2021年01月31日「目標を目指してひたすら走る」

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目標を目指してひたすら走る

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節

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聖書の言葉

12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節

メッセージ

 私ども信仰者にはたいへん正直な部分があります。謙遜な部分があると言ってもいいでしょう。自分の信仰を見つめる時、自分を過大評価する人はあまりいないということです。どちらかと言うと、へりくだるようにして、「自分は信仰者としてまだまだです」と言うことがあります。しかし、そのことがやがて深い悩みとなり、信仰者として自分はこのまま不十分な生き方を続けていてもいいのだろうか?いつになったらまともな信仰者になることができるのだろうか?と本当に落ち込んでしまうことがあるのです。洗礼を受けてしばらくしてからそのように感じることがあるでしょう。あるいは、子どもが与えられて親になった時、教会学校の教師や教会役員をはじめ、様々な奉仕を任される時、果たして自分でちゃんと務まるのだろうか。そう思って不安になることがあります。あるいは、大きな試練を経験する時、自分は崩れ落ちることなく御言葉の上にしっかり立つことができるだろうか不安になってしまいます。自分が信仰者として、十分でないことは多くの人が知っていると思います。しかし、一方で中途半端で終わりたくない。せっかく、神様がキリストにおいて信仰を与えてくださったのだから、その恵みを少しも無駄にすることないようにしたい。もし不十分で終わってしまったならば、何のための信仰生活なのかということになってしまう。そう思うのです。

 ギリシアにあるフィリピにある教会に宛てて手紙を書いたパウロもこのように言っています。12節です。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」13節でもこのように言います。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。」「既にそれを得たというわけではない」「既に完全な者となっているわけではない」「既に捕らえたとは思っていない」。パウロは、「まだ〜でない」という言葉を繰り返します。具体的に何を捕らえていないのでしょうか。12節には「それ」としか言われていませんが、前後の文脈から判断して、キリストを知ること、復活に達すること。あるいは、神が与えてくださる賞与のことなどいくつかの意味があると思われます。しかし、いずれにせよ、信仰生活にとってなくてはならないものです。そのなくてはならない大切なことを捕らえるということにおいて、あの伝道者パウロでさえ、「私はまだは完全な者ではない」と言うのです。だから、この私が不完全なのも当然だ。そう言って、安心する人も中にはいるかもしれません。でも本当にそれだけで私どもは安心することができるでしょうか。やはり、自分は、ついに捕らえることができた。ついに完全な者となることができた。そういうところに生まれる喜びというものを、やはりどこかで求めているのではないでしょうか。この手紙を書いたパウロ自身も同じです。それだけに、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と、パウロが言っていることはたいへん興味深いと思います。

 よく考えてみますと、私どもが生きる社会もまた何を掴んだか、何を手に入れたか、何を獲得したか、そういった価値観によって自分が評価されてしまうところがあります。今、受験シーズン真っ只中ですが、自分がどのような学校に入学し、卒業したのかということは人生において大事な問題です。学校を出た後、どのような職に就くかも大事なことでしょう。しかし、すべての人が思い描いたどおりの人生を歩むことができるわけではありません。不合格の烙印を押され、挫折を味わうことがあります。自分が進むはずだった道を行く人たちを見て、羨ましく思うことがあります。自分は負け組だと言って、希望を持って生きることができなくなることがあります。反対に、誰もが羨む道を行く人たちがすべて幸せなのかと言うと、必ずしもそうではないでしょう。手に入れたいと思ったものは、あらゆる努力、あらゆる手段を用いて、掴み取ろうとします。しかし、それでも満たされないということがあるのです。あれだけのもの犠牲にして、掴み取ったにもかかわらず、なぜか空しく思えてしまうことがあるのです。幸せというのは、いわゆる勝ち組とか負け組とかそういう基準で判断することはできません。そして、忘れてはいけないことは、あらゆるものを手に入れて、「私は幸せだ」と思ったとしても、そこで神様の御心から離れた生き方をしていては何の意味もないということです。

 パウロは12節で、「完全な者」という言葉を用いていました。これは当時、パウロの周りで、自分のことを「完全な者」と呼んでいた人たちが実際にいたということが背景があります。具体的に言うと、一つは「ユダヤ主義者」と呼ばれる人たちです。イエス・キリストの十字架だけでは十分に救われない。キリストだけではなく、我々ユダヤ人が昔から大事にしている「割礼」を受け、アブラハムの伝統に生きて初めて完全に救われるのだという教えを語った人たちがいたのです。もう一つは、ギリシア的な考えに生きる人のことです。「知識」ということをたいへん重んじまして、知ることによって、自分を高めていこうとする考えです。多くのことを知り、やがて悟りを開くことによって完全な者になれると考えられていたのです。ユダヤ的な考えにしろ、ギリシア的考えにしろ、要するに、人は確かなしるしというものがほしいのです。割礼や知識といったものを得ることによって、「あなたは大丈夫。あなたは完全だ」と言ってほしいのです。

 そして、この手紙を書いているパウロ自身も伝道者となる前は、獲得する人生を真っ直ぐに生きていた人でした。しかも、手に入れたい、捕らえたいと思うものをすべて掴み取ってきたのです。この世における成功者であり、勝利者でありました。神の民として、私は当然割礼を受け、ベニヤミン族という優れた家系に生まれ、神の掟を徹底的に守り、敵対するキリスト教会に対して迫害を加えるほどに熱心なユダヤ教徒でした。自分は非の打ちどころがない、完全な人間だと自負していたのです。人の前だけではなく、神の前においても私は自分を誇ることができる立派な生き方をしているというのです。

 しかし、そのパウロがダマスコにある教会を迫害するためにその道を進んでいた時に、復活のキリストと出会います。そして、悔い改め、回心へと導かれ、キリストを迫害する者からキリストの福音を伝える者に変えられたのです。パウロ自身、この後、幾度もこの回心の時の経験を語るほどに、彼の人生にとって決定的な経験でした。復活の主と真実に出会った時、過去において自分が誇りとしていた生き方、つまり、私が捕らえ、掴み、獲得することによって人生の意味を見出そうとしようとしていた生き方は、結局、「塵あくた」に過ぎないと言います。第3章8節でこう言います。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」

 そのパウロがフィリピの教会の人たちに、そして、私どもに対しても語り掛けるのです。私どもの人生において、決定的に大事なこととは何なのか。それは、何によって、誰によって捕らえられているかということです。私が、自分が自らの力で色なんものを捕らえ、獲得して生きようとすること、それは獲得できた・できないにかかわらず、自分を中心にして生きる生き方に過ぎないということです。そうではなくて、誰かによって自分が捕らえられること、そのことがあなたの人生を価値あるものとするのです。誰によって私どもは捕らえられているのでしょうか。12節の終わりでパウロは言います。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」私どもは復活の主と出会う時、私どもの人生は大きく変えられます。それは、獲得する人生から、キリストに捕らえられる人生に変わるということです。キリスト・イエスに捕らえられていることこそが、あなたの人生を意味あるもとするのです。挫折をしても、罪に苦しんでも、死を前にしても、キリストの愛があなたを捕らえている。キリストは、決してあなたを離すことはない。この信仰の事実が、生きている時も死ぬ時もあなたを支えるのです。

 私どもは自分に何か足りない部分を見つけるとすぐに落ち込み、不安になります。自信を持てなくなくます。人と比べて自分は不十分だと思うこともあるでしょうし、神様の前に立つ時には尚更、自分の足りなさや貧しさというものを痛感します。でも、パウロの言葉を読みながら、変に落ち込む必要はないということを思わされるのです。自分が不十分であるということを、積極的に、肯定的に捉える道がキリスト者には与えられているということです。私どもは自分の足りなさに目を向けることよりも、もっと大事なこととして、キリストに捕らえられている現実を見つめるべきなのです。あるいは、色んな欠けを持ちながらも、神様の前に静まる時に、やっぱり自分の中に神様を慕い求める思いがある。やっぱり私は神の言葉を聞いて生きなければ、本当の意味で自分を生きているとは言えない。そういう思いが確かなにあるならば、それはキリストに捕らえられているということではないでしょうか。「いつになったら」自分はちゃんとしたキリスト者として生きることができるのだろうかという思いもまた、キリストに捕らえられているからこそ生まれる思いではないでしょうか。自分の思いや感情を基準として信仰を計ってしまうと、「自分はまだまだだ」と言って落ち込んで終わってしまうだけです。しかし、キリストに捕らえられているという信仰の事実を見つめる時、私どもは自分でも想像もしなかった新しい歩みを始めることができます。

 「私はキリストに捕らえられているから」と言った後、次の13〜14節でパウロはこう言います。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」キリストに捕らえられている人の生き方とはどのような生き方をするのでしょう。捕らえられて、じっとそこに居る、あぐらをかいて、そこでゆっくりくつろいでいるということではないようです。パウロがここで言っていることは、キリストに捕らえられた者は「走り出す」ということです。他にも「前のものに全身を向け」とか「賞を得る」とか「目標を目指し」というふうに、じっとしているのではなく、前に向かって激しく動き出し、走り出している、そのような信仰者の姿をここに見ることができます。そして、賞を得るために目標を目指してひたすら走っているキリスト者の姿そのものが、自分はまだ「未完成」であり、目標に向かう「途上」を生きている人間であることを示しているのです。それはイエス・キリストだけでは物足りないから、何か別のものを求めて走り出すということでないことではありません。キリストにしっかりと捕らえられているからこそ、ちゃんと目指すべき方向に向かって走り出すことができるのです。

 キリストに捕らえられて初めて、私どもは本当の意味で獲得する人生を生きることができます。それは自己中心という思いではありません。今度は自分が捕らえたい、今度は自分が掴みたいという強い思いは、主イエスに対して向けられる思いです。つまり、今よりももっと主イエスのことが知りたい、そして、今よりも主イエスのことを愛し、神様との良い関係に生きたいと願うことです。神様が与えてくださる救いというのは、私が今信じていることよりももっと大きく、もっと素晴らしいはずだ。だから、救いの素晴らしさをもっと知り、望みをもってこの地上を歩み、主と教会に仕えていきたい。そのような強い思いが与えられるということです。それはキリストに救われた人間として自然なことだと思います。

 違う言葉に言い換えますと、信仰における「決心」をする。信仰における「戦い」をするということでもあるでしょう。地上を歩む時、様々な試練に襲われる時があります。あるいは、信仰の決断というものを迫られることがしばしばあります。その時に、自分はキリストに捕らえられているからずっと座り込んでいたらいい。すべては成り行きに任せて、自分は何もしなくてもいいということではないと思います。そいうところで、改めて祈りをささげ、御言葉に耳を傾けます。心を神に向け、悔い改めることもあるでしょう。そして、私はキリストに捕らえられている人間として、こういう生き方をしよう。こういう決心、決断をしようという思いが自然と与えられていくのだと思います。そういう信仰の決断、戦いというのは、決して自分一人で決めたものではなく、キリストが私を捕らえてくださったその恵みの中で与えられたものです。だから、たとえ思い通りにいかないことがあったり、失敗をしてしまうことがあったとしても、それがすべてではないのです。どんなことがあっても、キリストの御手の中に置かれているのであり、その愛と恵みの中で、もう一度立ち上がり、御心にかなう生き方をこれからも続けようという思いが与えられるのです。

 また、パウロはこのようにも言っていました。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…」。「後ろのものを忘れて、前に進みましょう」という言葉は、聖書だけが語っていることではないでしょう。「過去にあった嫌なことはもう忘れて、前を向きましょう。これからあなたがどのように生きていくかということのほうが大事なのだから。」そういう言葉で誰かに励まされたり、誰かを励ましたりということはよくあることです。後ろのもの、過去のものというのは、自分にとって良いものであっても、嫌なものであったとしても、今の自分に大きな影響を与えます。過去に起こった出来事によって、今の自分が形づくられるということが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。過去の栄光にしがみつくこともあれば、過去の嫌な思い出や過ちがいつまでも自分の中から消えない。やっと過去の自分から解き放たれたかと思ったら、急に顔を出してくる。そういうことがあると思います。では、パウロが言う「後ろのもの」とはどういうことなのでしょうか。一つは、今申しましたように「過去の自分」のことを意識しているのだと思います。特に、キリストに出会う前の自分です。自分の力を誇り、その力によって何でも手に入れることができる。神様の前に立っても全然恥ずかしくない自分がいるということを誇っていた過去です。教会とキリスト御自身を迫害していた過去です。そして、そのようにパウロの過去というものは、そのまま「罪」の問題と密接に結びつきます。後ろのものというのは、何よりも罪の問題ではないでしょうか。罪という過去に起こった事実そのものを、私どもは自分の力で消すことはできません。いつまでも捕らわれ続けるのです。しかし、その過去に起こった罪を消して、忘れることができるというのです。それは、過去の罪を忘れてなかったことにするという話ではありません。ずっと罪の力に捕らわれる生き方から解放されるということです。過去の罪を消すことはできないかもしれません。でも、キリストの十字架によって、神に赦されて生きることはできるのです。そして、神によって罪赦されているということを、私どもが心から受け止め、感謝して生きる時に、本当の意味で「後ろのものを忘れる」という生き方をすることができるのです。

 また、救いの喜びというのは、後ろのものを忘れることができさえすれば、それでいいというものでもないと思うのです。それだけでは、「本当に自分は救われた」となかなか心から思うことができないのではないでしょうか。つまり、後ろのものを忘れると同時に、私どもを新しい気持ちをもって前に進ませるものがなければ、救われた生活は喜びの生活とはならないということです。パウロは言います。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」。「前のものに全身を向ける」というのは、身を乗り出すようにして全身を前に伸ばすという意味です。そのように、自分を前へと導こうとする大きな力が働いているというのです。ここに神の救いに生きる喜びがあります。では、「前」には何があるのでしょう。14節には、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」とあります。ややこしいですが、「前」というのは「上」のことでもあるのです。そして、前にも上にも、そこに神がいてくださいます。神がおられ、神の御心が支配している場所です。その御心にかなう生き方に私ども一人一人が召されているのです。

 この「上に召して」ということですが、「召す」というのは、「呼ぶ」という意味があります。自分の意志で勝手に上に向かっているのではないのです。自分で勝手に走り出しているのではないのです。いつも私どもを呼ぶ声があるからこそ私どもは走り出すことができます。前に向かうことができます。私どもの歩みを導くのはいつも主の御声です。そして、私どものことを呼んでくださる神は、同時に私どもを捕らえてくださる神でもあります。私を捕らえていてくださる神は、いつも御旨にかなった歩みへと導いてくださる方です。だから、勢いよく走り出したのはいいものの、気付いたら知らない場所にいたとか、次にどこに行けばいいか分からなくなって途方に暮れてしまうということはありません。たとえ、そうなったとしても神は呼び掛けてくださいます。だから、方角が分からなくなっても、途中で疲れ果てて倒れ込んでしまっても、目指すべきところから響きわたる声を聞き、再び力をいただいて、立ち上がることができるのです。

 そのように、神様からすべての力をいただいて、信仰のレースを走り終えた時、「賞を得る」ことができるのだと言います。私どもがなすべきことは、神が与えてくださる賞を得ることです。そのために、目標を目指しひたすら走り続けます。神の召し、召命に精一杯応えて生きようとします。穏やかな生活をしているように見られても、祈りと御言葉に集中する時、神様の前に立ち帰り、悔い改める時、そこでも私どもは一所懸命走っているのです。最後まで走り抜いたら、賞やご褒美をもらえるというのは少し子どもじみていると思われるかもしれません。でも、神様の前で子どものようになって、素直な気持ちになって、神様からご褒美をいただけるということを喜びたいと思います。そういう信仰の心を持っているかどうかということが、私どもの信仰生活にとって、とても大事なのです。やがて信仰のレースを終える時が来ます。この地上においては、自分が死を迎える時でしょう。救いの完成という視点で理解しますと、それは主イエスが再び来てくださる時です。その時に、私どもも復活にあずかることができます。神様の愛というのがこんなに素晴らしいものだったのかということに気付くことができます。すべてにおいて満たされ、神を心から喜ぶことができるのです。

 さて、パウロは最後にこう言いました。15〜16節です。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」15節の「完全な者」という言葉には、最初にも少し申しましたように、当時このように自分のことを呼んでいた人たちがいたという背景があります。自分の正しい生き方に救いの根拠を求めようとしたのです。パウロは彼らの言葉を逆手にとって、本当に「完全な者」というのは、信仰の目標を目指してひたすら走り続ける人、終わりの日の希望に生きる人なのだというのです。まだ自分は完全ではない。でも何とか捕らえようと努めている人、そのように自分はゴールに向かう途上にある人こそ、本当の意味で「完全な者」だと言うのです。

 また、16節には「到達したところに基づいて」とありました。これは、「キリスト者」と一括りで言っても、皆それぞれ違いがあるということです。信仰歴も年齢も信仰理解においても、皆違います。でもその違いを比べ合う必要はありません。皆、途上の中にあるということにおいては同じです。キリストに捕らえられているということにおいても皆同じなのです。だから、信仰における弱さを覚えても、そのことで落ち込む必要はないのです。落ち込んで、もう信仰生活をやめてしまうというのではなく、不十分であっても信仰生活に励む生き方をするということです。到達したところ、今いるところから前に進んで行ったらいいというのです。未熟でも、間違ったとしても、「何か別の考え」があったとしても、15節の終わりにあるように神様が必ず「明らかにしてくださる」からです。つまり、神様が間違いを正し、信仰の成長することができるように御心を示し、導いてくださるのです。だから変に無理をしたり、焦る必要はありません。神様の前に謙遜になり、心を開くことができるように祈ったらよいのです。

 ところで、パウロがここで語るキリスト者の姿というのは、「何とかして捕らえようと努めている」とか「目標を目指してひたすら走る」という言葉にも表れているように、たいへん勢いがあります。私は歳を重ねているし、体力もない、もう地上のいのちもそれほど長くはない。だから、ひたすら走るなどということは到底できない、あとは若い人たちにと思われるかもしれません。もちろん、ここで言われていることは実際に体を使って走るということではありませんし、体力を使うような奉仕を皆がしなければいけないということでもないのです。歳を重ねていようが、たとえ死を前にしていたとしても、ここでも自分が「到達するところに基づいて」進むことができるということです。死を前にしても、力を発揮して生きることができるものを私どもは主イエスから与えられています。自分の過去の人生において掴み取ったものではなく、主イエスが与えてくださる復活の命によって生かされ、力づけられるのです。だから、信仰というレースを走るということにおいて、年齢は関係ありません。神様から召していただき、神様から与えられた場所を私どもは一所懸命最後まで走ったらよいのです。

 初めに申し上げたほうがよかったかもしれませんし、既にご存知の方も多いかもしれませんが、本日の聖書箇所は今年の年間聖句です。一言でまとめるならば、「心を高く上げよう」「前に進もう」ということです。千里山教会もめぐみキリスト伝道所も共に、それぞれ固有の願いや課題、計画といったものがあります。そして、計画や信仰の幻を描く時、あまりにも現実離れしたことを考える人はいないと思います。ちゃんとそれぞれの教会の現実、地上の歩みというものを見つめます。そのこともまた神の前に誠実に生きるということでしょう。しかし、より大事なことは私どもを召し、呼び掛けてくださる主の御声を聞き続けることです。そして、キリストの愛に捕らえられているという喜びと感謝をもって、走り出していくということです。教会の歩みにおいても、お一人お一人の生活の中にも多くの困難が訪れます。また、自分自身の貧しさといったものを嫌というほど思い知らされることもあるでしょう。しかし、千里山教会もめぐみキリスト伝道所も、今立っているところからスタートを切ることができます。「それでいい」と神様はおっしゃってくださいます。なぜなら、キリストが私どもをしっかりと捕らえていてくださるからです。この恵みの確かさの中で、新しい年も神様に喜んでいただける歩みを重ねていきましょう。お祈りをいたします。

 救いの幸いに生きながらも多くの欠けがある私どものです。しかし、キリストに捕らえられている恵みの中にいつも立ち帰ることができますように。肉体も体力も衰えを覚えることがあるかもしれません。しかし、御霊の火を誰も消すことはできません。望みをもって、神様から与えられた人生をまっとうすることができるように守り助けてください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。