2023年07月16日「わたしたちはこのように生きる」

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わたしたちはこのように生きる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章14節~30節

音声ファイル

聖書の言葉

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」マタイによる福音書 25章14節~30節

メッセージ

 私たちはどのように生きるべきなのか?若い人だけに限らず、誰もが自分自身でいつも問うている問いではないかと思います。もう大人になり、いわゆる安定した生き方を手にした方でありましても、大きな出来事を経験したり、大きな節目を迎える時、改めて自分の生き方を見直し、新しく歩み始めるという人も多いのではないでしょうか。また、高齢者を迎えた人も、「もう先のことを色々と考えても仕方がない」と言って、諦めるのではなく、地上の最後の日々をどう過ごすのか?というとても大切な問いや課題といったものと向き合っている方も多くおられると思います。では、私どもキリスト者はどうでしょうか。もう自分たちは主イエスによって罪と死から救っていただいた。この世で思い悩むことも多いけれども、根本的な問題からは解き放たれているのだから、無理をせず、自分のペースを大切にしながら生きていこう。つまり、キリスト者は改めて生きる意味を問う必要などないということなのでしょうか。

 もちろん、キリスト者というのは、キリストの救いの勝利にあずかっているがゆえに、ゆとり・余裕を持って生きることができる者たちだと思います。しかしだからと言って、「どう生きるべきか」を問わないキリスト者は一人もいないのではないかと思います。そしてその時に、どう生きたらよいのかということについて、自分の頭の中だけで一人考えるのではなくて、神様は私にどのように生きるべきかを聖書をとおして教えてくださっているのだということを思い出します。だから、「今日も御言葉に聞こう」と言って、耳を傾けるのです。その時に、扉が開かれ、その奥から飛び出して来た御言葉の真理が私どもを捕らえ、生きるべき方向や担うべき課題を示し、祝福のうちにその道へと押し出してくれるのです。

 

 今朝はマタイによる福音書第25章14節以下の御言葉に聞きました。主イエスが十字架にかけられる前、最後に語りになった譬え話です。「タラントンの譬え」と呼ばれる物語です。この「タラントン」という言葉ですが、英語の「タレント」の元になった言葉です。テレビなどに出る人を芸能人や俳優の人たちを「タレント」と呼ぶことがあります。表舞台で活躍することができるほどに、才能に恵まれた人であり、惜しみなく努力した人でもあるでしょう。タラントンというのはそのように、才能・能力・賜物を意味する言葉になりました。でも元々、タラントンというのはお金の単位であり、同時にそれは「重さ」を意味する言葉でした。昔はお金を秤に乗せて測っていたのでしょう。あるいは、私どもの生活を考える時、お金というものはある重さを持ったものではないかと思います。お金を軽く扱うことなどできないのです。

 ただ、少しくどいようですが、タラントンという言葉は、さらに元を辿ると「神の宝」「神からの使命・課題」という意味があります。そこから才能や賜物という意味になり、今はどちらかというとそのような意味で用いられることがあるかもしれません。しかし、今朝主イエスがお語りになった御言葉を理解するうえで、「タラントン」という言葉が、実は「神様の宝」、あるいは、「神様から与えられた使命・課題」という意味で捉えたほうが内容をよく理解できるのではないかと思います。才能や賜物の話でもありますが、結局神様のことを考えないと、本当に宝の持ち腐れになってしまうからです。神があなたに宝をお与えになっている。その宝をどう生かして最後まで生きていくのか。宝、使命を与えてくださった神様とどのように歩んでいくのか。このことが私どもに与えられている人生の課題であります。

 「ある人が旅行に出かけるとき」という言葉から譬え話は始まります。初めから断っておきますが、譬え話に登場する「ある人」、つまり僕の「主人」というのは、神様のことです。「僕」というのは私たちのことです。主人が、神様が旅行に出かけた。つまり、神様が不在であるということです。神様が不在・留守をしているなどということはあり得ないことですが、今は私どもの目に見えない。今は天におられるという意味で、「不在」と言うことが許されるかもしれません。それで旅行に出かけられる前に、主人は僕たちのそれぞれの力に応じて五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けたというのです。タラントンという額が、今で言うとどのくらいの価値になるのでしょうか。タラントンというのは、約6千日分の賃金だと言われます。例えば、分かりやすく一日1万円の賃金とすると、一番少ない一タラントン預かった僕でも約6千万円もの額を預かったということになります。さすがにそこまでいかなくても、数千万円ものお金を預かったということです。家が一件建つような大金です。二タラントン、五タラントンというのも、それぞれ1億円とか3億円近いお金ということです。三人の僕は額こそ違いましたが、それぞれ驚くような額を預かることになりました。

 神様にとっては、1億円も3億円も実はたいしたお金ではないというような余計なことをここで考える必要はありません。普通の感覚からしても、それだけの額を他人に預けるというのは、それだけその人を信頼しているからという証拠でしょう。「僕」というのは「奴隷」とも訳せますし、この譬え話のように神様と私どもの関係を主人と奴隷の関係に譬える場面はたくさんあります。ただその時、私どもの主人であり、私どもの神でいてくださるお方は、ご自分の僕である私どもを苦しめたり、自由を奪ったりというようなお方ではないということです。私たちの主人でいてくださるお方はどのようなお方なのか?と聞かれたら、それは私どもを信頼し、私どもを愛してくださるお方であるということです。あるいは、あなたのことを信じていてくださる方、そのように言い換えてもいいでしょう。何があってもあなたを信じておられるお方がいるということです。あの人なんか信じられない、自分さえも信じられないというところで、ただお一人あなたを信じている方がおられるのだ。そのお方が、今、ご自分の宝とも言えるようなタラントンをそれぞれの僕にあずけてくださいました。神様の存在、神様の重さが預けられたそれぞれのタラントンに込められていると言ってもいいのです。

 そして、問題はこのタラントンを、つまり、私どものまことの主人である神様から与えられた使命や課題は何であり、それをどのように担って生きるのかということです。五タラントン、二タラントン預かった者は、それぞれ商売をし、それぞれ五タラントンずつ、二タラントンずつ儲けたのです。主イエスはここで主イエスは金儲けや投資の話をしておられるのではありません。でも、主人から預かったタラントンを用いて、どう生きるのかということは、例外なくすべての人に問われていることです。ところで、タラントンを預かった3人のうち、一タラントン預かった者だけは先の二人とは違う行動を取りました。18節にありますように、「出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」というのです。昔は、いわゆる金庫のようなものがありませんでしたら、大切なものを土の中に隠すということがあったそうです。

 さて、かなりの日が経ってから、主人が帰って来て、清算を始めたというのです。主人が返って来る。これは何を意味するのでしょうか。不在だったお方、目に見えないお方が、はっきりしとした形でここにおられるということ。これは終わりの日の出来事を意味します。マタイによる福音書の第25章にはタラントンの譬え話には「十人のおとめの譬え話」が記されています。終わりの日に再び来てくださる主イエスを待つ者たちの姿、信仰の姿勢というものが記されています。今朝の御言葉の前にも後にも、十字架を前にした主イエスは、心砕くようにして終わりの日の出来事、救いが完成する日の出来事をお語りになりました。私どもの生き方というのは、今いるところが一つの基準と言いましょうか、出発点になる。そしてここから終わり・ゴールを目指す。そのように考えることもできますが、主がお語りになったように、終わりから今をどう見つめるかということも極めて重要な視点になってきます。終わりからというのは、個々の人生の終わりである「死」のこともそうですが、それだけでなく、「終わりの日」「神様の救いが完成する日」、その日を中心に据えて自分の歩みを見つめ直す。新しく生き始めてみる。このことも聖書が教える大切な視点であるということです。主の日毎に、こうして神様の御前に集まって礼拝を捧げているのもまた、終わりの日、神様の前に立つ備えをいつもしているということです。

 終わりの日、私どもは神様の前に立つ時が来ます。そこで、それぞれどのように生きてきたのかが問われるのです。どのように生きてきたかというのは、「自分はこういうことを勉強して」「こういう仕事や奉仕をして」と言うこともできますが、要するに、神から与えられたタラントンをどう用いて生きたのかということです。五タラントン、二タラントン預かった者は、主人の前に進み出ます。「進み出る」というのは、「これだけ儲けましたよ!すごいでしょ!」といことではありません。明らかに二人の僕は喜んでいます。主人に感謝しています。「ご主人様、あなたは私を愛し、信頼してくださり、驚くべき宝を与えてくださいました。それだけでなく自由に用いることを許してくださいました。ご主人様、あなたが与えてくださった賜物に心から感謝し、忠実に用いる時、これまた溢れるばかりの恵みをさらに与えられました。ご覧ください。その与えられた豊かな恵みがこれなのです。ご主人様、本当にあなたは素晴らしいお方です!」そのように喜びを表しています。そして、主人もまた五タラントン、二タラントン預けたそれぞれの僕に対して、このように言いました。21節、23節、同じ言葉ですが、こうあります。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」主人も、つまり神様も、私と一緒に喜ぼうと言って、それぞれの僕をご自分の喜びの中に招いてくださいました。ある人は、この喜びへの招きは、終わりの日に開かれる喜びの祝宴への招きではないかと言いました。そのとおりであると私も思います。

 ただ問題は皆さんもお気づきのとおり、最後の一タラントンを預かった僕でした。タラントンを用いることなく、土の中にすべて隠していた僕です。この僕も主人の前に進み出る点においては他の二人と同じですが、彼はこう言うのです。24〜25節「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』」この僕はここで何を言っているのでしょうか。ここで何をしているのでしょうか。それは、自分の主人であるそのお方について、どのように理解し、どのように思っているかということを自分の口で明らかにしているということです。そもそも、主人に対する感謝や喜びの言葉、あるいは、愛の言葉はここには出てきません。このように言うのです。ご主人様について、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方。」ご主人は厳しいというのですけれども、例えばどんなところが厳しいかと言うと、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる」と言うのです。要するに、「ご主人様、あなたは私たち僕にばかり働かせて、あなた自身は何もしない。そして、収穫の時期になると与えられた実りを全部持っていく。私たちには何もくれない」そのように私のご主人様は酷い方、厳しい方だと言うのです。

 だから、他の僕のように与えられタラントンを用いて商売をし、もし失敗などでもしたら、自分の身がどうなるか分からないと恐れたのでしょう。事実、25節でも「恐ろしくなって」とあります。僕にとって、主人はどうも恐ろしく厳しいお方であったようです。普通土の中に宝を埋めるのはそれが大事だからそうするのです。この僕も土に一タラントンを埋めました。でもこの僕は大切だからそうしたというのではなく、主人が怖からったら隠しただけに過ぎないのです。主人から預かった一タラントンがどれだけ価値があり、大切なものであるのか。そのことさえも気づいていませんでした。何とも思っていなかったのです。何でこんなもの私に預けるのだ、ただの重荷に過ぎないではないか。使命を担うとか課題を背負うなどというようなプレッシャーを与えないでほしい、そう思っていたのかもしれません。はっきり言って、この僕は主人を愛していませんでした。主人を信頼していなかったのです。

 そして、この主人というのは神様のことです。この僕はまことの主人である神様について、たいへんな誤解をしていました。いや、神様のことが全然分かっていなかったのです。主人のもとにいながら、自分がどれだけ神様から信頼され、どれだけ愛されているかを知りませんでした。私どもはどうでしょうか。神様のことを知っているのでしょうか。神様のことを知っているつもりにはなっていないでしょうか。それも正しく、ちゃんと神様のことを知っているでしょうか。そう問われると、ドキッとすることはたくさんあります。でもここで言われているのは、聖書知識のテストで100点を採るということではなくて、神様を愛し、信頼しているかということです。私どもの生き方も、最後に問われることも、このことに尽きると言ってもいいのです。けれども、一タラントン預かった僕は恐れに心を支配されてしまいました。

 この僕に対して、主人は「怠け者の悪い僕!」とお怒りになり、外の暗闇に追い出してしまったというのです。何とも後味がわるい譬え話ではないか。多くの人がそう感じるのではないでしょうか。そして、この主イエスの譬え話を聞きながら、もう一度、五タラントン、二タラントン、一タラントンずつ預けられた僕の姿を思い浮かべます。そして、私どもの多くは最後の一タラントンの僕に自分を重ね合わせるのではないでしょうか。どうしてかと言うと、どう見ても自分は才能ある人間だとは思えない。失敗や挫折ばかり、失敗を恐れ思い切ったことも、勇気ある行動も取れないことが多いからです。それに比べて、「周りの人はなぜあんなに素晴らしい力を持っているのか。本当にうらやましい限りだ。」そう言って、周りを妬んだり、恨んだりすることはよくあることです。そういう時に、神様が、1節にあるように「それぞれの力に応じて」、五タラントン、二タラントン、一タラントンずつ与えられたなどという言葉を聞くと、「結局わるいのは神様ではないか。神様が私たち一人一人を偏った目で見ておられるではないか。5とか2とか1とか数字で、それぞれを評価し、差別しておられる。どうせ、俺はできないからなのだろう。神様は平等なお方でも何でもないではないか。納得できない。」という話になります。結局、ここには神様に対する不平・不満しか出てこないのです。与えられたタラントンをまったく生かし切れていないのです。そして、そういう者たちは、つまり、私は最後には外に追い出されてしまう。そのようなことを言われたら、どうしたらいいのだろうかを問わずにはおれません。

 でも神様は本当に私どもを差別するようなお方なのでしょうか。1節の「それぞれの力に応じて」という言葉も、何か神様が私たちの価値を数値化し、あるいは値段をつけ、それぞれの価値を図っているのでしょうか。そんなはずはないのです。むしろ数字にこだわり、人間の価値さえも数字の中に閉じ込めようとしているのは最後の僕のほうでありました。一タラントンも預けてくださった主人を、つまり、神様を信頼しないからこそ、数字に捕らわれてしまい、自分を見失いました。生きる自信を失いました。だから、一タラントンを土の中に隠す行為は、神様の信頼を裏切る行為です。神様を自分の人生から無きものとしているのです。でもその時に、自分も見失うのです。生きる自信、生きる勇気さえを失うのです。

 けれどもそれで人生を終わっていいはずはありません。誰もが自信を持って、胸を張って堂々と生きたいのです。自分のことを喜び、何よりも神様の前に喜んで進み出たいのです。神様が願っておられるのもそのことです。神様は「主人と一緒に喜んでくれ」と言って、ご自分の喜びの中に招き入れ、そこに何としてでも引きずり込もうとしています。その時に、恐れや厳しさやまして裁きによって、本当に喜びは生まれるのでしょうか。生まれるはずなどありません。神様がそのことをよくご存知です。「お前は信頼に値する」と言ってくださるほどに愛してくださる愛を拒み、神から与えられたものに対して不平を言い、周りの人間を見ては喜んだり悲しんだりしている。そういう人間をご覧になった時に、神はそのような人間に対する怒りや裁きということよりも、どうしてもそのような人間を救い出し、神を神として正しく知り、そこに与えられる恵みの賜物によって喜んで生きることができるように願ってくださるお方です。そして、救いが実現するために具合的に働いてくださいました。怒りつつ、悲しみつつ、しかし、明確な目的をもって、今この譬え話をお語りくださっている主イエス・キリストを遣わしてくださいました。

 私どものいのちの価値が如何ほどのものなのか。私どもは自分勝手に測っていますけれども、でも主イエスは十字架の上で私どものいのちの重さを測ってくださいました。それは、神の御子が十字架で死ななければいけないほどに重く、尊いものであるということです。神様が与えてくださったタラントンの恵みに生きることができない人間の悲しみを、主イエスは愛をもって担ってくださり、神様の愛の中へ、神様の喜びの中へ招いてくださいます。そのために主イエスがまさに忠実なまことの僕として、十字架の道を歩み抜いてくださいました。私どもが神から与えられたものによって、感謝し、生きることができるように新しく造り変えてくださったのです。

 そのように、私どもにタラントンを与えてくださる神様は、イエス・キリストを私どもに与えてくださった神様です。その神様が、1節で「それぞれの力に応じて」、タラントンを僕たちに預けたと記されていました。この「それぞれの力に応じて」という言葉を否定的に捉える必要などまったくありません。むしろ「それぞれの力に応じて」というのは恵みに満ちた言葉です。それだけ私ども一人一人のことを神様は丁寧にご覧になっておられるということです。そして、「力に応じて」というのですから、絶対に自分の手に負えないような有り余るほどの力は決して与えられなということです。タラントンは神様から与えられた「使命」であり「課題」です。あまりにも重すぎる使命が全員に同じだけ与えられたらどうなるのでしょうか。誰一人としてタラントンを生かし切れなくて終わってしまいます。

 またこういうこともあるでしょう。それは自分に与えられている使命が小さすぎるのではないか。なぜ私がこんなつまらないことに時間を取られるのだと思うこともあるかもしれません。そこまでたいへんな働きではないかもしれません。ちょっとしたことだからあまり疲れることもない。しかしその分、喜びも生き甲斐もあまり感じられないということがあるかもしれませんし、そこで僻む思いに捕らわれ、「何であいつだけあんな大きな仕事を任せられて、自分だけこんなつまらないことのために時間を費やさないといけないのか。」そういう話にもなってしまいます。ですから、神様が自分に与えてくださるタラントンというのは大きすぎても小さすぎてもいけないのです。結局もったいない生き方をして終わってしまうからです。そうしたら、ご主人に怒られてしまうからと言って、愚かなことを皆がしてしまうことになります。こんな悲しいことはありません。何のために主イエスが十字架についてくださったかという話になってしまいます。だから、「それぞれの力に応じて」というのは、先ほど申しましたこととも重なりますが、自分の身の丈に合っているということでしょう。ちょうどぴったりなのです。周りに合わせるために爪先立ちをし、背伸びやジャンプしたりして、結局疲れ果ててしまうということではありません。反対に身を屈めてしんどい姿勢を取らなくていいのです。しっかりと立つべきところに、両足をつけて立つことができるのです。無理をしたらい、卑屈になったりすることなく、「あぁ、自分は本当にこのことのために神様からいのちを与えられたのだ」と言って、神様に感謝することができる者とされるのです。

 ところで、私どもは「タラントン」という言葉を聞き、自分に与えられた使命や課題、才能や能力とは具体的には何を指すのだろうか?そのことを考えざるを得ません。聖書は、「あなたのタラントンはこれだよ」とか「あなたはこの学校に行き、この仕事をしなさい」と具体的なことを教えてくれているわけではないのです。主イエスご自身もそのことについては言及しておられません。ですから、教会の若い人たちだけでではありませんが、賜物とか使命ということを言われても、具体的にどうしたらいいのか?何をしたらいいのか?分からなくなることがあります。でもある人は、主イエスから具体的なことを言われていなくても、私どもはもう「どう生きるべきか」ということを迷うことなく見出すことができるのではないかと言っています。いや、それでも私にはまだ分からないとおっしゃる方があるかもしれません。もっとはっきり、なすべき働きであったり、奉仕を示してくれたら、安心してそれに専念できるのにと思うのです。

 その時には、もう一度、十字架の主イエスを思い起こしたいのです。日毎に主の十字架の前に立ち帰るのです。ここに私どもの具体的な生き方が示されているからです。神の愛が主イエスの十字架に示されました。この神の愛は、私どもに向けられたものです。つまり、自分ではなく他者に向けられたものです。私どもを罪から救うために、主イエスは十字架の死に至るまで忠実に歩まれ、神の愛があなたがたに注がれているのだということを明らかにしてくださいました。そして、この主の十字架の愛によって救われ、神様からのタラントンをいただいている私どもの生き方も、自分のことばかりでなく、他者のこと、つまり、隣人を愛する生き方につながっていくのではないでしょうか。生きる意味を見出したいと願っているのは自分一人だけではないのです。自分のことで精一杯だと思って落ち込んでいた時に、近くで同じように傷ついている者たちを見ることがあります。そして、この人を助け支えることが、実は私の課せられた使命ではないだろうか。そういうことにふと気づかされることが実際にあるのです。生きる意味とか生き甲斐とか、将来の夢とか言う時に、どうしても自分の生き甲斐とか自分の夢というふうに自分のことばかり考えてしまいます。でも、キリストをとおして与えられたいのちというのは、自分一人のことで一杯一杯になってしまうような小さなものではなく、もっと大きなもの、もっと豊かなものなのです。神様のために与えられたタラントンを用いることはもちろんのこと、隣人のために用い、献げることによって、私どものいのちはますます輝きを増すのです。そのことを絶えず心に留めるべきです。

 そもそも、この譬え話は、「天の国はまた次のようにたとえられる」という言葉から始まっていました。「天の国」というのは、他の福音書では「神の国」と訳されます。「神の愛のご支配」のことです。イエス・キリストの到来によって、この地上においても神の支配がここにあるということが明らかになりました。主イエスが再び地上に来られる時、神の御国は完成し、まったき喜びの中に包まれるのです。地上にいる今は、その途上ですが、主はご自分の体である教会を建ててくださいました。あなたを愛し、信頼しておられる神が今も生きておられる。ここに来たら、生ける神と出会い、神の愛に満たされる場所がある。それがキリストの教会だということです。だから私どもは週ごとにここに集い、神を礼拝します。礼拝でしていることは、神を知ることです。「神を知る」というのはとても重要なことです。それも神を正しく知ることです。なぜなら土の中に一タラントン隠してしまった僕も主人である神様についてたいへんな誤解をしていたからです。だから、私どもも絶えず、神様が愛をもってご支配してくださるこの場所で、神を知り続けます。神について学び続けます。宗教改革者ジャン・カルヴァンという人も、信仰告白を控えた若者のために書いた「ジュネーブ教会信仰問答」と呼ばれるその最初で、人生の目的を問いました。人間の最上の幸福を問いました。いずれも、神を知ることだと言いました。私どももここで、礼拝を中心に、神様について知らなかったことを初めて知り、よく知っていると思っていた事柄についてもさらに深く学ぶという幸いな経験を重ねていきます。

 神様から与えられたタラントン、使命や課題に生きるならば必ず豊かな実りが与えられます。主イエスの譬え話の中で、与えられたタラントンを積極的に用いて失敗した人の話は一切出てきません。それぞれ5タラントン、2タラントンずつ与えられたのです。私どもは、神様のために生きよう!隣人のために生きよう!そう願いつつも、いくらでも失敗するということがあります。計画どおりにいかないこともあります。でもそれは与えられたタラントンを無駄遣いしているのではありません。自分からも、周りからも、「それは失敗だ」と責められるかもしれませんが、神様の目から見れば、なお忠実な僕としてやり直すことができるのです。そして、終わりの日、神様の前に立つ時に、「忠実な良い僕だ。よくやった」とお褒めの言葉をいただくに値する生き方なのだ。永遠の価値を持つ生き方なのだというのです。そして、そのように「自分を失敗した」と落ち込んでいる私どもを励まし、その労をねぎらい、もう一度立ち直らせてくださる神様の愛の言葉を私どもは生涯にわたって聞き続けます。そこでもう一度、神を知って、立ち直るのです。もう一度、神様から与えられたタラントンに感謝をして、それを用いるために、新しい歩みを始めるのです。

 私ども一人一人に対して、またそれぞれの力に応じて、神様からタラントンが与えられています。賜物・使命が与えられていない人は誰一人としていないのです。私の働きをとおして、私たち教会の働きをとおして、神様の愛のご支配がここにあることを証し務めにあずかることがゆるされているということ。これは本当に幸いなことです。この神の幸いの中に私どもは招かれているのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたがどれほど私どもを愛し、信頼していてくださるのか。それはキリストを与えてくださるほどであったということを、いつも知ることができますように。神様との関係を大切にしながら、与えられたタラントンのことをいつも心に留め、感謝して用いてくことができますように。人の目には大きく見えたり、小さく見えることもあるかもしれませんが、そのことに心奪われるのではなく、小さくても大きくても、神様のお役に立てることがどれほど素晴らしいことであるのか。そのこといつも礼拝の中で私どもに示してくださり、神様に励まされた日々の歩み、教会の働きに仕えることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン