2020年11月22日「神の勝利にあずかろう」

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神の勝利にあずかろう

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ダニエル書 7章1節~18節

音声ファイル

聖書の言葉

1バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。2ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。3すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、4第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。5第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。6次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。7この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。8その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。9なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火 10 その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。
11さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。12他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。13夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み14権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。15わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。16そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。17「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。18しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」 ダニエル書 7章1節~18節

メッセージ

 夕礼拝で耳を傾けていますダニエル書には、繰り返し夢や幻が登場します。その夢や幻がそれを見た本人たちを惑わせ、不安に陥れるのです。聖書の中には、良い意味での夢や幻といったものも記されていますが、同時に不安や恐れを抱かせるものも多いのです。本日の第7章において、夢を見、幻を見ているのはダニエルです。捕囚の民の一人としてバビロンに連れて来られたものの、世の権力に屈することなく、まことの神を礼拝し続けた人間です。神がダニエルに与えたもう知恵と賜物によって、王たちの夢を見事に解釈し、敵国の王からも信頼を勝ち取り、大臣という位についた人物でもあります。苦難や迫害の中にあっても、いつもどおりの信仰者としてのあり方を最後まで貫き、信仰の戦いに生きるダニエルの姿は、今日を生きる私どもにとって大きな励ましとなります。

 ただこのダニエルが、この第7章において夢と幻を見て、たいへん困惑しています。15節に「わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。」とあります。幾度もバビロンの王たちの夢を解き明かしてきたダニエルです。自分が見た夢が何を意味するかを、解釈することもできたでありましょう。しかし、そのようなダニエルの姿はここにはありません。率直に思わされることは、あのダニエルも悩むことがあるのだということです。これまで悩んだり、困ったりといったダニエルの姿は描かれていませんでした。そのような姿が私どもとは実に対照的で、それゆえに、ダニエルの姿に心惹かれるところがあったのです。しかし、ダニエルもまた悩める人物であったということです。一見、何も恐れず、堂々としているように見えるダニエルですが、彼もまたたいへんな憂いを覚えるほどに思い悩んだ人間だということです。それゆえに、神の助けなしに自分は片時も生きていくことができないということを、ダニエル自身深く心に留めていたということでしょう。ですから、先月お読みした第6章に記されていたように、何があってもいつものように神に祈るダニエルの姿が描かれていたのです。

 ところで本日の第7章の場面ですが、1節に「バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。」とあります。つまり、これまでの第1章から第6章までの時代の順序としては異なっているということです。第6章の時点で、既にバビロンという国は亡くなっているのですが、再びここでバビロンのこと、王ベルシャツァルの治世のことが記されています。その時代に、ダニエルは夢と幻を見たというのです。この夢と幻を見た時間が「夜」という時間帯でした。夜は眠る時間であり、それゆえに夢を見たということかもしれませんが、「夜」というのは昼間とは違い、仕事をやめ、神の前に静まる時でもありました。神との静かな交わりの時を持ちながら、同時に自らの歩みに思いを向けます。自分のことだけではないでしょう。家族のこと、仕事のこと、世界のことなど身の回りのことが、静けさと夜の闇の中で一気に思い起こされる時でもあるでしょう。昼の明るい光の中ではまったく見えてこなかった様々なものが、夜の闇の中で、かすかな光の中で見えてくるということがあるのです。そういう自分の姿を神の前に差し出し、祈りをささげ、平安を求めます。

 ダニエルが夜に見た幻は恐ろしいものでした。ダニエルの思いが幻という形になって現れたというのではなく、神がダニエルに見せた幻です。喜ばしい幻ならばいいのですが、恐ろしい幻がますますダニエルを不安にさせます。その内容について2節以下に丁寧に記されています。まず天の四方から風が起こります。それは大海を波立たせるほどの激しい風でした。そして、その海の中から4つの頭をした大きな獣が現れたというのです。よく見ると第一のものは獅子のよう、第二のものは熊のよう、第三のものは豹のようだったと言います。最後の一つは獣というよりも、とにかく強く、巨大な鉄の歯を持ち、食い、噛み砕き、足で踏みにじる恐ろしい存在です。獣たちは見た目だけで人々を圧倒するような恐ろしさがあります。見た目だけというよりも、獅子、熊、豹などに代表されるように実に凶暴で攻撃的な存在であるということ。私たち人間を襲い、いのちを奪おうとする存在であるということです。そういう意味でも、この幻の中に登場する獣のような存在は実に恐ろしいものでありました。また、激しい風や大波といった自然現象も時に、私どものいのちを呑み込む恐ろしい存在となります。

 ところで、この4つの獣にはそれぞれ意味があると言われています。17節に「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。」4つの国、4つの王のことを表しています。それぞれが当時の世界を支配していた国々を意味しているのです。具体的にどの国のことを意味しているのかは記されていませんが、出てくる順番やその凶暴さからある程度予測することが可能です。第一の獅子のような獣はバビロニア帝国、第二の熊のような獣はメディア帝国、第三の豹のような獣はペルシア帝国、そして最後の第四の獣はギリシアのことだと言われています。この世界を支配する国、そして支配者たちも時代と共に代わって行きます。神の民イスラエルもまたそれらの国々によって苦しめられてきました。元はと言うと、イスラエルの民が神に背を向けたという側面もあるのですが、そのことによってすべてを失い、空しさと諦めの日々を生きなければいけませんでした。主イエスが地上におられた時代も、天に昇られた後の時代もしばらくは、ローマという強大な権力が世界を支配していました。国が国としてしっかりと建つために、王や皇帝が立てられ、秩序正しい平和な国を造り上げることは大切なことです。しかし、長い歴史において既に証明されているように、人は力を持つと人でなくなるという悲惨な現実です。そして、この幻が明らかにしているように、人は獣のように凶暴になり、人を食い尽くすのです。弱い者のいのちを奪うという仕方で、自分たちこそが力ある者であるということを示そうとするのです。このことは、聖書が書かれた時代も今の時代も変わらない部分があると言えるでしょう。世界を破壊する力が世界のどこにでもあるのです。

 ダニエルが見た幻も自分たちを破壊し尽くそうとうする世界の力、権力者たちの力でした。その力を前に、ダニエルは「何も恐くない」と言ったのではなく、大いに憂い、思い悩むのです。それは当然のことではないでしょうか。ただ、そのことをダニエルも、私どももどのように受け止めるのか。つまり、信仰的にどう考えるのかという姿勢がそこで問われるのです。神様もただ恐ろしい獣の姿を見せて、ダニエルを恐がらせておしまいにしたかったわけではないでしょう。さらに踏み込んで、神様が伝えたいメッセージというものがあるのです。

 こういう恐ろしい幻、幻というよりも私どもが生きている現実で起こっている悲惨な出来事は何も聖書だけが教えてくれているわけではありません。毎日何が起こっているのか、それこそ、大きな事件や出来事が起こると誰の目にも明らかな仕方で、新聞の一面にそのニュースが載ります。テレビをつけるとどのチャンネルでも同じように大きなニュースを報じています。悲惨な出来事の場合、私どもは悲しみを覚え、あるいは、怒りを覚えることもあるでしょう。不安や恐怖に捕らわれることもあるかもしれません。こういった日々のニュースに、耳を傾け、目をとおすことはキリスト者にとってももちろん大事なことです。この世で起こることには目を閉ざして、聖書だけ読んでいればいいというものではないのです。この世の出来事に心を向けることで、祈るべき課題が与えられることでしょう。信仰者としての姿勢が正され、信仰の戦いに召されていることを覚えることもできるでしょう。

 ただそこで、私どもが気を付けないといけないことがあります。それは、この世で起こる様々な悲惨な出来事があり、それを丁寧に私たちに知らせてくれたとしても、それ以上はどうすることもできない。それ以上は何も教えてくれないということです。こういう辛い出来事、悲しい出来事に対して、どう立ち向かい、乗り越えていけばいいのでしょうか。その部分を人は本当に知りたいのだと思います。いつこういうことが起こったのか。なぜこういうことが起こったのか。次は絶対にこういうことを起こしてはいけない。そうならないためにも、例えば、「こういうことをしよう」と提言をします。そのように、人間も与えられた力で事件や出来事を分析し、悲劇を繰り返さないように全力を尽くします。しかし、実際は同じような悲しい出来事が再び起こり、多くの者のいのちが失われてきました。「人間が起こした問題は、人間が頑張れば解決できる」と言う人もいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。人間の一番大きな問題、つまり、罪の問題は人間が自分の力でもはや解決することができません。では、人間が獣のようになった時、その人は果たして本当の人間に戻ることができるのでしょうか。できるとしたら、どのようにして本当の人間に戻ることができるのでしょうか。ここに私どもにとっての最大の問題、いや、神様御自身が絶えず関心を注いでおられる問題があります。

 カール・バルトというスイスの神学者がいましたが、この人は、「私たちが聖書を読む時には、横に新聞を置きながら読んだらいい」と勧めています。この世界で起こる悲しいニュースを読みながら、聖書が語るニュース(つまり、グッドニュース・福音)を聞くのだというのです。そのように、この世に起きる出来事は、聖書の光をとおして見る時に初めてその意味を正しく悟ることができると言えるのです。あるいは、聖書が語る「福音」というグッドニュースには、この世で起きる悲惨な出来事や苦難を覆い尽くすほどの確かな祝福で満ちていると言えるでしょう。だから、聖書が語る希望に固く立ち、困難に立ち向かうことができるというのです。自分たちではどうしようもないかもしれませんが、神様が見せてくださる幻をしっかりと見つめることによって、そこでなお希望を持ち、忍耐し、前に進んでいくことができるのです。

 ですから、神様が見せてくださった幻も、恐ろしい獣が登場して、ダニエルを恐れと不安のまま孤独にしておかれたわけではありませんでした。幻にはまだ続きがあるのです。そのことが9節以下に記されています。「王座が据えられ/『日の老いたる者』がそこに座した。」聖書が告げるもう一つの事実がここにあります。この「日の老いたる者」もまた、異様な雰囲気を持っていました。そして、信仰者を苦しめていた獣を殺し、権力を奪い取ります。日の老いたる者とは、勝利者であり、審判者でもあります。つまり、神そのものです。地上に生きる私たちキリスト者に、勝利をもたらすのは神御自身です。私ども自身は、地上の教会は決して強い存在ではありません。世の権力に怯え、逃げ惑い、常に不安と恐れに捕らわれている者たちです。でも、私どもは、まことの勝利者、審判者である神の勝利にあずかっているのです。その事実を見つめて生きることが求められています。

 また、読み進めていきますと13節、14節に興味深いことが記されています。そこには、天の雲に乗ってやって来た「人の子」のような存在に「権威、威光、王権」を授けたというのです。そして人の子の支配と統治はとこしえに続くというのです。そうしますと、まるで「人の子」は、神よりも偉大な存在のように思えてしまいます。いったい「人の子」とは何者なのでしょう。決して、神よりも偉大な存在ということではありません。文字どおり理解すると、「人間のような姿をした者」ということですが、昔から「人の子」という言葉は、救い主(メシア)を意味する言葉として理解してきました。やがて、天の御座からまことの救い主であるイエス・キリストがやって来られます。主イエスもまた、御自分のことを人々に説明する際、「人の子は」というふうにおっしゃいました。まことの人でありながら、神から与えられた「権威、威光、王権」をもって、この地上に来てくださったのです。私ども人間が、神に造られた人間として尊い生き方をすることができるように、救いを与えてくださったのです。それも、地上の国の支配者たちのようにではなく、ひたすら僕として仕え抜く歩み、十字架の死に至る歩みをとおして救いと平和を与えてくださいました。

 この救いの確信に立ちながら、地上の教会はここまで歩みを重ねることができました。ダニエルが生きた時代のように、世の権力によって苦しめられ、いのちさえも奪われるということも度々経験しました。神の勝利にあずかりながらも、実際自分たちは敗北した者のような生き方をしているではないか。そのような苦悩と葛藤、恐れの中を生きてきたのです。何もキリスト者たちに敵対する国や権力だけに限らず、自分たちの身の回りに起こる様々な問題に苦しめられることもあります。家族や職場での問題、不条理の問題、病や死の問題など、数えれば切りがないでありましょう。そのように「いつまで苦しまないといけないのですか」という叫びが止むことはありません。そして、不思議なことにダニエル書ではこういうことが言われているのです。12節「他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。」また25節にはこうあります。「彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、二時期、半時期がたつ。」つまり、ここで言われていることは、私どもを恐怖や不安に陥れ、私どもを悩ます力は、しばらくの間続くのであり、完全にはなくなっていないということです。私どもが住む世界にはなお混乱が続きます。人間ではなく、まるで獣のような振る舞いをして人々を苦しめる者がいます。なぜ神はまだそのような力が存在することをお許しになるのか?なぜ海の波を荒れ狂うままにされるのか?ある人は、「私たちにはまったく分からないことであり、神の秘儀だ」とさえ言っています。しかし、ただ一つ分かっていることは、今既に神の勝利にあずかっているということです。そして、やがて再び主イエスが来られる時、神様の勝利が明らかになり、誰もが神を神として礼拝し、神に喜んで従う時が来るということです。私どももまた神が望まれた聖い人間として御前に立つことができるのです。

 この世の力に怯え、悩まされながらも神の勝利にあずかって生きています。ある牧師は、このことは、私どものまことの羊飼いであるイエス・キリストに守られ養われていくことだと言いました。まことの羊飼いである主イエスが、毎日を生きるいのちの糧を与えてくださいます。主イエスが共にいてくださるからこそ、死の陰の谷を行く時も災いを恐れることなく、歩んでいくことができます。私を苦しめる者を前にしても、主が用意してくださるいのちの糧によって、支えられ、信仰に生きる喜びと勇気を与えられるのです。これが神が見せてくださる幻に生きる者の幸いです。お祈りをいたします。

 あなたが与えてくださった信仰に生きながらも、この世の力に圧倒されてしまうことがよくあります。しかし、そこで屈することなく立ち続け、信仰の戦いに生き抜く勇気をお与えください。主が再び来たりたもう日を待ち望み、あなたの前にいつも信仰の姿勢を整えて歩んでいくことができますように導いてください。主の御名によって感謝し祈り願います。アーメン。