2020年12月06日「まだ誰も知らない物語」

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まだ誰も知らない物語

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
イザヤ書 52章13節~53章12節

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聖書の言葉

13見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。14かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。15それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。イザヤ書 52章13節~53章12節

メッセージ

 先週から待降節(アドヴェント)に入りしました。毎年、アドヴェント、クリスマスの季節になりますと、今年は礼拝の中でどの御言葉に耳を傾けるべきか色々と考えるものです。長く信仰生活を続けておられる方にとりましては、「クリスマスと言えばこの聖書箇所」というふうに、すぐにクリスマスの聖書物語を思い浮かべることでしょう。キャンドルサービスで読まれる箇所や、子どもたちが降誕劇で演じる御言葉の箇所でもあります。また、牧師や教会学校の先生たちは、読んだり聞いたりするだけでなく、毎年繰り返し、クリスマスの物語を自らの口で語り伝えます。しかし、不思議なことに幾度聞いても、幾度語っても新しい発見があり、そこに大きな喜びが生まれます。クリスマスは、神が今も生きておられるということを心から実感できる時でもあります。

 ところで、ある日本の説教者がクリスマスの説教集を出しています。事あるごとにその本に目をとおし、多くのことを読む度に学ぶことができるのですが、その説教者はクリスマスになると決まって、先程共にお読みしましたイザヤ書第53章の御言葉を繰り返し取り上げて、説教をしているのです。イザヤ書第53章は旧約聖書の中でもたいへん有名な箇所で、新約聖書にも大きな影響を与えた御言葉の一つです。主イエスがお生まれになれ500年以上前に記されたものです。「苦難の僕の歌」と呼ばれます。今日、初めてお聞きした方もおられるかもしれません。初めての方も、そうでない方も改めてどのような感想を抱かれたでしょうか。正直、明るいというよりも、どこか暗く、重々しく、恐ろしい印象さえするのではないでしょうか。

 例えば、次のような御言葉がありました。

 2〜3節。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」

 7〜8節にはこうあります。

「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」

 見るべき面影もないこの僕は、誰からも相手にされず、軽蔑され、無視をされます。さらに、痛みと病を抱え、それだけでもたいへん辛いことですが、驚くべきことに、この人は報われるどころか、最後には捕らえられ、裁きを受け、殺されたというのです。「第二イザヤ」と呼ばれた預言者は、苦難の僕の歌をとおして、いったい何を伝えたかったのでしょうか。人間の悲惨さ、醜さでしょうか。あなたたちもまた苦難の僕のように、救われることもなく、惨めに死んでいくだけだという恐ろしいことを伝えたかったのでしょうか。それとも、ただ心が暗く重たくなるような苦難の僕の姿の中に、「あなたの救いがある」という驚くべきことを告げようとしているのでしょうか。

 この歌は、第52章13節から始まっていますが、その15節(〜53章1節)にこうありました「それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」神の救いというのは、誰も語ることができなかった物語であり、それを見させていただくことです。一度も聞かされなかったことを今悟ることです。信じることができないようなことを信じることです。「私はもう洗礼を受けているし、信仰生活も長い、聖書のことはだいたい知っているから、ここで言われていることに何の驚きもない。」というのではないのです。いつ読んでも、何度読んでも、神が告げる救いの物語というのは、私どもを驚かせるのです。私どもの心を打ち砕くのです。

 先程申しました説教者は、「私たちがクリスマスの時にこのイザヤ書53章をいつも読むようにしているのは、クリスマスの喜びというものが普通の喜びとはまったく違うということを知るためだ。」と言っています。喜びは喜びでも人間が考えるような喜び、人間が期待し、自分たちの力で掴み取ろうとする喜びではないのだと言うのです。人間ではなく、神が与えたもう救いの喜びは、人間が思いもつかないことだし、自分で手に入れることができるようなものではないのです。クリスマスというのはキリスト者にとってはもちろんのことですが、まだ神を信じておられない方々にとりましても、やはりクリスマスというのは楽しいもの、美しいものというイメージがあるかと思います。例えば、プレゼントがもらえたり、家族や友人、恋人たちなど好きな人と集まって楽しい時を過ごすことができる。外に出れば、美しい音楽が流れ、まばゆいばかりの光で満ちています。そして、キリスト者でさえ、一歩間違えると「クリスマスの物語を美しくしようする」とその説教者は警告しています。もちろん、クリスマスの出来事は、この世界にとっても、私たちにとっても大きな喜びの出来事です。私たちが飾り立てるまでもなく、神の光が私たちの生きる世界を明るく照らし出してくれます。その恵みに感謝し、礼拝をささげ、楽しい交わりの時を持つことは良いことであり、神様も喜んでくださることでしょう。でも、そこで神様の美しい光だけをじっーと見つめているだけでは、クリスマスの本当の喜びは見えてこないということです。美しい光だけでなく、同時に深い闇を見つめる必要があるということです。

 例えば、マタイによる福音書を読みますと、占星術の学者たちが星に導かれ、幼子主イエスとお会いし、彼らの宝物であった黄金、乳香、没薬を献げました。救いから遠いとされていた異邦の国に住む者たちが、星の光に導かれ、主を礼拝する者に変えられたのです。たいへん美しく、感動的な物語とさえ言えるのです。しかし、その直後にユダヤの地を当時支配していましたヘロデ王が、新しく誕生した王の存在、つまり、主イエスのことを恐れて、ベツレヘムに住む2歳以下の男の子を皆殺してしまいました。しかし、この恐ろしい物語こそ、クリスマスに相応しい物語だと言って、毎年のように読まれることはあまりありません。まして、かわいらしい子どもたちが演じる降誕劇の中で、演じられることはないでしょう。こんな残酷で悲しいことなど、子どもたちに演じさせる必要もないし、クリスマスの美しさが台無しになってしまうと思っているからです。しかし、クリスマスは決して美しい光だけで見ていてはよく分からないところがあると思うのです。

 イザヤは苦難の僕の歌をうたいました。ここには醜いほどの姿、弱々しさ、病、痛み、苦しみ、罪、咎、懲らしめ、傷、死。そういったものを一度に見ることができます。ここに美しさなどまったくありません。心が重くなり、胸が締めつけられるようなものばかりでしょう。問題はこれらの苦しみを一度にすべて引き受けた者はいったい誰なのかということです。後に「苦難の僕」「苦しみの僕」と呼ばれることになりますが、第53章を見る限り、具体的な名前など一切記されていません。この苦しみを背負った者は何者なのでしょうか。ここにいる私どももまた苦難、苦しみといった問題を避けてとおることはできません。苦しみの中身や程度がそれぞれ違っていたとしても、それをどのように受け止め、そして乗り越えていくのかという問題は大切なことであると思うのです。

 今、耳を傾けているイザヤ書ですが、途中の第40章から新しい区分に入るのです。この部分は、「第二イザヤ」と呼ばれる無名の預言者が語ったものだと言われます。この第二イザヤには明確な主題があるのです。それは「捕囚からの解放」です。神の民である自分たちが敵国バビロンに連れて行かれ、捕囚の民となりました。故郷を失い、自分たちの誇りでもあったエルサレム神殿も崩壊しています。捕囚という苦難の中、自分たちの信仰を支えるものが何であるかを完全に見失い、望みを持つことができず、空しさに支配されていました。彼らもまた苦しみという問題を抱えていました。神のものとされている自分たちが、なぜこんなに苦しい思いをしなければいけないのだろうかという不条理の中を、嘆くようにして歩んでいたのです。第53章1節にこのような御言葉がありました。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」とありました。「主の御腕」という言葉は、神御自身の救いの力を表す言葉で、例えば、神がエジプトからイスラエルの民を救い出す時に、神の御腕が私たちを導いてくださった。神の御腕が伸びてきて私たちを助けてくださったと言って、神の偉大な御業をほめたたえています。しかし、バビロン捕囚という苦難の中で、あの時のように神を御腕は全然自分たちのところまで伸びてこないではないか。神は黙っておられるではないかというのです。

 また、このバビロン捕囚の期間は70年も続きました。時代と共に神の都エルサレムで生まれ、育った者は段々少なくなっていきました。生まれた時から、まことの神を知らず、バビロンの文化、宗教に自然と染まっていくものたちが多かったのです。また、最初は不平・不満を言っていた捕囚の民も、次第にバビロンでの生活に慣れてきたのです。捕囚の生活は、決して、彼らが非人間的な扱いをされるということではありませんでした。仕事が与えられ、それなりの生活をちゃんと維持することもできました。健康面も経済面もある程度支えられ、家庭を築くこともゆるされたのです。そうしますと、確かに故郷エルサレムを失い、故郷に帰ることができないことは辛いことだけれども、このバビロンの地でもまともな生活を送ることができるではないか。そのように人々は考え始めるようになりました。要するに、これが何を意味するかと言うと、まことの神を信じている生きる生活を捨てたということ、諦めたということです。別に神を信じなくても、それなりに生きていくことができるならば、それでいいじゃないかと思い始めたということです。偶像の神々が祀られているバビロンの地でも自分たちは十分に生きていけると考えたということです。ここに神の民の大きな問題がありました。罪に対する裁きとして捕囚の民となったイスラエルの民ですが、依然として罪の問題が根強く残り続けていたのです。

 第二イザヤが、「もう苦しみの時は終わった!あなたがたは慰められる!ここから解き放たれる!」という捕囚解放の知らせを告げても、喜んだ者ももちろん中にはいましたが、正直、それほど大きなインパクトを与えなかったことも事実でした。第二イザヤは懸命に神の言葉を伝えました。でも、空しく跳ね返ってくるのです。捕囚から解放され、エルサレムに帰ることは、ただ地理的に故郷に帰ることができるということではなく、何よりも神のもとに立ち帰ることを意味しました。しかし、そのメッセージが彼らにとって、意味を持たない。預言者にとって、このことは本当に苦しいこと、悲しいことです。また、捕囚解放の知らせは、バビロンが滅びることを意味しますから、バビロンの人たちからすれば、第二イザヤは厄介な存在であり、彼に迫害を加えていたと言われています。そういう意味では、第二イザヤもまた、自分の居場所をどこにも見つけることができず、孤独で苦しい思いをしながら、預言者としての働きを続けていたのでしょう。第二イザヤもまた、預言者としての苦しみを知っていた人でありました。

 この「苦難の僕」とはいったい誰なのでしょうか。神の民イスラエルでしょうか。それとも預言者第二イザヤなのでしょうか。私どももまた「苦難の僕」とまではいかなくても、自分の惨めさや醜さといったものをどこかで知っているものです。そして、やがてこの僕がいのちを奪われるように、私どももいのちある者でありながら、いのち無き者のように、まるで死んでいる者のように生きているという経験も時にすることがあるのです。そのように、まるで自分が経験する苦しみを聖書が語ってくれているということ。聖書が私を知ってくれているということ。そのことに私どもは慰めを見出すということがあるもの事実だと思います。

 しかしながら、改めて丁寧にこのイザヤ書第53章を読んでみますと、この僕がなぜこれほどまでに惨めで、痛々しい思いをしなければいけなかったのかということが、はっきり記されていることに気付かされます。

 4〜6節です。

「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」

 僕の苦しみは、僕自身が何か大きな失敗をした、僕自身が何か大きな罪を犯した。だから、その罰として苦しみを背負い、最後には神に裁かれ、見捨てられ、殺されていったというのではないということです。つまり、自業自得ではないということです。自分の身にまったく覚えのない苦しみについて、4節以下で「病」「痛み」「背き」「咎」「懲らしめ」「傷」、そして「罪」というふうに言葉をいくつも重ねながら、僕が負った苦しみを表そうとしています。では、この苦難の僕は、いったい誰の病や痛みを代わりに負っているのでしょうか。神にいのちを奪われなければいけないほどの罪と咎を、誰がこの僕に負わせたというのでしょうか。

 4〜6節の御言葉は、第53章において中心になる部分と言われます。イザヤ書第53章だけではなく、聖書全体が何を伝えようとしているのか、その中心メッセージを理解しようとする時、ある決定的な意味を持つ言葉にもなるのです。しかしながら、4節で苦難の僕を見た人たちは言うのです。「わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」つまり、人々はたいへん大きな誤解をしていたということです。神様が「このことだけはあなたがたに知ってほしい」「このことが信仰の急所」とも言うべき聖書の中心メッセージについて、勘違いをしていたというのです。つまり、苦難の僕の姿と私たちは何の関係もない。だから、私たちたちにとって何の喜びも救いもないと思っていたということなのです。しかし、この僕の苦しみとあなたの苦しみは深く結びついています。なぜなら、僕が負っている苦しみは、あなたの病であり、あなたが負うべき痛みであるからです。それも単なる苦しみではなく、あなたの「罪」という死に至る病、痛み、傷を僕は代わって背負ってくださり、罪のゆえに本来私たちが受けるべき神の裁きを、代わりに引き受けてくださったのです。そのことによって、神との間に平和が生まれ、私たちは癒された、救われたのです。

 この苦難の僕は、この章で中心的な役割を担いながら、実は一言も発さず、沈黙し続けていることに気付かされます。

 7節にはこのように記されています。

「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」

 細かいことですが、第52章13節以下では「神」が主語として語られていきます。第53章に入ると「人間」が主語となり、苦難の僕を巡って言葉を重ねていきます。ある聖書学者は言います。「沈黙する苦難の僕を巡って、神とあなたが対話をすることが求められている」と。そして、神はここであなたに問いかけておられるというのです。「この沈黙する苦難の僕を見て、あなたはどう思うのか?わたしはこの僕をとおして、あなたに救いを与えたいと心から願っているが、あなたはここに救いを見ることができるか?苦難の僕こそ、あなたの救い主と信じることができるか?」私どもは何と答えるでしょうか。かつて、多くの人々はこの問いに躓いたのです。いったいこの苦難の僕のどこに救いがあるのか。こんな醜く、惨めな僕のどこに、神の御腕の力が働いているのというのか。私たちには分からないと言ったのです。そして、3節の終わりにあるように、僕を軽蔑し、無視していたのです。「神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」と、まるで他人事のように、そう言ったのです。

 この苦難の僕が誰であるのか。このことをちゃんと理解することが、イザヤ書第53章を読む上で重要にとなると最初に申しました。それはただ、この僕が誰であるかを言い当てるだけではなく、この苦難の僕と今ここに集う一人一人が、実は深い関わりがあるということ。この苦難の僕にこそ、私の救いがあるということを信じることができなければ、本当にこの御言葉を聞いたということにはなりませんし、クリスマスを本当にお祝いしたということにはならないのです。ただ第二イザヤは、明確な言葉でこの苦難の僕が誰であるかを語りません。それゆえに、様々な解釈がなされてきたことも事実です。しかし、この苦難の僕の歌が記されてから約500年経った時、まさに第二イザヤが預言したとおりこの地上を歩まれた方がおられました。それがクリスマスにこの世界にお生まれになったイエス・キリストです。「人の子には枕する所もない。」(ルカによる福音書9章58節)とおっしゃられたように、主イエスは救いのために忙しく、落ち着かない日々を歩まれました。自分が憩うことよりも、人々を救うためにすべて献げて歩まれました。最後には、人々に捕らえられ、裁判をお受けになったのです。そこでも主イエスは黙っておられました。そして、罪がないにもかかわらず、十字架の上で罪人の一人として殺されたのです。人間の手によってということよりも、もっと恐ろしいのは神に呪われ、神に見捨てられる死を、十字架の上で死なれたということです。

 ここに私どもの救いがあるということはどういうことでしょうか。それは、私どもはもう主イエスのように死ぬことはないということです。私どもが「絶望だ」と言って嘆くのは、今の苦しみがいつまで続くのか、この苦しみがどこまで深いのかが分からないからではないでしょか。苦しみの底、底辺が見えないのです。苦しいというのはそういうことです。もし底辺が見えたならばら、それは苦しみではなく、むしろ救いになると思うのです。主イエスの御苦しみ、その極みである十字架というのは、苦しみの底辺に立つものです。教会堂は屋根の一番高いところに掲げますけれども、十字架というのは本当は一番低いところにあって、それゆえにそう簡単に見つけることはできないものだと思うのです。見つけることが難しいというよりも、誰も見たいとは思わないと言ったほうが正しいかもしれません。低いところ、惨めで、惨めなものを誰も見たくないのです。でも、主イエスが地上にお生まれになったときから、馬小屋の飼い葉桶で寝かされたように、誰も居たいとは思わない場所を御自分の居場所としてくださり、十字架の道を真っ直ぐに歩んでくださいました。だから、絶望や空しさにいつまでも捕らわれることはないのです。捕囚時代の民のように、空しさや心の傷を埋めるために偶像を造って紛らわしたり、まして、「神などいなくても生きていける」などと言って、罪の上に罪を重ねるような愚かないことしなくてもいいのです。私どもの代わりに、私どもの罪を背負い、十字架で死んでくだったお方がお甦りになり、今、私どもの神となっていてくださいます。地上を歩む限り、なお罪や様々な問題に思い悩む私どもですが、その深いところに十字架の主イエスがおられることを、主イエスの御降誕をお祝いするこの時、もう一度、心に留めたいと思います。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、天使が羊飼いたちに告げたことの意味がここにあるのです(ルカによる福音書2章11節)。あなたがたのための救い主というのは、あなたがたのために十字架にかかってくださった救い主ということです。この方を深い闇の中で見出してほしい。見ることが難しければ、「神よ、あなたの救いを分からせてください」と祈ったらよい。神の前にいつも立つことができる幸いが既に与えられているのですから。

 さて、10節以下でこのように語られます。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」

 僕が苦しみを受けて、死んでいくことは、神が望まれたこと、神の御心です。その神の救いの御計画の中を主は最後まで歩まれました。「彼の手によって成し遂げられる」とあるように、主イエスも十字架の上で「成し遂げられた」と叫び、息を引き取られました(ヨハネによる福音書19章30節)。主イエスの十字架による救いは不完全なものではなく、完全なものであり、すべてを満たすものです。だから、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」とあるように実りをもたらします。主イエスが御自分のいのちを惜しみなく献げられたのは、私ども一人一人の存在を喜んでいてくださるからです。だから、わたしが十字架で死んで、あなたが救われるならば、わたしはそのことを喜びとする、満足するとおっしゃってくださいます。

 最後の11節、12節では、再び主語が「神」に変わります。神様御自身が「わたしは」と言って、僕ついて語るのです。

「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 12節に「戦利品」とあるように、十字架の死に至る苦難の歩みは、敗北ではなく完全な勝利です。その神の勝利の実りが、神を信じる者に豊かに分け与えられます。ある説教者は、この戦利品とは「教会」のことだと言いました。神の勝利にあずかる群れがここに確かに存在するからです。罪に苦しむことがあっても、死を恐れたとしても、生きる望みを失ったとしても、教会に来て十字架の言葉を聞いたらいいというのです。ここに救いがあるからです。そのことの関連で、11節の「多くの人」というのは、「すべての人」という意味でもあるということです。神の救いの実りはすべての者に及びます。だから、そのことを信じてほしいというのです。まだ、神の救いを知らない人が近くにいたならば、「あなたも私と同じように神の救いの中を生きてほしい」「あなたもぜひ教会に来てほしい」と祈りを熱くしてほしいことでもあるでしょう。主イエスは罪人のために、12節にありますように、「執り成し」に生きてくださるお方です。「執り成し」とは、神と罪人の間に入って、互いの仲を取りもってくださるということですが、この「執り成し」という言葉は、「出会わせる」という意味があります。「お互いそんなに怒らないで仲良くしましょう」というのでなくて、主イエス自ら十字架でいのちを注ぎ、神との真実の出会いを私どもに与えてくださいました。神の前にしっかりと立つことができる者につくりかえてくださいました。

 今から聖餐の恵みにあずかります。喜びの食事、神の国の祝宴に連なる祝いの食事です。私どもが神を喜び、祝うことができる存在となるために、主イエスが来てくださったこと。そして、十字架の上でいのちを献げてくださった恵みを心の目、信仰の目でしっかり見つめたいと思います。軽蔑され、無視されるほどの主イエスの醜さの中に、しかし、私どもは神の御腕の力が確かに働いていることを、聖霊の働きの中で見ることがゆるされています。それゆえに、苦難の僕の歌は、私どもにとってキリストをたたえる歌となります。この歌の一番最初で、「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」と神御自身が私どもに呼びかけているとおりです。キリストを神とあがめること。それは、主イエス・キリストなしには生きていくことができないと告白することでもあります。そのいのちの主が用意してくださった救いの恵みを共に味わいましょう。お祈りをいたします。

 クリスマスの恵みを覚える季節が今年も与えられました。誰も見たこともなく、誰も聞いたこともない神の救いの物語の中に、私どもを招き入れてくださり感謝いたします。今、静かにあなたの前に立ち、この驚くべき救いの出来事を心の深いところで受け止めることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。