2020年11月08日「教会を信じ、教会に生きる」

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教会を信じ、教会に生きる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章13節~20節

音声ファイル

聖書の言葉

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。マタイによる福音書 16章13節~20節

メッセージ

 先週の火曜日に献堂式を行いました。新会堂が与えられてから既に9ヶ月経ちましたが、今一度、神様の御前に会堂が与えられたことへの感謝と、主のためにお仕えしていく思いが与えられたと思います。献堂式というのは、千里山教会46年の歩みの中でも、たいへん大きな節目となる出来事です。このことを一つの節目、境として、新しい歩みが始まっていくとも言えるのです。それは私たちにとって、まだ経験したことのないチャレンジであり、同時に楽しみであるとも言えるでしょう。

 献堂式では、旧約聖書・列王記上第8章の御言葉を共に聞きました。イスラエルの王・ソロモンがエルサレム神殿献堂の際に祈った祈りの言葉です。そして、本日は共にマタイによる福音書第16章の御言葉を聞きました。ここはマタイによる福音書の「分水嶺」と呼ばれるところです。「峠」と言ってもよいでしょう。この箇所を境にして、今まで見てきた景色の光景がまったく変わってしまうのです。見え方が変わってくるのです。この第16章13節以下が「分水嶺」と呼ばれる理由があります。一つは、主イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言って、教会建設の宣言をなさったことです。もう一つは、わたしが「救い主」であるということがどういうことか。どのような意味でわたしはあなたがたの救い主なのか。今まであなたがたに明らかにしてこなかったけれども、今それを明らかにすると言って、十字架と復活の道を初めて弟子たちに告げられたのです。この御言葉は昨年の年間聖句であり、私が千里山教会に赴任しては初めて語った御言葉がこの箇所でもありました。

 主イエスがこの世界に来られたのには目的があったのです。今申しましたけれども、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白の上に教会を建てるということです。「イエス・キリストこそ私の救い主」という告白に人々を導くこと、つまり、救いに導くことだけが目的ではありませんでした。もちろん、一人の人間が神の救いに導かれるというのは、その人にとって極めて重要なこと、決定的なことと言ってもいいでありましょう。でも、ここで終わりなのではなくて、むしろ、ここから新しく始まることがあるのだと言うのです。それが18節の主イエスのお言葉です。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」洗礼を受け、キリスト者になった私どもにとって、「教会」というのは別にあってもなくてもいいような存在ではないということです。どちらかと言うと、教会はあったほうが自分にとって色々と助けになる。だから私は教会に行くということではないのです。主イエスへの信仰を言い表し、洗礼を受けることは、キリストの体なる教会の一員、仲間にあることです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃった主イエスの言葉を、私どもはしっかりと受け止めなければいけません。

 主イエスは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。キリストの教会は、岩の上に立っています。ここで言われている「岩」とは何を指すのでしょうか。ここで主が語り掛けておられるのはペトロです。ペトロという人物の土台の上に教会を建てるというのでしょうか。そうではありません。ペトロはペトロでも、彼個人の上にというのではなく、ペトロが信仰を告白したその言葉の上にわたしの教会を建てるということです。主は弟子たちに向かって真剣に問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15節)この問いに、弟子を代表してペトロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です。」(16節)「メシア」というのは、ヘブライ語で「救い主」という意味です。ギリシア語に直すと「キリスト」になります。だから、「イエス様、あなたはキリストです。イエス様、あなたは救い主です。」と答えたのです。このペトロの告白を主はたいへん喜んでくださいました。

 主イエスが私どもに求めておられることも同じことです。他の人々は、「洗礼者ヨハネ」だとか「エレミヤ」だとか「預言者の一人だ」と言うのです。要するに、偉大な人物であるということです。だから、歴史の中で大きな働きをした預言者たちの名前を挙げて、これらの者に匹敵するような存在、それがイエスという男だと人々は評価します。でも、主イエス御自身にとって、人々の評価というものはまったく関心がありません。良いふうに評価されたら喜び、わるく評価されたら怒る、そういう話ではないのです。主イエスが求めておられる一つのことがあるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ということです。「他の人がわたしについて何と言おうが構わない。他の人ではなく、あなたはわたしのことを何者だと言うのか?」主はそのように問うておられるのです。そして、主がそこで求めておられることは、「イエスはこういうお方だ」というふうに評価したり、感想を述べることではなくて、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と口にしましたように、信仰を告白することなのです。「イエス様、あなたこそわたしの救い主です。」

 主イエスはこの信仰告白をたいへん喜んでくださいました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と言って、心から祝福してくださいました。そして、この「幸い」というのは、ペトロが自分の手で掴み取った幸いではありません。主イエスに従い続けた結果、イエスがどのようなお方であるか?そのことについて、見事言い当てたという話ではないのです。主イエスはペトロの信仰告白を喜び祝福しながら、そこには父なる神様の導きがあったことを喜んでおられるのです。だからこうおっしゃるのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」神の導きの中で、「イエスこそキリスト、救い主」と信仰を告白することができたということ。この喜びの中で、主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と宣言してくださったのです。

 そして、その前に「わたしも言っておく。あなたはペトロ。」と主はおっしゃいました。「ペトロ」という名前は、いわば、主イエスが付けたニックネームのようなものです。本名は17節にありますように、「シモン・バルヨナ」です。しかし、ここで主から「ペトロ」という新しい名前をいただいたのです。日本語の発音では「ペトロ」ですが、元のギリシア語では「ペトラス」という発音になります。意味は、「小さな石」(岩から切り出された小さな石)という意味です。しかし、主イエスは「わたしはこの小さな石の上にわたしの教会を建てる」とはおっしゃいませんでした。「小さな石の上」ではなく、「岩の上に」わたしの教会を建てるとおっしゃってくださったのです。少々細かいことですけれども、「岩」というのはギリシア語に訳すと「ペトラ」になります。ですから、小さな石である「ペトラス」と岩である「ペトラ」という言葉を重ねて語呂合わせ、言葉遊びをしておられるとも言えるのです。しかし、単に主は言葉遊びをしておられるのではなくて、本当は小さな石であるはずのペトロを、しっかりとした「岩」というふうに呼んでくださったことの中に、私はペトロに対する深い思いが込められていると思うのです。

 信仰生活が長い方であるならば、このペトロという人物がどういう人間であるのかをよく知っていると思います。果たして、岩のようなしっかりとした強い信仰者であったかというとそうではありません。幾度も主イエスから叱られました。良かれと思って、勇気を出して取った行動がほとんどと言ってもいいほど裏目に出て、その度に主からたしなめられました。極め付けは、十字架を前にした主イエスのことを三度知らないと完全に否んだことです。そして、今日箇所の直後23節においても、主から「サタン、引き下がれ!」とずいぶん激しいことを言われています。主イエスが苦難の道、十字架の道を歩む救い主であるということを理解することができなかったからです。何度も叱られ、主イエスなど知らないと言ったペトロがなぜ「岩」となり得るのでしょうか。岩ではなく、ペトロという名前のとおり小石のような小さな存在。誰かに蹴飛ばされて、捨てられてしまうような存在、そのほうがペトロのことをよく言い表しているとも言えるのです。しかし、主イエスはペトロのことを「岩」と呼んでくださいました。それは主イエスが小石のような存在であるペトロを御自身の愛でつなぎとめてくださったからです。たとえ、罪深い存在であっても、ペトロは神が選んでくださった人間であり、父なる神が信仰へと導いてくださった尊い石であるからです。だから、主は「小さな石」であるペトロのことを、「岩」と呼んでくださったのです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる…。

 また、マタイによる福音書の中で、「岩」という言葉を聞く時、もう一つの箇所を思い起こします。17節で「あなたは幸いだ」とおっしゃってくださった主が幾度も、「幸いである」と告げてくださった箇所です。第5章から始まる「山上の説教」と呼ばれる説教の結びにあたる箇所で、岩の上に自分の家を建てた賢い人の譬えをお語りくださいました(マタイによる福音書7章24〜27節)。たとえ、どんな嵐が襲って来ても倒れることはないのです。なぜなら、岩を土台としているからです。家を襲う「嵐」というのは、いわゆるこの世で経験する様々な「試練」のことであると理解することができますが、究極的なことを言うと、終わりの日における神の審きのことです。神の審きの前で、なお立ち続けることができる人間とは、どのような人間なのでしょうか。それは砂のようなもろい所に自分の人生という家を建てる人ではありません。そんなことをしたら、すぐに流されてしまうことは明らかです。そうではなくて、しっかりとした土台の上に家を建てる人のことです。そして、この譬え話が示している「岩」というのは、主イエスの言葉を聞いて行う人のことです。主の御言葉を正しく聞いて理解し、従う人のことです。そこにあなたという人間の土台、人生の土台があるのだというのです。どんな試練にも流されることなく、たとえ死の波が自分を襲って来たとしても希望を持つことができる。終わり日、神の御前に立つ時、神を畏れつつも、そこで主イエスと共に堂々と立つことができる。そういう生き方へと導くのが、神の言葉だと主イエスはお語りになるのです。そして、そういう生き方をする人こそが本当に幸いな人なのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白した者は、これからも御言葉という土台に立ちつつ、自らの人生という家を建て上げます。自分一人というのではなくて、キリストの体である教会を仲間と共に建て上げ、造り上げていくのです。

 そして、教会には一つの大きな特色があります。それが18節の「陰府の力もこれに対抗できない。」ということです。「陰府の力」というのは、「死の力」と言い換えることができるしょう。また、新共同訳聖書では「力」と訳されていますが、この言葉は直訳いたしますと「門」となります。「陰府の門」「死の門」です。私どもの人生の行き着く先に、必ず死が待ち構えています。死という大きな門が私どもの前に立ちはだかり、その先に進んで行くことはできません。あるいは、こういうふうにも考えることができるでしょう。大きな門が急に開いて、門の奥から死の力が飛び出してくるのです。そして、私どものいのちを呑み込むのです。そして、死という力に対して、人は何も太刀打ちすることはできません。まったくの無力なのです。しかし、キリストの教会は死に勝利することができます。「陰府の力もこれに対抗できない」のです。「イエスこそ、救い主」と信仰を告白し、洗礼の恵みにあずかること。そして、その後も御言葉という土台に教会を建て、教会を造り上げていく生き方をする時、私どもは死に勝利しているのです。「死」ではなく、主イエスの「復活のいのち」こそが私どもにとって確かなものであるということを教会は信じているのです。

 そして、教会には「天の国の鍵」が与えられています。19節です。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」教会に授けられている天の鍵を用いて、私どもがこの地上でなすべきことは「つなぐこと」「解くこと」です。つなぐというのは、神様によって禁じられているということ。解くというのは、神様によって許可されているということです。地上の教会は天の国の鍵を用いて、神のごとき振る舞うのではありません。天の国の鍵は、扉を開けるために用いられるものです。私どもを呑み込もうとする死の力に打ち勝つことのでき復活の主イエスのいのちがここにあるということを示し、主のいのちによって人々を包み込むために、教会は天の国の鍵を用います。ここにまことのいのちがある。ここにどのような力にも支配されことのないまことの愛の力がある。その神の愛があなたを赦し、あなたを見捨てることなく、しっかりと捕らえてくださる。教会はひたすら、キリストの福音を宣べ伝えます。何によっても妨げられることのない神の喜びを教会は語り続けます。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言してくださった主イエスが建ててくださる教会は、そのようにいのちと力に満ちた教会なのです。

 ところで、私どもは礼拝の時にいつも「使徒信条」を唱えています。改革派教会だけではなく、昔から教会・教派を問わず告白している信条です。父なる神について、子なる神について、聖霊なる神について順番に告白していきます。終わりのほうで、「われは聖霊を信ず」と告白した後、「聖なる公同の教会」というふうに言葉が続きます。聖霊を信じることは、教会を信じることと同じことだとも言えるのです。そこで改めて思うのですけれども、「教会」というのは、信ずべきものなのだということです。何気なくいつものように告白している使徒信条ですが、少し立ち止まって考えてみますと、「教会を信じる」というのは、不思議なことかもしれません。父・子・聖霊なる神を信じるというのならば分かります。でも教会を信じるというのはどういうことなのでしょうか。信仰生活において、教会に集い、礼拝をささげ、兄弟姉妹と共に交わりを持つことが大事だということはよく分かることだと思います。しかし、「教会を信じる」という時に、どこかで違和感を覚えるかもしれません。「教会」というのは、果たして信じる対象となり得るのでしょうか。改めて考えさせられます。教会とは何なのでしょうか。イエス・キリストを救い主と信じる宗教団体なのでしょうか。教会は一つの組織に過ぎない。所詮、主イエスを信じる人の集まりであり、人がつくったものだということなのでしょうか。だから、教会は完璧ではないし、それゆえに、私にとってあってもなくてもいい存在、それが教会だということなのでしょうか。あるいは、どうせ教会は罪人である人間がつくった組織なのだから、いつも教会につながっている必要などはないということになってしまうのでしょうか。それでもなお、「教会を信じる」ことが求められるとすれば、それは地上にある「見える教会」のことではない。天上のにおける「見えない教会」のことだ。それならば、私たちも信じることができると言って、「教会を信ず」といつも告白しているのでしょうか。

 しかし、もしそうだとすると地上の教会には、たいした意味はないということになってしまいます。もしそうだとしたら、心から喜んで教会の働きに参与することはできないのではないでしょうか。心から教会に仕え、一つになって教会を建て上げることは難しいと思います。教会はギリシア語で「エクレシア」と呼ばれます。「エクレシア」というのは、呼び集めるという意味です。他の誰もなく、神様が私どもを呼び集めてくださり、この千里山の地で主を信じる一つの群れを形成することがゆるされました。「呼び集める」というのは、別の言葉で言えば、「召し」ということです。なぜ、私どもがこの教会にいるのか、なぜ私がこの家にいて、この職場、この学校にいるのか。それは神が召していてくださるからです。ここに私どもの歩みの原点があります。教会の中に私どもの原点があると言ってもよいのです。神が私を召していてくださる。だから私どもはその召しに応えて生きるのです。神様が召していてくださるからこそ、この地上において、様々な困難を覚えつつも望みを失うことなく、主と共に、主の働きに参与することができます。地上の教会においても同じです。神がこの千里山教会に呼び集めてくださった。このことを信じているからこそ、ここで共に主の御栄をあらわすために共に仕えようという思いが与えられるのです。色んな課題を抱えつつも、諦めることなく、前に進むことがゆるされるのです。

 さて、週報の報告欄にも少し記しましたが、N長老のお母様であるYさんが本日午後からご自宅で洗礼を受けることになりました。現在86歳で、病を抱えておられます。ぜひ、皆様の祈りにぜひ覚えていただきたいと思います。以前から、洗礼の思いを持っておられましたが、2週間前に改めてご本人から直接洗礼についての思いをお聞きし、短い礼拝をささげました。「洗礼を受けるにあたり、何か心配なことはありますか?」とお聞きしたところ、洋子さんは「教会のために十分な働きができなくて申し訳ない」とおっしゃいました。おそらく、年齢のことや病のことがあって、教会に足を運ぶことさえもできない。そのことを心配なさったのでしょう。でも、私は正直嬉しく思いました。自分が救われればそれで十分というのではなくて、「教会のために」という思いを持っていてくださること。このことは私にとっても、教会にとっても本当に嬉しいことです。また、私が昨年赴任した直後に病床洗礼をお受けになったT姉も、洗礼式の時に、「やがて完成する教会堂を私の住まいにしたい」とおっしゃっていました。実際に教会に住むということはできないのですけれども、まるで自分の家のように教会のことを深く心に留めてくださったことを、牧師としてたいへん嬉しく思ったものです。洗礼を受け、キリスト者になるということは、キリストの体である教会に生きることと一つのことです。神を喜ぶことは、教会に生きることを喜びとすることです。

 本日はマタイによる福音書に先立って詩編第84編の御言葉を読んでいただきました。詩人は、主の庭である神殿にいることができる幸いを歌います。「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」(詩編84編2〜3節)「いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。」(同5節)「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(同11節)

 地上の教会というのは、確かに人間の集まりにしか見えないかもしれません。「神を信じる」と告白しながら、なお様々な弱さと罪を抱える存在、それが地上の教会です。しかし、教会の土台はイエス・キリストです。そのことを私どもが告白し、主の言葉に立って歩みを重ねていくのです。献堂式の祝辞の中で、前の牧師でありました弓矢健児先生が詩編118編の御言葉をはじめに紹介してくださいました。「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」(詩編118編22節)建物の隅っこにある親石こそが建物全体を支えます。福音書などでは、同じ詩編を引用しながら、この人々に退けられ見捨てられた石こそがキリストであり、このキリストこそが私どもにとってなくてはならない存在となったのだと語ります。人々に捨てられたキリスト、いや神にさえ十字架で見捨てられたキリストが、三日目にお甦りになってくださり、私どもの礎、教会の礎となってくださいました。

 私どもは目に見える事実の中に、目に見えない信仰の真の姿を見出します。地上の教会の中に、天の国における愛と赦しの支配があることを、聖霊なる神が見せてくださるのです。ここにも確かに愛と赦しの主がおられる。ここにいのちの主がおられる。その幸いを見つめながら、キリストの体である教会を信じます。私どもは、主イエスから「あなたは幸いだ」と言っていただいた者たちです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言っていただいた一人一人です。その幸いが真実であることを明らかにするために、主イエスは十字架の道を最後まで歩み抜いてくださり、甦ってくださいました。キリストをとおして示された神の愛の中に生きる時、地上における悩みも、教会における課題や問題ももはや絶対的なことではなくなります。たいした問題ではなくなるのです。教会は、キリストを、そして、神の言葉を土台とし、ますます主を信頼し、歩みを重ねていきます。

 今年、新しい会堂が与えられました。先週は、神様に新しい会堂をお献げしました。教会は神のものです。教会の頭はキリストです。そして、その神のものである教会をもう一度感謝をもって受け取り直すことがゆるされました。大きな節目を迎え、新しく歩み出した千里山教会がますます主にあって祝福されますように。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」主イエスはここに、御自分の教会を建ててくださいます。お祈りをいたします。

 教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御計画の中で、取るに足らない私どもを選んでくださり、キリストによって救いの恵みにあずからせてくださり感謝をいたします。またそれだけでなく、キリストの御体である教会に連なる者としてくださいました。神を信じ、教会を信じる信仰をこれからもお与えください。天における御支配が、この千里山教会においても鮮やかに映し出されますように。どうか私どもを神の栄光をあらわす器として豊かに用いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。