがこの世界の仕組みというものだ。」「あなたはいつまで神の御心を求めて生きるのか?あなたが自分らしく生きるために、神も他人のことなど構う必要はない。煩わしくなるだけだ。自分の思いどおりに生きたらよい。」このような囁きは、誰にでも聞こえてくる声です。しかも、悪魔の関心はまだ神を信じていない者ではなく、既に神を信じている者たちに向けられます。キリスト者として熱心に生きれば生きようとするほど、悪魔は力を発揮しようとします。巧みな仕方で、私どもを神から引き離そうと働きかけてくるのです。

 ところで、パウロはエフェソの教会の人たちにどのようなことを語ってきたのでしょうか。例えば、今日の箇所のすぐ前で、パウロは妻と夫のことを取り上げます。次に子どもと親のこと、更には奴隷と主人のことを取り上げます。奴隷と主人と言うのは、今日で言い換えると上司と部下の関係と言えるかもしれません。そして、その前には、キリスト者としての歩み、教会生活の歩みについて語ります。そこでパウロが大事にするのは「言葉」の問題です。私どもは言葉において罪を犯します。言葉の中に、悪魔の力、罪の力が働くと言っていいでしょう。パウロは言います。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エフェソ4:29,30)。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。…むなしい言葉に惑わされてはなりません。」(同5:3,4,6)私どもに悪魔が働く時、私どもの言葉を奪います。肉のいのちを奪うようなことはしないかもしれません。しかし、言葉を奪います。恵みの言葉、人を愛し造り上げる言葉を奪います。何よりも、神を賛美する言葉を奪うのです。そのようにして、神様と私どもの関係、人と人との関係を壊し、引き離そうとするのです。だからパウロは言うのです。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい!」悪魔に足元をすくわれないように、しっかりと立ちなさい!聖霊を悲しませてはいけない!だから、共に戦おう。だから、主に依り頼んで、強くなろう!と呼びかけます。

 そのために、神の武具を身に着けて戦うのです。「神の武具」とありますから、私たちが身に着けていたとしても、それは神様が与えてくださった武具であるということです。旧約聖書を見ると、神御自身が武具をまとっておられる。神御自身が武具であると言われています(イザヤ59:17)。悪魔、そして、罪と戦ってくださるお方は神様です。神様が先頭に立って、悪との戦いを導いてくださいます。神様が与えてくださる武具について、14節以下で具体的にこのように言われています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」武具として帯、胸当て、履物、盾、兜、剣があげられています。当時、ローマの兵士たちが身に着けていた武具だったのではないかとも言われています。そして、これは完全武装です。まったく隙がありません。それほど、悪魔の力が手強いと言うこともあるでしょうし、いい加減な気持ちでは勝つことはできないということでしょう。また、繰り返し語られている「立つ」という言葉ですが、これは勝ち取った場所をしっかりと守り、確保するという意味があります。神が与えてくださった場所を悪魔によって奪われてはいけないのです。それは、私一人だけの問題ではないしょう。救いは私一人の問題ではないからです。私の神でいてくださる主イエスは、教会においても、この世界においても、まことの主でいてくださいます。すべては主イエス・キリストのものなのです。

 神の武具である「真理」「正義」「平和」。これもまた主イエスが私どものために十字架でいのちをささげてまでして与えてくださったものです。十字架と復活をとおして信ずべき救いの「真理」が何であるかを主は私どもに示してくださいました。自分を誇るのではなく、神様の前に正しい生き方を貫くことができる。そのような意味での「正義」というものを神は私どもに与えてくださいました。「平和の福音」というのもまた、キリストによってもたらされた神と人間との間の平和です。興味深いのは、平和の福音を告げる「履物」として準備しなさいと言っていることです。私どもの足はしっかりと立つためだけではなく、動くため、行動するためにも与えられているということです。イザヤ書に次のような言葉があります。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52:7)平和の福音を告げ知らせるキリスト者の歩み、教会の歩みは時に、その戦いの中で疲れることがあり、山々を行き巡る時、足の裏が埃まみれになるように、私ども信仰者の足(心)も汚れてしまうということがあるでしょう。しかし、「キリストの福音を知らせる者たちの足は美しい」と主はおっしゃってくださいます。またその上に、信仰の盾を取り、救いの兜をかぶります。

 最後にパウロは、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と勧めました。どちらかと言うと、これまで防御のための武具が多かったような気がしますが、霊の剣である神の言葉は攻撃するために用いられるものです。主イエスもまた、救い主として地上の生涯を歩み始めようとした時に、荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになりました。しかし、すべて神の言葉によって打ち勝たれました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)また、平和の福音というのは、私ども神のもとに立ち帰らせる言葉でもあります。悪魔のほうに行くのではなく、神のもとに立ち帰り、神に結ばれて生きる者とされる。それがまことの平和です。それが最も悪魔が嫌がることです。そして、パウロは最後に御言葉において働く聖霊の力に導かれ、どんな時も祈りつづけるように勧めるのです。聖なる者たちのために、そして、伝道者パウロのために目を覚まして根気よく祈り続けるように。つまり、それはキリストの御体である教会のための祈りと言ってよいでしょう。

 パウロは16節で、「それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる」と言いました。悪魔の策略によって、何でもないと思ってしまうような罪を犯してしまう。ちっとした悪口を言ってしまう。しかし、たったそれだけのことが、放たれた火の矢によって全体が燃え広がるように、私と神との関係、私と隣人との関係を一気にダメにしてしまう恐れがあります。しかし、神が先頭に立って戦ってくださることを信じ、私どももまた主に依り頼んで立ち上がる時、強い者とされます。聖霊の炎が悪魔の火を呑み込み、ことごとく消すことができるのです。そのために、御言葉と祈りに集中します。そして、聖霊に満たされた私どもは賛美の歌をうたい始めます。もう諦めや愚痴、恨みといった言葉を口にする生き方から解放されるのです。第5章19節で、パウロはこのように言いました。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」そのように霊に満たされて生きる時、もう私どもは悪魔に打ち勝っているのです。主に依り頼む者として、強くされ、しっかりと立つ者とされているのです。

 この手紙を書いたパウロは、実はこのことを始めから意識していたようです。言葉そのものは違いますが、例えば、第1章18節(新約p353)で、パウロは教会のために祈りながら、「心の目を開いてくださるように」と祈ります。それは、私どもの心の目、信仰の目が閉じてしまっているからでしょう。そして、見るべきものを見ることができていないからです。しかし、心の目が開かれたならば、はっきりと見えてくる素晴らしいものがあるのです。続けてこう言います。「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」私どもには受け継ぐべき財産があります。この世で貧しくとも、神は豊かな栄光に輝くものを用意してくださっています。

 それだけではありません。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」ここにも主イエスの「偉大な働きをなさる神の力」という言葉が用いられています。神はこの偉大な力を、キリストの御体である教会において、最も明らかにしています。また、続く第1章20節でこのように祈りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ…」。教会の礼拝で、私ども一人一人に注がれている力は、イエス・キリストと死者の中から復活させたのと同じ力だというのです。死によっても遮ることのできない力、あらゆる悪と罪に打ち勝つ力を、神は私どもに注いでくださるのです。

 今から聖餐の恵みにあずかります。私どもの主であり、信仰の戦いを導く指揮官である主イエスが、私どものためにささげてくださったいのちにあずかります。悪魔と死、罪の暗闇に打ち勝ってくださったいのちです。復活の主は御旗を高く掲げ、私どもを終わりの日まで導いてくださいます。この希望に満ちた、力強いいのちの中にいつも招かれているのです。素晴らしいことだと思います。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」お祈りをいたします。

 私どもが弱くても、主よ、あなたは強いお方です。私どもが挫折することがあったとしても、主よ、あなたは幾度も助けの御手を差し伸べてください。私どもが幾度罪を重ねても、主よ、あなたは主の十字架によって赦してくださいます。そして、復活の主の力の中で立ち上がることができます。主の偉大な力によって、強くしてください。悪の力に負けることなく、戦い続ける信仰に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。