2020年12月27日「静かに思い巡らすクリスマス」

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静かに思い巡らすクリスマス

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章8節~20節

音声ファイル

聖書の言葉

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。ルカによる福音書 2章8節~20節

メッセージ

 今年も多くの方からクリスマスカードをいただきました。一年の初めだけではなく、終わりにも「おめでとう」と挨拶を交わすことができることは嬉しいことです。今年の特徴かもしれませんが、クリスマスカードを眺めながら、「今年は静かなクリスマスになりそうです」と記されているものが何枚かありました。理由は記されていませんが、おそらくコロナ禍で、例年のように賑やかで楽しいクリスマスを送ることができないということでしょう。私どもも、礼拝後の愛餐会を行うことはできなかったという点では静かであったかもしれませんが、朝の記念礼拝と午後からの教会学校クリスマス礼拝をささげることができ感謝でした。何名かの方に、一年を振り返ってひとこと挨拶をいただくこともできました。クリスマスということに限らず、今年は一年をとおしていつもより静かであったかもしれません。静かにならざるを得ない状況に追いやられたとも言えます。しかし、この一年もここまで主の御手の中で守られたことを心から感謝しています。

 クリスマスと言えば、明るく楽しいイメージがあるかもしれません。喜び祝うことこそがクリスマスに相応しい過ごした方と言えるでしょう。反対に、私どもが抱える闇の問題、罪の問題に目を向け、悔い改めつつクリスマスに備えることも大事なことです。では、「クリスマスを静かに過ごす」とはどういうことでしょうか。自らの罪をじっと見つめ黙り込むことでしょうか。しかし、暗いまま終わってしまっては意味がないので、そのような中に救いの光が与えられたことを覚え、最後には感謝することへ導かれたいと願うものです。「静かにする」というのは、明るくもないし、活動的であるとも言えないところがありますが、でも本当にそうなのでしょか。必ずしも、静かにすること、静かにクリスマスを過ごすことを消極的に捉える必要はないと思います。なぜなら、聖書がそのことを私どもに告げているからです。

 今年は主イエスの母となったマリアに焦点を当てて、ルカによる福音書の御言葉から聞いてきました。受胎告知、マリアの賛歌と続いて、今年最後の礼拝でももう一度マリアの姿に心の目を向けます。先程、お読みしましたのはルカによる福音書第2章8〜20節です。夜通し羊の番をしていた羊飼いの前に、突然天使が現れ、主の栄光が羊飼いたちを照らします。天使は救い主誕生の知らせを告げるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10〜11節)そして、天使の大軍による賛美があり、羊飼いたちは急いで生まれたばかりの主イエスのもとを訪ねます。クリスマスと言えば、「まさにこの箇所!」と言えるほどに有名な御言葉です。しかし、よく読むとここにもマリアは登場してくるのです。終わりのほう19節です。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」この第2章8節以下において、マリアのことはほとんどと言っていいほど読み飛ばされています。私自身も以前はそうであり、やはり天使の言葉や賛美、羊飼いたちのことに心が向いてしまうのです。でも、本日はこの19節に集中するような思いで御言葉に耳を傾けながら、新しく響き渡る御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 ここに登場するマリアはたいへん静かな姿です。「静か」という言葉自体はありませんが、マリアはこの場面において、一切言葉を発していません。羊飼いたちに天使が現れたこの場面は実に劇的な場面と言えるでしょう。主イエス誕生を告げる天使の言葉があり、神をたたえる賛美の歌が天に鳴り響きます。羊飼いたちは、恐れを抱きつつも、最後は「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言って、急いで主イエスのもとに向かいます。言葉があり、賛美があり、動きがあります。静けさはありません。しかし、マリアだけが一人静かにクリスマスの出来事を心に納め、思い巡らせています。では、マリアは元々静かな性格、おとなしい性格の女性だったのでしょうか。どうもそうではないようです。マリアは主イエスが生まれた後、急に静かになるのです。それまではどうだったのでしょう。天使ガブリエルが、聖霊によってマリアの胎に救い主となる主イエスが宿り、出産することになると告げた時、マリアはたいへん戸惑いました。恐れを抱きました。心が激しく揺さぶられたのです。その思いを心の奥に閉じ込めて、じっとしていたのではなく、率直に天使に向かって口にするのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」しかし最後には、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って、美しい信仰告白の言葉を残しました。

 その後、マリアはどうしたのでしょうか。じっとしていられなくなったマリアは座ってなどいられませんでした。一人で遠くの山里にいる親戚エリサベトのもとに向かいます。エリサベトもまた年老いていながら、神の奇跡ともいえる御業によって新しいいのちをさずかりました。神が与えてくださった喜びを分かち合いたいと願ったマリアは、身ごもっていたにも関わらず、その道を急いで行ったのです。そして、先週のクリスマス記念礼拝でも共にお聞きしました御言葉にもありましたように、喜びに満たされたマリアは神の御業をたたえ、賛美の歌をうたいました。まだ「少女」とも言えるマリアのどこからこんなにも力強い賛美が生まれるのだろうかと不思議に思うほどに、神の栄光を見事にたたえたのです。マリアは、決して静かでおとなしい女性ではありません。率直に、あるいは、大胆な仕方で言葉を口にし、そして行動するに人です。でも、そのマリアが主イエスを生んだ後は、なぜか言葉を発しないのです。マリアほどクリスマスの出来事を魂の深いところで受け止めた人はいないでしょう。受胎告知からこの日に至るまで、何があったのかを詳細に、そして誰よりも説得力をもって語ることができたのが主イエスの母であるマリアでした。でも、マリアは沈黙を貫きます。

 しかし、マリアの心はこの時、決して頑なになっていたわけではないでしょう。あるいは、自分自身の身に起こったことは誰にも話すまいと言って、秘密にしていたわけでもないと思います。マリアは、クリスマスの出来事を心に納め、思い巡らせながら、心を開いていたに違いないと思います。マリアは心から幸いな経験をしていたのではないでしょうか。エリサベトが言ってくれたように、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」という言葉を、「本当にそのとおりだ」と重く受け止めながら、静かにクリスマスの時を過ごしていたのだと思います。

 「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」「心に納める」という言葉には様々な意味があります。「ものを守る」「大事にする」という意味があります。大事なものを守るためには、そこから目を離すわけには行きません。ですから、「そこにじっと目を留める」という意味にもなりました。ある人は、「マリアは、心の中に宝のように積んでいったのだ」と言っています。マリアはまことの宝と呼ぶことのできるものをじっと見つめ、それを大事にして一つ一つ心に納めたのです。マリアが心に納めたものは具体的に何であるのか。19節本文に沿って理解しますと、「これらの出来事」ということです。「出来事」と訳されている元のギリシア語は、本日お読みした箇所にもう2箇所出てきます。15節の羊飼いたちの言葉にこうあります。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」ここに「(その)出来事」とあります。19節の「出来事」と同じ言葉です。もう一箇所は17節です。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」「(話してくれた)こと」という言葉も19節の「出来事」という言葉と同じ言葉です。マリアはクリスマスという出来事となった言葉を心に納め、思い巡らせていたのです。具体的にはこれまでルカが語っていましたように、天使が告げた言葉、親戚エリザベトとの喜びの出会い、神に賛美の歌を歌ったことです。さらに、ベツレヘムの地で、しかも泊まる場所もなく馬小屋で主イエスを産んだこと、最後に羊飼いたちがやって来たことです。これらのことをすべて心に納め、静かに思い巡らせていました。

 ところで19節のすぐ前18節には、羊飼いたちの話を聞いた他の人々の反応が記されています。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」「不思議に思った」というのは「驚いた」という意味です。羊飼いたちから自分たちが経験したクリスマスの出来事を聞いたのです。そして、不思議に思ったというのです。「不思議に思った」というのは、「驚いた」という意味です。世界で最初のクリスマスです。その驚きというのは、また特別なものがあったのではないでしょうか。彼らは、決して、冷静に受け止めたわけではありませんでした。神がなさったことに対して、何も思わないような冷たい心を持っていたわけでもないのです。驚きをもって受け止めたのです。それ自体は良いことだと思います。しかし、問題は「不思議だなあ」と驚いたまま、それで終わってしまったということです。しかし、マリアは「これらの出来事」を心に納め、思い巡らせました。ここに大きな違いがあるのです。聞いて終わるのではないのです。聞いて驚くだけでもダメなのです。そのうち必ず忘れてしまうからです。神様がなさったことを不思議に思い、驚きつつも、その奥にあるメッセージをちゃんと受け止めるためには、マリアのように沈黙し、起こった出来事を心の奥で温める必要があるということです。

 マリアはクリスマスの出来事に何を思い、どのような言葉で神に応答していたのでしょうか。もちろん感謝と喜びに満ちていたことと思いますが、具体的な応答の言葉までは知ることはできません。私どもが「マリアの賛歌」と呼んでいる賛美歌を歌っていたのでしょう。はっきりしたことはわからないのですが、マリアはこの後も主イエスのこと、神がなさることやその御言葉を心に納め、思い巡らす人生を生きたのではないかと思います。第2章の終わり、51節にも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」とあります。少年時代の主イエスを連れて、両親がエルサレムに巡礼の旅をしていた時のことです。礼拝を終えて家路に帰る途中、両親は主イエスのお姿を見失ってしまうのです。要するに迷子になったということです。どこかの列に紛れ込んでいるのだろうと思っていたようですが、気付いた時には主イエスはいませんでした。マリアとヨセフは必死に捜し回るのですが見つかりません。主イエスはずっと神殿にいて、学者たちと議論していたというのです。その姿に驚き、マリアは主イエスに言います。叱ったと言ってもいいでしょう。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」親として、母として当然の言葉です。しかし、主はこうお答えになったのです。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」とても不思議な言葉です。マリアとヨセフには主イエスの言葉の意味が分からなかったと聖書に記されています。しかし、ルカは「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」とマリアのことをこの物語の終わりに記すのです。

 福音書を読みますと、主イエスが母マリアを叱りつけたり、もう少し言葉を選んで優しく言ってくれたらいいのにと思うような場面がいくつかあります。子どもを育てることは、誰でも大変ですが、救い主である御子イエス・キリストを育てるというのは、変な言い方ですけれどもたいへんな苦労があったのではないかと思います。夫ヨセフは若くして死んだと言われていますから、女手一つで主イエスをはじめ、他の子どもたちを育てていかなければいけない労苦をも経験しました。でも、マリアはその中で主イエスのことをしっかりと受け止め、信頼します。そして、主イエス御自身も、マリアのことを一人の人間として愛しただけでなく、「母」として愛し抜きました。そのことが一番よく分かるのが十字架の場面です。マリアにとって最大の試練の時でもありました。マリアの罪を贖うための十字架でもありますが、それは同時に我が子の死をも意味しました。そのマリアを主イエスは心に留め、言葉を掛けてくださいました。十字架の上で主は「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言葉を掛けてくださったのです(ヨハネによる福音書19章26節)。主を信じる者に掛ける言葉であると同時に、わたしの母であるマリアに向けた最後の言葉です。主イエスは、母マリアを身内の兄弟たちにではなく、弟子たちに、つまり、神を信じる者たちの母のこれらかの歩みを委ねました。それは、やがてキリストをかしらとする教会に生きることを望まれたということもでもあるでしょう。その主の願いどおり、マリアは自分の家族と共に教会に生きる者となりました。

 ところで、19節の「心に納める」という言葉は色んな意味があると申しました。ものを守る、大事にする、じっと目を留めるという意味があります。そして、もう一つ「繋ぎ合わされる」という意味があります。私どもの人生は一つであり、地上のいのちも一つです。でも、その歩みの中で、多くのことが起こります。また、様々な顔を持ち合わせて生きているとも言えるのです。家の顔、職場や学校での顔、教会での顔、色んな顔があります。顔を使い分けなければ生きていくことができないという消極的な面もありますが、積極的に捉えると神様から多くの働きに召されているとも言えるのです。私どもの人生には、実に多くのことが起こります。多くの働きが与えられています。でも、その中を生きるのは自分自身です。その時に、一つ一つの出来事を繋ぎ合わせるように、あるいは、バラバラになっているものを一つずつ丁寧に集めながら生きているということがあるのではないでしょうか。そして、これまでバラバラだと思っていたこと、単なる点に過ぎないようなことが、ある時、一つの線になったならばどれだけ嬉しいことでしょうか。すべての出来事が繋ぎ合わされ、それが私どもに喜びをもたらしてくれたら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。そして、私どもキリスト者の関心は、何によって点と点が一つの線になるのか。何によってバラバラだと思っていたことを一つに繋がるのかということです。それはここでマリアがしているように、神がなさった出来事、神が語られた御言葉がすべてを一つに結び付けてくれるのです。マリアは主イエスの母として、自分では受け止めきれないほどに様々なことを経験しました。しかし、それら一つ一つの出来事を、クリスマスの後も、それこそ何十年という時間を掛けながら繋ぎ合わせていく歩みを重ねていったことでしょう。そしてついに、御言葉によって、すべての出来事が一つになる幸いを経験したのではないでしょうか。

 このこととの関連で、マリアはクリスマスの出来事を心に納めると同時に、それらのことを「思い巡らせ」ました。思い巡らすというのは、真の意義をつかむ、正しい意味を捉えるということです。一つの方向に向かって、思いを集中し、考え続け、問い続けるのです。また、別の意味として、役に立つ、力となるという意味がここにはあります。出来事の意味を正しく知る時、それは単なる知識として知るのではなく、自分が生きるための役に立ち、力になるということでしょう。そして、クリスマスの出来事を思い巡らすマリアの姿は、私どもが御言葉を黙想するお手本として大切にされてきました。聖書を読むこと聞くことは、日曜日の礼拝だけではなく、毎日耳を傾けるべきことです。ただ毎日御言葉の前に静まるということは難しい面があるかもしれません。理由は色々とあると思います。仕事や家事が忙しくてなかなかできないとか。あるいは、自分は牧師でもないのに、自分一人で聖書を開いてみても何も分からない。自分勝手に御言葉を理解しても、それが間違っていたら嫌だからと言って、御言葉を日々黙想する生活から離れてしまうのです。しかし、問題の根本は御言葉が本当にあなたの日々の生活を生かす力となっているかということです。聖書を読んで驚いたとしてもて、不思議がっても、そして、たとえ意味を正しく理解することができたとしても、そのことが本当にあなたの生きる糧・力となっていなければ、それはたいへんもったいないことです。

 さて、マリアの姿と並んで、御言葉を黙想する人間の姿をよく表している御言葉がもう一つあります。詩編第1編の御言葉です。旧約聖書835ページです。詩人は初めに「いかに幸いなことか」と言って、御言葉に生きる幸いに聞き手を招きます。また、幸いな人とは、「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(詩編1編2節)です。「口ずさむ」というのは、動物の牛が食べ物を反芻することを意味するのだそうです。要するに何度も噛み砕いて、何度も味わうということのです。また、詩編第1編には次のような印象深い言葉があります。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)御言葉に聞き、聞いて終わるのではなく、心に納め、思い巡らす人は、水の流れのほとりに植えられている木だというのです。荒れ野が広がるパレスチナの地にあって、木が立っているというのは、いのちの水が近くに流れているしるしです。そのようにいのちの御言葉に根を下ろして生きる人は、ときが来れば実を結び、繁栄をもたらすというのです。実を結ぶまでには、「ときが巡り来る」まで待つ必要があります。どれだけの時間を要するのかは人によって違いがあることでしょう。しかし、いのちをもたらす水は絶えず流れているのです。その神の祝福に身を委ねるようにして、私どもは御言葉を黙想し、御言葉に従って生きる生活を重ねます。

 主イエスも次のようなことをおっしゃったことがありました。ある女性が、主イエスに向かって言うのです。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」つまり、イエスの母マリアをとてもうらやましく思ったのでしょう。しかし、主はこのように言いました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」イエスの母であるということ以上に、幸いな生き方があるというのです。マリアの生涯を語る時、誰もが「イエスの母」として生きたことをあげるでしょう。もちろんそのとおりです。神はマリアにしか経験できない特別な恵みを与えてくださいました。しかし、それ以上に幸いなのは、御言葉に聞き、守る人です。私どもも、誰一人として同じ人はいません。私にしか経験できないことがあり、私にしか与えられていない賜物というものもあるかと思います。しかし、そのような私どもが神の言葉に生きることによって、一つになり、一つ御体なる教会を建て上げていく働きに召されているのです。

 今日は今年最後の主の日の礼拝です。千里山教会にとりましても、皆様お一人お一人にとりましても数えきれないほどの出来事があったことと思います。そのような中にあって、私どもは神の恵みに満ちた水の流れに身を委ねたいのです。御言葉に生きること、御言葉を黙想することは、はっきり申しまして楽なことではありません。いったい神は何を語ろうとしておられるのだろうか?私は説教者としてここから何をどう語ったらよいのだろうかといつも悩まされています。私どもも信仰に生きながら、御言葉と生活が一つに結び付かない苦しみを経験することがあります。御言葉に集中すると同時に、一つ一つの出来事を集め、結びつける作業は忍耐がいります。時間が掛かる場合もあるでしょう。疲れを覚えることもあります。

 また悲しいことを経験された方にとりましては、今は何も考えたくないという人もおられることと思います。心の余裕がない中で、この一年を終えなければいけない人もいるのだと思います。しかし、マリアが賛美歌の中で歌いましたように、そのような私どものことを心に留め、憐れみを注いでくださるお方が神様です。今、あなたが悲しんでいるから、苦しんでいるから、悩みが解決していないから、「だから、あなたは不幸なのだ」と主はおっしゃいません。なぜなら、本当の幸いとは、神の言葉に聞き、それを守る人だからです。だから、悲しい中においても、私どもは幸いな者として生きることができます。誰がどう言おうと、「あなたは幸いだ」と主はおっしゃってくださいます。与えられた一つ一つの出来事を御言葉と共に、心に納め、思い巡らせながら、一年の歩みを終えたいと願います。そして、新しい一年へと歩み出して行きたいのです。お祈りをいたします。

 教会の一年の歩みを感謝いたします。この一年において、私どものこれまでの歩みにおいて多くの恵みを与えてくださいました。その中でまだ納得できないこと、解決できないでいることなど多くの悩みをも抱える私どもです。しかし、そうであるからこそ、御言葉に耳を傾け、「幸いだ」とおっしゃってくださる主の言葉に励まされて、御言葉が実を結ぶ時を待ち望むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。