2020年11月01日「天に錨を降ろして」

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天に錨を降ろして

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 6章13節~20節

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聖書の言葉

13神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、14「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。15こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。16そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。17神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。18それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。19わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。20イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。ヘブライ人への手紙 6章13節~20節

メッセージ

 キリスト教会は昔から「船」に譬えられてきました。なぜなら、聖書の中に、「船」を巡る物語がいくつも記されているからです。旧約聖書の創世記には「ノアの箱船」と呼ばれるよく知られた物語が記されています。福音書を読みますと、主イエスが弟子たち船に乗り、向こう岸に渡ろうとする場面があります。また、ある時は、弟子たちだけで船に乗っていたら、向こうから主イエスが湖の上を渡って来られたという印象深い出来事が記されています。「教会」という船もまた航海を続けていきます。この世という海の上を進んでいくのです。しかも、何の波も立たない静かな海を進んでいくのではありません。嵐によって、波が襲い来る中、目的地に向かって進んでいかなければいけないのです。船それ自体には何の強さもありません。嵐に呑まれればすぐに沈んでしまう弱い存在です。そのよう中で、なお信仰という名の航海を続けることができるとすれば、それはただ主イエスが共にいてくださるからです。嵐をびくともせず、絶えず父なる神にすべてを委ね、信頼しておられる主が共におられます。たとえ、私どもが主のお姿を見失い、恐怖に怯えても、主イエスが起き上がって、嵐を沈めてくださいます。だから、私どもは信仰の航海を続けていくことができるのです。

 このことを大切にしたいという思いが、昔からキリスト者たちの中にありました。それで教会を表すシンボルとして船の絵が描かれることがありました。なかには、船の形をした教会堂もあるそうです。先程、ヘブライ人への手紙第6章の御言葉をお読みしました。19節に次のような言葉がありました。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり…」「船」ということが直接言われているわけではありませんが、「錨」という言葉があります。船が海の上でちゃんと留まることができるように、錨が海の中に投げ込まれるのです。そして、海底に沈んだ錨がしっかりと海の上の船を支えるのです。

 このヘブライ人の手紙というのは、ローマにある教会に向けて記されたた手紙だと言われます。当時、ローマ帝国が支配していた世界です。ローマ皇帝を神の子として崇めるように強いられた時代です。それゆえに、キリスト教会は厳しい迫害に遭いました。立派な教会堂を建てることなどできません。自分たちは大きな船に乗って、堂々とこの世の海を進むことができると胸を張っていたわけではないのです。むしろ、地下に隠れ、自分たちの存在をまるで消すようにして礼拝を守り続けたのです。「地下墳墓」「カタコンベ」とも言われます。そのカタコンベにこういう絵が描かれていたというのです。それは錨の絵です。錨は釣り針のような形をしていますが、錨の両側の尖端を「魚」が加えているのです。「魚」というのも、初代教会の間では大きな意味がありました。皇帝礼拝を強要された時代、「イエス・キリストこそ救い主」と大きな声で言えない時代でした。しかし、信仰から離れたわけではなかったのです。代わりの魚の絵を描いたのです。どうしてかと申しますと、「魚」をギリシア語に訳すと「イクスス」となります。「イクスス」という単語のそれぞれの頭文字は、「イエス・キリスト、神の子、救い主」ということを意味するのです。カタコンベの中で、魚が錨を加えている絵が描かれているというのは、主イエスに対する信仰を言い表し、迫害という試練にあってキリストに錨を打ち込むこと。ここに信仰の戦いをたたかい抜く力が与えられるということです。たとえ、殉教することがあったとしても、私たちのいのちはしっかりと復活の主に結ばれている。そのような意味で、死んだ者を納める棺にも錨の模様が刻まれていたというのです。

 ところで、18節には次のような言葉がありました。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。」私たち、それは「世を逃れて来た」存在だというのです。どうしてもこの世の荒波に耐えることができない。このままでは本当に沈みそうだという恐れを覚えたキリスト者たちが、逃げるようにしてここにやって来たというのです。逃げなければいけない状況に追い込まれるというのは、私どもにとって危機を意味します。襲い来る敵から逃げ続けなければいけません。安心して腰を下ろすこともできないのです。心も体も疲れ果てます。そのようなキリスト者の姿をこの手紙の著者は見つめています。迫害の中にあるからこそ、しっかりと与えられた信仰に堅く立ち、信仰の戦いをしようという勇ましい姿はここにはないように思えるかもしれません。「逃れる」というのはやはり消極的な意味を持つ言葉でしょう。

 でも、キリスト者が「逃れる」という言う場合、必ずしも消極的に捉える必要はないということです。むしろ、キリスト者のあるべき姿として、「世を逃れて来たわたしたちは」と言っているのです。問題は、逃げるのは構わないけれども、どこに避難するのかと言うことです。あるいは、何のために逃げるのかということです。単にこの世から逃れ、現実逃避する。世の生活から逃れ、自分の時間を確保し、自分の好きなことをする。どうもそういうことではないのです。旧約聖書を読みますと、「神は私たちの避けどころ」という言葉をいくつも見つけることができます。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」詩編46編2節の御言葉です。私どもが逃げる先は神様のもとです。神様のもとに逃げ込み、守っていただくのです。だから、18節でも「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが」とあります。また、「力強く励まされるためです」という言葉もあります。神様から信仰を与えられ、この世に遣わされたけれども、やはり厳しい生活が自分を取り囲んでいる。希望をもって忍耐することは難しいから、もう神様から離れるというのではなく、試練多き世の歩みであるからこそ、いつも神様のところに逃げ込んでいく。そこで希望をもう一度与えられる。力強く励まされるというのです。その力の源となるのが、キリストの教会であり、そこでささげられる礼拝です。地下に潜って、周りから見れば、「逃げているだけだ、臆病だ」と言われるかもしれません。しかし、彼らは厳しい迫害の中、神のもとに逃れ続け、そこで目指すべき希望を示され、励まされ続けて来たのです。しかも、神のもとで与えられる希望というのは、「一縷(いちる)の望み」というものではありません。何か細い糸で神様とつながっていて、何かの拍子でプツンと切れてしまうような、そういう頼りないものではないのです。どんな試練の中でも、たとえ死んだとてもなお望みを持つことができ、その望みによって自分たちの存在が丸ごと救われる。そのような確かな希望です。この望みに生かされ、イエス・キリストこそ、まことの神の子であり、救い主であるという信仰を告白し続けたのです。

 さて、この18節のところですが、少し分かりにくい言葉がありました。「二つの不変の事柄」という言葉です。二つの不変の事柄によって、私たちは力づけられ、励まされるというのです。この二つの不変の事柄とは何なのでしょうか。先に申しますと、一つは神様の約束。もう一つは神様の誓いのことです。神の約束と誓いについて語る前に、この手紙を書いた伝道者は前の13節以下であることを語っています。ある人物を取り上げながら、神の約束、そして誓いというものはいかなるものなのかを伝えようとしています。その人物というのが、「アブラハム」という人です。「信仰の父」と呼ばれ、祝福の源となるために信仰の旅路を始めた人です。また、今日お読みした一つ前の箇所、12節にはこうありました。「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」それに続いて13節以下で、アブラハムという人物について語られていきます。アブラハムを見倣って欲しい、お手本にしてほしいというのです。どうしてアブラハムを模範にする必要があるのでそう。12節には「あなたがたが怠け者とならず」とありました。どうも迫害の厳しさに耐えることができる人ばかりではなかったのです。試練の中で、信仰に生きる意味を十分に見出すことができず、怠けてしまった人たちというのです。そういう中で、この手紙を書いた伝道者は、怠ける者にならないでほしい。あなたたちの信仰の先輩を見倣ってほしい。あのアブラハムの姿を見てほしいというのです。そして、確かな神の望みの中を生き抜いてほしいというのです。

 そのようにして、アブラハムのことが13節以下で語られていくのです。ただよく見ますと、アブラハムのことというよりも、神様がアブラハムに対して何をしてくださったのか、その神様のお働きについて語られている。そのように見ることができるでしょう。その神様のお働きの中心にあったのが、約束であり、誓いであったというのです。既に75歳であったアブラハムが住み慣れた故郷を離れて、神様に従う歩みを始めた時も、神様はアブラハムに約束の言葉を与えてくださいました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記12章2節)アブラハムの信仰の旅路を導いたのは神の約束の言葉だけでした。まだ神の約束が成就しているわけではないのですけれども、神の約束を信じ、神が示される地に向かって歩み出したのです。

 また神様のアブラハムに対する約束は一度だけではありませんでした。幾度も繰り返し、約束の言葉をお語りくださいました。しかも、約束の言葉が語られる場面は、アブラハムが神の約束を信じられなくなった時でした。自らの力によって何とかしよとし、結果、失敗してしまった。家族や周りの者さえもがたいへん傷ついた。そういう場面です。その時、神様はもう一度、御自身の約束をお語りくださるのです。本日は創世記第17章の御言葉を併せて読んでいただきました。最初の約束から24年経っていますが、いまだに救いの祝福を受け継ぐ子どもが与えられております。その直前の第16章では、神の約束を待つことができなくなったアブラハムが、自分の妻ではなく、女奴隷との間に子どもをもうけ、これで神の約束が実現したことにしようとしたのです。本来、神の約束は妻サラとの間に子どもが与えられるということでした。しかし、アブラハムは自分の勝手な解釈と企てにより、神の約束をねじ曲げたのです。女奴隷ハガルとの間に子どもが生まれるものの、そのことが妻サラの怒りと妬みの原因となり、夫婦の間でも、家族の間でも大きな混乱が生じることになりました。ついには、ハガルが家に居ることができなくなり、出て行くことになるのです。こういう失敗、罪というものをアブラハムは幾度も経験しました。これだけを見るならば、決して信仰者の模範であると言うことはできないでありましょう。しかし、そのアブラハムが信仰者として立ち続けることができたのは、ただ神の約束の言葉があったからです。だから、ヘブライ人への手紙第6章15節で、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。」というのです。「根気よく」というのは、「忍耐して」と訳したほうがいいかもしれません。アブラハム自身の力で、こつこつと根気よく何かをし続けた結果、素晴らしいものが得られたというのではなくて、神が与え続けてくださった約束が、アブラハムを支え、忍耐して約束の成就を待ち続けることができたということです。

 そして、約束から25年経った時、アブラハムが100歳になった時、ついに、独り息子イサクが与えられたのです。ただ創世記のこの先を読み進めていきますと、やっと与えられたイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるようにと命じられるのです(創世記22章)。なぜイサクを犠牲にしないといけないのかという思いと同時に、イサクが死ねば、神様の約束がここで途絶えてしまうことになります。なぜ神様はこれまでずっと私に語り続けてくださった約束を裏切るようなことを命じられるのだろうか。これまで神様の約束だけを頼りに生きてきた私の歩みは何だったのだろうかという、大きな試練の中に立つことになったのです。しかし、アブラハムは何も言わず、イサクを献げる山に向かって歩み始めました。心を整理できぬまま、しかし、そこで歩みを止めることなく、神に従う道を歩みました。今の自分には見えないかもしれないけれども、神様が私のために見ておられることの中に私のすべてがある。神様が私のために必要な良きものを備えていてくださる。そこに希望がある。そのことを最後まで信じていたからです。そういう意味では、ここでもアブラハムは忍耐して歩み続けたのです。そのアブラハムの信仰に応えて、神様は、イサクの代わりとなる小羊を用意してくださったのです。

 この神の約束というのは、もう一つの「不変の事柄」である「誓い」ということも結びつきます。約束するということは誓うということです。私どもの信仰生活を振り返えってみても、色んな場面で「誓う」ということをしています。洗礼や信仰告白をする時、神と教会の前に誓約します。結婚する時には、神と証人との前で誓約します。他の教会から転入、加入する時も、誓約が求められます。教師、長老、執事に任職する時も、誓約をいたします。そして、約束すること、誓約することは、口で誓約すれば、それでいいというものではないと思います。人間同士の間でもそうですけれども、教会でなされる誓約というのは神様との間で交わされるものです。16節で、「そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって」とありました。私があなたと交わす約束、誓約は真実なものであり、確かなものである。そのことを証明するために、人間は何をするかというと、「自分より偉大な者にかけて誓う」というのです。「私はこれからこのようにします」と誓っても、どうせこの人は約束を守ることができないということが前提にあるのでしょう。だから、自分より偉大な存在、例えば、「”神様”に誓って、私はこういうことをちゃんと守ります」と誓約をするのです。そうしますと、相手のほうもそこまで言うのなら、この人は本気だろうと信じて、その人のことを受け入れるのです。しかし、神の名によって誓うというのは、もし、約束を守ることができなかったら、神に裁かれても何も文句を言うことはできない。そういう意味を持つ言葉です。「自分により偉大な者にかけて誓う」というのはそういうことです。そうだとしたら、誰が神と約束をし、誓約することができるのでしょうか。模範とすべきアブラハムでさえ、多くの過ちを重ねたのです。

 しかし、ここで忘れてはいけないのは、まず神御自身がアブラハムと、そして私どもと約束をし、誓いをしてくださったということです。13節にこのようにあります。「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い…。」また、17節にはこうあります。「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」神様は御自分の約束が確かだということを示すために何をなさったのでしょう。神様より偉大な方はいませんから、御自分に誓う他ありません。「わたしの計画は変わらない」ということを示すために、神は御自身の存在にかけて誓ってくださいました。そして、神というお方は、「神の約束を信じる」と言いながら、結局は自分勝手に生きようとする者を裁こうとするお方ではありませんでした。本当ならば、神の名によって裁かれるべきはずの人間がその裁きを免れ、代わりに独り子イエス・キリストが十字架に死んでくださいました。そこまでして、あなたがたを救い出すという約束は真実である。決して、偽りではないということを示してくださったのです。

 この神の約束と誓いが、私たちを力づけ、励ますのだと、この手紙を書いた伝道者は語るのです。だから希望を持ち続けよう、忍耐しよう。神のもとに逃れ、そこで力をいただこうではないかと言うのです。そして、神様から与えられている希望について、19節でこう言っています。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」説教の最初で申しました「錨」という言葉で、神の希望を言い表しています。教会は「船」のような存在であり、この世という海の上を航海し、目的地に向かって旅を続けます。その航海の途中には、激しい嵐に襲われるということもあるでしょう。そこで錨を海に投げ込みます。しかしながら、「船」というのは譬えでありまして、実際に私どもが海の上にいるわけではありません。ですから、錨を海に降ろすというのは具体的にはどういうことなのでしょうか。ヘブライ人への手紙は、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」と語りました。「至聖所」というのは、神殿の一番奥にある神聖な場所です。そこには神が与えてくださった十戒の石の板が「契約の箱」の中に納められ、置かれていたのです。まさにここに神が臨在するという特別な場所です。そして、この至聖所には大祭司と呼ばれる人しか入ることが許されませんでした。年に一度、大祭司が至聖所に入り、そこで動物をささげ、人々の罪を赦してくださるように祈り願ったのです。私どもも、神がまさにおられるそのところに希望の錨を投げ込むのです。そこに私どもの揺るがぬ希望があるからです。

 ところで次の20節を見ますと、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」とあります。イエス・キリストというお方について、私どもは様々な言葉で言い表すことができるかもしれません。このヘブライ人の手紙は、主イエスについて、「主イエスこそまことの大祭司である」ということを繰り返し語ります。神と人との間に立ち、私ども人間の罪の赦しのために、執り成し続けてくださる主イエスのお姿を私どもの前に示すのです。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き」とあるように、主イエスが私どもの先駆者として、まことの大祭司として、神がおられる至聖所に入ってくださいました。そこで私どもの罪が赦されるように執り成し続けてくださいました。そのために小羊を献げられたのでのではありません。主イエス御自身が神の小羊として、犠牲となりいのちを献げてくださいました。その出来事こそ十字架の出来事です。福音書を読みますと、主イエスが十字架にかけられ、息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」と記されています(マタイによる福音書27章51節)。神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が真っ二つに裂けたということ、それが意味することは、神の前に立つことを妨げるものがなくなったということです。イエス・キリストの十字架のゆえに、罪が取り除かれ、誰もが神の前に立ち、神を心から礼拝する道が拓かれたのです。神が本当におられるということ。この希望に満ちた現実の中に私どもが立つことできるように、主イエスが十字架をとおして私どもに示してくださいました。キリストの教会は絶えず、希望という名の錨を神御自身の中に投げ込みます。海という自分たちの目線より下にあるところに投げ込むというより、私どもの上にある「天」に向かって希望の錨を投げ込むのです。普通、錨を上のほうに放り投げるということはいたしませんが、信仰の歩みを考える時、天に錨を打ち込む。あるいは、矛盾する言葉かもしれませんが、錨を天に向かって降ろす。そのようなイメージで神様に対する信仰を言い表すことができます。

 そして、錨が神殿の至聖所に投げ込まれると言う時に、明らかに私どもはキリスト教会のことを重ねて思い起こします。とりわけ、主の日の礼拝において、主イエスは私どもの交わりの中心にいてくださいます。ここに希望があるからこそ、教会に集い、礼拝をささげます。礼拝をささげることを誰も妨げることはできません。主イエスが御自身の存在をもって切り拓いてくだった道をとおり、皆、神の前に立つのです。神の約束と誓いによって、もう一度力づけられ励まされるためです。そして、目指すべき希望をもう一度見つめ、再び歩み出すのです。教会にとって、主の日の礼拝というのは、船が港に入って、安心して錨を降ろすようなものです。港から出れば荒波が立っているかもしれない。でもこの神の港であるこの礼拝において、私どもは静かに錨を降ろすことができます。

 この後、共に聖餐を祝います。御言葉において共にいてくださる主イエスは、聖餐においても同じように、私どもと共にいてくださいます。少し前まで水曜日の祈祷会で、聖餐に関する書物を読み続けていました。その本の最後のほうで、著者がスイスのある神学者の言葉を紹介しています。その神学者はこう言うのです。「教会にとって小さいということが、恐れる理由にならないということことは、キリストの教会の祝福された秘儀である。」普通、私どもは自分たちが「小さい」ということを恐れます。「小さい」ということだけで、自信を持つことができなくなります。また恥ずかしく思ったり、妬みの原因になったりもします。しかし、教会がこの世において小さいということは、まったく恐れる理由にならないのだと言うのです。どうしてそう言えるのでしょうか。それは、地上の教会の基盤が天にあるからだと、その神学者は言葉を続けます。地上においては、例えば、エジプトの王のように高いピラミッドを立てます。この世の権力者が立てる壮大な建築物は、地面に大きな基礎、土台を持ちます。そして建物の尖端はピラミッドのように天に対して、小さな点のようになります。しかし、私ども地上の教会は違います。天に基盤を持ち、その尖端が小さいかたちで地上に存在します。言わば、天に土台を持つが逆ピラミットのようなかたち、存在。それが教会だというのです。私どもの土台は天にあります。だから、その尖端である教会が、この地上において小さくても何も恐れることはありません。主イエスもおっしゃいました。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカによる福音書12章32節)。

 天から地上に伸びている尖端、それが地上の教会です。私どももまた小さな群れです。小さな群れが毎週ここに集って、神に礼拝をささげます。月に一度、聖餐を祝いします。小さな祝いかもしれません。しかし、私どもがここで行う祝いは、天における壮大な祝宴に連なる祝いであるということを改めて心に留めたいと思います。だから心を高く上げましょう。心を天に向けましょう。自分たちが小さいこと、弱いことに恐れを抱くことはないのです。もし、恐いと思ったら、いつでも神のもとに逃げ込んだらよいのです。錨を天に降ろして、もう一度、神から力づけられ、励ましていただきましょう。神の約束と誓い中に立ち、共に信仰の歩みを重ねていきましょう。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、この日も私ども一人一人の名を呼び、ここに集めてくださいます。天における喜びの知らせが響き渡るこの場所で、もう一度、望みを新たにすることができますように。すぐに心揺らいでしまう私どもですが、天に錨を降ろして、安らい、あなたの憐れみの中で、力づけられる歩みを続けていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。