2023年07月02日「走り抜こう」

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走り抜こう

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 12章1節~3節

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聖書の言葉

1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。ヘブライ人への手紙 12章1節~3節

メッセージ

 先ほどヘブライ人への手紙の御言葉を聞きました。手紙の著者である伝道者は、「競走」とか「走り抜こう」という言葉で教会員を励ましています。私どもの信仰の歩みが、競走に譬えられているのです。この時代からローマやギリシアではマラソンをはじめ、スポーツ競技というのは人々にとって身近なものであり、人気があったのでしょう。それで、ヘブライ人への手紙の著者や他にも使徒パウロなどは「走る」ことと「信仰生活」を重ね合わせて語ったのです。走ると言っても、100メートル、200メートルといった短距離ではなくて、マラソンのような長距離のことが念頭にあるのではないかと言われています。「忍耐」とか「耐え忍ぶ」という言葉が何度も使われているからかもしれません。また、1節の終わりにある「走り抜こう」という呼びかけは、「走り続けよう」ということです。わずか10秒、20秒で終わりというのではなくて、長い時間をかけて何十キロ、あるいはそれ以上、走り続けようではないかということになります。このことを人生に当てはめるならば、死ぬまで、生涯走り続けようではないかということです。走る人の姿というのは、短距離にしろ、長距離にしろ、どこか見ていて格好いいものがあります。感動さえ覚えることがあるのです。「ただ走っているだけ」と言ったら、怒られるかもしれませんが、でも特別何か格好いい技を披露するわけではないのです。走るというのは、歩くことの延長線上にあると言えばそうかもしれません。でも、走ることをとことん極める人の姿を見る時、たいへん励まされる思いがします。私も学生の時、6年ほど陸上競技をしていましたから、走ることの面白さやたいへんさといったものを多少は知っているつもりです。走るという単純なことですけれども、本当に奥が深いのです。それに、すべてのスポーツの基礎になるのが、走るということでもあります。

 走ることに譬えられる信仰生活もまた、人の目からすれば素晴らしいものに違いないのです。周りから見れば、キリスト者というのは、変わった人たちに見えるかもしれません。だから、この手紙が書かれた時代の人たちが迫害に遭っていたとも言えるのです。けれども、「イエスを主」と信じる信仰に生き続けること、マラソンのようにゴールまで、人生の最後まで、神様を信じる信仰に生き続け、そのことを喜びとする人間の姿というのは、他では見ることができない輝きがあるに違いないのです。それは特別、このキリスト者は立派な人だったということではないのです。どのキリスト者の中にもある神の輝き、神の栄光が、自分自身だけではなく、周りをも照らし出しているのです。だから、キリスト者の生き方にはおかしな生き方ではなく、誰もが「自分もこのように生きたい」という魅力ある生き方そのものなのです。

 ところで、走り抜くということですが、実際に、長い距離を走ったことのある人たちは、その辛さや苦しさというものをよく知っているのではないかと思います。もう大人になった人も、子どもや学生時代、体育の授業やマラソン大会などでたくさん走らされた。運動が好きでもないのに、暑い中、寒い中、何キロも走らせれたことをよく覚えているのではないでしょうか。そして、長距離というのは、走っている途中で色んなことを考えてしまうものです。「もう走るのをやめようか」とか、「いや、そんなことは言ってはいけない。せめてあの建物まで頑張って走り抜こう」とか、「どうしても足や脇腹の痛みに耐えることができない、どうしよう」とか。一方で、「やっと自分のペースをつかめた」とか、「呼吸が整った」といって安心する人もいるでしょう。また、走りながら自分の立ち位置、つまり、順位を確認して、一喜一憂したり、別の作戦を練ったりと、本当に色んなことを考えるものです。私どもの人生、私どもの信仰の歩みもたいへん似ているのではないかと思います。今年2023年も半分が終わりました。一年の「折り返し地点」を過ぎたと言ってもいいでしょう。「もう半分まで来た」「ここまでは順調だ」「よし!後半も頑張るぞ!」そのように言う人もいれば、「ゴールまであと半分も残っているのか」「ちゃんとゴールできるかどうか体力に不安がある」。そのように言う人もいるのではないでしょうか。この半年を振り返っても、色んなことが起こった歩みでありましたし、残りの半年も色んなこと、予期せぬことがたくさん起こるに違いないのです。その度に様々なことを考えさせられ、これからも考えることになるでしょう。

 今朝の御言葉に耳を傾ける中で感じるのは、走り抜くことの厳しさ、難しさです。私どもは自分の体験として、走ることの苦しさを知っているからこそ、信仰生活において同じようなことが強いられるならば、到底最後まで走り続け、ゴールに到達できないと思ってしまうのです。走るよりもゆっくり歩くほうがいいではないかと思うのです。事実、「歩む」という表現で、信仰生活を語っている聖書の箇所はたくさんあるからです。さらに色んなことを考えさせられます。年齢的に自分は高齢だからというのではなく、若くても、心や魂において弱さや渇きを覚えるということがあるのです。だから、自分はもう走ることなどできない。そう思ってしまいます。立ち上がることさえできない。だから、座り込んでずっと休んでいたいと思うようになるのです。やっぱり走ることはしんどいから、せめて歩かせてください。自分のペースで行かせてくださいと言う人もいるでしょう。伝道者であり、この手紙の著者であった人物も、信仰的な意味で、走り抜くことのたいへんさをよく知っていたに違いありません。走っている姿は格好いいから、自分たちも真似ようというのではないのです。そんなことは言っていられないのです。迫害の中で、伝道することの厳しさをいつも味わっていたことでありましょう。

 けれども、「信仰のレース」「信仰のマラソン」と言う時に、大事なことの一つは、これは自分一人だけのレースではないということです。だから、競走とは言うものの、実は優勝も2位も3位もないのです。勝利があるとすれば、それは最後まで走り抜くことであり、しかも信仰の仲間たちと一緒にゴールをすることなのです。だから、1節にもこう記されています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」。「こういうわけで」というのは、第11章に記されている事柄です。アブラハムやモーセなど旧約聖書に登場してくる信仰者の名前が列挙されているわけですが、彼らが、新約の時代に生きる人たちの証人として私どもを取り囲んでいるというのです。実際に信仰に生き抜き、信仰を走り抜いた証人たちがあなたがたを今取り囲んでいる。そして、実は今も一緒にあなたがたと走っているのだというのです。「証人の群れ」とありますが、これは「証人の雲」という意味です。空に浮かぶ雲のように、私どもを取り囲み、包み込んでいるのです。一緒に走り、あなたがたを励ましているというのです。そして、あとで詳しく申しますけれども、それらの証人の中で最も際立っているお方こそ、主イエス・キリストなのです。

このように神の歴史を生きた証人たちと一緒に、そして、今共に生きる信仰の仲間たちと一緒に、そして主イエスと一緒に、救いの完成という目標を目指して走り続けます。走るのはゴールに到達するためです。一方で、3節にはこのようにもありました。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」と言っています。手紙の著者は、この手紙を受け取ったローマの教会が元気を失い、疲れ果てている現実を知っていました。それはもう走れなくなっている、道に倒れ込んでいるということでしょう。迫害が厳しかったのかもしれません。死の恐怖の虜になってしまったのかもしれません。しかし、そうであるからこそ不思議なのは、疲れ果てている者たちや死の陰に怯える者たちに、「さあ走ろう!」「最後まで走り続けよう!」と呼びかけているということです。ある意味、滅茶苦茶な呼びかけです。「今はしんどいから休みなさい」と言うのではなく、「さあ一緒に走り抜こうではないか」と促すのです。私どもは何かそのような精神論だけで、再び立ち上がり、走り出すことなどできないとつい思ってしまいます。では、いったい、気力を失い疲れ果てている者たちが、どうしたら、もう一度喜んで走り出すことができるのでしょうか。それも、疲れ果てることなく、最後まで走り続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。手紙の著者の願い、その願いの奥にある神様の思いはたいへんシンプルなもので、それは皆に元気になってほしいということです。だから、皆の心が弱り、疲れ果てることのないように願っておられます。でも、そのために、走り抜こうというのです。本当に不思議な言葉です。でも、実に魅力に溢れた神の言葉ではないないかと思います。神様からしか聞くことができない福音がここに響いているのです。

 ではどうしたら疲れ果てることなく、走り抜くことできるのかということです。普通、走ることだけでなく、他のスポーツもそうですが、試合やレースの前には準備というものが必要です。レースに向けた体づくりであったり、体調を整えたり、食生活に気をつかったりというふうに。また、試合で身に着けるユニフォームやシューズなどにも細心の注意を払います。身軽なもの、安全なものを身に着けると思うのです。では、信仰において走るという時、何に気をつけたらいいのでしょうか。信仰のレースを走り抜くための心構えとは何でしょうか。1節に「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」とありました。あらゆる重荷や罪が信仰生活を邪魔するというのは、よく分かるような気がします。信仰生活のペースが乱れたり、心が重くなるということをよく経験するからです。絡みつくというのは、裾が長すぎて足に絡みつくということです。普通、そんな動きにくい格好で走る人はいないのです。気づかないうちにおかしな格好、動きにくい格好をして、信仰生活を続けてはいないかということです。でも、信仰に生きるというのは、本当はもっと身軽に生きることなのだということです。それが信仰に生きる者の恵みなのだというのです。

 また、2節の最初にはこうあります。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。走る時、何を見つめて走っているかということが、ここで問われています。キリスト者は主イエスを見つめて走ります。私どもはどうでしょうか。先ほど、重荷であるとか罪ということが言われていましたが、罪というのは見つめるべきお方を見ずに、違うものに目が向いてしまうことです。目が違うものに向くというのは、心がそっちに向いてしまうということでもあります。主イエス以外のものを見、それに心奪われる時、私どもは簡単に罪に陥ります。主イエスではなく、自分を苦しめる重荷ばかりに心奪われる時、私どもはすぐに思い煩ってしまいます。だから、主イエスを見つめながら走ろうと呼びかけます。少しイメージを膨らませて申しますならば、私の前を行く主イエスの背中を見つめて走るということです。自分が主の前に立って、自分中心に走ろうとするならば、必ず主を見失い、気づいたら神様から遠く離れたところにいるということがあるのです。だから、主の後ろに立って、主を見つめて最後まで走り抜くのです。

 

 2節では、主イエスのことについて、「信仰の創始者また完成者」であるお方というふうに説明を加えています。「創始者」という言葉ですが、第2章では「救いの創始者」という言い方がなされています。「創始者」とは色んな言葉に訳すことができます。「最初の人」とか「開拓者」とか「導き手」という意味にもなるのです。主イエスが私どもの信仰の歩みを始めてくださいました。私どもの神を信じる道を走ることができるために、その道をご自分のいのち、ご自分の存在をもって切り拓いてくださいました。そして、同時に完成者でもいてくださる主イエスが、信仰のレースを終わりまで導いてくださいます。このことは違う言葉で言い換えると、私どもの信仰生活はすべて主イエスにかかっているということです。すべてが主にかかっているのですから、私どもは主をいつも信じ続けて歩むのです。都合のいい時だけ信じるというのではなく、いつも信じるということです。それが信仰において走り抜くこと、走り続けるということなのです。

 私どもの歩みには色んなこと、予期せぬことがたくさん起こります。それこそ、途中で信仰のレースをストップし、ギブアップしたくなることもあるでしょう。もう疲れ果てて動けなくなることもあるのです。何とかして立ち上がることができたとしても、今度はどこに向かって走ればいいのか分からなくなり、自分を見失ってしまうということもあるのです。しかし、そのようなところでこそ、主イエスが私どもにとっての信仰の創始者であり、開拓者であり、導き手であるということを思い起こしたいのです。主イエスは、私どもを罪と死から救い出してくださり、私どもが歩むべき道、走るべき道を切り拓いてくださいました。それは、その道の至るところに主イエスの足跡が残されているということでしょう。だから、本当はどこに向かって進むべきなのかということについて、いちいち思い悩む必要もないのです。足を踏み外して、神様と別の道を行くこともないのです。私どもは走っているその道には主の御跡があり、さらにはその御跡を踏み続けた信仰の先輩たちの足跡があるからです。さらに、主イエスは私どもの導き手でもありますから、疲れ果て、倒れ込んでしまうようなことがあっても、私を放って先に進んで行くお方ではありません。私一人のために、主イエスは走るその足を止めてくださり、後ろを振り向いてくださり、声をかけ、助けの御手を差し伸べてくださいます。そして、共に生きる信仰の仲間もまた弱さを覚える者のために立ち止まり、助けを与えることが求められます。もしこれが普通のマラソンや駅伝であるならば、手を差し伸べた時点で失格になってしまいます。でも信仰のレースはそうではないのです。大事なことは、来るべき救いの日に一緒にゴールすることだからです。

 さて、2節の後半からは、その信仰の創始者であり完成者であられる主イエスというお方が、さらにどのようなお方であるかが紹介されています。実はここにも信仰のレースを走り抜くための急所というものが記されているのです。もう一度、2節全体をお読みます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」ここにはまず「十字架」ということが言われています。さらには今その主イエスが復活し、天に昇られ、神の右に座しておられるということが言われています。事柄としては、そのとおりなのですが、注目したいのは、「耐え忍ぶ」ということです。1節と3節でも「忍耐」ということが言われています。同じことです。信仰のレースを最後まで走り抜くための急所、それは、忍耐する、耐え忍ぶということなのです。

 そして、耐え忍ぶということが、2節では主イエスの「十字架」と結び合わされて語られています。「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て」とありました。主イエスが喜びを捨てるとはどういうことでしょうか。直訳に近い形で申しますと、「喜びを捨てる」というのは「喜びに代わって」ということです。また、「喜びのゆえに」と訳すことも可能です。新共同訳聖書は、「喜びに代わって」「喜びを捨てて」という訳を採用していますが、それ以外の多くの翻訳聖書は「喜びのゆえに」という訳を採用しています。どちらでも訳すことが可能ですが、この手紙全体の文脈から理解するならば、「喜びのゆえに」と理解したほうがいいかもしれません。主イエスは「個人的」なこととして目の前の喜びを捨てたのではないからです。十字架というのは、主イエス個人のことというよりも、神の民である「私たち」が罪から救われるためのものです。そのために、喜んで十字架の道を歩み抜いてくださいました。あなたがたが救われるならば、わたしは喜んで十字架の道を進むというのです。

 十字架刑は極悪人だけが処される刑であり、十字架の死を死ぬことは人々から恥とされました。それだけでなく、十字架の死は神から呪われた死、神から見捨てられた死と信じられていました。

しかし、主イエスは「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んで」くださいました。「いとわない」というのは、「軽い」ということです。「軽んじた」ということです。あなたがたを救うためならば、十字架の死など恥でも何でもない。たいしたことではないというのです。誤解しないでいただきたいのは、主イエスは十字架で神から捨てられることなど、何ともないと思っていたわけではありません。私ども以上に、誰よりも深く神から捨てられることを恐れられました。でも、その恐れの中、主を十字架に向かわせたのは、父なる神の御心であると同時に、「あなたがたを罪から救いたい」という主イエスの愛に他なりません。だから恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んでくださいました。耐え忍ぶ、忍耐するというのは、「下に立つ」「下に居続ける」という意味の言葉です。天という高いところから、この地上に降って来てくださった主イエス。そして、十字架という死の極みにまで低く降って来てくださった主が、そこで私どものいのちが深みに沈み込まないように下から支え、救いの道を切り開いてくださったのです。

 その十字架の主が、ここでは言葉そのものとしては記されていませんが、復活し、天に昇られました。手紙の著者は、今、復活の主がどこにおられるのか。そのことだけを記します。それが、「神の玉座の右にお座りになった」という言葉です。神の玉座の右というのは、神様のご支配の座に主イエスも一緒におられるということです。ここで忘れてはいけないのは、主イエスは、「わたしはもうやるべきことはすべて行った。だから、しばらくここでゆっくりさせてもらって…」というのではなくて、この手紙全体が強調しますように、今も私どもの「まことの大祭司」として、執り成しの働きを続けてくださっているということです。今も、私どもが生きる世界、この世界が抱える闇、そして罪の現実に心を痛められ、神様の前で執り成していてくださるということです。十字架は、3節の終わりにあるように、罪人たちによる「反抗」によるという一面も持っています。その時に、反抗したのは2千年前のユダヤ人や律法学者、ローマの権力者たちというのではなく、実はこの私のことでもあるということです。

 信仰のレースを走り抜くために大事なのは主イエスを見つめることでした。主イエスを見つめるというのは、十字架を見つめるということです。十字架を見つめるということは、自分の罪を見つめるということでもあるのです。走るに当たって、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てるようにとの勧めがなされていましたが、これは自分の力で何とかできるようなものではないのです。主イエスの十字架を見つめないと決してできないことなのです。主イエスを見つめ、そこで明らかにされる罪を見つめながら、しかし、その罪が十字架によって赦されていることを知ることによって、初めて軽やかに走り出すことができるのです。

 さらに、主イエスを見つめて走り続けるならば、罪の問題はもちろんのこと、家庭や学校や職場、あるいはこの世界が抱える問題などありとあらゆる重荷が重荷でなくなるということです。もちろん、生涯背負わないといけない重荷もあると思います。でも、主イエスと真実に出会い、主の救いを信じ、主を信じ続けて走るならばら、これまで思いもしなかった仕方で、それらの重荷を受け止めるということができるのです。だから、そこで元気を失ったり、疲れ果てることはないのです。

 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」最後の「よく考えなさい」という言葉の意味は、具体的に申しますと、「比較しなさい」ということです。主イエスの十字架の忍耐と今の自分とを比べてみなさいというのです。「今の自分」の状態については、皆さん自身が一番よく知っているのではないかと思います。特にここで覚えたいのは、ここに記されているように、気力を失い疲れ果てている人のことです。そのような人たちに向かって、主イエスの十字架の忍耐を思い出しなさいというのです。イエス様の十字架の苦しみに比べれば、あなたの苦しみなど大した問題ではないのだから、さっさと立ちなさい!もちろん、そんなことをここで言おうとしているのではありません。言葉では、イエス様の十字架に比べて、私が背負っている重荷などちっぽけであることは分かっています。でも、頭で分かっているだけでは、生きる力にならないということがあるのです。それに、どれだけイエス様がしてくださったことが偉大でも、この私にとってこの重荷が解決されない限り、救いなどないと思い込んでしまうのです。けれども大切なのは、その重荷、その問題があまりにも自分の中で大きくなり過ぎてしまって、主イエスの十字架を見えなくしてしまってはいないかということです。主イエスと私を比較できるくらいならば、まだマシなのです。主と比較することができないほどに、主があなたの目の前からいなくなってしまってはいないかというのです。それこそ大問題なのです。それは主イエスに反抗していることと一緒だということです。だから放っておくことなどできないのです。主イエスが見えなくなると、主にしがみつきたくても、主により頼みたくても、それができなくなるからです。だから、主イエスとあなたをよく比べ、よく考えなさい!主イエスを見なさい!そう言って、ここで励ましの言葉を重ねます。

 では、主イエスと自分をよく比較するというのはどういうことでしょうか。もし主イエスと比較して、何も元気になることができないならば、結局意味がありません。手紙の著者が「よく考えなさい」「よく比較しなさい」と言ったのはこういうことだと思うのです。難しい話ではないのです。つまり、主イエスの十字架の忍耐というのは、比較することが許されているほどに、あなたの生活と深い関わりを持っているということです。そして、必ず良い影響を与えてくださる、必ず恵みを与えてくださるということです。主イエスは「お前とは比べるまでもない」などと言って、私どもを相手にしてくださらない、そのようなお方ではありません。だから、よく考えるべきことは、主イエスの十字架の忍耐です。私どもに対する愛のゆえに、恥をもいとうことなく十字架で死んでくださった主イエスを見つめて走るのです。その主イエスが今、まことの王として、まことの勝利者として、この世の現実を見つめ、私の罪を見つめていてくださいます。そして、父なる神様の前で執り成してくださいます。つまり、今も、あなたのために一所懸命になって生きてくださっているお方がおられるのだということです。

 私どもは主イエスと共に、教会の仲間と共に、さらには信仰の証人たちの群れに囲まれて、救いの完成の日に向かって歩んでいきます。地上の歩みには、一年であったり、半年であったりとたくさんの節目があり、その度に、色んなことを考えます。また、神の民にとりましては、七日の度に、教会に集い、主の日の礼拝をささげます。「最後まで走り抜こう!」「走り続けよう!」と手紙の著者は促すのですけれども、「休んだらダメ」「歩いたらダメ」などということは一言も言っていないのです。事実、主の日の礼拝と聞くと、主イエスのもとで休むとか憩うということを思い浮かべる人も多いと思います。主イエスもまた、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)とおっしゃいました。主の日の礼拝というのは、マラソンで言うと、給水地点のような場所かもしれませんね。信仰生活を続ければ、何も思い悩むこともないとか、疲れることがないなどというふうに聖書は言いません。他の人からすれば、「神様を信じていて、どうして疲れるのか」と言われそうですが、そう言われても、本当に疲れることがあるのです。私どもの弱さや罪のゆえにと言えばそのとおりかもしれません。だから真実の休みが必要ですし、魂の飢えや渇きを満たす霊的な糧が必要です。もしそれを食べないと、神様を信じていても何も楽しくないのです。何の希望もないのです。

 だから、こうして私どもは走りつつも礼拝に集います。主イエスのもとで憩うのです。そして、主のもとで休みながら、私どもがここでしているのはいつものように主イエスをひたすら見つめるということです。十字架の主を仰いでいるということです。礼拝堂に十字架はありませんけれども、礼拝で十字架の言葉をいつもここで聞きながら、また聖餐の恵みにあずかりながら、そこで豊かに働いでくださる聖霊をとおして、私どもは十字架の主イエスを見つめます。今、神の右に座し、愛をもって私どもを取り囲んでくださる主イエスが、終わりの日にそこから再び来てくださることに望みを置きます。主を見つめながら、もしそこで誤った道を進んでいたことに気づいたなら、主の十字架のもとで悔い改め、軌道修正をして、もう一度、走る姿勢を整えます。

 主イエスは礼拝の度に私どもに声をかけてくださいます。「あなたがたが気力を失い、疲れ果てることのないように、わたしは十字架についたではないか。そして、今もあなたがたのために執り成しているのだから安心しなさい。元気を出しなさい。さあ、わたしと一緒に走ろうではないか!」そのようにして、新しい歩みへと祝福のうちに送り出してくださいます。主イエスご自身が誰よりも先に私たちの前を走り、教会の歩みを、そして、教会に連なる一人一人の歩みを導かれます。主イエスと共に最後まで走り抜きましょう!お祈りをいたします。

 走り抜ことができるのだろうかと、不安になることがあります。自分を見ているからです。主イエスを見つめ、主イエスのことをよく考えつつ、自らの生活を見ることのできる信仰のまなざしを与えてください。心が萎え、疲れを覚える私どもをこれからも礼拝に招いてくださり、そこで生きる力、走り続ける力を与えてください。今も主が私どもを支えてくださっています。私どももまた兄弟姉妹のことを深く心に留め、彼らのために祈り、執り成しに生きることができるように御霊をもって導いてください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。