2023年07月23日「まことの祈り」

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まことの祈り

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章9節~14節

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聖書の言葉

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書 18章9節~14節

メッセージ

 神を信じる生き方は祈る生活と一つです。では祈りとは何でしょうか。あるいは、こう言い換えてもいいでしょう。私どもは祈っている時に何をしているのかということです。祈りというのは、神様に聞いていただきたいこと、適えていただきたいことを言葉にしている。そのように言うことができるかもしれません。でももっと深いところで何をしているのかということです。それは、神を真っ直ぐ見つめて生きているということです。もう少し丁寧に申しますならば、私が神様を見るよりも先に、私のことを愛と赦しに満ちたまなざしで見つめていてくださる神様を見るということです。私どもは幼い頃からよく「よそ見をしないように」と、よく親や先生から注意されることがあります。見るべきものを見ずにボッーとしていたり、違うものを見ていたならば、危険な目に遭うということもあるでしょう。でも、より良く言うならば、祈りによって見るべきものをちゃんと見るときに、私どもの生きる姿勢、信仰の姿勢がちゃんと整えられていくという面があるのです。「祈り」と言われますと、「何をどう祈るのか」という、祈りの内容そのものに心が奪われがちですが、流暢に祈れたらいいとか、拙い言葉だとダメだとか、そういうことではなくて、いつも私どもが祈る時、心が神様のほうに向いているかどうか。神様を見ているかどうか。その信仰の姿勢を確認することが大切です。何を祈るかというのは、例えば公同の礼拝など、公の場ではが大事になってくるでしょう。けれども、そのような場でありましても、プライベートな場でありましても、神様という見つめるべきお方をしっかりと見つめて祈るならば、もう余計な言葉などいらないとさえ思うのです。

 先ほど、ルカによる福音書第18章の御言葉を聞きました。お読みしませんでしたが、第18章では最初に「祈り」について主イエスがお語りになった譬え話が2つ収められています。その2番目の譬え話が今日の箇所、9節以下です。ここには2人の人の祈りの言葉、あるいは、祈りの姿勢というものが記されています。10節にあるように、一人は「ファリサイ派」と呼ばれる人、もう一人は「徴税人」と呼ばれる人です。はじめに登場するのは「ファリサイ派」と呼ばれる人です。「律法学者」と言われることもありますが、人々の信仰を導くリーダー的な役割を果たしていました。ですから、とても真面目な人です。信仰熱心な人です。御言葉に堅く立ち、絶えず祈り、そして、十分な献げ物をしていました。この世的なことに流されることなく、神への信仰を貫こうとしました。また、物資的にもたいへん貧しい生活をしていた人も多かったと言われています。利益を貪るような生活をしなかったのです。要するに、人々から非難されるようなことは一切しなかったということです。

 元々、「ファリサイ」という言葉は、「区別する」という意味を持ちます。だから、神の聖さに立ち、汚れたものを嫌いました。でもそれは言い方を変えると、「私とあなたは違うのだ。お前たちのような不信仰で、汚れた者どもと一緒にしてくれるな!」ということでもあるでしょう。だから、この時、神殿に来たファリサイ派の人の祈りはこういう祈りだったと言うのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」祈りの種類で言えば、どのような祈りになるのでしょうか。「感謝します」と言っていますから、感謝の祈りなのでしょう。でもどこか違和感を覚えます。人と比べて、しかも明らかに罪人と呼ばれる人たちと自分を比べながら、「あぁ、自分はあんな連中と一緒でなくてよかった。」そう言っているに過ぎないのです。この時、あとで詳しく申しますが、罪人の代表と言われていた「徴税人」もファリサイ派の目に入りました。自分と比べるのに格好の相手がやって来た。「神よ、あのような救いようのない徴税人でないことを感謝します」と言うのです。さらに、念を押すように、私はこういうことをちゃんとしています。断食も献金もちゃんとしていますと言って、神様の前に自分を誇ろうとするのです。

 ファリサイ派のこの人の祈りを聞いて、私どもはどう思うでしょうか。あまり聖書について詳しくないという方も、教会に来て間もない方も、どうもこれは神を信じる人の祈りではないのではないか?そのように思われる方が多いのではないでしょうか。ファリサイ派というのは、立派な人なのかもしれないけれども、なぜかこの人の祈りの中には、美しさというものがないのです。真面目な人かもしれませんが、どこか惨めで、醜いのです。そして、不思議なことは、この人は惨めだと思いながら、この私もまたファリサイ派的な信仰、あるいはファリサイ派的な心というものを持っていることに気づかされます。譬え話が始まる前に、9節で、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」とありました。まさに、これはファリサイ派のことだと多くの人が思うのです。では、私どもとここに出てくるファリサイ派は関係ないのでしょうか。私はファリサイ派ほど真面目ではないし…、ということなのでしょうか。

 ファリサイ派と主イエスとの関係は、ほとんどと言っていいくらい、聖書の中では敵対関係、対立関係として描かれます。ここでも主イエスは明らかに、ファリサイ派の祈り、その祈りの中にある信仰というものを痛烈に批判しておられます。それに対して、ファリサイ派の人たちは、主イエスを憎み、ついには、殺意を強く抱き、何としてもイエスを十字架につけたいと願ったのです。私どもは本当にファリサイ派的な信仰、あるいは罪というものがないのでしょうか。信仰を告白するというのは、「私はイエスを十字架につけました」と自らの罪を告白することでもあります。その時に、ここに出てくるファリサイ派の罪というのは、私の罪とは何の関係もありませんと言い切ることができるのでしょうか。

 初めに、「信仰とは、祈ることであり、神を見つめること」だと申しました。でもファリサイ派のこの人は本当に神のみを見つめていたのでしょうか。誰よりも真面目に神を信じる生活を大事にしてきた人ですから、よそ見をするはずはないのです。ここでも神殿で祈っているのです。でも、祈りながら何をしているのかということです。果たして、祈りながら神を見つめていたのでしょうか。実はそうではありませんでした。祈りながら何をしているかと言うと、それは、他人を見ているということです。神を見ていないのです。祈りながら神を見ないことなどあり得るのでしょうか。しかも、ファリサイ派ともあろう真面目な人が。それがあるのだと聖書は語ります。

最も信仰者らしい人が、最も信仰者らしい祈りをささげている、その時に、神を見ていないことがあるのだというのです。聖書が語る罪というのは、そういう恐ろしい一面を持っているというのです。このファリサイ派の人は、祈りながら、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、徴税人を見ています。断食や献金のことも、この時代ちゃんと断食や献金をしない人たちがいたのです。そういう人たちのことを見つめなら、私はちゃんとしていますと誇らしげに語るのです。要するに、このファリサイ派の人は何をしているかと言うと、人と自分を比べているということです。そして、他人を見下しているということです。そして、見下して喜んでいるのです。当然、そういうところで、神を見つめることなどできないのです。

 「神のみを見つめよう」と言うのですけれども、なかなかそれができない弱さ、罪というものがあります。なぜでしょうか。信仰の熱心・努力が足りないからでしょうか。問題は、他人の目、周りからの目が気になって、それで惑わされることが多いからではないでしょうか。私が神様を見つめるよりも、神様が私をしっかり見つめていてくださるから、もう人の目とか、自分の評価とか気にせず、安心して生きていこうと思うのです。思いたいのです。でもやっぱり人と比べて生きないと安心できないという根強い罪というのが自分の中にあるのです。やっぱり、人というのは周りから評価されたい、褒められたいのだと思います。酷いことを言われて傷つくのはもう御免なのです。でも実際はどうでしょうか。キリスト者になる前も、洗礼を受けた後も、絶えず周りからの視線を浴びなければいけない。そこで嫌な評価を受けなければいけない。その現実は残ったままです。それはとても辛いことです。だから、少しでも自分を良くしたいし、よく見せたいと思うのです。どうすればいいでしょうか。難しいことではありません。人一倍、忍耐して、一所懸命努力する必要などありません。誰かから褒められなくても、誰でもすぐにでも自分を高めることができます。それが、「他人を見下す」ということです。人を見下せば、見下すほど、自分を高めることができるのです。私はあんな人たちではない…。そう言って、神様に感謝することさえできるのです。「正しい人間だとうぬぼれて」とありました。他の日本語訳では「自任して」とあります。自ら任せると書いて「自任」。ここで言う自任というのは、自分は正しい人間だということをよく自覚しているということです。他人を見下さないと、自分は正しい人間になどなれないということをよく自負しているということです。そんなこと人として分かり切ったことではないかというのです。私どもはどうでしょうか。そのとおりだと思うでしょうか。それとも、「いや人間にはもっと違う生き方があるのだ」と言って、主イエスのことを思い起こすのでしょうか。

 また、11節にはファリサイ派の人が「心の中で祈った」とありました。これも翻訳のことで恐縮ですが、「心の中」というのは、「ひとりでこう祈った」とか「自分自身に向かって祈った」と訳すことができます。祈りというのは、そもそも一人で祈るものではありません。祈りには、祈りを聞いてくださる相手がいなければ意味がないということです。ひとりで祈ること、自分自身に向かって祈るということ、それは、もはや祈りではなく、ただの独り言に過ぎないのです。このファリサイ派の人はひとりぼっちだ。この人は孤独だ。そういう人間の姿が、この祈りの中に現われ出てきているではないかと、主イエスはおっしゃるのです。このファリサイ派の人は、その神様の救いの恵みを見ようともせず、周りにいる者を、そして自分自身を見つめ続けたのです。宗教改革者のマルティン・ルターは、罪の中にある人間の姿について、「自分自身の中に曲がり込んでいる」と言っています。自分自身の中にグッーと曲がり込んで、とぐろを巻くようにして、じっとそこにうずくまっているというのです。本当は、そこから外に出て、神様に向かって祈らなければいけないのに、それができず、ずっと自分の心にぶつぶつと独り言を言い続けているのです。ファリサイ派の人は、神様と向き合って、神様との交わりの中で、自分の姿を見出だすことができませんでした。そうではなく、人と比べ、人を見下さなければ、自分が何者であるかということがはっきりと分かりませんでした。でも、人を見下すところで見えてくる本当の自分とはいったい何者なのでしょうか。本当にそういう自分を喜んで生きることができるのでしょうか。

 さて、このファリサイ派の人と対極にあったと言ってもいいのが、13節に登場する「徴税人」と呼ばれる人でした。当時ユダヤを支配していた憎きローマに収めなければいけない税金を集めていたのが徴税人です。しかもこの徴税人はローマ人ではなく、ユダヤ人が引き受けていました。当然、同胞からは「裏切り者」と言われます。それだけでなく、徴税人は必要以上の額を人々から徴収し、その差額を自分の懐に入れていました。ますます人々から嫌われる対象となりました。いつも冷たい視線が注がれ、「罪人の中の罪人」と言われていました。「罪人」と言えば、誰もが徴税人のことを真っ先に思い浮かべたのです。

 その徴税人が神殿に来て、神に祈りをささげました。13節「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」「遠く立って」というのは、徴税人があまりの罪深さのゆえに、先に登場したファリサイ派のように神殿の中にまで入っていくことが許されなかったということでしょう。また、当時は、目を開き、両手を天に向けて広げるようにして、そして、立ったまま祈っていたと言われます。ファリサイ派の人の祈りがまさにそのような姿でありました。しかし、徴税人はまったく違いました。「私はもう神の前に近づくこともできないような存在であり、それゆえに目を天に上げて、神を見つめて祈ることなど許されるはずはありません。神様の前に立つ資格も、祈る資格も私にないことが分かっています。でも、神よ、あなたに祈りたいのです。あなたに罪を赦していただきたいのです。あなたが赦してくださらなければ、私の罪は赦されません。だから祈らせてください…。」「神様、罪人のわたしを憐れんでください。…」これは、祈りは祈りですが、形が整った美しい祈りではありません。ほとんど嘆き、悲鳴に近いようなものではないかと思います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

 以前、祈りについて記されているある本の中に記されている言葉が心に残りました。このようなことが記されていました。「心にゆとりがあると、祈れるように思う。案外、われわれの祈りは、そういうものになってしまってはいないか。」その人はそのように言うのです。私どもはなぜ祈ることができるのか。それはあなたの心にゆとりがあるからではないかと。たいへん鋭い指摘だと思います。多少なりとも自分に自信があると、堂々と胸を張って、「神様、ありがとうございます」「今日も礼拝を守れて感謝します」「今週も一週間お守りください」というふうに、いくらでも祈りの言葉がすらすらと出てくるものです。このことは自分が誰かに傷付けられた時でさえ同じことが言えるのです。明らかに正しいのは自分だと思えば、何時間でも嘆くことができるのです。嘆きの祈りをささげることができるのです。

 けれども、罪を神様に告白するということは、心にゆとりや余裕をもってできるということではありません。余裕などないくらいに自分の罪であえぎ苦しんでいるとも言えますし、ファリサイ派の人のように誰かと自分を比べて、「あぁ、自分も罪人だけど、あの人よりもましだ」とか「あなたがたも罪人なのだから、私と一緒に神様の前に頭を下げるように」などというようなことをあれこれ心の中で考えて祈りをささげることでも、もちろんないのです。罪というのは、誰かと比べて、はじめて見えてくるものではないのです。「あの人に比べて自分には良いところがあるから、私はこれでも善い人間だ」とか、「あの人に比べて自分は悪い人間だから、私は罪深い人間だ」というのではないのです。もう周りを見る心のゆとりがないほどに、心打ち砕かれたところで、罪というものがはじめて見えてくるのだと思います。それは神様と一対一で向かい合うところで初めて見えてくるものです。神様と向き合う時に、神様の前に立つ時に、初めて罪の恐ろしさや惨めさというものに気づかされるのです。

 徴税人は、自分では祈る資格もないし、神を見つめることさえもできない。そう言いながら、本当は神様を真っ直ぐに見つめ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って、真実な祈りをささげました。もちろん、徴税人自身が「私の祈りこそ、まことの祈りである」などと思っていたわけではありません。心から自分は神の前に立ち、祈る資格などないと思っていました。でも主イエスはおっしゃってくださいます。「あなたの祈りこそ、まことの祈りであり、わたしが見出したいと願っていた祈りなのだ。」他の誰でもない、主イエスただおひとりがそのような慰めに満ちた言葉を語ってくださいます。

 そして、主は人々におっしゃいました。14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」「義とされる」というのは、救われるということですが、もう少し丁寧に申しますと、神様と私との関係が正しいものとされるという意味です。そのために、神様のほうですべて手を打ってくださいました。神様ご自身が私どもとの関係を整え直してくださいました。

 主イエスは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りに耳を傾けてくださるお方です。祈りと言っても、色んな祈りがありますけれども、私どもにとりまして、これほど切実な祈りは他にないのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」主は、罪の赦しを求め、憐れみを心から願うこの祈りを聞いてくださり、あるいは、その祈る姿をご覧になりながら、「罪の赦しをあなたに与えるために、わたしは十字架で死ぬのだ。」そのように答えてくださるのです。神を知り、神を見つめることが大事だと知りながら、依然として神以外のものに目を奪われてしまう私どもです。他人と比べて、「あんな人は…」と言ってみたり、「〜さんに比べて私は…」と卑屈になってしまう私どもです。でもそのような私どもを愛のまなざしで見つめていてくださる主イエスが傍らにおられます。私どもの罪を赦し、義としてくださる神は、十字架の主イエスただお一人です。このお方に見守られているからこそ、私どもも神に祈り、赦しを願い、救われた喜びを神に感謝し、ほめたたえる者とされます。そのために今朝もここに集められたのです。

 本日はルカによる福音書の御言葉に先立って、詩編第130編の御言葉を朗読していただきました。詩編の中でも、「悔い改めの詩編」と呼ばれるものの一つです。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」という祈り、あるいは、「叫び」とも言っていいような言葉から始まります。「深い淵の底」というのは、「深い深み」と言ったらよいでしょうか、要するに、ちょっとした深みではないということです。別のところでは、「水の底」「海の底」とも訳されます。一度、深みに沈み込んだら、這い上がることができません。いや、這い上がるための足がかりさえもないのです。まさに絶望とも言える状況ですが、驚くのは、詩編の詩人がその深い淵の底から神を呼んでいるということです。祈っているということです。そして、この詩編の詩人が立っている深い深みというのは、罪の深み、罪の底です。神から見放された場所です。神に呪われた場所に立っています。でもその神はこの人を見捨ててはいません。神様は罪を裁く神ですが、それ以上に、罪を赦す神として、この罪人をも心に留め、愛をもって見守っていてくださいます。赦しの御言葉を与えていてくださいます。だから祈ることができます。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と神を呼ぶことができます。

 そして、私どもが信じていることは、この罪という深い淵の底にイエス・キリストが立っていてくださるということです。深い淵の底には、罪にまみれた自分がいます。自分が一番見たくない自分、一番惨めで醜い自分がいます。そんな自分とは会いたくもありません。でも、そこでキリストはあなたと出会ってくださいます。私どもキリスト者が知っているのは、周りからすればおかしなことかもしれませんが、醜い自分を見た時にこそ、神に出会うことができるということです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る私どもの姿をご覧になっておられる主イエスは、私ども一緒に、私ども以上に深い底に立ち、十字架の上で神に呪われて死んでくださいました。私どもが深い淵の底で絶望しなくて済むためです。もう余裕などない、もうダメだというところでも、なお「神様」と言って、神様のみを見つめて歩むことができるためです。神様はキリストをとおして、すべての者を招いておられます。ファリサイ派も徴税人もどちらも罪人です。私どもと同じ罪人です。しかし、同時にキリストによって救われなければいけない罪人なのです。その私どもの祈りを神様は待っておられます。私どもはキリストのゆえに、深い淵の底でも、余裕などないようなところでも、祈りをささげ、神を見つめて生きる者とされました。イエス・キリストが私どもを見つめ、私どもの祈りを支えていてくださいます。お祈りをいたします。

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。神様、罪人のわたしを憐れんでください。神様を見つめ、神様を信じて生きているにもかかわらず、救いの恵みを忘れてしまったかのような生き方をしてしまう私どもを憐れんでください。自分に頼るのではなく、神様により頼み、神様を真っ直ぐ見つめて生きる時に見えてくる自由と喜びの道を進んでいくことができますように。そのために祈る者へと日々新たに造り変えてください。自らの罪を覚え、深く落ち込む時にこそ、大胆に祈る者とならしめてください。主の十字架による救いの確信にいつも立つことができますように、どうかお支えください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。