2020年09月27日「幼子のように」

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幼子のように

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章15節~17節

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聖書の言葉

15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ルカによる福音書 18章15節~17節

メッセージ

 わずか3節だけの短い御言葉ですが、一度聞いたらずっと心に残り続けるような印象深い物語です。特に、主イエスが子どもたちを呼び寄せ、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃってくださった主のお姿に、心温まるような思いがいたします。また、それとは対象的に、例えば、最後の17節で弟子たち、つまり大人たちに向けて語られた言葉には、たいへん厳しい響きがあります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」はっきりと、「神の国に入ることができない」と断言なさるのです。子どもを招き、祝福してくださる主イエスのお姿に心惹かれながら、どうもそこで留まっているだけではいけないのではという思いがいたします。私どもが、子どものように神の国を受け入れるとはどういうことなのでしょうか。ここに救いが掛かっていると言ってもよいのです。また、福音書がここで光を当てています「子ども」という存在は、私どもにとって、あるいは、教会や親たちにとって、何を意味するのでしょうか。幾度でもこの御言葉に立ち帰って、神様に尋ねてみたくなる物語ではないかと思います。

 事の発端は、15節にありますように、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た」ことにありました。おそらく、お母さんが子どもを連れてやって来たのです。乳飲み子もいたとありますから、抱っこをされて主イエスのもとにやって来たのでしょう。目的は、主イエスに触れていただくためです。こういう風習は、よくあったことで、名高いラビ、つまり、先生のところに行って、我が子を祝福してもらったのだそうです。日本では、あまり誰かのもとを訪ね、祝福してもらうということはないかもしれません。その代わりに、「お宮参り」と言って、神社などに参拝することはよくあることだと思います。生まれたばかりの赤ちゃん、あるいは、小さな子どもが、何事もなく無事に大きく成長することができますようにと祈りをささげるのです。これは国や宗教に関係なく、親であるならば誰もが願うことではないかと思います。そして、そういう願いをかなえることは、親の力ではどうすることもできませんから、こういう時はやっぱり人間の力を遥かに越えた神様にお委ねする他ない。そう言って、神の祝福があるようにと祈ったり、神に仕える人たちに祈ってもらったりするのです。

 主イエスのもとに連れて来た親たちは、主イエスというお方がどういうお方であるか。そのことをどこまで知っていたのでしょうか。偉い先生に違いないといことは分かってはいたでしょうが、その先までは十分に分かっていなかったかもしれません。でも、それでもいいからイエスというお方のところに行って、我が子を祝福してもらいたかったのです。

 その様子を近くで見ていたのが弟子たちでした。「弟子たちは、これを見て叱った。」と15節の終わりにあります。子どもを主イエスのもとに連れて来た親たちを見て、腹立たしく思ったのです。理由はいくつかあったのではないかと言われています。一つは、先程申しました、主イエスについての理解がまったくと言っていいほどないということです。偉い先生くらいにしか考えていないのです。そういう偉い先生に触れていただいたら、何かご利益があると考えている。言わば、迷信的な信仰に過ぎませんでした。だから弟子たちは怒ったのです。もう一つは、主イエスはこの時、忙しくて、子どもたちに構っている時間はないのだということです。病人や悪霊に取り憑かれている人など、緊急を要する場合はまだしも、なぜ今、子どもの相手をしなければいけないのだと考えたのです。救われるのにも、優先順位というものがあるのだと弟子たちは考えていたかもしれません。そして、子どもというのは、当時社会的にも地位がある存在ではありませんでしたから、真っ先に救われる存在ではないと考えていたのでしょう。またもう一つは、この時、主イエスはエルサレムに向かって旅をしていたということです。エルサレムというのは、つまり、十字架を目の前にした緊迫感の中にあったということです。そのような時に、なぜ何も知らない大人たちが子どもを連れて来るのだ。そう思って腹が立ったのでしょう。弟子たちは、親たちを叱ったのです。

 主イエスはこの一連おやりとりをすべてご覧になっていました。16節に、「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。」とあります。「しかし」と言って、弟子たちの行為をやめさせようとします。同じ物語がマルコによる福音書にも記されていますが、そこを見ると、「しかし、イエスはこれを見て憤り」(マルコによる福音書10章14節)とあります。「憤る」という激しい言葉遣いがなされています。ちょっとイラっとしたというのではなく、心の底から湧き上がってくるような怒りを覚えられたというのです。ルカは言葉においては主イエスの怒りを記しませんが、思いとしてはマルコのように主の弟子たちに対する怒りを表したかったのだと思います。決して、弟子たちの行動を認めておられるわけではないからです。

 子どもを呼び寄せた主イエスはこうおっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」「神の国は子どもたちのようなものなのである」と告げてくださいました。誤解していただきたくないのは、子どもは神の国に入れて、大人の人は入ることはできない、そう言って、子どもと大人の間に線を引いて、区別しているのではないということです。しかし、その上で、主イエスは子どもたちに心を向けておられるのです。「子ども」という存在の中に、神の国を理解し、信じ、受け入れるうえでとても大事なことがあるのだというのです。

 「子ども」というのは如何なる存在なのでしょうか。よく言われるのは、「罪」がないから神の国に入れられるのだということです。子どもが小さければ、小さいほど、確かに大人に比べて、罪は少ないかもしれません。しかし、それでも子どもには罪はありますし、たとえ生まれたばかりの赤ちゃんであっても、罪を負って生まれてくる。それが聖書の人間理解です。でも、それは言い換えれば、幼子であっても、乳飲み子であってもイエス・キリストの救いを必要としているということです。弟子たちは、「十字架を前にしたイエス様の歩みを遮るようなことをするな」と親たちに怒りました。しかし、キリストの十字架は、小さな子どものための十字架でもあるということです。それも、ちょっと時間が空いたから、子どもであるあなたがたも、ついでに救ってあげようというのではなく、むしろ、小さくて弱いからこそ、真っ先に救わなければいけない存在でもあるということです。

 自分は本当に神から救っていただかなければ生きていくことはできない存在であるということ。私どもはなかなかそこのことが分かりません。大人になり、知恵や力を知れば知るほど、たいへんなことがあっても、罪に苦しむことがあっても、自分の力で何とかしようとします。神様に自分の罪を含めすべてを委ねようとはせず、肩肘を張って、頑張ろうとします。そのようにして、自分の存在をどこまでも高めようとするのではないでしょうか。でも、そのように生きれば生きるほど、実は神様の御心から離れた生き方になってしまうのです。

 今日、お読みした物語の前には、ファリサイ派の人と徴税人の譬えが記されていました(ルカによる福音書18章9〜14節)。二人とも神殿で祈りをささげます。ファリサイ派の人は、感謝の祈りをささげます。しかし、それは、周りにいる色んな罪人たちの姿を並べ、自分はこういう人間でないことを感謝するという内容でした。他人を裁き、他人の上に立ちながらでしか、自分の存在を高めることができませんでした。一方で、徴税人は、目を天に上げることなく、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。神に顔向けすることなど自分にはできない。でも、神の憐れみがなければ、自分は生きていくことはできない。この葛藤の中で、「わたしを憐れんでください」と祈りをささげ、自分の神様にお委ねしました。神の憐れみの中でしか、自分は存在することができない、生きていくことができないと信じていたからです。信じていたというより、信じるしかもう望みはないと思っていたのでしょう。譬え話をお語りになった後、主イエスは、「義とされたのはこの徴税人である」とおっしゃいました。そして最後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃいました。主イエスが求めておられるのは、「へりくだる者」になるということです。それは、単なる謙遜ということではなく、神様の憐れみなしには自分は自分として存在することができない。だから、「私をあなたにお委ねします」という、そのような祈りが伴う信仰を主は求めておられます。そして、本日の聖書箇所に登場する子どもたちの姿の中に、神の憐れみに委ねるという信仰の大切な姿があるというのです。子どもが親に委ねるように、私どもも神にお委ねしていくのです。まして、乳飲み子であるならば、色々と頭で考えてやっぱり親に委ねようというのではなくて、本能的に自分は親に養われなければ生きていくことはできないことを知っているのだと思います。

 また、委ねるということは、与えられたものを喜んで感謝して受け取るということでもあります。17節の「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」とありますように、子どもは受け入れること、受け取ることが得意です。誰かから何かをプレゼントしてもらったら、心から喜んで受け取ってくれます。その受け取る能力、受容力というのは大人の人間よりも遥かに勝るものがあるかもしれません。もちろん、子どもであっても、親があげたものを何でも喜んで受け取ってくれるわけではないでしょう。やっぱり嫌がることも時にあるのだと思います。そして、大きくなり、年齢を重ねれば重ねるほど、親は自分のことを分かってくれない。だから、欲しいものは自分で買うと言って、自分の好きなものばかりを集めようとします。大人になるということは、そのような悲しい一面があるのも事実でしょう。でも、誰もが幼い頃はいただいたものを喜んでいたに違いありません。どうして子どもはいただいたものを疑うことなく、感謝して受け取ることができるのでしょうか。それは、子どもが親を信頼しているからです。見ず知らずの人なら、多少は警戒するかもしれませんが、自分の親からいただくものならば、喜んで受け入れるのです。親がくれるものは、いつも、自分にとって良いものばかりだという信頼と愛があるからです。

 また、子どもたちの中には、「乳飲み子」もいたとあります。乳飲み子というのは、それこそ与えられたものを、受け取ることしかできない存在です。与えられたものを受け取ることによって、すくすくと成長していくのです。そういう意味で、乳飲み子というのは真っ直ぐな心で、受け取る能力というのは素晴らしいものがあります。主イエスは、私どもに対して、この幼子のように、乳飲み子のように、素直な心で神の国の祝福を受け入れてほしいと願っておられます。もちろんそれは、既に大人である者たちが、子どもになる、赤ちゃんになるということではありません。「神の国を受け入れる」というのは、神様の愛の御支配を受け入れるということです。神様の愛というものをどういうところで、私どもは覚えるのでしょうか。それは、何よりも神様の前にひざまずいて、礼拝をささげている時だと思うのです。神様の支配が、キリストと共に既にここに来ているのだという福音を聖書の御言葉をとおして聞き、その恵みを受け取ります。「アッバ、父よ」と神様に信頼しながら、呼び掛けます。そこで、自分を見失うことなく、神様の子どもとされている幸いを覚えるのです。

 おそらく、ほとんどの教会は、大人の数のほうが圧倒的に多いことでしょう。でも、たとえ少なかったとしても、教会に幼い子どもたちが与えられていることは本当に感謝なことです。もちろん、子どもたちの姿を見て「可愛いなあ」とか、無邪気に子ども同士で遊んでいる姿を見て、心が和むような思いになることも事実ですが、教会に子どもたちが与えられているということには、もう少し違った意味、つまり、信仰的な意味合いというものがあると思うのです。主イエスはおっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主イエスは子どもと大人との間に線引きをしているのではありません。神様は大人の人たちに対しても、神の国に入っていただきたいと願っておられます。そのために、悔い改めて福音を信じてほしいのです。その時に、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と言って、子どもたちを人々に示してくださいました。今、教会の礼拝堂に、子どもたちが集められているということは、主イエスが今も同じように、子どもたちを私どもの前に示し続けてくださっているということでもあります。主は、教会に集う子どもたちを指し示しながら、「神の国はこのような者たちのものである」「子どものように神の国を受け入れてほしい」と語り掛けてくださるのです。主イエスというお方は、時にそのようなことをなさいます。ある時、「野に咲く花を見るように、空を飛ぶ鳥を見るように」と言って(マタイによる福音書6章25〜34節)、弟子たちの目線を花や鳥に向けさせたことがありました。そこにどんなことがあっても、思い煩うことなく生きることができる大切な鍵があるからです。同じように、主イエスは私どもの目線を子どもたちに向けるように、おっしゃっているのではないでしょうか。そこにキリストの福音に生きるうえで大切なメッセージが込められているからです。それが神にすべてをお委ねすることであり、神様からいただく救いの恵みを素直に受け取って、成長していくということです。

 本日の礼拝では、この後、藤井なおちゃんの幼児洗礼式を執り行います。幼子を祝福する主イエスの物語は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されています。ただ、今日のこのルカだけが、「乳飲み子」という言葉を入れています。マタイとマルコは、「子供」と記しているだけです。「子供」というのは、だいたい幼子から12歳くらいまでの子どもを指す言葉です。しかし、「乳飲み子」というのは、生まれたばかりの赤ちゃんということになります。おそらくルカは、「乳飲み子」と記すことによって、親から与えられたものを素直に受け取る存在ということを強調したかったのだと思います。そして、もう一つは、「幼児洗礼」というのを明らかに意識していたのではないかと言われます。

 幼児洗礼というは、例えば、赤ちゃんが誓約事項に対して、「神と教会の前に謹んで誓約いたします」と、自分の口で誓約するわけではありません。そういう意味で、幼児洗礼というのは本人がよく分からないところで、もちろんキリストの福音の内容についてまったく理解していないところで行われます。「それはあまりにも本人にとって可哀想過ぎる」と言うのか、「いや、乳飲み子に対しても、洗礼を授けることに意味がある」とするのか、教派によって意見は別れます。私どもはここにしか救いはない。本当にそういう思いで、神様に我が子をお委ねし、洗礼を授けていただきます。

 そして、誓約するのは親ですから、改めて親の信仰が問われるということでもあるでしょう。幼児洗礼というありがたいお守りをいただいたから、あとはお好きにどうぞと言って、我が子を育てるのではありません。幼児洗礼式の中で3つのことを誓約します。どれも大事なことですが、最後の3つ目は、要するに子どもに対する信仰教育をちゃんとするようにということが求められます。その最初に、「あなたがたは、今、あなたがたの子を全く神にささげますか。」という一文があります。神に「ささげる」というというのは、何でもそうですが、自分のものでなくなるということです。すべては神様のものだからです。よく考えるとこのことは、たいへん厳しく聞こえるかもしれません。「生まれたばかりの子どもは、あなたがた親のものではない。神様のものだ。」などと言われると、親としては複雑な思いになる人もいるかもしれません。でも、真実の救い、真実の慰めというのは、すべてが神様のものとされているということ。そこにしかないということを、キリスト者であるならば知っているのでしょうか。「あなたは我が子を神様におささげしますか」という問いに対して、それこそ、親が子どものようになって素直に神様にお委ねしていく。そのような信仰の姿勢を改めて思わされています。そして、神様におささげした子どもを、もう一度、神様から受け取り直して、祈りつつ育てていくのです。

 ずいぶん前になりますが、スイスのカール・バルトという神学者がいました。20世紀最大の神学者として評価されている人でもあります。晩年、死を間近にしたバルトは病床で、賛美歌というよりも、子守歌のような信仰の歌をいつも口ずさんでいたと言います。

喜んでお眠り                                   今日は楽しかったよね                               愛する神さまがお前をこころにかけてくださったからだよ               だからこんなにたくさんの喜びを与えてくださったんだよ

 バルトは何冊にも渡る膨大な書物を書いた人です。それだけ神について深く考え、神について深く問うた人でもあるでしょう。しかし、死を前にして、楽しそうに子どもの時に歌ったうたを歌い続けたというのです。子どものように神の国を受け入れるということ、ここに救いに道に入る最初の一歩があるだけでなく、信仰生活を終わりまで歩み抜くことができる大切な秘訣があるのです。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」この主の招きは、子どもたちだけではなく、大人たちにも、すべての者に向けて語られている救いへの招きです。キリストにおいて示された神様の愛を真っ直ぐに受け取ることができるように。そして、受け取るだけではなく、その神様の恵みを子どもたちや次の世代の人たちに真っ直ぐに届けることができるように、祈りつつ、教会を共に建て上げていきましょう。お祈りをいたします。

 乳飲み子も、子どもも、大人もこうして主の日ごとに集まり、共に礼拝をささげることができ感謝いたします。神様の愛を誰も妨げることはできません。私たち自身の中に妨げとなるようなものがありましたら、それを取り除いてくださり、悔い改めつつ、もう一度新しい心で救いの恵みを受け取り直すことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。