2020年10月25日「いつものように」

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いつものように

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ダニエル書 6章1節~29節

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聖書の言葉

1さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。2ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、3 また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。4ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。5大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。6それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、7王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。8王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。9王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」10ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。11ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。12役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、13王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」14彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」15 王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。16 役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」17 それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」18 一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。19 王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、20 夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。21洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」22ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。23神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」24王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。25王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた。26ダレイオス王は、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々に、次のように書き送った。「いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。27 わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。28この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」29こうしてダニエルは、ダレイオスとペルシアのキュロスの治世を通して活躍した。ダニエル書 6章1節~29節

メッセージ

 ダニエルが獅子のいる洞窟に投げ込まれたにもかかわらず、神様が守ってくださったというこの場面は、小さな子どもたちの心にもずっと残り続ける物語です。聖書絵本や紙芝居の影響もあるかと思いますが、洞窟の中にいるダニエルに襲い来るライオンの姿が、私自身の中にも鮮明に残っています。そして、聖書には記されていないのですけれども、ダニエルがいつの間にかライオンを手なづけて、仲良くしている。そのような如何にも子ども心をつかもうとする思いが絵本には表れていました。

 ダニエルが獅子のいる洞窟に投げ込まれたということ、ここにも後で申しますけれども、たいへん大きな意味がございます。ただ私自身、このダニエル書を繰り返す読む中で特に心に留まる箇所があるのです。夢を解き明かしたり、様々な奇跡が起こったり、また第7章以降に記されていますように、大きな幻を示されたりというふうに、聖書を読む者の心を引く場面はいくつもあるのですけれども、中でもこの第6章11節の御言葉が心に留まります。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」「いつものとおり二階の部屋に上がり」というこのところです。「いつものとおり」というのは、「以前からしていたように」とか「以前からの習慣」と言い換えることもできます。信仰生活の中で、何か特別にということではなくて、まるで当たり前のことのように、神に賛美をし、祈りをささげる。そういうダニエルの真っ直ぐな姿をここに見ることができます。

 いつものように、いつもどおりのことをする。これは一つの習慣と言ってもよいでしょう。そして、この「習慣」というのは、私どもの信仰生活にとって大事なことになります。ある先生が「主の祈り」について小さな本を記しています(平野克己『主の祈り イエスと歩む旅』)。今、婦人会で読み進めている本ですが、その中で、私どもの生活というのは実に多くの習慣で成り立っているというのです。英語では、”ルーティン”と言うこともできるでしょうか。決まった時に、決まったことを順番通りにして行く、そのようにして、自分の生活のリズムというものを整えていきます。食べることも、働くことも、眠ることも私どもの生活においてなくてはならない習慣です。その習慣が何かの拍子に崩れてしまうならば、それは私どもにとって、大きな危機と言わなければいけません。ですから習慣というのは、決して後ろ向きな言葉ではなく、実に大切な意味を持っているのです。

 ダニエルが自分の家に帰り、決められた時間に、決められた場所で、いつものように神を賛美し、祈ること。これも一つの習慣です。七日ごとに教会の礼拝に集う、あるいは、週の半ばに祈祷会に集う。これも私どもの信仰生活の習慣です。家に帰れば、それぞれに神様と静かに向き合う時間を持っていることでしょう。これらのことは、わざわざ手帳に書き込まなくても、体と頭が覚えているものです。習慣になるというのはそういうことです。もうそれらのことをせずには生きていくことのできない人間になってしまったということです。

 お読みしたダニエル書第6章において、これまで自分たちを支配していましたバビロン帝国はもう亡くなり、メディア国のダレイオスという王が支配していました。国の120いる総督のさらに上に立つ3人の大臣のうちの一人でした。4節にはこうあります。「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。」ダニエルには特別な賜物が神様から与えられて、その力を十二分に発揮していたのです。王からもたいへん気に入られていました。しかし、納得いかないのが、他の大臣、また総督たちでした。何とかダニエルの欠点を見つけ出し、彼を今いる地位から引きずり降ろしたいと企みました。しかし、5節にありますように、「ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった」のです。

 それで大臣たちはどうしたかと申しますと、6節以下にありますように、ダニエルが信じ、それゆえにダニエルのいのちと力の源になっている神について、信仰について何か言い掛かりをつけて、彼を陥れることはできないか企んだのです。つまり、30日の間、王様以外の者や神にお願いする者があれば、その者は獅子の洞窟に投げ込まれるという法律を彼らは作ったのです。ダレイオス王は、大臣たちのダニエルに対する企みを知りませんから、すぐに了解してしまいます。しかし、メディアとペルシアの法律によりますと、一度、王が署名すると、その法律を変更することが不可能でした。

 ダニエルはこれらのことを知ったうえで、なお賛美し、祈りをささげました。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが」と11節の最初にあるとおりです。ダニエルは自分が神様に賛美し、祈っている姿が見られたならば、自分は獅子の洞窟に投げ落とされ、食い殺されてしまうということを知っていました。しかし、そのうえで、何か特別なことをしたわけではありませんでした。極端なことを言えば、信仰を捨てるということもあり得たかもしれません。あるいは、「30日」という期間が限定されているのですから、30日だけ国の掟に従って、神を礼拝しない。30日過ぎたら、再び神を礼拝すればいいではないかと考える人もいるかもしれません。しかし、ダニエルはたとえいのちが脅かされる危機があったとしても、何も変わることなくいつもどおりの信仰に生きました。いつもしているように二階の部屋で、決まった時間に三度、エルサレムに向かって、神に賛美と祈りをささげたのです。

 ある説教者は、「ここでダニエルは一歩後退している」と言います。面白い言い方です。後退するというのは、決して消極的な意味で言っているのではありません。どういう意味かと申しますと、ここでダニエルは王様に対して、国に対して抗議しているわけでも、非難しているわけでもないということです。ものすごい勢いで、前進して、王の目の前まで行って、この法律はおかしいと言っているわけではないのです。もちろん、神を信じているダニエルからすれば、こんなおかしな法律はありません。ダニエル自身、大臣という立場にあり、王様からも気に入られていましたから、少しくらいは物申すこともできたかもしれません。でも、ダニエルはこの時、「王よ、この法律を撤回するように!」と訴えるような仕方で戦おうとしませんでした。何も特別なことをしなかったと言ってもいいかもしれません。しかし、いつものことをし、いつもの習慣どおりに神を礼拝しました。神を礼拝したら、殺されることが分かっていても、いつもどおり自分が自分であることを貫きました。

 私どもが信仰者として強くされるということ。あるいは、勇気ある行動や決断に導かれるというのは、実はこういうところにあるのではないでしょうか。誰の目にも明らかな、大胆で勇気ある行動を取ることだけが、信仰者の強さではないということです。信仰生活における毎日の「習慣」というのは、当たり前のことであって、それ程たいしたことはないと思いがちかもしれません。でも本当はそうではありません。一見、あまり目立たない、地味なようなものであっても、その生き方を生き抜く時、そこには真の信仰の強さが生まれ、大きな価値を持つのです。それも神様の前に大きな意味を持つ生き方になるということなのです。

 また、この時ダニエルがいつものようにしていたことは、自分の「家」に帰った時になされていたものでした。ある説教者は、「家」というのは実に誘惑に満ちた場所であると言います。「職場」や「学校」で自分が信仰者であるということを堂々と証しなさいとか、「教会」において立派な奉仕をしなさいと言っているのではないということです。「家」というのは、一番くつろげる場所であるかもしれません。それは、誰の目も気にすることなく、自分の好きなことを好きなようにすることができる場所です。外に出れば、外のルールに従って生きます。家に帰っても学校や職場に属する者であるということに変わりはありませんが、その度合いは家に帰れば少しは薄くなります。家では違う顔をしていることができるのです。そして、案外、家での自分のほうが自分らしいと言いましょうか、どこか好きでいられる一面があるのではないでしょうか。信仰生活においても、日曜日であろうが、週日であろうがキリスト者であることには変わりありません。でも、主の日、日曜日というのは礼拝のために主御自身が備えてくださった日ですから特別と言えば特別なのです。だからこそ、家に帰ったらどうするかというのが、問われると思うのです。日曜日のように愛する兄弟姉妹と礼拝をささげることも、共に交わることもできないかもしれない。人によっては、家族の中で自分だけがキリスト者です。家には家族もいない。一人暮らしだという人もたくさんいると思うのです。でもそこで、私はこのような習慣に日々生きている人間であるということを貫くのです。誰も見ていないかもしれません。しかし、少なくとも神様だけは私の歩みをご覧になってくださっている。そのことを喜びとして生きるのです。

 ダニエルはこの後、大臣たちの策略には陥り、捕らえられ、獅子の洞窟に投げ入れられることになります。ダレイオス王もこの時、初めて大臣たちの企てを知るのですが、もう一度決めた法律を変更することができない決まりになっていましたから、法律どおりダニエルを獅子の洞窟に投げ入れなければいけなくなりました。王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(17節)とダニエルに声を掛けますが、心配で食べることも眠ることもできません。夜が明けて、朝になりました。ダレイオスは恐る恐るダニエルに向かって呼び掛けるのです。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」(21節)するとダニエルが答えるのです。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」(22〜23節)

 この獅子から守られたという場面は、説教の最初に申しましたように、第6章においても非常に印象深い場面です。奇跡としか言いようがないような仕方で、神様がダニエルのいのちを守ってくださいました。この後、この計画を企てた大臣たちとその妻までもが今度は獅子の穴に放り込まれることになります。そして、今度はダレイオス王が、人々に向かって挨拶を書き送るのです。それは、ダニエルが信じる神をまことの神として礼拝するようにということです。「いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」(26〜28節)この王様の挨拶は単なる挨拶というよりも、法律のようなものであると言っていいでしょう。ダニエルは、大臣の陰謀が込められた法律、しかも王が一度認めれば、変更することのできない法律によって苦しみました。死の危機を覚えたのです。しかし、いくらこの世の法律が私ども信仰者の自由や行動を縛ろうとしても、縛ることはできないということが、ここでも明らかになっているのではないでしょうか。

 使徒パウロが牢獄にいた時、「わたしは…犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と言った人です(テモテの手紙二2章9節)。私は世の力によって捕らえられ、今牢獄にいるかもしれない。近いうちに殺されるかもしれない。しかし、神の言葉そのものを縛ることはできないというのです。だから、牢獄の中にあっても、主イエス・キリストのゆえにいつも喜ぼうと呼び掛け、また以前からしていたように、神を賛美し、祈り続けたのです。その賛美の歌声に他の囚人たちは驚き、聞き入っていたという場面も聖書には記されています(使徒言行録16章25節)。いつものように、神様から与えられた信仰に生きるということが、周りの者をも大きく変えてしまい、ついには人々を救いへと導くことがあるのです。

 さて、このダニエル書第6章の獅子の洞窟にダニエルが投げ込まれる場面は、しばしばイエス・キリストの光をとおして読まれてき場面でもあります。無罪だったダニエルが大臣たちの策略によって、罪人とされ、獅子の穴に投げ込まれました。主イエスも罪を犯されることはありませんでしたが、ユダヤ人の指導者であった長老、祭司長、律法学者たちによって、罪人として捕らえられ、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の法に従って裁きを受け、十字架につけられることになったのです。吠え猛る獅子がいる洞窟の深さはどれくらいだったのでしょうか。どれくらい闇に包まれていたのでしょうか。それは分かりませんけれども、洞窟の奥には死が待ち構えていたという事実だけは確かなことでした。ダニエルが獅子のいる洞窟に放り込まれたことは、主イエスが十字架に死に、そして葬られ、陰府に降る。そのことを表していると言えるのです。しかし、ダニエルと主イエスとで決定的な違いがあります。それは、主イエスは本当に十字架の死を死なれたということです。ダニエルのように死なずに助かったというのではないのです。罪なきお方が、この世の人々に、何よりも神によって裁かれ、呪われた死を死なれたのです。そして、死の闇の中に置かれたのです。

 しかし、父なる神は、主イエスを死の中から呼び起こしてくださいました。この復活を描く場面もまたダニエル書と福音書とではよく似ていると言われます。ダニエル書では、ダレイオス王が洞窟の側まで行って、ダニエルを心配して言うのです。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」一方福音書では、女性たちが主イエスの遺体が納められている墓に行きます。しかし、あるはずの墓の石の蓋が横に転がされており、主イエスはおられませんでした。代わりに、天使の声が響くのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイによる福音書28章5,6節)

 今日からの新しい週も、復活の主に押し出されて祝福の歩みを重ねていきます。それぞれが通う学校や職場や家庭など、遣わされた場所での歩みが始まります。そこは「いつものように」、キリストのものとされている自分を貫くことができない厳しい現実があるかもしれません。また教会生活では、特に今年はコロナ禍によって、わずかな時であったかもしれませんが、主の日ですら、教会に集うことができない痛みを多くの者が経験しました。改めて、いつもキリストの体である教会をとおして与えられる礼拝や交わりの恵みを深く心に留めたことでありましょう。

 また、今日は、多くの教会で宗教改革を記念して礼拝をささげているところも多いと思います。宗教改革というのは確かに教会の歴史の中では本当に大きな出来事です。しかし、ルターをはじめ、宗教改革者たちは何か特別なことをしようとしたのではなく、聖書が語るそのままの救いのあり方、教会のあり方に立ち帰ろうとしただけに過ぎません。宗教改革の伝統に生きる私どもも自らの原点、教会の原点に御言葉をとおして立ち帰り、キリストのものとされたいつもの自分をこれからも生きていきたいのです。お祈りをいたします。

 御子イエス・キリストによって、私どもは罪と滅びから救い出されました。もう自分のために生きるのではなく、私を救ってくださった神様のために生きる者へと変えられました。なお自分の古さに捕らわれ、自分の罪と弱さに苦しむこともありますが、しかし、そうであるがゆえに、私は神様を賛美し、祈ることなしには生きていくことのできない者であることを知ることができますように。また、今試練の中にあり、以前のように教会生活、信仰生活を続けていくことができないお一人お一人を顧みてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。