2020年10月11日「静かにしていなさい」

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静かにしていなさい

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 14章1節~31節

音声ファイル

聖書の言葉

1 主はモーセに仰せになった。2 「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。3するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。4 わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。5 民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」 6 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、7 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。8 主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、9 エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。10ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」15主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。29イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。出エジプト記 14章1節~31節

メッセージ

 私どもの歩みは一つの大きな物語に譬えることができます。「物語」と言いましても、おとぎ話のように人が作った架空の物語ではありません。神様がお造りになったこの世界という舞台で、神の栄光をあらわして生きる私たち人間の物語です。そして、罪によって本来の尊い生き方をすることができなくなった人間を、救い出そうとなさる神の救いの物語です。教会の大人たちは、教会の子どもたちに、あるいは、我が子に聖書の物語を幾度も語り聞かせることでしょう。聖書の御言葉そのものを語ることもあれば、絵本や紙芝居などを用いて聖書物語をお話することもあります。それは単に遠い昔にあったお話ということでも、昔こんな素晴らしい人物がいたという偉人伝のような話を語り聞かせるのでもないのです。もちろん聖書に記されている様々なストーリー自体に興味を持ってほしいという思いはあるでしょうけれども、それ以上に、「この聖書の物語、この神様の救いの物語にあなたも生きているのだ」という祝福を、子どもたちに知ってほしいのではないでしょうか。

 イエス・キリストが生まれる遥か前の旧約の時代、人々が後の世代の人たちに、何よりも我が子に語り伝えた物語がありました。旧約聖書にも数々の忘れがたい神様と人間の物語がありますが、中でも先程共に聞きました「出エジプト」の出来事は、神の民イスラエルにとりまして、忘れることができない大切な物語となりました。「これは昔話だ」と他人事のようなことを言ってはいられません。イスラエルの民は、いつも出エジプトの出来事を思い起こし、その恵みに立ち帰りました。その度に、彼らは自分が誰であるかを確認しました。そして、これから自分たちが神様の御前でどのように歩んでいけばよいのかを心に刻んだのです。いわば自分たちの原点とも言える物語、自分たちのすべてと言ってもいい物語がここにありました。それが出エジプトの出来事です。

 この第14章は、出エジプトの物語の中でも頂点とも言える場面です。数百年もの間、エジプトの地で奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は、ここで完全にエジプトの奴隷から解放されるのです。もうずいぶん前に、「十戒」という映画が流行ったことがありました。私が小学生の時、テレビで放映されていたのを見た記憶があります。聖書の物語がテレビで放送されていることをたいへん嬉しく思ったものですが、その十戒という映画の中でも、杖を持ったモーセが手を挙げると、激しい波が起こり、水が右と左に別れて壁ようになり、その真ん中に乾いた地が現われる。この場面はあまりにも有名です。しかしながら、「映画の中の話」として出エジプト記の御言葉を楽しむことはできるかもしれませんが、「これが私の生きる物語だ」と言う人は少ないのかもしれません。でも、聖書をとおして神様がお語りになるのは、「これはあなたの話でもある」ということです。「あなたのことがここで話されているのだ」ということです。その時に、私どもはエンターテイメントを見る時の楽しさとは違った、ある緊張した思いで神様の前にひざまずくのではないでしょうか。

 お読みいたしました第14章において、私どもの心に留まる言葉や場面はいくつもあります。しかし、やはり先程申しました場面、21〜22節がとりわけ御言葉を聞く者の心を捕らえます。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」実に劇的な場面です。多くの者が絵を描き、あるいは映像にしてみたい場面かもしれません。そして、誰もが神が神であられるというのは、こうことを言うのだと納得できるような大きな出来事がここに起こっています。この時、イスラエルの民の前には海が広がっていました。そして、後ろからはエジプトの王ファラオをはじめ、エジプトの軍隊が自分たちを捕らえに追い掛けてきていました。前にも進むことができない。後ろにも進むことができない。もうどこにも逃げることはできない。死と滅びの力が前と後ろから押し迫ってくる。やがて、自分たちは死の力によって板挟みされ、滅びるほかない。「絶体絶命」とはまさにこういうことを言うのでしょう。しかし、そこに神様が現れ、絶体絶命のピンチの中にあったイスラエルの民を救い出してくださいました。そのために奇跡を起こし、海を二つに分け、前に進むことができるように乾いた道を備えてくださいました。そして、後ろから追い掛けてきたエジプト兵は、再び元に戻った海の水に呑み込まれ、死んでしまったのです。

 しかしながら、このことは初めから神様の御計画の中にあったということです。イスラエルの民が困っていたから助けに来たという単純な話ではなく、一つ一つがあらかじめ神様の御計画の中にあったということです。2節を見ますと、神様はモーセにこうおっしゃっています。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。」神様はイスラエルの人々に「引き返すように」と命じられました。本来、イスラエルが進むべきルートは、ラメセスという所からスコトいう場所に向かうルートでした。分かりやすく申しますと、上から下へくだるルートです。そこはずっと荒れ野が広がる場所です。興味がある方は、あとで聖書の後ろに記されている地図を見ていただければと思いますが、要するにラメセスからスコトに行けば、海を渡ることなく目的地のシナイ半島という場所に着くことができました。そこには「シナイ山」と呼ばれる山があります。後にモーセが「十戒」を授かる場所です。でも、神様は「引き返せ」とおっしゃいました。降って来た道をもう一度引き返して、上にのぼって行けとおっしゃったのです。そこはバアル・ツェフォンと呼ばれる場所で、目の前には海が広がっています。「葦の海」「紅海」とも呼ばれます。当然、海を渡ることなどできませんから、目的地まで行くには遠回りをしなければいけなくなるのです。

 神様の御計画や御心というのは、時に私どもを困らせてしまうことがあります。どうしてこんな面倒なことを強いるのだろうか。どうしてこんなにたいへんなことを強いるのだろうかと思うことがあるのです。イスラエルの民は、この時はまだ気付いていなかったのですが、神様は明確な目的を持っておられました。3〜4節にこうあります。「するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」神様がイスラエルの民をわざわざ迂回させたことにはちゃんと意味がありました。それは追ってくるエジプトの王ファラオの心をかたくなにさせることでした。そして、敢えてイスラエルの民を追い掛けさせて、海の中に誘い込み、そのことによってファラオとエジプト全軍に勝利することでした。そして、そこで神様御自身の御栄光が現されるためだったのです。

 モーセとイスラエルの民は、神に命じられたとおり、バアル・ツェフォンに向かいました。一方、エジプトの王ファラオは、イスラエルの奴隷たちを解放したことをたいへん後悔をして、総力をあげてイスラエルの人たちを追い掛けたのです。神様はイスラエルの民だけではなく、ファラオの思いや行動をも御自分の計画の内に置いておられます。今こそ逃げ出したイスラエルの奴隷たちを捕まえるチャンスだとファラオは思ったことでしょう。しかし、これもすべて神様が勝利するための計画であり、神の栄光が現わされるものでしかなかったのです。このように、神様の御計画が一歩一歩、前に進んでいく中で、一番神様のことを知らなければいけないイスラエルの民が、神がなさったことに対して不平や不満を口にしたのです。8節に「イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが」とありました。「意気揚々」というのは人間の思いを表す言葉に思われるかもしれません。喜びと力強さに溢れている人間の姿を思い浮かべることができます。ただ、元のヘブライ語をそのまま直訳いたしますと、「高く上げられた手によって」となります。奴隷の苦しみから解放され、エジプトを脱出することができるという喜びに溢れていたからこそ、手を高々と上げることができたのでしょう。けれども、「神様がイスラエルの民の手を上げてくださった」「神様が奴隷から解放してくださった」と言ったほうが良い言葉なのです。神の御手によって、イスラエルの民はエジプトを出ることができました。神の偉大な救いの御業を経験したイスラエルの民は、本当に嬉しかったと思います。だから意気揚々と出て行ったのです。

 しかし、その道の途中で本来の道とは違う道へと迂回させられ、その結果、後ろを振り向くとエジプト軍が目の前まで迫って来ているのです。前に逃げようと思うものの、そこには海が広がっています。イスラエルの民は行き場を失ってしまいました。ここに神様の御計画があるなどとは、まだ知るはずもありませんから、どうすることもできません。自分たちはまたエジプトに連れ戻され、苦しい生活を強いられる。そこにはいのちも希望もないと思ったのでしょう。イスラエルの民は、神に向かって叫びます。そして、神様から遣わされた指導者であるモーセにもこう言うのです。11〜12節です。「また、モーセに言った。我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」このモーセに向かって叫んだ言葉は、「不平」や「不満」「嘆き」という言葉で括ることができるのかもしれませんが、本当はもっと激しい意味を持つ言葉だと思います。せっかくエジプトの奴隷から救い出され自由の身になったのに、なぜ、また元の苦しい生活に戻らないといけないのか。奴隷から解放されたということは、私たちにとってどのような意味を持つのか?何の意味もないではないか!ということです。エジプトを脱出できたのは、一瞬、私たちを喜ばせただけで、すぐに消えてしまう儚いものではないか。結局、神よ、あなたが与えてくださった救いというのも空しいものではないかということです。救いどころか、あなたは私たちに死をもたらそうとしている。だから、ここで死ぬくらいなら、ファラオのエジプトのもとで奴隷として仕え、生きていたほうがマシだと言うのです。これは神御自身とその救いの御業をすべて否定する言葉です。エジプトの奴隷のほうがいい、ファラオのほうがいいというのは、神様と比べてファラオのほうがいいということです。神よ、あなたが私たちの神であられるから、今、死の窮地に立たされている。もしファラオが、私たちの神であったならば苦しいことはあるかもしれないけれども、生きていくことができる。そっちのほうがマシだと言うのです。奴隷から解放してくださった神様に対して、失礼と言いましょうか、神様を侮辱するような言葉です。

 イスラエルの民はなぜ自分たちをエジプトから救い出してくださった神様に向かって不平、不満を口にしたのでしょうかおう。それは神様の御計画、御心が分かっていないことにありました。11節で、「一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」と言っています。今、イスラエルの民が置かれている状況で問わずにおれなかったことは、「一体、何をするためにこんなことをなさるのか?」ということでした。この出来事に意味があり、目的があるということが分かったならば、多少、苦しいことがあったとしても忍耐して、希望を持つことができるでしょう。でも、何の理由も目的も示されなければ、誰だって不安になります。まして、自分たちが困難な状況に追い込まれれば追い込まれるほど、不安が大きくなり、不平や不満に満たされることでしょう。そして、すべての責任を神様のせいにし、神様の存在さえも否定しようとするのです。

 私どももこの時のイスラエルの民とは状況は違うものの「絶体絶命」と呼ばれるピンチに陥ってしまうことが、人生において何度かあるのではないでしょうか。絶体絶命とまで言わなくでも、いつまでこの不安は続くのだろうか、いつになったらこの問題に解決が与えられるのだろうか。そのような思いに捕らわれ続けることがあります。なぜこんなことが?何のためにこんなことを?と、つい叫びたくなるものです。理由や目的を見出すことができなくなる時、どうしても不平、不満が募ります。その思いを一番ぶつけやすいのが、もしかしたら神様なのかもしれません。そして、こんな目に遭わすのは、「私を死なせなるめだ」と自分で勝手に意味を見出そうとします。そして、神の存在を否定します。しかし、出エジプト記をこの後、読み進めていけば明らかになることですが、決して御自分の民を死なせるために、神様は計画を立てておられるわけではないということです。

 モーセは、神様の思いを自分の言葉として、次のように語りました。13〜14節です。「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」「恐れてはならない」「落ち着きなさい」「静かにしていなさい」。これはどういう意味でしょうか。「あなたがたは神様に向かって何てことを言うのだ!」「騒ぐのをやめて、一旦、とにかく落ち着きなさい」ということなのでしょうか。自分たちの心を怒りで支配されないように、ちゃんとコントロールしなさいということなのでしょうか。そうではないと思います。「落ち着いて」というのは、「しっかり立ちなさい」という意味です。人間の心の状態を言っているのではなくて、しっかり立つことができないということに問題がありました。だから、自分が思ったとおりに行かないと、すぐに足がぐらつき倒れてしまうのです。ですから問題は、自分の脅かす敵であったり、病であったり、様々な試練というよりも、そのような困難な状況の中で、如何にしてあなたが立つのか。如何にしてそこで生きるのか。そのことがここで問われているということです。

 また、モーセは14節の最後で「静かにしていなさい」と言いました。「黙っていなさい」ということです。これも、「神様に対してそのような失礼なことを口にするな。じっと黙っていろ」といことではないのです。ですから、時に、失礼だと思えるような言葉で、神に訴えること、祈ることも許されると私は思うのです。もちろん、神様から叱られることもあるかもしれません。でも、神様は私どもが御前から逃げ出すのではなく、正面から「なぜですか?」とぶつかってくる信仰を待っておられると思います。その上で、「静かにしていなさい」とはどういうことなのでしょうか。文字どおり、黙り込んで何もしないということなのでしょうか。神様、私はもう何もしませんから、あとはお任せします。ご自由にどうぞと言って、すべてを放り出すことなのでそうか。そうではないと思います。「静かにしていなさい」というのは、何もしないことではないのです。「静かにする」ということを、「委ねる」と言い換えることができるかもしれませんが、「神様にお委ねします」と言う時、本当に私どもは何もしないのでしょうか。何も思わないのでしょうか。そんなことはないと思います。

 モーセが「静かにしていなさい」と言う前にこう言いました。「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。」恐れるな、しっかり立て、静かにしなさい、そのようにモーセが言ったその先にあるものは、「主の救いを見る」ということです。後ろから追い掛けてくるエジプト軍を見るのではないのです。神様はもう後ろを振り向く必要がないように、彼らを見ることがないようにしてくださるというのです。そして、そのために主が戦ってくださるのです。だから、あなたたちは静かにしていなさいと言うのです。「静かにする」ということ、この行為は、文字どおり静かにしていること、何もしないことではありません。むしろ動的なこと、実に積極的な行為、生き方なのです。そして、静かにしていると言う生き方は、主の救いを見るということと結び付きます。主は私どものために戦ってくださるのです。その救いの戦いを静かにして見ているように。ぼっーと眺めるのではなく、じっーと主の救いを見るようにというのです。

 モーセは神に命じられたとおりにイスラエルの民を出発させ、海の前まで連れて行きました。そして、これまで荒れ野の旅を導いてきた雲の柱が、この時もイスラエルの民とエジプト軍の間に入り、衝突することのないように一晩中守ってくれました。そして、モーセが杖を持った手を挙げると、海が二つに分かれ、水が左右に壁のようになり、そこに乾いた道ができました。エジプトの王ファラオも軍隊も後ろから追い掛けてきますが、丁度その時、神様がモーセに「海に向かって手を差し伸べるように」と命じます。そのようにすると、水は元に戻り、エジプトの全軍は呑み込まれ、一人残らず死んでしまいました。主がイスラエルの民のために戦い、そして勝利してくださったお陰で、死と滅びから救われました。水に呑み込まれることもなく、与えられたいのちの道をとおって、向こう岸に渡ることができたのです。

 30節にこのようにあります。「主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。」ここには二つの対称的な場面が描かれています。一つは、神によって救い出されたいのちに生きているイスラエルの民です。もう一つは、海の水に呑み込まれ、海辺で死んでいるエジプト人の姿です。そして、死んだ人間を見ているのは、神によって勝利したイスラエルの民です。いのちと死という二つのものがここに明確に描かれています。モーセは海を渡る前、イスラエルの民に「あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」と言いました。本当にそのとおりになりました。自分たちのいのちを脅かす存在はもう死んでいるのです。もう何も恐れることはありません。もう完全にエジプトの奴隷から解放されたのです。だから、あとはもう神が与えてくださった救いの恵みの中を真っ直ぐに生きるだけです。エジプトの奴隷からの解放は、自由をもたらし、その自由は神を礼拝し、賛美するための自由です。次の第15章では、自分たちを救ってくださった神を賛美する歌が記されています。この出エジプトの出来事は、旧約の民にとって忘れることのできない救いの出来事であり、この救いの物語が次から次へと語り伝えられてきました。この救いの神があなたの神として、今も生きて働いておられるということを伝えたのです。

 ところで、今日は出エジプト記と併せて、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙を読みました。第一コリント10章1節以下です。ここでパウロは、出エジプトの出来事に言及しながら、イスラエルの民が海を渡った出来事は、「洗礼」を受けるということと同じ出来事だと言うのです。たいへん興味深い解釈です。私どももまた洗礼を受けてキリストのものとされました。それこそ、あの時のイスラエルの民のように絶体絶命と思われるような中で、神に出会い、教会に導かれ、洗礼を受けたという人もいることでしょう。しかし、導かれ方はどうであれ、人は皆、神様の御計画を理解せず、それゆえに、生きる目的を完全に見失っていた存在でした。最後には、死んで墓に葬られるしかないと望みを失っていた者でした。

 しかし、イスラエルをエジプトの奴隷から救い出してくださった神が、やがて時が満ちた時、御子イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。そして、キリストの十字架と復活によって、私どもを罪と死から救い出してくださいました。主イエスの復活の奇跡は、海を渡る奇跡に遥かにまさる奇跡です。復活の主に結ばれている私どももまた、死の海を恐れることなく渡り切ることができ、永遠のいのちの祝福に生かされています。それは、すべて神様があらかじめ定めてくださった御計画であり、その御旨を貫くために、神御自身が私たちのために戦い、勝利してくださいました。もう自分たち脅かす存在はいなくなりました。もちろん、私どもの歩みには色んな不安がありますし、度々、試練の中に置かれることがあります。しかし、そこで静かにして、主が私どものために戦ってくださるその御業を見たいと思います。神は今も生きておられます。もう御自身の計画をストップされたというのではなく、今もなお、救いの完成に向かって前へと進めておられます。あの時のイエスラエルの民のように、神様のなさることをすべて理解できず、過ちを犯してしまうこともあるかもしれません。しかし、だからこそ、静かにして主の救いを見ることに集中したいと思います。

 罪と死から解き放たれた私どもに与えられている自由は、神様を礼拝し、栄光をあらわす自由です。イエス・キリストをとおして与えられた救いの出来事、十字架と復活の出来事は、私どもにとって、新しい出エジプトを意味します。私どもの人生において、決定的と言える節目の出来事をいつも思い起こし、そこに立ち帰り、そして人々に語り伝えるのです。私どもは週ごとに教会に集います。わずか7日という短い節目を幾度も刻みながら歩みを重ねます。ここで主の救いを見るのです。あるいは、主の救いの言葉を聞き、味わうと言ってもいいでしょう。私どもの取るに足りない小さな歩みが、神様の救いという大きな物語の中にしっかりと刻まれていきます。ここに私が生きる喜びの物語がある。この幸いを知りながら、信仰の旅路を共に続けていくのです。お祈りをいたします。

 救いの道を歩むことがゆるされ感謝いたします。信仰の歩みは決して平坦なものではありませんが、私たちの神であられるあなたがいつも先頭に立って、私たちのために戦っていてくださいます。いや既に、勝利の行進に連なる者として生かされていることを覚えることができますように。あなたの御心がこの地上において行われることを祈りながら、静かにあなたの救いを見続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン